Filed under: スポーツ, 世界の社畜から

秋山幸二監督の退任を受け、ソフトバンクホークスは、かつて、同球団や巨人・西武などでエースとして活躍した野球解説者・工藤公康(51)氏に監督候補を一本化、工藤氏側が王貞治球団会長からの要請を受諾し、就任することが確定的となった。近く会見などが行われ、正式な発表が行われる見通し。一部スポーツ紙が報じている。



1981年のドラフトで6位指名を受け、西武ライオンズに入団した工藤は、名将・広岡達朗監督の目にとまり、1年目から中継ぎを中心に活躍。その後、伸び悩みが心配された時期はあったものの、入団から4年目にはローテーションに定着して8勝、翌86年には2ケタ勝利を記録。以後、「優勝請負人」の異名をとる活躍ぶりを見せ、西武 ダイエー 巨人 横浜 西武と渡り歩き、47歳で引退するまで、実に29年間の現役生活を送った。

そんな「優勝請負人」・工藤公康を語る上ではずせないのが、1プレイヤーとしてどんな状況でもベストを尽くすという姿勢と、誰からも愛され、慕われるその人柄だ。

西武時代には、1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣、「打者は左バッターの篠塚、キヨは涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危険」と判断、篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り胴上げ投手となり、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。
ダイエー時代には城島健司を育てるために、打たれるとわかっていても城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど体当たり指導で城島を日一のキャッチャーに育てあげた。
2007年、巨人がFAで横浜の門倉健を獲得した際に、プロテクトからはずされた工藤は、あろうことか人的保証で横浜へと移籍することとなる。この時既に215勝を挙げていた球界のベテランエースともなれば、その境遇に腐ってもおかしくない状況であったが、当の工藤は巨人への批判も行わず、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と横浜への感謝を笑顔で口にする。
実際、その言葉に違わず、工藤は横浜での3年間を、先発、中継ぎ、さらには事実上の敗戦処理と、与えられたすべての役割を全力でこなし、プロ野球史上初の「全球団勝利投手」となった(近鉄を含めた13球団の勝利例は存在していなかった)。



その後、現役最後に古巣・西武へと16年ぶりの復帰した工藤は、自身のトレードマークとなっていた背番号・47が、自分を慕う若きエース・帆足和幸に割り当てられていた際にも、「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と、譲渡を勧めた帆足や球団の申し出を固辞。それまでつけたことのなかった55番をつけて入団し、その翌年、現役を引退する。実動29年間での成績は224勝142敗、防御率3.45、2859奪三振。まさにその記録は「優勝請負人」の名に恥じないものであった。

ダイエーから巨人に移籍した際に、自らの残留を願って署名活動を行った15万人ものファンに対し、数年がかりで感謝の手紙を送ったという工藤。それから約15年の時が流れた今、あの「優勝請負人」が、当時のファンの想いと優勝への情熱を胸に、再び福岡の地へと戻ってくる。

文・吉竹明信

Permalink

 | Email this | Comments

RSS情報:http://news.aol.jp/2014/10/17/hwz_kudoh/