今年、岡田准一主演の大河ドラマで話題となり、注目を浴びた戦国時代の名軍師・黒田官兵衛だが、その一生を俯瞰してみると、意外や意外、「人間関係に恵まれていない」ことが原因で、踏んだり蹴ったりの人生を送ってきたことがわかる。
まず、秀吉の軍師としての側面から。彼が秀吉の下についたのは、主家である小寺家が織田家の軍門に下ってから。それは本能寺の変が起きる数年前の1575~6年頃のことで、言ってしまえば、秀吉が織田家の中枢で既に活躍している時期。既に強いチームへFAで移籍した選手のようなものだった。そのため、下積み時代から苦楽を共にしてきた蜂須賀小六や、比較的早い段階から軍師を務めていた竹中半兵衛などと比べ、秀吉との距離感が違いすぎた。これは絶対的な主従関係を重んじる当時の社会においては、強烈なデメリットである。
また、後年、友人であったハズの荒木村重が引き起こしたクーデターに際し、官兵衛はその説得に赴くも、既にプッツンしてしまっている村重は聞く耳も持たず、なんと1年間も投獄されたままの監禁生活を送ることに。主君との距離感を埋めきれないばかりか、友人にまで、このような酷い仕打ちを受けた官兵衛の胸中は察するに余りある。
その後、秀吉が天下人となった後も、官兵衛は広大な領地を与えられたが、それは何の縁もゆかりもない九州の地。結局、主君・秀吉から実務上は必要とされていながらも、最後までどこか警戒され続けた官兵衛は、そのまま生まれ故郷から遠く離れたこの地で息を引き取ることとなった。
どんなに優秀な人物であっても、それを活かすのは、良好な上司と部下の関係、人間関係があってのこと。いつの時代も、「時」と「人」に恵まれない人物は、冷や飯を食わされてしまうものなのかもしれない。
文・興津庄蔵
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