よさこい祭りで知られる高知県、土佐には「はちきん」という言葉がある。簡単に言えば「男勝りの女」というような意味合いだ。元気が良くて、サバサバしていて、負けん気の強い女。ぼく、相沢直の中学の同級生だった涼子もまた「はちきん」と呼ばれるにふさわしい、男勝りな女の子だった。
涼子が中学生時代、陸上部で優秀な成績を残していたことはよく知られている。同じく陸上部員だったぼくは、それをずっと間近で見ていた。なぜか二人はウマが合った。下らないことで笑い合い、馬鹿馬鹿しいことでふざけ合った。彼女が笑う姿を見るのが、ぼくは案外嫌いではなかったのだ。
そのころのぼくは、それが恋だなんて、ちっとも気付いていなかった。つまりこれは、ぼくが彼女にMajiでKoiをする、数秒前の話だ。
(※注)
本記事は個人の妄想を勝手に書き連ねたものであり、以下の写真は本文の内容とは一切関係ありません。
卒業式の式典が終わってから何時間か経っても、ぼくはまだ、三年間の青春を捧げた陸上部のグラウンドの隅にぼんやり座っていた。何を待っていたわけでもない。ただきっと、ぼくはこの場所の思い出から、去りたくなかっただけなのだろう。
「直先輩! 第二ボタン、もらっていいですか?」
聞き慣れた声だった。振り返ると、悪戯っ子のように、涼子が笑っていた。
「......なぁんて、おまんに言うてくる後輩の女の子でも、待ちゆうかよ?」
「アホ。そんなんと違うき」
ふーん、と言いながら、涼子がぼくの横に座る。胸の奥がくすぐったい。どこか照れくさい。昔のように、軽口を叩けないぼくがいた。
涼子は既に、芸能界へのデビューを果たしていた。デビュー直後に出演した洗顔フォームのテレビコマーシャルは大きな話題を集め、彼女はぼくの知っている涼子ではなく、一人の有名芸能人になりつつあったのだ。すぐそばに座っている涼子が、ぼくにはずっと遠くに見えた。
そんなぼくの気持ちにはお構いなしに、涼子がつぶやく。
「あーあ。卒業なんて、嫌じゃねぇ」
その言葉はきっと本心だったのだろうと、今なら思う。彼女も不安だったのだろう。新しい世界へ歩き出すことに。そんな彼女の背中を押してあげることが出来たのは、もしかしたら、ぼくだけだったのかもしれない。
だが悲しいかな、中三の男子なんて、ただのバカなガキだ。涼子に置いていかれるという怯えしか、そのときのぼくは持っていなかった。そしてバカなガキとは常に、怯えを強がりで隠すものだ。
「何を言うがか? ご立派な芸能人さまの涼子がよ、あやかしいこと言いな」
ぼくの口から出たその言葉には、思った以上に苛立ちの感情がにじんでいたようで、涼子は不安げにぼくを見つめた。だからぼくの言葉は、自らを正当化するために、より刺々しいものになってしまう。
「テレビで、よお観ゆうよ。『私に勝ったらチューしていいよ』て。土佐のはちきんのクセして、何を東京弁でぶりっ子しゆうじゃ?」
言ってしまってから後悔した。そう。涼子ははちきんなのだ。男勝りで、負けん気が強く、怒ったら怖い女なのだった。涼子の顔がみるみる赤くなっていく。
土佐では、稀にこういったことが起こる。つまり、はちきんと、バカな男の口喧嘩が。
「何言うがじゃ。なんぼ言うたち、直にほがなこと言われゆう筋合いなかろうが! おまん、しばかれたいがかや!」
「おー、はちきんの土佐弁は怖いのお。けんど涼子、おまん卒業したら東京行くんじゃろ? ほいたら土佐のことなんてすぐ忘れゆうで」
「何をつまらんてんご言うとるがか? うちの体には、よさこいの血が流れとるの、直も知っちゅうが!」
「どうかのお? 東京は誘惑も、ハンサムな男も多いでな。『チューしていいよ』って、涼子も誰かれ構わず言うようになるちや」
「ほたえなや! 『チューしていいよ』なんて大事な言葉、直になら言えても、ほかの誰かになんて言われんがよ!」
「ほんなら涼子、おまん......えっ?」
三月の風の音だけが、ただ聞こえていた。涼子は何も言わなかった。ぼくも何も言わなかった。はちきんと、バカな男の口喧嘩は、どうやらこれで終わりのようだった。
さっきまでずっと遠くに見えていた涼子は、今はもう、ぼくのすぐ近くにいた。ぼくがほんのちょっと勇気を出せば、二人の唇が触れ合うぐらい、すぐ近くに。
目の前にいる、土佐のはちきんは、まだ顔を真っ赤に染めていた。
「涼子、まだ怒っちゅうがか?」
涼子は黙って首を横に振った。ぼくは黙って彼女の言葉を促した。そして涼子は、ぼくの目をそっと見て、小さな声でこう言った。
「......だって、女の子にあんなこと言わせゆうなんて、こすいがね......」
耳まで真っ赤に染めて恥ずかしがっている目の前の涼子に、男勝りなんて言葉は全然似合いそうもない。そこにいるのは、一人の、誰よりも可愛らしい女の子だった。
ぼくが世界で一番「大スキ!」な、女の子だ。
(相沢直)
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