去る8月6日夜に最終回が放送された黒島結菜主演のドラマ『時をかける少女』(日本テレビ)。その清涼感あふれる作風に、はからずも涙したという年配の視聴者も少なくないとあって、早くも巷では「時かけロス」を危ぶむ声さえ一部ではあがっているというが、かくいう筆者の場合も、ご多分に漏れずそんな「ロス」に悩まされる視聴者の一人だ。
そもそも人気作家・筒井康隆原作の同名小説を元にし、1983年に公開された劇場版を含め、これまでも数多くの映像化が行われている同作品、それほどまでに有名であるということは、あえて意地の悪い言い方をすると、「手垢がつきまくった作品」という見方もできるだろう。筆者の場合も、同作品のタイトルを聞いたときに頭をよぎるのは、原作小説と、前出の原田知世主演の劇場作品。実際、今回再びドラマ化されることを知ったときも、頭の中に流れたのは、同映画の主題歌を歌う原田の「♪時を~」という歌声であったほどだ。そうした意味で言えば、自分にとっての「青春」がそうであるように、この作品に対する感覚もまた、20世紀で止まったままであったと言えるのかもしれない。
さて、そんな"20世紀脳"の典型とも言うべき中年男である筆者が、なんとなしに見始めた本作、前述の通り、原作や、かつての映像作品の印象があまりに鮮烈であったことから、正直なところ、個人的にはさほど大きな期待はしていなかった。しかし、実際に毎週見ていくと、まず、黒島演じる女子高生ヒロイン・未羽(原作では和子)にときめきにも似た想いを抱いてしまっている自分に気付かされる。それほどまでに本作で黒島が見せた独特な女子高生ぶりは出色であるとしか言いようがなく、それこそジブリ作品のヒロインたちにも通じるような、ある種の普遍性を持つ、誰の心の中にも登場しそうな少女像を見事に演じきっていたのだ。
それゆえ、いつしか自分が"おっさん"であることをついつい忘れてしまい、恋愛模様や青春時代ならではの葛藤にヤキモキさせられるどころか、テレビの画面を通して、彼女たちの喜怒哀楽を勝手に共有してしまうという、なんとも気恥ずかしい展開となってしまった。
そのことは近しい知人はもとより、家族にすら悟られたくない部分であることは言うまでもないが、頭ではそう理解していても、気持ちが言うことを聞かないから困ったもの。たとえば、第2話で登場した高月彩良演じる"悲運の片思い女子高生"と未羽が見せた"最後の別れ"のシーンにおいては、未羽が彼女に満足な言葉もかけられずにポロポロと大粒の涙を流しながら自転車の荷台から手を離し、見送る姿に、頬を伝う涙と醜い鼻水をぬぐいつつ、「いいなぁ...」と食い入るように画面を見つめてしまったほどである。無論、そうしたシーンを前にすると、自分が実生活において、リアルな女子中高生からは小汚いおっさんにしか見られないという、ごくごく当たり前の揺ぎ無い現実でさえもついうっかり忘れて(というか見なかったことにして)しまうことは言うまでもない。
そして、そんな彼らの"短い夏"が終わりを迎えた先週放送の最終回においては、翔平(菊池風磨)と同様に未来からやってきた"みーくん"こと三浦浩(高橋克実)が、自らの死が目前に迫っている中で、本物の家族であるかのように一緒に過ごしてきた由梨(野波麻帆)&圭太(五十嵐陽向)母子に、文字通り"永遠の別れ"を告げるシーンで、手堅く号泣。さすがにこの歳になってくると、心の中の薄汚れた部分ではその展開について「ベタだなー」と卑しいツッコミを入れつつも、その「ベタだなー」の「なー」が言えるかどうかぐらいのギリギリの瞬間には既に嗚咽に変わってしまいそうな自分がいることにも気付かされるから困ったものである。
涙ながらに自らの秘めた想いと感謝の言葉を語る浩のセリフひとつひとつに涙腺がゆるみ、その言葉が持つ意味を正確には理解していないものの"空気"で何かを察しているふうの由梨の浮かべる涙に誘われて涙し、いつもは「みーくん」と呼んでいた子供・圭太がさりげなく口にした「お父さん」という言葉で我慢が限界点を超えて号泣に至るという、まさに脚本家と演出家がこれほど恨めしく思えることはないという状態に陥ることとなってしまったのである。汚い。実に汚い。ただでさえ涙腺ゆるゆるの最終回だというのに、それに加えてこんなに泣かせるシーンをぶっ込んでくるとはなんとも卑怯...と、必死に思うように努めつつも、やはりというか撃沈。まんまと彼ら3人と共に暗い部屋の中で一人、感涙にむせび泣いてしまう中年男であった。
続いて、そんな未来人"みーくん"と同様に、今の時代にいることで急速に寿命が尽きていく運命を持った翔平の"正体"に気づいた上で、その淡い初恋が幻のものであったことを悟って崩れ落ちて泣く未羽や、そうした想いを抱きながらも、その想いや現実を良い意味の「背伸び」という形で向き合い、恋の「リセット」に挑もうとする未羽に、ついさっき拭ったばかりの涙がまたもやこみ上げてくる小汚い中年男。
もうこのあたりまで来ると、さっきまで無意識に握り締めていたテレビのリモコンが部屋のどこにあるかですらわからなくなるほど。しかも最終盤、「リセット」という行為も含めて、翔平のいる未来に、そして、翔平と彼女が出逢うキッカケにも繋がっていたことが明かされると、途端にこみ上げる独特な安堵感と、安堵すべき結末であったからこそ、逆に割り切れなく感じてしまう想いとが交錯してしまい、例によって中年男の小汚い頬にはさらなる涙が。武者小路実篤の『友情』の読後感にも通じる、その不思議な後味。もうこのドラマを観ることができなくなってしまうことを思うと、そんなこと土台無理だとわかっているのに、それこそ自分自身が時をかけたくなるほどである。そこそこ長い人生を生きた末に「枯れ」や「老い」へと向かう自分が、まさかこれほどまでに涙することになろうとは。まさか四十路の自分がエンディングで流れてくるNEWSの「恋を知らない君へ」を聞きながら涙を拭うことになろうとは。いろんな意味で刺激的で、また多くの衝撃を受けることとなった最終話であった。
電気グルーヴの歌ではないが、学校ないし家庭もないしという、実にわかりやすい未婚のアラフォー人生をただただ漂泊し続けているだけの、"時をかけられないおっさん"にとって、こうした青春モノというのは、本来であれば、割とハードルの高い部類に入る作品と言えるかもしれない。なぜならそれほどまでに「青春」というものが、あまりに昔日のものとなりつつあるからだ。
しかし、毎日の暮らしにおいて、翌日から何かが大きく変わるわけでもなく、昨日や今日とだいたい同じな時間が明日も流れるだけだとわかっていながらも、なぜか晩夏の宵に吹く夜風に鼻先を撫でられると、ふと何か寂寥感じみた想いを感じてしまうように、また、楽しげに笑いながら逃げ水を追いかけるようにして帰る中高生の後姿に、はからずも絶望的なまでの得がたい眩しさを感じてしまうように、とかく"戻れない夏感"というのは、中高年にとって、若いころには感じ得なかった何かを、傘すら用をなさぬほどの激しいゲリラ雷雨のごとく、否が応でもお見舞いし続けるものだ。
そうした意味で言えば、筆者のようなおっさんにとっては、どこか胸をえぐられるような感覚すら受けることも事実だが、だからこそ、泣くことさえも忘れてしまった大人たちは、たとえいくつになっても、こうした作品にそれとなく触れて、時として、人目を忍んでさめざめと涙することも、良いものかもしれない。
文・鹿葉青娘
最終回まで1時間切りました
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