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        <title><![CDATA[東日本大震災　証言アーカイブス]]></title>
        <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga</link>
        <description><![CDATA[「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」による東日本大震災の証言記録です。同プロジェクトは、2012年12月末日をもって解散となったため、このブロマガの更新も終了しました。ご支援いただいた皆さまには、ありがとうございました。]]></description>
        <language>ja</language>
            <item>
                <title><![CDATA[【第10話】岩手県陸前高田市／緊急時には、ルールはルールじゃなくていい]]></title>
                <description><![CDATA[<p>陸前高田で自動車学校を営む田村さんは、学校が高台にあったために難を逃れた。しかし、地震と津波の後、東京や北海道から合宿で免許を取得しようとしていた生徒約100名が残された。全国からの支援によって全員無事に返す事ができた田村さんが、今後、復興などについて語った。取材者：島田健弘</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar21147</link>
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                <pubDate>Wed, 05 Dec 2012 23:40:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[島田健弘]]></category>
                <category><![CDATA[岩手県]]></category>
                <category><![CDATA[陸前高田]]></category>
                <category><![CDATA[自動車学校]]></category>
                <category><![CDATA[3.11]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>陸前高田で自動車学校を営む田村さんは、学校が高台にあったために難を逃れた。しかし、地震と津波の後、東京や北海道から合宿で免許を取得しようとしていた生徒約100名が残された。全国からの支援によって全員無事に返す事ができた田村さんが、今後や復興の在り方などについて語った。</strong><br /><br />取材者：島田健弘</span><span></span><br /><span>取材日：2012年4月5日</span></div>
<hr /><div style="text-align:center;"><br /><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/12818/877a8e7483a1e9e2a1daeeb69f54642cc33f3218.jpg" data-image_id="12818" alt="877a8e7483a1e9e2a1daeeb69f54642cc33f3218" height="239" width="320" /><br /><span style="font-size:80%;">田村滿さん</span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><span style="font-size:150%;">■生徒全員を必ず無事で送り届ける</span><br /><br />　市内のほぼ全域が津波に飲み込まれた岩手県陸前高田市。本庁舎、消防本部も被災した同市で、高台にあって津波被害を免れた自動車学校がある。高田自動車学校だ。社長の田村滿（65歳）さんは震災当時のことをこう語る。<br /><br />「３月は繁忙期で、震災当時、百数十名の生徒がいました。14時46分は僕も教習していました。助手席にいて、急に車が大きく揺れて、運転席の生徒がブレーキを踏んで、車を降りたんです。それからみんなの安否を確認すると、路上教習に出ている車が７台あった。講習が終わるのが15時で、彼らもちょうど引き上げていた時だったので、全車無事でした。しかしながら点呼をとったら合宿生の５〜６人がいない。これは大変だと社員と手分けして自転車で探しいきました。すると彼らも坂を上がってきていたので助かった。全員が無事でした」<br /><br />　高台にある高田自動車学校からは、コースの端から気仙川が見える。気仙川は津波によって逆流していた。<br /><br />「ものすごい勢いで逆流していて、海岸に防風林として植えてあった松もガンガン流れてくるんです。これはもう大変なことだと。生徒のケアをしているうちに地元の皆さんも避難してきたので、みんなを校舎に案内しました。40人くらいだったと思います。ただ、地震で校舎２階の天井が落ちていて危ないので、１階のロビーや教室で過ごしてもらいました」<br /><br />　幸運にも繁忙期だったので、学校には大量の料理の用意があった。ガスも電気も通らなくなっていたが、２台ある大型タンクには灯油が補充されてあり、教習車用のガソリンも満タン。水は、沢から汲むことができた。高田自動車学校では子会社で満福農園を営んでいたため、農園の水槽に水をいれてフォークリフトでトイレの近くに運んで用を立すこともできた。寮の毛布や布団をロビーにかき集め、暖を取った。<br /><br />「まず考えたのは生徒をどう帰そうかということでした。かろうじてラジオが聴ける状態でしたが、12日になっても新幹線はとまっていることがわかりました。もちろん道路もガレキに寸断されているので車も走れないわけです。生徒を帰さなければならないけど、アイデアが出てこない。12日に道路は駄目だけど、山道はなんとか通れそうだという情報をえて、山道に行ったら大きい車は難しいかもしれないけど、普通の車だったらなんとか通れそうだということがわかりました。13日になってまず県内の生徒は全部社員で手分けして自宅まで送ろうということになりました」<br /><br />　残ったのは首都圏から来た約100名の生徒と８名の北海道の生徒だった。<br /><br />「交通手段がない、燃料がない、高速道路が使えない、仙台も通行できない、福島も通れない。そういう状況の中で13日に県内の生徒たちを返してからずっと寝ないで考えました。それで考えぬいて北上市のバス会社に連絡して大型バスを３台借りて送ってもらおうということになりました。けど、バスは陸前高田まで入ってこれないから、平泉まで教習所のマイクロバス５台で送っていくことなりました」<br /><br />　最後に残ったのは北海道の生徒だった。<br /><br />「彼らは秋田空港から帰すことができました。16日のチケットがとれて、その便で送り届けました」</div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><span style="font-size:150%;">■支援の拠点に</span><br /><br />　生徒をすべて無事に送り届けることができたころには、ロビーに避難していた住民もそれぞれ帰っていった。<br /><br />「我われのことを考えはじめたのが15日です、ようやく我われはどうしたらいいかを考えはじめころに、私も席を置く中小企業家同友会の仲間が物資をガンガン運んでくれると連絡をくれたんです」<br /><br />　中小企業家同友会は中小企業家による任意団体で、全国都道府県にあり、４万1000企業経営者が加盟している。<br /><br />「当初はその支援物資を市役所にもっていこうと思ったんです。ところが役所の職員は67名が亡くなって、目の前のことをクリアするのに手一杯で物資の手配まで動きようがない。預けるといっても『勘弁してくれ』という状態でした。それで我われが物資の配給をするようになりました。物資が届きだしたのは19日ごろでした。それから陸前高田の南の気仙沼の唐桑地区から北の釜石あたりまでの200ヵ所以上の避難所を、わが社だけじゃなくて同友会の仲間の社員みんなでしらみつぶしに調べて、物資が行ってないところに届けることにしたんです。物資が届いてない避難所は40ヵ所くらいで、自衛隊からの支援物資も届いてないところもありました。避難所に指定されていない避難所もあったんですね。全国から届いた物資を仕分けて、みんなで配ってという作業を１日中していましたね」<br /><br />　同じ時期に警察や自衛隊の車輌がやってきて、高田自動車学校を捜索や復旧の拠点に使わせてもらいたいと相談してきた。田村さんは二つ返事で了承した。それから毎日200人以上が詰めかけたていたという。<br /><br />「道路に関しては自衛隊さまさまですよね。最初、我われの社員が道路が寸断されているのをガレキの撤去しようとしたんですが、プロパンガスのボンベがいたるところにあるわけです。それを乗り越えていくのは勇気がいるんですよ。恐る恐るやってたんですけど、それを見ていた消防隊員たちが、『民間の人たちにやらせるわけにはいかない。我われにやらせてくれ』と言ってきたので貸しました。<br />　自衛隊の人たちはガレキを撤去して道路を作ってくれますが、自衛隊にはそれ以外にもいろんな任務があります。ですからすべての道路のガレキを撤去すこともできませんし、道路も全部きれいにするわけにはいかない。なんとか１台分通れるくらいやってもらうという感じでしたが、それでも１台通れる道ができただけでも嬉しかったですね。<br />　自衛隊というのはすごいと思いました。がけ崩れが起きて孤立している避難所があったんですが、そこの隣に河川敷があって、河川敷に道を作ってしまった。本当に助かりました」<br /><br /><br /><span style="font-size:150%;">■新しい街づくりを阻む行政の壁</span><br /><br />　高田自動車学校は震災から１ヵ月10日後の４月21日に再開した。また、田村さんは９月には、復興まちづくり会社として「なつかしい未来創造株式会社」を設立。民間の力を活用して新たな陸前高田市を作っていこうとしている。そして復興には道路の整備からはじめるべきだったと言う。<br /><br />「関東大震災の時に東京市市長だった岩手県出身の後藤俊平は、復興事業として昭和通りを作りました。最初は道幅を108メートルとするとして『そんなに広くしてどうするんだ。ほかにもやることがある』と批判されましたが、実行し、それがいまの昭和通りになったんです。だから道路は絶対に必要です。<br />　だから、僕は市長とか市の役人にも『なんで道路を先に作らないのか』と何度も言いました。道路を最初に作ってちゃんと区画整理して、それから街を作っていくほうがいいんじゃないかと。でも彼らは前の道路をそのまま使おうとするんです。新しい街を作るという感覚じゃないと。そのためには道路をまず先に整備する。だからまず道路ありきなんです。<br />　震災の時も、被災した国道に代わって避難や支援の幹線となったのは農免農道でした。そしてそこしか車が通れる道がないので、いまはそこ仮設住宅を建てたりしているわけです。2011年５月には戸羽太市長にまず農免農道を整備する必要がある。そこが復興のメインストリームになるはずなので、仮設住宅や建物を建てないようにしてほしいと言ったんです。まず規制してそこから徐々に街を作っていく感じにしていかないといけないと。そして農免農道に直角に交わる海から逃げられるような道路をいっぱい作っていくべきだと。<br />　ところが、それをやると私有地がいっぱいあるため、規制するのはなかなか難しいと言うわけです。本来はそういう難しい権利や主張を整理していくのが行政のはずなのに、やらないわけです。結果的には駄目でしたね」<br /><br />　復興を考える時に行き当たるの行政の壁だ。行政は法律通りにしか動かない。しかし平常時と非常時では常識も違う。復興期においても同じことがいえるだろう。田村さんはルールを守りすぎることで間違うこともあると言う。<br /><br />「自動車学校の教え方も悪いかもしれないけど、今回、津波が迫っているにもかかわらず、右側を走らないで亡くなっている人たちがいっぱいいました。緊急時にはルールはルールじゃなくていい、という教え方もしていかないといけないと思いました」<br /><br />　形骸化したルールでもいまだに守られている。<br /><br />「信じられないのは、今年の２月に大船渡で踏切を一時停止しないから捕まった人がいるんです。踏切は被災してて絶対に電車が通らないところです。それなのに踏切で止まらないからと切符を切られた。ルールとはなんのためにあるのでしょうか」<br /><br />　陸前高田市は津波によって市内のほとんどが被災した。極論すればゼロからのスタートを考えていかなければいけない。陸前高田市の復興計画には「世界に誇れる美しいまちの創造」とある。<br /><br />「復興計画は防潮堤を作り、土地を嵩上げすると。本来なら、『世界に誇れるまちとは、こういう町です』と雛形を作ってしめさないといけない。防潮堤をつくってほしいという意見はいままでほとんど聞いたことがありません。防潮堤なんかいらないという人のほうが僕が話した中では多い。それでもやるというのは、防潮堤つくるというのは国の予算で、防潮堤を作るための予算はあるんです。だから予算に色がついている。それをいらないと言ったら、もらえないだけ」<br /><br />　住民への説明も不足しているという。<br /><br />「陸前高田市で11回説明会を開きました。しかし地区が11個あれば一回ずつしかしていないことなんです。住民と一回ずつの説明会を開いて、説明したことに対して住民の人がちゃんと意見を言えるかというと言えませんよ。なるほどなと思っているうちに終わってしまいます。これはアリバイ作りでしかないと思います」<br /><br />　<br />陸前高田ドライビングスクール<br /><a target="_blank" href="http://takata.si-dsg.com/">http://takata.si-dsg.com/</a><br /><br />なつかしい未来創造株式会社<br /><a target="_blank" href="http://www.natsu-mi.jp/">http://www.natsu-mi.jp/<span><br /><br /></span></a><hr />　<br /><span><span>［取材］島田健弘（しまだ・たけひろ）<br /> 1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。<br />　<br /></span></span><hr /><span><br /></span><span style="font-size:150%;"><span style="text-align:left;"><span style="text-align:left;"></span></span><span style="color:#ff0000;">■12月6日（木） 生放送番組</span></span><br /><p><span style="font-size:150%;"><strong>【東日本大震災 証言アーカイブス】</strong></span><br /><a href="http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279" target="_blank"><span style="font-size:150%;"><strong>宮城県の仮設住宅を取材してきました！</strong></span></a><br /><a href="http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279" target="_blank">http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279</a></p>
<div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img class="attached_image" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1355/11574/226f4cb610f35fdbaf09ae80215d5936129df779.jpg" alt="226f4cb610f35fdbaf09ae80215d5936129df779" height="240" width="240" /></div>
<p><br />９月１日～３日、Fプロジェクトのメンバー５人が、宮城県石巻市や気仙沼市の仮設住宅を訪れ、合同取材をしてきました。この合同取材には、渋井哲也、畠山理仁、島田健弘、渡部真などFプロジェクト<br />のメンバーだけでなく、Fプロジェクト以外ライター仲間や学生も参加しています。<br /><br />仮設住宅で暮らす人たちから、震災の体験談や現在のお気持ちなど、できるだけ多くのお話を聞かせていただき、それぞれの記者が取材した結果を同じ場で報告し合う事で見えてくるものがあるのではないかと企画しました。戦場ジャーナリストの村上和巳さんや、途中で津田大介さんとも合流し、宮城県石巻市や気仙沼市 の仮設住宅などに伺いました。<br /><br />最初は、以前から取材を続けていく中で、「ただ、話を聞いてくれるだけでもいいんだ」という声があり、「我々が仮設 住宅で暮らす方々からお話を聞かせていただく事で、少しでも役に立つなら皆で聞きに行こう！」というのがキッカケでした。そして、せっかく話を聞いたのであれば、やはりアウトプットする事が私たちの仕事です。<br /><br />震災から約１年半、仮設住宅で暮らす人たちが抱えている問題点はどんな事なのか？ 合同取材の中で見えてきたものとは……<br /><br />【日時】2012年<span style="font-size:150%;">12月6日（木）20時00分～21時30分</span><br /><br />【出演】<span style="font-size:150%;">島田健弘</span>（フリーライター）<br />　　　　<span style="font-size:150%;">渋井哲也</span>（フリーライター）<br />　　　　<span style="font-size:150%;">畠山理仁</span>（フリーランスライター）<br />　　　　<span style="font-size:150%;">増田菜穂子</span>（学生）<br /><br />【番組】<a href="http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279" target="_blank">http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279</a></p>
<p>無料放送です。ぜひ御視聴ください。<br />　<br /><br />【関連チャンネル】<br /><br /><span style="font-size:inherit;"><a title="渋井哲也の「てっちゃんネル」" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">渋井哲也の「てっちゃんネル」</a><br /><a title="渋井哲也の「てっちゃんネル」" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">http://ch.nicovideo.jp/channel/shibu</a><a title="渋井哲也の「てっちゃんネル」" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">i</a></span><br /><span style="font-size:inherit;"><br /><a title="フリーランサーズマガジン「石のスープ」" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">フリーランサーズマガジン「石のスープ」</a><br /><a target="_blank" title="フリーランサーズマガジン「石のスープ」" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp</a></span><span style="font-size:inherit;"><br /><br /></span><span style="font-size:inherit;"><a target="_blank" title="畠山理仁チャンネル" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/hatakezo">畠山理仁チャンネル</a><a title="畠山理仁チャンネル" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui"><br /></a><a target="_self" title="畠山理仁チャンネル" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/hatakezo">http://ch.nicovideo.jp/channel/hatakezo</a></span><br /><br /><br /><iframe src="https://live.nicovideo.jp/embed/lv116518279" style="border:solid 1px #CCC;" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" >http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279</iframe></p>
</div></p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第9話】宮城県七ヶ浜町／これからは我が子に安心感を与える事が私の仕事]]></title>
                <description><![CDATA[<p>震災直後、宮城県七ヶ浜町の職員として救援活動を優先して働き、家族の元に帰れずにいた加藤さん。実家に預けていた３歳の子どもに再会すると、子どもの様子が変わっていた。町の職員として立場と、母親としての立場。震災対応に追われながらも、子どもの心のケアをどうしているのか話をうかがった。取材者：渡部真</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar20276</link>
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                <pubDate>Sun, 02 Dec 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[渡部真]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>震災直後、宮城県七ヶ浜町の職員として救援活動を優先して働き、家族の元に帰れずにいた加藤さん。実家に預けていた３歳の子どもに再会すると、子どもの様子が変わっていた。町の職員として立場と、母親としての立場。震災対応に追われながらも、子どもの心のケアをどうしているのか話をうかがった。</strong></span><span><br /><br />取材者：渡部真</span><span><br />取材日：2011年3月28日<br /></span></div>
<hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/12248/3f31fee1fb2923b83f481b76865de988a8dec843.jpg" data-image_id="12248" alt="3f31fee1fb2923b83f481b76865de988a8dec843" height="321" width="240" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">［キャプション］加藤淳子さんと佑弥くん親子</span><span style="font-size:80%;"><br /></span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">■町の職員として泊まり込みで働いた５日間</span></strong><br /><br />　2011年3月28日、筆者が取材に訪れた宮城県七ヶ浜町では、児童館などで子ども支援活動が続けられていた。<br />　仙台市の北東に隣接する七ヶ浜町は、津波の影響で町の面積の約４分の１が浸水。ライフラインの復旧も遅れ、当時はまだ深刻な状況が続いていた。こうした状況から子ども達への影響を危惧し、教員、保育士、学生ボランティアが「こどもサポートチーム」を結成。児童館などを利用して、小学校低学年の児童や未修学児を集めて、１日２時間ずつ「遊びの場」を提供していた。<br /><br />　まつかぜ児童保育館で実施していた「遊びの場」で出会った加藤淳子さん（当時39歳）は、七ヶ浜町の職員だった。3月11日からしばらく職員としての対応に追われた。<br /><br />「私は七ヶ浜町の職員なんですけど、地震があった金曜日も仕事をしていました。ちょうどここの児童館も担当していたんですが、町内に3か所ある児童館をいろいろ回っていたときに地震があって、このまつかぜ児童保育館に到着したとき、津波がありました。その日は、津波の影響でここから役所に戻ることも、ちょっと難しいような状態だったんですが、なんとか戻りました」<br /><br />　七ヶ浜の地形は、仙台湾に突き出した格好で北・東・南側が海に囲まれている。「七ヶ浜」という地名は、海沿いに7つの集落があった事から名づけられた。そのため、仙台湾を襲った大津波をもろにかぶる事になってしまい、道路が使えずに一時的に孤立する地域もあった。<br /><br />「そこからはいろんな地震や津波の対応で、気づけば4〜5日くらいは自宅に帰ることができずにおりました。当時は携帯も繋がらなかったので、子どもの様子や自宅の様子を細かく知ることもできませんでした」<br /><br />　加藤さんのご家族は、佑弥くん（当時3歳）と夫の３人暮らし。加藤さんが仕事をしている昼間は、実家の母親に佑弥くんを預けて面倒を見てもらっていた。夫も別の自治体職員だったため、やはり震災の対応で、しばらくは自宅に戻る事が出来なかった。<br />　七ヶ浜町では津波の直後、しばらくの間は電子メールは繋がっていたという。その時に佑弥くんや実家の無事を確認していた。家族や親戚の地震直後の情報は、そのメールで知ることができた。<br /><br />「預けていたのが私の実家は、役所の近くなんです。車で5分くらい。私の母が面倒を見てくれているし、何かがあればすぐ行ける距離なんで、会いに行こうと思えば会えるって気持ちもあって、ある程度は安心して任せられたんで、その時は自分の仕事に専念する事が出来たんです。<br />　私のいる課の仕事は『救助部』となり、主に支援物資の受け取りですとか、炊き出し、その配送とかなどを担当していました。住民の方々、職員、消防団の方々の食事などの準備と配布ですね。もう4、5日ずっとおにぎりやおいなりさんを作っていました」<br /><br />　町の仕事といっても、本来の児童館を担当する業務ではなく、住民の安全確保や情報収集などを含めて、町がやらなくてはならない業務が山のようにあり、緊急体制でのぞんでいた。加藤さんも役場に泊まり込みで無我夢中で働いており、気がつけば5日ほど経過していた。<br /><br />「私たち職員のなかにも、家を流された人もいました。実はちょっと体調を崩してしまいました。それで課長に『もういいから、一度帰れ』と言われたので、実家に帰ることができました。夜中から早朝まで働いて、少し仮眠して、朝から夜中まで働いて……。やっぱり、そういったことで結構ストレスがあったようです」<br /><br />　その頃から、役場では、加藤さん以外にも体調を崩した職員が出てきた。加藤さんは「やっぱり、職員がやらなくちゃって気持ちが強かった」という。そうやって気持ちが張りつめていた職員たちも、１週間ほどでの疲労のピークが来ていたのかもしれない。<br />　<br />「地方公務員って、役場で働き始めるとずっと一緒ですよね。ここの町は狭いので、やっぱり小さいときから顔見知りの職員とかもいる。もう２週間以上すぎて、私は通いにしてもらっていますけど、職員同士で言葉を掛け合ったりはしています。町の状況も少し落ち着き始めているので、職員たちもプレッシャーのような緊張感は少しずつ少なくなっていると思います」<br /><br /><br /><span style="font-size:150%;"><strong>■実家に預けていた子どもの変化</strong></span><br /><br />　震災からしばらく、佑弥くんの無事を直接確かめられない事について「もう仕方ないな」と思っていた加藤さんだったが、実家に帰ってようやく佑弥くんの顔を見る事が出来た。ただ、震災直後に会えなかった佑弥くんは、少し態度が変わってしまったと話す。<br /><br />「例えば、風の強い日とか、窓枠が『パキッ』って音をたてたり、テレビから『ピシッ』て音が出るだけでも、地震だと思って怖がるんですよね。地震で揺れているわけじゃないのに、敏感に反応して泣き出すんです」<br /><br />　「子どもサポートチーム」は、仙台市からボランティアで来ている特別支援教育士が中心となって結成された。そこでアドバイスをもらいながら、佑弥くんの心のケアに注意している。しかし佑弥くんは、加藤さんではなく、加藤さんの母親を頼るようになっていた。<br /><br />「あの子が怖がっているとき、子どもの不安を私が受け止めてあげるべきなのに、地震にときに一緒にいなかったので、私のことを呼ばないんです。『バァバ！』と言って、私の母のところに行きます。私の膝の上にいても、私の母を探しに行くんですよね。母親として、ちょっと寂しいなっていう気持ちもあるんですけども、アドバイザーの先生にうかがったら、それはもう仕方がないことで、これから徐々にそういう気持ちを解いていくしかないと……。子どもが怖がらないようにというか、怖いけれども安心していれるっていうようなふうに持っていければ、徐々にまた、子どもにも変化が出てくると思います」<br /><br />　町の職員として、災害が起これば自分たちの任務の重要性は十分に理解していた。震災以前から「何かあれば、実家にバックアップしてもらう体制にしていた」と加藤さんは話す。<br /><br />「やっぱり災害が起きれば、私たちが出なきゃいけないっていうのを気持ちにいつも持ってて仕事もしているし、そういう時にはバックアップをしてくれるような母も近くにいるので。母もそれはもう十分に理解していました」<br /><br />　加藤さんは、佑弥くんの変化を知ってから、役場の仕事をセーブして佑弥くんと一緒にいる時間を優先するように心がけた。<br /><br />「『だっこ』って言ったときにはだっこをしてあげたり、『あそぼ』って言ったときには遊んであげたり。それでも、今も暗いのが怖いみたいですね。夜、寝るときに、電気とかテレビを消すと、『テレビつけて』って言うんです。以前は、そんな事はありませんでした。<br />　これからは、子どもに安心感を与える事が、私にとっての課題だと思っているので、いまはできるだけ明るいうちに家に帰るようにして、帰ってからは子どもと常にいるようにしています。本当に他の職員には申し訳ないです。町の人たちも大事なんですが、私にとっては子どもも大事なので……」<br /><br />　加藤さんは、「子どもサポートチーム」からアドバイスをもらう前から、職員としての立場と、佑弥くんの母親の立場を明確に割り切るようできた。町の人たちのために働くことも重要だが、何よりも自分の子どもを大切にしなければ本末転倒だ。それと同時に、町の事も考えなければいけない。複雑な立場にいる。<br /><br />「町の職員として、児童館などがどうあるべきかも考えなくちゃいけませんが、私も正直に言って、これからどうしていいのか分からないという気持ちはあるんです。いまは幼稚園も保育園も学校もお休みの状態です。４月下旬に再開されて、子ども達のケアをどうしていくべきか、そういう情報が親や保護者の間で広まっていけば、また動きもちょっと変わってくるのかもしれません」<br /><br /></div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/12249/636b95ca89c7bdc7c40af26fff9b622e99401d5a.jpg" data-image_id="12249" alt="636b95ca89c7bdc7c40af26fff9b622e99401d5a" height="239" width="320" /><span style="font-size:80%;"><br /></span><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:inherit;"></span></span><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:inherit;">［キャプション］七ヶ浜町こどもサポートチームが開いた<br />まつかぜ児童保育館の「遊びの場」（2011年3月28日）</span></span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /></div>
<hr /><div style="text-align:left;">　<br /><span>［取材］渡部真（わたべ・まこと）<br /> 1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」</a><br /><a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp</a><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui"></a><br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第8話】宮城県気仙沼市／バラバラに避難した家族と事前に約束していたお寺の避難所で再会]]></title>
                <description><![CDATA[<p>震災から１年半を迎える頃、宮城県気仙沼市の仮設住宅で暮らしている藤崎さんは、まだ仕事が見つからずにいた。大地震と大津波に襲われた当時を振り返ってもらいながら、現在の心境をうかがった。取材者：渋井哲也</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19905</link>
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                <pubDate>Fri, 30 Nov 2012 03:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[渋井哲也]]></category>
                <category><![CDATA[気仙沼市]]></category>
                <category><![CDATA[仮設住宅]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>震災から１年半を迎える頃、宮城県気仙沼市の仮設住宅で暮らしている藤崎さんは、まだ仕事が見つからずにいた。大地震と大津波に襲われた当時を振り返ってもらいながら、現在の心境をうかがった。</strong></span></div>
<span><br />取材者：渋井哲也</span><span><br />取材日：2012年9月3日<br /></span><hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11987/0b245ac07484e81a1139391d338db4667f58ab59.jpg" data-image_id="11987" alt="0b245ac07484e81a1139391d338db4667f58ab59" height="240" width="320" />　</div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">藤崎さんが住んでいる仮設住宅（2012年9月2日）</span></div>
<br /><br /><div style="text-align:left;">　宮城県気仙沼市本吉町。「昭和の大合併」で津谷町、小泉村、大谷村が合併して出来た本吉町が、「平成の大合併」で気仙沼市に編入されてできたのが、この地域だ。<br />　震災により、国道45号にある小泉大橋が崩落し不通となった。そのため仙台から気仙沼まで宮城県の南北を行き交う車は、本吉町の沿岸部は通行できなく、震災からしばらくは内陸に遠回りして迂回通行せざるを得なかった。2012年6月26日に、ようやく仮橋ができて通行ができるようになったが、壊滅的な国道の深刻な状況が、津波被害の大きさを物語っていた。<br /><br />　藤崎由美さん（44歳）は2012年9月、大谷小中学校の仮設住宅に住んでいた。震災から一年半経ったこの時期に、話を聞いた。<br /><br />「震災ときはみんなに助けてもらいました、ほんとに。家族は、娘（当時小学校６年生）と両親と祖母の5人です。仮設住宅は狭いので、私と娘、そして両親と祖母の二つの部屋に別れて住んでいます。生活していると荷物が増えますので、部屋の中が狭くなってきましたが、避難所よりはよいと思います。<br /><br />　仮設住宅では知っている人がいるので、声をかけてくれます。知っているから動ける。つながりで一緒にいることができる。地域密着ってのもいい。都会だと、誰がいても関係ないじゃないですか。仕事ばっかりだったので、あまり地域の接点がなかった。ここに来て、地域のつながりができた。ずっと東京にいたんです。そのためもあり、地域のうわさ話が好きじゃない。でも、こういう事態になると、ある程度、知らないといけないかな、って思うんです。その延長で、あまり地域に関心がなかったんですが、ちょっとは持たないといけないかな。<br /><br />　高校を卒業して、東京・浅草の美容学校へ進学したんです。お寺が経営している珍しい学校でした。いまはもうありません。東京で就職をしたあと、『やっぱり、田舎がいいかな？』と思って、戻ったんです。先輩達が田舎に帰ったりして……。あとは東京では息が抜けない。自分では抜いているつもりなんですけどね。戻って12年ぐらい働いています。いまだに声をかけられる」<br /><br />　震災当初の話を聞いてみた。地震があったときには仕事をしていたという。<br /><br />「気仙沼市南町で美容師の仕事をしていました。海が近いので、とりあえず、自分たちよりもお客さんを早く帰そうと思いました。薬品もあるので、そのままにはできないので、（地震で落ちたものなど）片付けたあと、自分たちも近くの高台に逃げました。高台があったことは本当に恵まれていたな、と思って。船着き場が近く、海が近いけど、逃げ場があったんです」<br /><br />　気仙沼市は総浸水面積が18平方キロメートル。総面積の5.4％だったが、建物用地で考えると46％が浸水している。海から数百メートルの距離に店舗も浸水した。しかし、地理的に近くに高台があったために難を逃れることになる。<br /><br />「従業員3人だけで逃げたんです。従業員1人が『私たちは子ども達がいるから逃げなきゃいけない』と言ったんです。『そうだね。とりあえず、逃げよう』と言いながら、何もなければ、戻って来てお店を掃除しようということになったんです。その一言があったから助かりました」<br /><br />　三陸地方では、大きな地震があると津波がくる恐れがあるとの教えがあり、一部の住民の間では、自然に高台に避難するという行動をとる人もいた。藤崎さん逃げようとしたのは、そうした反応ではなく、市内での放送があったからだ。<br /><br />「逃げようと思ったのは、津波に関する放送が流れたからです。『（気仙沼湾の）大島に6mの津波がくる』との情報が入りました。お客さんも『大島に6mも入ったら大変だよ』って。とりあえず、逃げるよ、ということになったんです。高台に向かう途中、同じようにどこかに逃げようとする人がいるなかで、逃げない人もいたんですよね。だから会う人会う人に『逃げたほうがいいですよ』と言ったんです。それで高台まで行きました」<br /><br />　津波が来ているというのはわかって、家がなぎ倒されているのはわかったんです。津波に追いかけられることがなく、恐怖はなかったので、よかったなとは思います。知り合いの中には津波に追いかけられる人もいたみたいです。お母さんは足が何かに挟まったとか。でも、助けられました。ああいうのは、奇跡というのですかね？　何かの拍子で足が外れたとか。津波がきても手すりにつかまって、助かる人は助かった」<br /><br />　藤崎さんの自宅は、国道45号線沿いにある大谷駐在所の近所だった。漁港からみると、高台になっているために、津波がくるとは思っていなかったようだ。<br /><br />「もともと家は海岸線から200mほどのところの国道45号線沿いにありました。近くには大谷駐在署がありました。やや高台になっていますので、まさかそこまで津波がくるとは思っていませんでした。<br /><br />　最初のころは、『自分の家はあるはずだ』と思っていたりしたんです。でも、現実ってそうじゃないんだな、って。まさか自分の周りでそうなるとは思ってないです。地震がくるたびに家は治していたんです。結局、家がなくなった時点で、『ここに家を建てちゃいけない』ということなんですね。あそこはもう海から見える。建っていた家が流されたんですが、海がそんなに近いとは思わなかったんです。やっぱり、地盤が沈下した分、近くも見える」</div>
　
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11993/27496686d5d6a7691b15115a000440812fccdd08.jpg" data-image_id="11993" alt="27496686d5d6a7691b15115a000440812fccdd08" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">津波で流された自宅付近（2012年9月2日）</span></div>
　
<div style="text-align:left;"><span></span>　仕事をしていた藤崎さん、家族とはバラバラに避難した。娘は学校だろうと考えたが、他の家族は家にいた可能性がある。安否を確認したいがどうにもならない状況だった。ただ、生きていればすぐに会えるという確信があった。<br /><br /></div>
<div style="text-align:left;">「当時は携帯電話も通じなかったですね。でも、うちでは前から話し合っていたんです。『うちは1人で逃げるから。何があっても大丈夫』と。ただ、仕事中は娘をおばあちゃんに預けているんで、『娘と一緒に逃げて』と。市では（指定避難所があるため）こういう時に集まるところが決まっているから、そこに逃げてと。（避難しなければいけないときのことは）前もって決めていました。避難所となったところに逃げれば、声をかえて、いつかは会えるだろうと、前から思っていました。それは家族との話し合いで決めていたんです。なんとか自分たちが避難すれば、いずれは会えるだろうと」<br /><br /></div>
<div style="text-align:left;">　結局、翌日、藤崎さんは決めていた避難所である仙扇寺（気仙沼市本吉町大谷地区）で家族に会うことができた。ただ、娘は当時のことを話さないという。<br /><br /></div>
<div style="text-align:left;">「娘たちとは仙扇寺ですぐに会えました。震災当日は、娘は叔父と叔母が一緒にいたんです。1人より誰かと一緒にいたほうがいいということでしょう。翌日に家族みんなに会えました。学校でどうだったのかは、娘はまだ話しません。学校には親が迎えに来た人もいたようですが、『（当時のことを）話すのは嫌だ』って。だから無理に聞かないです。嫌な思い出なんでしょう。友達が亡くならなかったのはよかったんですけど、子どもたちはかなりショックだったんで。自分の家、自分のものがない...。結局、一緒にいられなかった時間もあったし。あと何年後かには『あのときはああだったね』という話にはなると思うんです」</div>
<div style="text-align:left;"><br />　仮設住宅の期限は原則２年まで。延長はできるものの、いつまでも暮らせるわけではない。地区ごと高台移転をするという意見や、内陸部に引っ越しをするという住民もいる中で、藤崎さんの選択はどういうものだろうか。</div>
<div style="text-align:left;"><br />「土地だって高いし、結局、誰もがこれから家を建てるって人はいないです。私だって家をすでに建てていて、その家にずっと住もうと思っていたんですよ。それが逆転してしまったんです。この年で、『家、どうする？』って感じなんですよ。土地の値段は倍以上、という話も聞きます。以前は3万くらいの土地が、10万以上になっているとも聞きました。ただ、つながりで取引される場所がある。知っているから譲るということもあるみたいですが、それでも高いです」</div>
<div style="text-align:left;">　別の場所に建てようにも、土地の値段は上昇する一方だ。では、内陸部に引っ越すという選択はあるのだろうか。</div>
<div style="text-align:left;"><br />「（沿岸部から離れている住民もいるが）母たちがいるので、海の近くに住みます。それに離れてどうする？というのもあります。できれば、旧本吉地区の通りにあればいいんですけど、なかなか土地がない。そのうち、誰かが『土地、譲ってもいいよ』というようになるかな？とも思って。だから、とりあえず、こっちに帰れたらいいな、と思っています」</div>
<div style="text-align:left;"><br />　慣れない仮設住宅での暮らし、将来への不安など、考えれば考えるほど、ストレスがたまる状況にあるが、藤崎さんはどんなストレス解消をしているのかが気になった。</div>
<div style="text-align:left;"><br />「ストレスは以前からは溜まらないほうかもしれません。お酒も飲まないほうですね。『仕方がない』と思えますから。現状を自分なりに把握しなければならないです。それが現実ですから。掃除をすれば、ある程度解消できますね。ストレスといっても、今までの通りじゃないと思ってるんですけど、家が残っている人は悪いかな？とも思ってるんです。『何かあったら……』とは話しますが、やっぱり、気を遣っていると思うんです。</div>
<div style="text-align:left;"><br />　とりあえず、仕事を探さないと。仕事がまだ見つからないです。前の仕事を辞めてしまったんです。お店が機能しななったので、職安にいかないといけないんです。とりあえず、美容師を探していますが、見つからないので、焦ります。</div>
<div style="text-align:left;"><br />　これからも美容師がいい。ただ、難しいんです。どんな仕事でもいいなら別でしょうが。本当は、うちの庭に美容室を建てる計画だったんです。何もなければ、いまごろ、そこで仕事をしていたと思うんです。自分が体力がなくなるまで働くつもりでした。これまで無職になったことがないのですが、仕事をしないと不安です。</div>
<div style="text-align:left;">　でも、結局、求人がないんです。何でもよければあるんですが、年齢制限もあるんです。若い人のほうがエネルギーがあるので欲しがるんでしょうね。自分が経営側になってもそう思います。美容師の雇用は45歳まではあるので、枠を広げてもらえるようなところがあればと思っています」</div>
<div style="text-align:left;"><br />　取材の間、藤崎さんはずっと笑顔だった。家族や仮設住宅の近所の人たちなどに対しても、持ち前の明るさで、周囲を元気づけているように見えたのが印象深かった。</div>
　
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11990/e668fba93eedb8ce648f3d25770a8039c4cd2d32.jpg" data-image_id="11990" alt="e668fba93eedb8ce648f3d25770a8039c4cd2d32" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">働いていた美容室がある気仙沼湾では、<br />津波で漁船が打ち上げられていた（2011年4月20日）</span></div>
　<br /><div style="text-align:left;">　</div>
<hr />　<br /><div style="text-align:left;">［取材］渋井哲也（しぶい・てつや）<br /> 1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」（河出書房新社）など。ビジネスメディア「誠」（ <a target="_blank" href="http://bizmakoto.jp/">http://bizmakoto.jp/</a> ）で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">渋井哲也の「てっちゃんネル」</a> <br /><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui</a><br />　</div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第7話】福島県南相馬市／住民が８割以上もいなくなってしまった]]></title>
                <description><![CDATA[<p>震災から2週間後、「マスコミも逃げた」と噂された南相馬市の実状を確かめるため、市の広報担当者から話を聞いた。震災前の7万人いたと言われる同市だが、約8割の住民が市外に避難していた。取材者：渡部真</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19697</link>
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                <pubDate>Wed, 28 Nov 2012 19:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[福島県]]></category>
                <category><![CDATA[南相馬市]]></category>
                <category><![CDATA[小高]]></category>
                <category><![CDATA[原町]]></category>
                <category><![CDATA[原町第一小]]></category>
                <category><![CDATA[避難所]]></category>
                <category><![CDATA[渡部真]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>震災から2週間後、「マスコミも逃げた」と噂された南相馬市の実状を確かめるため、市の広報担当者から話を聞いた。震災前の7万人いたと言われる同市だが、約8割の住民が市外に避難していた。</strong></span><span><br /><br />取材者：渡部真</span><span><br />取材日：2011年3月26日<br /></span></div>
<hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11917/a8be683afdb3d0b33a259fb400767b52915f1956.jpg" data-image_id="11917" alt="a8be683afdb3d0b33a259fb400767b52915f1956" height="240" width="320" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">小雪がちらほらと舞うこの日、</span><span style="font-size:80%;">南相馬市の市役所の入り口には<br />「傘は、室内に持ち込まないでください」と貼り紙が出されていた。<br />放射性物質を市庁舎に入れないためだった<br /></span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><span style="font-size:150%;"><strong>■遠くのほうで煙みたいなものが3本たった。それが津波だった</strong></span><br /><br /><strong>　震災発生から約2週間後、福島県南相馬市の市街地はひっそりとしていた。当時、東京電力福島第一原発の事故の影響で、20キロ圏内は避難指示が出され、30キロ圏内は屋内退避指示が出されていた。そのため、震災以前には7万人いた市民の多くは、放射能の影響を恐れて市外に避難し、30キロ圏内で避難せずに残った住民も、家の中からほとんど外出する事も出来ない状態だった。</strong><br /><strong>　取材に訪れたこの日、南相馬市の桜井勝延市長は動画投稿サイト「ＹｏｕＴｕｂｅ」で南相馬市の深刻な状況を訴え、英語字幕付きの動画を世界に向けて発信した。</strong><br /><strong>　桜井市長に取材を求めたところ不在だったのだが、当時、南相馬市の広報担当を勤めていた須田昇さん（仮名）に南相馬市原町区にある市庁舎で話を聞く事が出来た。</strong><br /><br />ーー3月11日に地震が発生したとき、須田さんはどこにいらしたのですか？<br /><br />「地震の時は驚きました。私はこの部屋にいたんですが、今考えると一番やっちゃいけない事をしました。私の机の後ろにある棚が倒れないように、必死で棚を抑えていたんです。ところが、棚の中にあったものは全部出てしまって、机から物は落ちるし、引き出しは全部開いてしまうし、『これは逃げ場がないな』って思ったんです。2〜3分の揺れだったと思いますけど、今までにはまったく経験のない地震でした。そのあとも、何度も大きな揺れがあって、しばらく余震が続きました。<br />　なかなか外に出られないほど揺れていましたが、ようやく落ち着いたところで、庁舎の外に出ました。外に出て10分ほどして庁舎の中に戻ったのですが、また揺れて外に出たりしました。震度としては6弱でした。<br />　その後、庁舎の中の片付けをしたんですが、気になったの火災の事でした。しばらくして、窓の向こう、遠くのほうで煙りみたいのが3本くらい立ってたんです。でも、すぐに消えてしまった。それでまた、今度は2本くらいの煙が出るんです。『火災かな？でも変だな』って思ってたんですけど、それが津波だったんですね。ハッキリと津波が見えたわけでないのですが、津波らしきものはここからでも見えたんです。後から、『あの部落が全滅だ』『こっちは津波で全部やられた』って話が入ってきて、さっき見えたのが津波だったんだと分かりました。<br />　市の職員も現場に行ってて、津波に呑まれた者が2人います。地元の『福島民友』の記者も1人、津波を取材に行って行方不明になり、いまもまだ見つかっていません。あと、ＮＨＫの記者が沿岸部まで津波を撮影しにいって、津波に襲われながら山のほうまで逃げて助かったと言っていました」<br /><br />ーー生活インフラの状況はどうだったのでしょうか？<br /><br />「この庁舎では、電気も水道も問題なかったんですが、電話だけはすぐに繋がらなくなりましたね。携帯電話も。インターネットも4〜5日は不通になってしまいました。<br />　困ったのは情報が何も入って来なくなった事です。一番の情報はテレビから流れてくる情報でした。政府からはまったく連絡ありませんでした。ようやく今日から、政府の職員が市庁舎に来るようになり、オフサイトセンターにいた職員が来ています。東電の職員も一人、今日から来ています。<br />　いま現在も、原町区（市役所のある南相馬市の中心地域）には新聞が届かないんです。鹿島までは地元紙が届いているので、職員が鹿島まで新聞を取りにいかないと、市役所にも新聞は届きません」<br /><br />ーー津波の被害の対応の負われるなかで、3月12日に福島第一原発の１号機が水素爆発を起こしました。<br /><br />「12日に原発事故が起き、そこで10キロ圏内に避難指示が出ましたが、その時点で、市内の一部が避難地域になりました。2日後には避難指示が20キロ圏内に拡大された。政府の強制的な命令で、小高区など約1万5000人の住民の方を無理矢理に避難してもらました。原町区や鹿島にも津波被害の避難していた住民がたくさんいましたので、市内には約2万人ほどの避難者が溢れていました。<br />　避難させるにも、深刻なガソリン不足などもあり、政府に対して『バスを用意して避難させてほしい』と市長がお願いしましたが、政府からは十分な支援が得られませんでした」<br /><br />ーーそうした背景があって、住民には自主避難を促したという事でしたが、市民にもう少し強い指示を出す事は出来なかったのでしょうか？<br /><br />「自ら車で避難できる人たちには自主避難をお願いするしかありませんでした。避難する手段を持っていない方には、市がバスを用意するなどして移動してもらいました。<br />　15日に、ＮＨＫの番組の中で市長が取り上げられるというので、こうした市内の実状を訴えてもらいました」<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">■新潟県がいち早く南相馬市の支援を表明</span></strong><br /><br /><strong>　桜井市長の訴えに対して、新潟県の泉田知事がすぐに反応した。翌16日の午前中、泉田知事から桜井市長に電話があり、「新潟県は、南相馬市の全員を避難させても受け入れるように、これから各市町村に指示を出す」と伝えたと言う。桜井市長は、「このような状況下では原発事故がどこまで拡大するかも分からない。何度も避難場所を移動させたり、避難指示を変更していたりして、住民も疲弊していたので、できるだけ遠くに住民を避難させ、まずは移動生活から落ち着かせる事が重要」と考えた。新潟県のほか、長野県飯田市、東京都杉並区、群馬県片品村など、桜井市長の訴えに答えてくれた遠隔地の自治体に希望する住人を避難させる事を決断した。</strong><br /><strong>　16日から住民に説明会を開き、避難所にいた人々や希望する住人を、17〜20日の4日間で避難させた。自主避難する人でガソリンが不足している人には市からガソリンを支給するなどの支援も行なった。そうして、20日までに約5万人から6万人の南相馬市民が市外に避難していった。</strong><br /><br />ーー市で把握している避難の経緯を教えてください。<br /><br />「新潟県からは、とても厚いご支援をいただきました。『南相馬市が丸ごと避難してきても受け入れる』と言っていただき、避難用のバスも仕立てていただき、実際に多くの市民を受け入れていただきました。<br />　風評的な事もあって、放射能の影響を恐れたり、物資が届かなかったり、一時的には今以上の市民が市外に避難しました。<br />　市で把握しているのは、第1弾として避難所にいた9000人を市外に避難していただきました。その後、第2弾として4665人。で、昨日（3月25日）が152人。最初の9000人というのは、浪江町などから避難してきた人もいますので、南相馬市民だけとは限りません。また、この他に自主避難された方も大勢います。避難状況と言いましても、現在、市に残っている人数が何人かと言うのは把握できていません」<br /><br />ーー須田さんの印象としてで結構ですが、市全体でどれくらいの方が避難されたとお感じですか？<br /><br />「どうでしょうか。例えば、私の自宅の周囲には約50軒ほどの家がありますが、夜に電気が点いているのは5〜6軒ですので、8割くらいの住民の方は避難されたかもしれません。原町区と鹿島区を含めて最大で1〜2万人程度にまで減ってしまったと思います。<br />　3月17日、南相馬市役所に自衛隊員が来て、『100キロ圏内はすべて避難指示が出る』と告げて言ったんです。市の職員も非常に混乱しました。結果的に間違った情報だったんですが、なぜ自衛隊員がそんな事を告げにきたのか、未だによく分かっていません。<br />　そんななかで、市には少しずつですが、人が戻ってきています。日本中で、この2週間ほど、放射能の影響について情報が出回ったと思います。そうして、自分の地元がどんな危険度なのか判断して戻ってきているようです。避難所にいた人たちも、結局、避難生活に疲れて、自宅に戻ってしまったり、親戚の家に行ってしまったりしています。あと、線量について、市内は比較的低い数値なので、市外に避難した人たちも安心した部分もあるようです。今さらＳＰＥＥＤＩ（放射性物質拡散予測システム）の情報が出てきたのも影響があると思います。逆に、過信している人もいて、それはそれで、市としては住民の方に過信しないようにしていただきたいのですが……。<br /><br /></div>
<span style="font-size:inherit;">　</span>
<div><center><span style="font-size:inherit;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11918/8f533717a244185391486c4d8cf1931d1399d921.jpg" data-image_id="11918" alt="8f533717a244185391486c4d8cf1931d1399d921" height="321" width="240" /></span></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:inherit;">市役所の１階掲示板には、様々な震災に</span><br /><span style="font-size:inherit;">関する情報が貼り出されていた。</span><br /><span style="font-size:inherit;">写真は３月１１日の避難状況</span><br /></span></span>
<div style="text-align:left;"><br /><span style="font-size:100%;">　</span></div>
</div>
<span style="font-size:150%;"><strong>■混乱に拍車をかけた官房長官声明</strong></span><br /><br /><strong>　こうしたなかで、3月25日、枝野幸男官房長官（当時）は、30キロ圏内の住民に対して、自主避難を促す声明を発表した。</strong><br /><strong>「枝野幸男官房長官は25日の記者会見で、東京電力福島第1原子力発電所から半径20〜30キロ圏内にとどまっている住民について、自主的に避難することが望ましいと語った」（ＡＰＦ通信）</strong><br /><strong>「枝野氏は（福島第一原発から）半径20〜30キロ圏内で屋内退避を指示された住民に関し『商業、物流等に停滞が生じ、社会生活の維持が困難になりつつある』と指摘」した（『河北新報』3月26日号朝刊）。</strong><br /><strong>　これに対して桜井市長は、「こちらのやっている事に対して、政府の対応は遅い。政府からの情報も届かないし、こちらの現場の状況も、政府に伝わってない」と批判した。</strong><br /><br />ーー今現在の住民の避難状況について教えてください。<br /><br />「一時期よりは落ち着いてきたかと。先ほど言ったように、市外に避難していた住民が少し戻ってきているようなんですね。実際に、一番人が少なくなった時は、もしかしたら20日頃だったのかも知れません。<br />　そんな時に、昨日、官房長官からああいう声明があって、市民の人たちをまた混乱させてしまっています。地元に戻っている人たちにしてみれば、自由な往来は制限してほしくないというのと、この地域の経済が成り立たなくなるという気持ちというか、要望もあるようです。ああいう声明が出るのが、もっと早い時期なら、住民ももっと一斉に避難する事が出来たかもしれないのですが……。<br />　それに、本当に、原発の事故が緊張する状態にあるなら、もっと正確な情報ではっきりと避難しろと命じてほしいです。市のほうで自主避難を促したのは20日までで、それでも残っていたり、その後に戻ってきている人たちに、また中途半端に移動するように声明を出されても、実際に住民の人たちは動けないのです」<br /><br />ーーいま、避難所はいくつあるんですか？<br /><br />「原町第一小学校、鹿島中学校だけです。昨日の15時時点で、２つの学校で158人が避難しています」<br /><br />ーー避難に関するアナウンスが上手くいってないという事もありますか？<br /><br />「住民の方に伝達手段があまりないのが現状です。車で巡回したり、防災無線を使っていますが、聞こえづらいようです。どうしても、『屋内退避』ということで、窓をしっかり閉めている家の中に閉じこもっている人が多いので、『外で何か言ってるなぁ』という程度にしか聞こえない事も多いんですね。<br /><br />ーー要介護度が高くて避難が厳しい人もいるのでしょうか？<br /><br />「いま、自衛隊が、すべての世帯を回って、各世帯の避難状況を把握しようとしてくれています。いざという時に、自主避難できる人がどのくらいで、自衛隊などの助けがないと避難できない人がどのくらいか、調べています。「いざという時がある」というのが、今の南相馬の現状なのです。<br /><br />ーーＴｗｉｔｔｅｒで、女子高生が「自分達と両親は避難したけど、祖父母が南相馬に残っている。強制的に避難するようにしてほしい」と訴えて、話題になっています。<br /><br />「そういう話は、実際にありますよ。原発事故の影響は、乳幼児や小さなお子さんの方が大きいという話がすぐに出回りましたから、そうしたお子さんを抱える親御さんは、いち早く避難されました。お年寄りのほうが移動が困難ですので、お年寄りだけ残っているというご家族は、実際に私の知り合いでもいます。<br />　強制的な避難命令は、市では出せません。内閣総理大臣でないとは命令を出す事は出来ないので、市では自主避難を促すしかないんです」<br /><br />ーー官房長官が指摘した物流や、食料品などの供給はいかがですか？<br /><br />　物流も食料品も、徐々にではありますが、市内に入るようになってきました。病院機能なども若干回復しつつあります。ガソリンは、今日、私も入れにいって3時間並んで、入れられませんでした。でも、これでもかなり良くなったんです。今日の時点で、市内で4つのガソリンスタンドが開いています。2〜3日前はガソリンが入って来なくて、開けられるスタンドはゼロでした。昨日は1か所。最初は、ガソリンスタンドでは緊急車両優先としていましたが、今は緊急車両も一般の車も、同じように扱うようにしてもらっています。パトカーも、必要あれば並んだり、あるいは市外に行ってガソリンを入れるようにしてもらっています。<br />　ただ、レストランや外食のお店は、まだほとんど営業していませんね。<br /><br />ーー食料品といえば、本日から配給が始まったと聞きました。<br /><br />　はい。今日から配給を始めました。食料調達が困難な住民の方に対する支援です。各地域に食料品の配給車が回って届けています。昨日までは、食料品も物資も、調達が困難な方には、避難所や市役所に来てもらってお渡しするって形をしていました。<br />　配給をしながら、残っている住民の把握をしたいと思っています。市民の方達がどれくらいのこっているのか、何が必要とされているのか、どんな問題を抱えているのか……。配給をしていく事で、もう少し実態も見えてくると思います。<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">■マスコミも風評被害を作っている</span></strong><br /><br />ーーこれだけ住民がバラバラになって避難していると、これまでのコミュニティは維持できなくなったと思うのですが。<br /><br />　これまでは、行政区長さんがいて、その下に隣組長さんがいて、地域のコミュニティが成り立っていたんですが、それが今、寸断されてしまいましたので、残っている人たちだけで、新しいコミュニティなり、自治組織をなり、ネットワークを再構築していって、イザって時に備えておかないとならないと思います。<br />　同時に市全体が退避命令出た時の準備もしています。配給を通した住民の実態把握についても、そうした緊急時のための対策でもあります。<br /><br />ーー桜井市長が「南相馬からは、マスコミも逃げた」と発言したと聞きました。<br /><br />　マスコミの皆さんも、原発事故が起きてしばらくは来なくなっていました。<br />　2日前にようやくＴＢＳの「ニュース23」が来たのですが、それがこの10日ほどで初めてでした。昨日は、ＮＨＫが取材に来ました。テレビはその2つだけ。あとはＡＰＦ通信の山路徹さん。山路さんは毎日来てます。あなたたちがその後。他はみんな、電話取材だけです。あなたたちは、こうやってきてくれていますが、色んなところに「こっちに来て伝えてくれ」って言っても、なかなか応じてもらえませんでしたからね。<br />　テレビでは、毎日、色んな被災地から中継がされていますよね。でも、ここではそれがないんです。風評被害が問題だって言われだしていますが、結果的に、マスコミの皆さんが作り上げている部分もあると思います。同心円上に放射能の影響があるわけじゃないってことを、こっちに来て取材してきちんと報道してもらいたいのです。ここより放射線量が高くて危険なところもあるじゃないですか。そこにはテレビも行ってるんですよ。<br /><br />ーー今後、学校の再開や市の行政の通常運営などが過大になると思いますが、その点は何か方針が決まっているのでしょうか？<br /><br />　南相馬市の教育行政については、まったく何も決まっていません。小中学校の再開の目処は立っていない状況です。一番心配しているのは高校生だと思います。20キロ圏内の高校に進学が決まっていた高校生は、基本的にしばらくは通う事が出来ないですから。どうやって別の高校に振り分けるのか、県としても未だ何も決まっていないようです。<br />　市の行政全体が、今後について、まだまだ何も決まっていませんし、何も分からない状況です。<br />　津波の被害の大きな沿岸部は、遺体や行方不明者の捜索もまったく進んでいません。原発事故の影響は、これからどれくらい先まであるのか。まだまだこれからです。<br /><br /><div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11919/02b3e2426caa607b083c3d37af844f73beb0549e.jpg" data-image_id="11919" alt="02b3e2426caa607b083c3d37af844f73beb0549e" height="240" width="320" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">津波に襲われた南相馬市原町区の下渋佐。この広大な範囲で、<br />わずか数名の警察官と消防団員が行方不明者の捜索活動をしてい<span style="font-size:inherit;">た。</span></span><span style="font-size:80%;"><br />写真には、大手新聞社と大手通信社の記者が３人写っている。<br />市役所にマスコミの記者はいなくても、被災現場にはいたようだ<br /></span><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:inherit;"></span></span><span style="font-size:80%;"><span style="font-size:inherit;">（2011年3月26日）</span></span></div>
<div style="text-align:left;"></div>
<hr /><div style="text-align:left;">　<br /><span>［取材］渡部真（わたべ・まこと）<br /> 1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」</a><br /><a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp</a><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui"></a><br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch1396/19697</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第6話】宮城県仙台市／家族と離ればなれの避難も、町内会長としての奮闘]]></title>
                <description><![CDATA[<p>仙台市若林区荒浜東地区の町内会長だった大久保勝彦さん（70歳）も、震災の3日後から避難所になっている八軒中学校で生活していた。教室で妻と一緒に生活をしていた。その教室で話を聞いた。取材者：渋井哲也</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19282</link>
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                <pubDate>Mon, 26 Nov 2012 23:30:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[仙台市]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜小学校]]></category>
                <category><![CDATA[渋井哲也]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>仙台市若林区荒浜東地区の町内会長だった大久保勝彦さん（70歳）も、震災の3日後から避難所になっている八軒中学校で生活していた。教室で妻と一緒に生活をしていた。その教室で話を聞いた。</strong></span></div>
<span><br />取材者：渋井哲也</span><span><br />取材日：2011年3月21日<br /></span><hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11768/b8774465628167ae6e1c642235368952c8c67bc2.jpg" data-image_id="11768" alt="b8774465628167ae6e1c642235368952c8c67bc2" height="240" width="320" />　</div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;"> 地震直後、近所に声をかけまわった大久保さん</span></div>
<br /><br /><div style="text-align:left;"><strong><span style="font-size:150%;">■地震があってすぐに飛び出して声かけ</span></strong><br /><br />　荒浜東地区は、県道137号を荒浜小学校から深沼海岸に向けて進み、貞山運河を越え、同県道の北側だ。大久保さんの家は天保時代から続いていた伝統的な家系だ。<br />　震災当時まで娘夫婦と孫2人と一緒に6人で住んでいた。しかし、同避難所では夫婦のみの避難生活をしている。娘夫婦と孫2人は妻の実家で暮らしていた。<br />　大久保さんは3月11日の地震があったとき、テレビを見ていた、という。<br /><br />「何の番組を見ていたのか？たしか、スカパーだったと思うが、何を見ていたのか今は思い出せない。たぶん、中国のアニメみたいなものだった」<br /><br />　地震はかなり強い揺れだった。食器棚は倒れないようにロックしていたものの、茶の間にある食器は崩れ落ちていた。ワイングラスも落ちてしまっていた。額縁も全部が斜めになっていた。<br />　津波警報が出された後、大久保さんは近所に声をかけて、荒浜小学校へ避難するように呼びかけた。町内会長であれば、地域の住民を守る立場だ。自身も避難しなければならないが、周囲にも声をかけて、避難を促していたのだ。<br /><br />「町内は95戸あるんですよ。海岸通りを回って、中通りに来て、貞山堀（貞山運河）ところまで来たんです。約80％くらい回ったかな。地震があってすぐに飛び出したので、消防車よりも早く回ったんです。道路に出ていた人もいたし、シャッターを修理していた人もいた。窓を治していた人もいた。そんなことしてないで、すぐに逃げろ、と声をかけたんです」<br /><br />　地震後、その揺れによって崩れた家屋はなかったという。ただ、大久保さんが言うように、家の窓ガラスが壊れたり、窓が斜めになったりして、窓が外れていたり、シャッターがしまらなっくなっていた人たちがたくさんいた。そんな中で、声かけをしたために多くの人が助かった。</div>
　
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11769/8c8612fe0b8b71f56c2c7f423b9c5ed7960335f3.jpg" data-image_id="11769" alt="8c8612fe0b8b71f56c2c7f423b9c5ed7960335f3" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">貞山運河には、瓦礫が散乱していた<br />（2011年3月23日）　</span></div>
　<br /><span></span><br /><div style="text-align:left;"><span style="font-size:150%;"><strong>■犬がいなくなったので、家に戻った人が亡くなった</strong></span><br /><br />　住民の多くは荒浜小学校へ避難できた。しかし、大久保さんの知る限りでは、直接声をかけた人の中で亡くなった人が一人いた、という。<br /><br />「顔見知りだった。部落の人は、顔見ればだいたいわかります。犬がいなくなったというので、家に戻った人がいた。結局、その人は（津波に）飲まれました。表通りに出ていたので、“そんなことをする暇があったら、すぐに避難しなさい”と言ったんですが……」<br /><br />　大久保さんは津波襲来の直前に声をかけた顔見知りの人が亡くなったことは残念がる。<br /><br />「残念の一言です。その娘さんが一人暮らしだったんです。昨年、母親が亡くなったんですよね。今日も遺体確認に行って来たんです。親戚の方も遺体確認に来てくれましたけど、おまわりさんも泣き崩れてしまって……」<br /><br />　荒浜東地区の住民に声をかけた大久保さんだが、親戚、知人、友人への声かけはどうしていたのだろうか。<br /><br />「それが、携帯電話やバックなど全部、家に置いて来てしまったんです。みんなのやつ、全部入っていましたがから。だから、連絡が取れなかったので、本当に大変だったですよ」<br /><br />　大久保さんは声かけをしていたために、自身が必要なものを持って避難する時間がなかったのだ。そのため、当初は新類縁者とは連絡が取れなかった。<br /><br /><br /><span style="font-size:150%;"><strong>■「悲しいとか言ってられない」</strong></span><br /><br />　家族はどうだったか。6人暮らしだが、全員が無事だった。地震があったときに、「すぐに逃げろ」と言っていた。そのため、避難所で安否を確認することができた。すぐに確認できた。<br />　しかし、救助ヘリが来て、トリアージの順番通りに運ばれる。そのため、一旦、家族はバラバラになる。<br /><br />「私は一番最後までいたんです。救助される人を見送って、最後に寝たきり老人を担架で運ぶ手伝いをしていた」<br /><br />　最終的に運ばれた先は自衛隊の霞目駐屯地だった。<br /><br />「駐屯地に着いたら、（家族は）体育館にいるよ、と言われたんです。でも、体育館はいっぱいだったもんですから、一旦、自衛隊の宿舎で休んで、すぐにバスでここに来たんです」<br /><br />　避難生活は一時ではあるが、離ればなれになる。6人暮らしだったことを考えると、不便さや悲しさがあるのではないか。<br /><br />「いやー、こうした避難生活ですから、悲しいとか言っていられませんわ。だいたい、こうして親切にしてもらっていてですね、町内会の役員の方、会長、副会長、みんなのために残って、我々のために親身になってくれている。感謝ですね。そんな中で、我々の家族がどうのこうの、って感じではないです。ここにいる仲間と、まだ続く避難生活です。元気よく立ち直ろうと思っています」<br /><br />　続く避難生活の中で、不安も感じているだろうが、自分たちにも何ができるか探している。大久保さんは町内会長だったことから、きちんと意見をまとめていた。<br /><br />「今、昨日あたりから、心ののゆとりが出て来たんです。だから、学校（避難所の本部）に、『我々も何かできないか』と申しこんだ次第です。少しでもみんなの役に立ちたいと思っているんです。そういう方向に進んでいますね」</div>
　
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11770/5affc02ca7d81dccb52491c662dccdcccd0a8916.jpg" data-image_id="11770" alt="5affc02ca7d81dccb52491c662dccdcccd0a8916" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">荒浜小学校の屋上からの風景。<br />家々が津波に飲まれ、流されてしまった<br />（2011年4月27日）</span></div>
　<br /><br /><div style="text-align:left;"><strong><span style="font-size:150%;">■避難生活者がバラバラになったときが心配</span></strong><br /><br />　心にゆとりが出て来て、これからの行く末を案じながらも、前に向きな気を持ちを持とうとしている。では、きちんと睡眠はとれているのだろうか。睡眠は、震災後のストレスを図るバロメーターでもある。<br /><br />「ちゃんと寝るというか、なんかよぎるものがあるんでね。また、体のほうも調子悪くて、大変です」<br /><br />　頭の中が不安でよく眠れないようだ。避難生活にいても次のように話す。<br /><br />「避難生活について感じることというか。何かを感じないと言えばウソになる。ただ、避難生活で感じるのはまだ小さいことなんですよね。これからみんなが散り散りバラバラになったときに、どういうことになるかを心配している。ここでは、一つの組織として活動している。みんなに役を分担して、責任者を決めてやっていく」<br /><br />　まだ、ここで集団で避難生活をしている分には不便さよりも、むしろ、これから先に、バラバラに生活するようになったことを考えたほうが心配の種は尽きない。<br /><br />「バラバラになったときに、どうなるか。そっちのほうが...」<br /><br />　生まれ育った場所が災害にあったことについては、<br /><br />「盆栽が好きだった。先輩からもらったものがあったが、自分が死んだから、次宇の航海へと、趣味を持っている人に譲るはずだった。30、40年ものがいっぱいあった。見つかっても、枝は折れている。枝が折れないように、足場を組んだりして、手入れをしていた。みんな流れてしまった。そういうのが残念だな」<br /><br />　と話していた。震災によって故郷や家族に対する想いを口にする人もいたが、<br /><br />「そういう段階ではない。行政の対応がどうなるか。それ次第では以外に早く復旧できるか。そうではないのか。そっちのほうで頭がいっぱい。どっから手を付けて、組織対応できる人がどれだけ残るのか、どのくらいの人が残るのか、町内会として立ち直れるのか。そっちのほうがいろいろ考えないといけない。みんなでともかく、努力できる環境を整備しないといけない。思い出とかはその後じゃないか。“ここはこうだったな”、“ああだったな”と思うのは落ち着いたときのことだね。思い出のことはまだ考えていない」<br />　</div>
<hr />　<br /><div style="text-align:left;">［取材］渋井哲也（しぶい・てつや）<br /> 1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」（河出書房新社）など。ビジネスメディア「誠」（ <a target="_blank" href="http://bizmakoto.jp/">http://bizmakoto.jp/</a> ）で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">渋井哲也の「てっちゃんネル」</a> <br /><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui</a><br />　</div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第5話】宮城県仙台市／大きな余震が続くなかで不安を抱え避難生活を送る家族]]></title>
                <description><![CDATA[<p>2011年3月21日、仙台市内の八軒中学校が避難所になっていた。そこには若林区荒浜新町に住んでいた、畠山佳子（31歳）さん、颯太くん（7歳／当時小学1年生）、てる子さん（63歳）の3人も避難し、クラスの片隅に3人で一緒に固まっていた。そこで話を聞くことができた。取材者：渋井哲也</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19038</link>
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                <pubDate>Sun, 25 Nov 2012 21:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[仙台市]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜小学校]]></category>
                <category><![CDATA[渋井哲也]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>2011年3月21日、仙台市内の八軒中学校が避難所になっていた。そこには若林区荒浜新町に住んでいた、畠山佳子（31歳）さん、颯太くん（7歳／当時小学1年生）、てる子さん（63歳）の3人も避難し、クラスの片隅に3人で一緒に固まっていた。そこで話を聞くことができた。</strong></span></div>
<span><br />取材者：渋井哲也</span><span><br />取材日：2011年3月21日<br /></span><hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11639/81afc5b118f2d6f22c9cc0212a1de65f7151e4bc.jpg" data-image_id="11639" alt="81afc5b118f2d6f22c9cc0212a1de65f7151e4bc" height="240" width="320" />　</div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;"> 地震があったときにおやつを食べていたと言う颯太くん</span></div>
<br /><br /><div style="text-align:left;"><strong><span style="font-size:150%;">■いつもと違う地震。近くのコミュニティセンターへ行くが……</span></strong><br /><br />　3月11日14時46分、颯太君が学校から帰って、佳子さんやてる子さんと一緒におやつを食べていたときに地震が起こった。<br /><br />「最初はびっくりした。最初から揺れがすごかった。縦揺れとか横揺れとかじゃなく、全体がひどく揺れていた。いろんなものが落ちてきた」（てる子さん）<br />「タンスが傾いたり、いつもと違う感じ」（佳子さん）<br /><br />　仙台地域は地震が多い地域で、宮城県沖地震が想定されており、来るべき大震災に備えなければならない状況ではあった。二日前（3月9日）にも地震があった。<br /><br />「（3月9日の）その地震とはまったく違っていた。今度の地震は普通じゃないとおもったので、すぐに庭に出たんです。うちの二階の窓が少しずつ開いていて、鍵も外れて。近くの家の窓も開いていたんです。地震のときの、まさかのための逃げ道として開けているのかと思っていたんです。鍵も外れて、開いて、また揺れて...。だからこれは駄目だ、と思ったんです。近所の人はどうしたんだろう？と思ったら、頭に物が落ちてこないところにしゃがんで、じっとしていたと聞きました」（てる子さん）<br />「慌てて外に出たら、鍵を閉めていない窓が地震で空いていたんですよね。電信柱の電線も落ちていた」（佳子さん）<br /><br />　揺れた後、颯太は学校でしていた避難訓練と同じように、すぐにテーブルの下に隠れていたという。てる子さんに「私よりも賢いなと思った」と言われると、笑顔で照れていた。てる子さんは小銭を持って、手提げと厚めのオーバーを着て、サンダルじゃなく靴を履いて、逃げる準備をし、外に出た。周囲の人もリックを背負って、逃げる用意をしていた、という。二日前の地震があって、避難のための準備をしていたという人を何人か聞いたが、畠山さんの家の周辺にもリックの中に避難のための物資を詰め込んだ人がいたということだろうか。<br /><br />「避難しないといけないというので、うちも手ぬぐいを蒔いて逃げたんです。それでコミュニティセンターへ行きました」（てる子さん）<br /><br />　荒浜地区では、荒浜小学校が避難所になっている。しかし、荒浜新町付近は、小学校がやや遠い。そのため、この新町周辺の人たちは「荒浜コミュニティセンター」に避難した。同センターは2階建てで、消防団の屯所がある「コミュニティー防災センター」と「老人憩いの家」が併設している建物だ。一番近くて、避難所になっていたからだ。<br /><br />「でも、2階まで行ったら誰もいなかったんです。あれ？小学校のほうがいいのかな？と思って、小学校まで歩いて行った」（佳子さん）<br /><br />　結果として、この判断は正しく、大津波はコミュニティセンターを飲み込んだ、ただ、この段階で大地震があったから大津波が来ると思っていたのだろか。<br /><br />「いやー、津波は考えていなかったんですが、荒浜小学校前の信号機のところで、消防車とすれ違って、“6mの津波”と言っていたんです。そのとき始めて、私、津波がくると思ったんです」<br />「津波というか、やっぱり、高い所がいいと思いましたね。消防車がすれ違ったのは、15時30分になるかならないかの時だったね」（てる子さん）<br />　</div>
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11640/916bb99ed66f3bdb23bbf5346f25a0456c0ff775.jpg" data-image_id="11640" alt="916bb99ed66f3bdb23bbf5346f25a0456c0ff775" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">畠山さんたちが最初に避難した仙台市荒浜コミュニティ防災センター<br />（2011年3月23日）　</span></div>
　<br /><div style="text-align:left;"><span></span><br /><span style="font-size:150%;"><strong>■消防車の広報で津波を知るが、帰れると思っていた</strong></span><br /><br />　コミュニティセンターから荒浜小学校までは約500メートル。徒歩にして10分弱かかる距離だ。判断が少しでも遅れたら、荒浜小学校までたどり着けなかったかもしれないと思うと危機一髪だ。ただ、6mの津波の警報があっても、まだ家に戻れるのではないか、と思っていた、という。だから通帳とかも何も持たなかった。<br /><br />　「親類も荒浜にいないために、特に連絡を取らなかった。1年前にも地震があって、そのとき“津波がくる”と言われていたが、結局、津波は来なかった。だから、家に帰るという頭があったんです」（佳子さん）<br /><br />　多くの人がそうだったように、津波警報が鳴っても、それほど大きな津波がくるとは思っていなかった。津波警報に慣れてしまっていたためか、畠山さん一家もそこまで深刻には考えていなかった。<br />　＜石巻市の牡鹿半島の沖にある金華山に津波がぶつかって、それが弱い波になって仙台市の荒浜付近にくる＞<br />　てる子さんはそういうイメージを持っていた。それは、荒浜に昔から住んでいた人が言っていた、いわば口頭伝承だ。もちろん、根拠がある話ではないが、これまでの経験値でそうした話になってたという。そのため、荒浜が津波被害にあうとは思っていなかったようだ。<br /><br />「まさか、津波でこうなるとは思っていなかった。ただ、いつもと違う地震だったので、本能的に逃げたんだろうと思うんです。だから、近所の方々も一緒にリックサックを背負って逃げたんだと思います。ただ、誰も出てこない家もありました。昔から、ここには津波がこない、という信念を持っていた方は、家から出なかったんですね」（てる子さん）<br /><br />　津波情報は消防車のアナウンスだが、この地震の規模をする手段は、体感以外にはあったのだろうか。てる子さんは地震後、テレビをつけていない。佳子さんは携帯電話の地震警報で「宮城県沖で地震」というのを知った。しかし、どのくらいの津波がくるのかは消防車とすれ違うまでわからないでいた。<br /><br />「６mの津波と知ったときには、それなら車でもっと遠くへ逃げたほうがよかったと思ったんですけど、戻ったら、津波に飲まれると思ったので、とりあえず、小学校へ上がったんです。それからどれくらい経ってからだろうか、津波が来たんです」（佳子さん）<br /><br />　畠山さん一家の３人が荒浜小学校へ来てから津波がくるが、てる子さんはその間の時間を７～８分くたらいと感じている。<br /><br />「４階にいたんですけど、３階まで波が押し寄せて、家も倒れて来て。みんあが、ウワァー、ウワァー、と叫んでいました。もう助からないと思いました。みんな、波に飲まれるんじゃないかと思いました」（てる子さん）<br />「その後、もっと高い津波がくるかもしれないということで、みんなで屋上まで逃げました。屋上まであがって、津波がくるのを見ていました」（佳子さん）<br /><br /><br /><span style="font-size:150%;"><strong>■屋上からの光景はまるで映画のようだった</strong></span><br /><br />　屋上にあがると、津波が荒浜の防潮林の役割を果たしている松林を越えた。見ていた津波を３人はこう表現した。<br /><br />「映画のスクリーンのようだった」（てる子さん）<br />「ディープ・インパクトみたいだった」（佳子さん）<br />（手を移動させながら）「ざーって」（颯太くん）<br /><br />　避難する際、家族や近所に声をかける余裕はあったのだろうか。<br /><br />「もうお隣はいなかった。平日だったじゃないですか。友達は働いている時間だったので、家にはいないだろうと思ったんです。だから、子どもを母を連れて、避難したんです。姉（次女）は出かけていました。メールを送ったのですが、返信がなかったので、もしかして、戻ってくる途中に巻き込まれたんじゃないかと思って、心配していましたが、次の日に、もう１人の姉（長女）を通じて無事だと分かったんです。お父さんは一番上の姉のところに行っていたみたいです」（佳子さん）<br /><br />「夫も出かけていたので、波に飲まれてしまったんじゃないかと思ったのですが、助かりました。一時は、夫と次女はどうなったかと心配しました。電話もつながりませんでした。三日経って無事だと分かったんです」（てる子さん）<br /><br />　佳子さんからみれば父親、てる子さんからは夫は地震があったときに、七郷小学校に避難した。一時間後、長女が住む利府町のほうへ避難していた。しかし、携帯電話の電波が通じないことから、てる子さんも佳子さんも心配していた。<br />　ただ、近所の車いすの女性が亡くなった連絡があったという。<br /><br />「近所に車いすのおばあちゃんがいるんです。でも、見かけなかったので、もしかして、誰かが逃がしたのかな？と思ったんです。朝から介護施設に行って、午後に帰ってくることもあるんです。だから、どうかな？と思って。後ろのお墓の石も羽織れていましたんで、私たちも危ないと思って、近所の方が避難するのと一緒に逃げたんです。近所の方が亡くなったと昨日（3月20日）、電話があったんです。そのときは本当にびっくりしましたね。回覧板を回す仲だったんです。怖いながらも、家にいたんじゃないか。家族の人も見かけていなかったといいます。警察から、詳しいこと聞きたいと言われたんですけどね」（てる子さん）<br /><br />　一方、沿岸部に戻る人もなかにはいた。その中に佳子さんの友達もいたようだ。　<br /><br />「地元の友達で、看護婦さんをしている子がいるんです。その日も仕事かな、と思って。でも、何日か連絡がなかったんです。メールしていたのですが、なかなか返事がなかった。しばらくしたら連絡があったんです。その日は仕事が休みだったが、お父さんを助けようと思って家に戻った。家を出ようとしたら、津波がきたようでした。一日くらい、家の中にいたんですが、翌日、助けられたみたいです」（佳子さん）<br />　</div>
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11641/b8453b73d955a0736c42119d12431ed64e588112.jpg" data-image_id="11641" alt="b8453b73d955a0736c42119d12431ed64e588112" height="321" width="240" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">一時避難所になった荒浜小学校。教室の黒板<br />には「こんなときこそ思いやりと感謝」と書<br />かれていた（2011年4月27日）　　　　　　</span></div>
　<br /><br /><div style="text-align:left;"><span style="font-size:150%;">■救助のヘリはなかなか来ない</span> <br />　救助のヘリはなかなか来なかった。広大な津波被災だから仕方がない。第一便が着たのは津波がやってきて1時間ぐらいだったという。<br /><br />「最初は溺れている人を助けないといけないというので、なかなか来ない。こちらとしても、また津波があって学校まで着たら小学生とかみんな大変になると思って気が気じゃなかったんです。運ばれるときも、小学生以上は親子別々でヘリで運ばれたんです。小学生、中学生、次はお年寄り……という順でした」（佳子さん）<br /><br />　ヘリで救助されるときは、トリアージされた。つまり、救助の際の優先順位が設けられたのだ。こうした緊急事態ではよくあることだ。しかし、当事者からすれば、様々な不安が頭をよぎるのも事実だ。<br /><br />「だから、このまま親子も離ればなれになるんじゃないかという不安もあったんです。小学生の低学年から先に運ばれて行ったんです。まあ、颯太はいつも抱っこして寝ている状態ですから、このまま別の避難所に運ばれたら、と思うと心配だった。学校としては、先生が側にいるということだったんですけど」（てる子さん）<br /><br />　順番を待っていると、徐々に10人乗りのヘリがやってきたりしていた。そのときは３人乗りのヘリだった。一晩は、颯太くんは家族がいない状態で過ごすことになった。<br /><br />「せめて1、2年生だけでも親と一緒に、とお願いしたんですが、そこは聞いてもらえませんでしたよ」（てる子さん）<br /><br />　ヘリに乗るとき、颯太くんは「ちょっと怖かった」という。そして、母親と祖母と離れることになったために「寂しかった」と話す。<br /><br />「子どもがヘリに乗ったのは当日の夜中。私たちがヘリに乗ったのは翌日の夕方でした。運ばれた先の自衛隊で再開して、この学校に避難してきたんです」（佳子さん）<br /><br />　八軒中学校は避難所になっていた。畳もあったために、暖を取ることができていた。本部は床のままだが、避難所になっている各教室には畳が敷かれていた。<br /><br />「それだけでもうれしかったですね」（てる子さん）<br />「ヘリを待っている間は夜も眠れなかった。ここに着いてからは暖かいし、疲れてていたので、ぐっすり眠れました。でも、地震がなかなか治まらないですね」（佳子さん）<br /><br />　余震も心配だった。そのため、もし大きな地震があったら、避難をする際、親子が離ればなれになってしまうのではないかとも感じている。こうした短期的な心配はASD（Acute Stress Disorder、急性心的外傷性ストレス障害）と言うが、その症状は様々だ。思い出したり、悪夢を見る追体験が起きたり、逆に関連する事柄を避けようとする回避、あるいは、神経が高ぶって、不安や不眠にあらわれる過覚醒がある。ただ、親子の再会が早かったために、過覚醒もそれほど深刻ではないように見受けられた。その一方で、子どもが以前よりも甘える傾向にあるというのは気になる点だ。<br />　<br />「今日も余震が３回あったかな」（佳子さん）<br />「ちょっと買い物に出かけるとしても、また地震があって、今度は離ればなれになるんじゃないかと心配です。これまで聞き分けのよい子だったんです。でも、ここにいれば、お母さんとべったりで甘えられるからか。よく甘えています。ただ、ちょっと甘え過ぎかな、、みたいな。ストレスもたまっているんでしょうし、友達との交流もありませんから」（てる子さん）<br /><br />　この避難所には小学生が少ない。だからというのもあり、同年代の子どもとの交流がほとんどない。だからこそ、母親に甘えてしまうのか。震災から10日後、颯太くんは母親の側にいるしかないかった。<br />　<br /><hr />　</div>
<div style="text-align:left;"><span>［取材］渋井哲也（しぶい・てつや）<br /> 1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」（河出書房新社）など。ビジネスメディア「誠」（ <a target="_blank" href="http://bizmakoto.jp/">http://bizmakoto.jp/</a> ）で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">渋井哲也の「てっちゃんネル」</a> <br /><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui</a><br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第4話】福島県南相馬市／お金も通帳も津波で流されて、わずかな現金でこれからどうなるのか……]]></title>
                <description><![CDATA[<p>2011年3月26日、南相馬市の原町第一小学校の避難所には、92人の人々が避難生活を送っていた。その多くは60歳以上の高齢者たち。地震と津波の被害だけでなく、原発事故の影響もあって混乱していた同市は、7万人いた住民が約1万人しか残っていないと言われていた。その避難所で出会った黒沢さんは、夫や娘が行方不明であるにも関わらず、明るく振る舞って避難所の炊き出しなどを積極的に手伝っていた。取材者：渡部真</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19014</link>
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                <pubDate>Sat, 24 Nov 2012 21:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[福島県]]></category>
                <category><![CDATA[南相馬市]]></category>
                <category><![CDATA[小高]]></category>
                <category><![CDATA[原町]]></category>
                <category><![CDATA[原町第一小]]></category>
                <category><![CDATA[避難所]]></category>
                <category><![CDATA[渡部真]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>2011年3月26日、南相馬市の原町第一小学校の避難所には、92人の人々が避難生活を送っていた。その多くは60歳以上の高齢者たち。地震と津波の被害だけでなく、原発事故の影響もあって混乱していた同市は、7万人いた住民が約1万人しか残っていないと言われていた。その避難所で出会った黒沢さんは、夫や娘が行方不明であるにも関わらず、明るく振る舞って避難所の炊き出しなどを積極的に手伝っていた</strong></span><span><strong>。</strong></span><span><strong><span><strong></strong></span></strong></span><span><br /><br />取材者：渡部真</span><span><br />取材日：2011年3月26日<br /></span></div>
<hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11609/4d326f256bece3a6f95e4034788f2f971f1880fb.jpg" data-image_id="11609" alt="4d326f256bece3a6f95e4034788f2f971f1880fb" height="240" width="320" />　</div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">写真左が黒沢よしこさん</span></div>
<div style="text-align:left;"><br />　大地震と大津波が東日本各地を襲ってから約2週間後、3月26日、筆者は福島県南相馬市で取材した。<br />　当時の南相馬市は、東京電力・福島第一原発の事故の影響で混乱していた。震災前には約7万人だった住民は、原発事故による放射能の影響を恐れ市外や県外に避難し、市内には1万人程度しか残っていないと言われていた。何よりも深刻だったのは、こうした放射能の影響について正確な情報が行き届かず、本来は届くはずの支援物資が避難所に届かず、支援物資を運ぶ運送トラックが隣接する相馬市や新地町に物資をおいていってしまう事態だった。市の広報担当者は、22日になって支援物資などが届くようになり、避難者の食事などもようやく十分に支給できるようになったと語っていた。<br /><br />　南相馬市は、原発事故の影響だけでなく、津波の被害も大きかった。津波による死者・行方不明者は約600人と言われ、家屋の被害も全壊・半壊合計で約1500世帯にのぼる。津波から避難した人たちだけでも数千人規模の避難者がいたにも関わらず、3月末の時点で、市内には2つの避難所しかなかった。そのうちの一つ、南相馬市立原町第一小学校を訪れた。<br />　避難所にいた南相馬市の職員によると、この日の段階で92人がこの小学校に避難していた。その多くは高齢者、最高で90歳の方もいた。原町区の津波被害によって家を流された人や、原発事故の影響で避難指示が出された「20キロ圏内」の人など、様々な事情で地元を離れる事の出来ない人たちだった。<br /><br />　この避難所の炊き出しなどを、職員たちに混じって積極的に手伝っていた黒沢よしこさん（当時70歳）に話を聞いた。黒沢さんは、震災前には、夫、2人の息子、娘、もう一人の娘夫婦や孫など9人家族だったが、夫と娘が行方不明だった（同年６月の段階で、夫も娘も行方不明のまま）。<br />　以下、黒沢さんの語りをそのままお伝えする。</div>
<div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;">＊　　＊　　＊　　＊　　＊</div>
<div style="text-align:left;"><br />　自宅は、南相馬市小高区井田川地区にありました。地震があったとき、私は買い物に出ていたんです。夕飯の仕度をしに、小高の市街地に買い物に行ってたんです。買い物の帰りに、小学生の孫を迎えにいきながら帰ってきたんですけど見つからなくて、自宅に戻ろうかと思った時に地震があったんです。<br /><br />　自宅は国道6号線を海の方に少し下ったところなんですけど、車を運転して自宅に戻る最中に、もう水が流れてきていたんで、自宅まで戻れなかったんです。<br />　海の方を見ると、最初は竜巻みたいに黒い波がこう登ってたんですよ。私は「竜巻かな?」と思ってたんですけど、下見たら、波と一緒に屋根の瓦が流れてきたくるんで、「こりゃ大変だぁ」と思って……。そしたら、今度は、洗濯機だとか、コンバンインだとか、冷蔵庫だとか、日常使っているものが流れてくる。あと、でっかい木も一緒になって、ゴロゴロゴロゴロって言いながら流れてくるんですよ。<br /><br /></div>
　
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11610/6a5e7d8328b2851ee8c74aad12e3d95ce1c1ee8a.jpg" data-image_id="11610" alt="6a5e7d8328b2851ee8c74aad12e3d95ce1c1ee8a" height="240" width="321" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">2011年3月26日、南相馬市原町区下渋佐地区。<br />南相馬市の沿岸部の多くは津波で大きな被害を受けたが。<br />原発事故の影響で高圧電線が垂れ下がったまま放置されていた。　</span></div>
<div style="text-align:center;">　<br /><br /></div>
<div style="text-align:left;">　私は怖くなって、「これは家はもう流されてる」って思ったんで、今度は、6号線を逆の方に向かって、すごいスピードで逃げたんですよ。80キロくらいで、同じ小高にいる姉の家に行ったんです。そしたら姉は、余震で揺れている家の中で、一所懸命片付けしてました。<br />　私は姉に向かって「ダメだー!」って大きな声で言って、姉の手を引っ張って車に無理矢理乗せて、姉の家にあった布団を積んで、孫が通ってる中学校に向かったんです。<br />　中学校に着いても孫たちは見つからなくて、そのまま夜まで学校で車を停めて待ってたら、突然、「婆ちゃん、いたー!」って、孫が震えながら声かけてくれて、ようやく再会できたんです。どこかに私がいるんじゃないかって、車を一台一台探してくれたんですって。<br /><br />　その孫と姉を車に乗せたんですけど、夜になったら雪が降ってきて寒くなってきたんで、孫に布団をかぶせて、その上にナイロンをかぶせて……。<br />　9人家族だったけど、見つかったのは孫だけ。だからうちの旦那がどこにいるかと思ってね、夜中の12時頃、浦尻公会堂（南相馬市小高区）まで見に行ったんです。停電で街灯もなくて、道路は真っ暗で何も見えなかった。地震で道路が崩れて、ガタン、ガタンって車が音をたてるんだけど、無理矢理浦尻まで走ってったんです。でも、旦那はいなくてね。<br /><br />　浦尻公会堂で朝を迎えて外を見てみたら、浦尻も井田川も、何もなくなってて……。波返し（防潮堤）も家も何もなくなってて全滅。海になってた。<br />　そしたら、沿岸部の浦尻公会堂は危ないっていうんで、金房小学校（小高の市街地の西側にある）に避難しなさいって言われたんです。金房小学校に行っても、やっぱりうちの旦那はいなくてね。でも、2人の息子たちと金房小学校で再開する事ができたんです。「あぁ、良かったなぁ」って。<br /><br />　この金房小学校で、近所の人が「旦那の車を見つけたよ。車の中にヘルメットがあって黒沢って書いてあった。津波に呑まれなくて良かったなぁ」って言われたんでね。どっかに生きてるんだなって思ってたんですけど、未だに見つからないんです。夜の森（南相馬市原町区）で倉庫番してたんですけど、地震があって自宅に戻ろうとしたらしいんですね。小高の蛯沢稲荷神社まできたら、津波が来てて、そこに車を停めて、歩いて自宅まで行ったみたいです。車にはちゃんと鍵がかかってたんで、そこまでは旦那も生きていたんしょうね。<br /><br />　もう一人、家で留守番していた娘（42歳）も、未だ見つからないんですよ。独身だったんで、私の田んぼの手伝いとかしててくれたんだけどね。<br />　うちの隣りの人が、旦那と娘に「早く車乗れ!」って声かけてくれたらしいんだけど、「倒れた灯油缶を直してから行くから、先に行け」って言われたんだって。ズルズルしていて、流されたんだな。<br /><br />　この避難所（原町第一小学校）に来て、旦那と42歳の娘以外の家族たちとようやく会えてね。旦那と娘は行方不明ってことになってるけど、たぶん津波に流されたんじゃないかって思ってるんですよ。でも、どっかに生きてねえかなって信じてる気持ちもあるんです。車止めたところで、誰かの車に乗せられて、新潟かどっかに避難してるとかね。<br />　旦那も娘もね、一度も病院行ったことないんですよ。ずっと元気だったんだけどね。<br />　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11612/75481d393893ac73a2058bbef3d73090b05f136b.jpg" data-image_id="11612" alt="75481d393893ac73a2058bbef3d73090b05f136b" height="320" width="240" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">地震の影響で鳥居や建造物が倒れてしまった蝦沢稲荷神社<br />　</span></div>
<div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:left;">　うちの旦那は、原発で働いていたんですよ。でも定年になってね、70歳過ぎて倉庫番をしてたんです。<br />　私ら、原発で食べさせてもらってたからね。ありがたい事はありがたかったけど、やっぱり恐いって思いは、ずうっとあったんだよね。昔は「原発の中で働いていると、変な子どもが産まれる」なんて言われて。でも、子ども達も無事に育って、何にも原発の影響とかなくて、子ども達も大人になってるから。<br />　小高は、放射能の数字（放射線量）も低いでしょ。原発の事故がなければ、すぐにでも帰れるんだよ。こんなして避難生活なんてしなくてもね。<br />　旦那も、ずっと一所懸命、原発で働いて、ようやく退職したと思ったら津波で流されちゃったからね。<br /><br />　私ら、井田川の干拓で入ってきたから、最初は苦労してね。干拓する時、胸のとこまで入ってきて、そうやって田んぼ作ったんですよ。すごい酷い田んぼだったんだから。<br />　稲を刈るときだって、普通に入ったら泥のなかに入っちゃうから、田んぼの中を舟で入って、すンごい高い下駄履いて、それでようやく稲刈りしたんだから。そういう田んぼだったんだ。<br /><br />　それが今は、足のところまでしか入らなくなって、コンバインも入るようになって、ちゃんと田んぼになったのに、また全部海になってしまったね。<br />　何も不自由なく暮らしていたのに、突然全部なくなってしまったね。浦尻とか井田川っていうのは、開拓して入ったから新しい家が多かったのに、何もない。私らの部落の人たちも、何人も亡くなったり見つからなかったりしてる。<br /><br /></div>
<div><center><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11611/687f183c6e706724dc1a7904ca26eb9fdc1d3f8b.jpg" data-image_id="11611" alt="687f183c6e706724dc1a7904ca26eb9fdc1d3f8b" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">2011年3月26日、避難所となっていた原町第一小学校の体育館　</span></div>
<div style="text-align:left;"><br />　私がここにきた時、この避難所には24人しかいなかったのね。いまは80人か90人かいるけど、少しずつ増えてきた。私の家族は新潟とかに避難する事になったんですけど、一人暮らしの姉と「新潟とか行きたくないね。ここに、いよう」って言って、2人でこっちに残る事にしたんです。そしたら、2人の息子も残ってくれて、娘夫婦と孫たちは新潟に避難しています。<br />　私、心臓が悪いんで、黙っていると体に悪いんで、話聞いてくれる人がいると、こうやって話をしてるんですよ。あとね、最近になって支援物資の米が届くようになったからね、朝晩と暖かいご飯を炊けるようになったんです。やっぱり温かいご飯は美味しいからね。<br /><br />　この避難所で今困っているのは下着。昨日、この避難所に来て10日以上経って、私たち皆ようやくお風呂に入って着替えができたの。下着とか靴下とか、そういうものは届かないんですよね。<br /><br />　私ね、毎月20万円くらい銀行から降ろして自宅に置いてあったんだけど、そこから買い物に出る時に1万円くらい財布に入れて出ちゃったから、現金は全部流されちゃった。通帳も何も流されてしまったからね。だから、いま、お金がぜんぜんないのよ。家族たちも、同じようなもんだったから、皆、お金持ってないんだよ。<br />　お風呂はいるって言っても、近所のお風呂屋さんに行けば一人500円くらいかかるんで、「風呂なんて入らなくても死なないから」って、我慢してたんだよね。そしたら、避難所の職員さんが、車で遠くの施設に連れてってくれて、そこでようやく風呂に入れたんですよ。持ってる金が少ないから、お風呂で500円使うわけにはいかないんだよね。<br /><br />　これからどうなるか、まだ何も分かんないからね。この避難所を出て行けって言われたら、とりあえず車はあるからね。小高にある姉の家は、地震で壊れたけど、まだ何とか建ってるから、私たち追い出されたら、そこに行こうかなって。でも、小高は原発から近いからって、まだ帰る事ができないんだよね。<br />　どうなるんだかね。<br /><span></span><br /><br /></div>
<span style="font-size:80%;">【参考動画】2011年3月26日／原町第一小避難所</span><br /><iframe src="https://ext.nicovideo.jp/thumb/1353975501" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" >http://www.nicovideo.jp/watch/1353975501</iframe><br /><br /><hr /><div style="text-align:left;">　<br /><span>［取材］渡部真（わたべ・まこと）<br /> 1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」</a><br /><a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp">http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp</a><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui"></a><br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第3話】宮城県気仙沼市／住みやすいし、魚も美味しいから気仙沼に帰ってきた]]></title>
                <description><![CDATA[<p>震災当時、茨城県で大学生をしていた小野寺明日菜さん。卒業後の就職先は、津波被害で大きな影響があった気仙沼市。震災の影響で２か月遅れとなった入社式に立った小野寺さんは、社会人としてのスタートを被災地で迎えた。取材者：島田健弘</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar18371</link>
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                <pubDate>Fri, 23 Nov 2012 20:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[気仙沼市]]></category>
                <category><![CDATA[ホテル観洋]]></category>
                <category><![CDATA[島田健弘]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>震災当時、茨城県で大学生をしていた小野寺明日菜さん。卒業後の就職先は、津波被害で大きな影響があった気仙沼市。震災の影響で２か月遅れとなった入社式に立った小野寺さんは、社会人としてのスタートを被災地で迎えた。</strong><br /><br />取材者：島田健弘</span><span></span><br /><span>取材日：2011年9月12日</span></div>
<hr /><div style="text-align:left;"><br /><strong><span style="font-size:150%;">■プロローグ……3ヵ月遅れの入社式</span></strong><br /><span style="font-size:100%;">　</span><br />「無事入社の日を迎え、感謝と安心の気持ちでいっぱいです。採用を取り消さない決断に感謝しています。私たちにできることは一日も早い会社や地域の復興と活性化に力を尽くすことです。一日も早く三陸の商品を全国に届け、震災に負けない気持ちを発信したいです」<br />　これは2011年5月28日、株式会社阿部長商店の平成23年度入社式で代表してあいさつをおこなった小野寺明日菜さん（23）の言葉だ。小野寺さんは現在、経営企画室で先輩社員の指導のもと、必死で仕事を覚えている真っ最中だ。<br />　阿部長商店の入社式は同社が経営する宮城県南三陸町の「南三陸ホテル観洋」で開かれた。阿部長商店は震災により業務のほとんどが停止しても、社員の雇用を守り、内定の取り消しもしなかった。2011年の新入社員は30名。小野寺さんはその代表としてあいさつをした。<br />「入社の案内がきて、入社の意思がありますと返事をしたら、入社式で代表あいさつをしてほしいと連絡が来ました。私を指名した理由はわからなくて、ただ頼みやすかったのかなと思うんですけど……。この時は例年にないくらいの報道陣が集まったらしくて、すごく緊張しました」<br />　小野寺さんは震災当時、卒業式を待つばかりの大学生だった。地震を、気仙沼ではなく、通っていた大学のある茨城県で体験した。<br /><br />　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11139/ba2fb07f0c96f592bdf2888fe31d720990d5b65b.jpg" data-image_id="11139" alt="ba2fb07f0c96f592bdf2888fe31d720990d5b65b" height="240" width="321" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;"> あいさつする小野寺さん</span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">◆友達とお別れもできなかった卒業式</span></strong><br /><br />　地震があった日はまだ大学生で、気仙沼にはいませんでした。大学は茨城県にあり、14時46分はちょうどアルバイトをしている居酒屋のお昼のランチの時間が終わって、帰ろうとしていたところでの地震でした。<br />　最初はいつものことかなと思っていたんですけど。だんだん揺れが強くなってきたので、これはまずいと思って外に出たらビルもすごく揺れていました。私のいたところは震度6を記録したそうです。その後、電気が通らなくなったので信号も止まって、テレビも見られなくなって、何の情報も入ってきませんでした。<br />　たまたま、道に停まっていた車の運転手さんがカーナビでテレビを見ていたので、見せてもらったら、「宮城県に大津波警報」だと。実家が気仙沼なので家族は大丈夫かなと思ってケータイで連絡しても通じなくて、すごく怖かったです。ただメールのほうは繋がって、「いまから避難する」と連絡が来たので、無事は無事なんだなと安心しました。　<br />　そのころは学校の授業も終わっていて、あとは卒業式だけという状態だったんですけど、卒業式はなくなりました。会場になっていた武道館の天井が落ちて使えなくなってしまって、規模を小さくして教室でやることになったんです。袴を着ることも楽しみだったんですけど、レンタルを気仙沼でしたので送ってもらえなかったので、どっちみち着れませんでしたね……。それで3月23日に教室でテストの返却みたいに卒業証書を配られて終わりで、友達とも最後のお別れができませんでした。<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">◆小さいころから何度も行っているところなのに、どこを走っているかわからない</span></strong><br /><br /> 　実家はけっこう海から離れたところにあるんです。それなのに避難するってどういうことなのってびっくりしました。<br />　それからしばらく連絡もとれなくて、テレビを見ると気仙沼は火の海だとか、街が壊滅状態だとか、いい情報がまったくありませんでした。<br />　両親は避難所となっていた気仙沼高校に避難したのは2日間だけだったそうです。ほとんどの避難者は自分の家まで流されてしまった人たちだったようで、家が残っているウチは3日目から家で生活したと言っていました。でも、電気もまだ通じませんし、断水しているし、かなり大変な生活だったようです。<br />　私が気仙沼に戻ってきたのは4月10日です。地元が被災して、引っ越しもできなくなったのに、不動産会社には「次の人が来るからこの日までに出ないと困ります」と言われて、父がトラックで来てくれたので、とりあえず荷物だけを全部詰め込んで引っ越しました。帰ったら、家は無事でしたが床下浸水していました。<br />　一番不安だった時期は、一人暮らしをしていて家族とも連絡がほとんどとれなかったころです。父方の祖母が行方不明だったこともあって、毎日ネットにアップされる避難所のリストを見て名前を探したり、見たくないんですけど、亡くなった人の名前を調べたりしていました。<br />　ただ、帰ってくるまでは探せば見つかるんじゃないかなという気持ちがどこかにあって……。だけど、実際に流された祖母の家に行ってみると、なんにもないんです。お皿の一枚もなくて、柱などがガレキの山になっていてどこを探していいのかわかりませんでした。<br />　行方不明になっている人が見つからないのも、これではしょうがないなと帰ってから実感しました。祖母の写真は昔のウチにあった何枚かしか残っていないんですよね。<br />　まだ祖母は見つかっていないんですけど、区切りをつけようという祖父の意向で、7月の後半にお葬式をあげました。<br />　私は小さいころから海が大好きで、夏でも冬でもふと海に行きたいなと思う時があるんです。その祖母の家が大谷海水浴場のそばだったので、小さいころから毎年夏は必ず行っていました。大学生になっても、帰省のたびに遊びに行っていました。<br />　車で行ったんですけど、小さいころから何度も行っているところだったのに、あまりの景色の変わりように、今どこを走っているかわからないんです。まだ道路のガレキが除かれただけの時期だったので、Uターンもなかなかできないし、ガレキ以外はなにもないし……。それから、もうあそこには行っていません。<br /><br /></div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11140/e8013e414f1b75bc38b2b03c0de9ceef20635238.jpg" data-image_id="11140" alt="e8013e414f1b75bc38b2b03c0de9ceef20635238" height="240" width="320" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">小野寺明日菜さん（撮影：二村晃弘）</span></div>
<div style="text-align:left;"><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">◆気仙沼のほうが住みやすいし、お魚も美味しい</span></strong><br /><br />　仕事はすでに阿部長商店に内定が決まっていて、今年の2月にも研修旅行でロシアに一週間も連れて行ってもらったりもしました。内定をもらった時、気仙沼での最大手の会社なので、すごく嬉しかったのを覚えています。けど、会社とも連絡がとれなかったのですごく不安でした。メールなら読めるときに読めるだろうと総務部人事課あてに、私は引っ越しが決まらなかったので、もしかしたら入社が遅れるかもしれませんと送ったんです。そうしたら「入社は延期になります」と返事がきて、それからはずっと連絡待ちでした。<br />　待っている間は内定取り消しになるかもという心配もすごくありました。でも、気仙沼に戻ってきて、テレビにたまたま阿部社長が映っていて「雇用は確保する、ひとりも解雇にはしない」と言っていたのを見て、だったら大丈夫かなと思って、入社案内が来たゴールデンウィークまで実家のお手伝いをしながら待っていました。<br />　実家は飲食業ですが、水道が早めに復旧したので、4月1日には再開していました。<br />　就職は気仙沼でするつもりでした。一人暮らしのほうが楽といえば楽でしたけど、気仙沼のほうが住みやすいなと思いました。それに実家も気仙沼だし、いつかは戻ってくるんだろうなとはずっと思っていましたから、気仙沼で仕事を探そうと思うようになっていましたね。<br />　それと大学時代に近所で食べたお魚が全然おいしくなかったんです。気仙沼だったら美味しいお魚がたくさんあるのに、この人たちはなんでこんなに美味しくないお魚を食べてるんだろうとショックをうけました。それで美味しい魚を食べてほしい、みんなに届けたいと思うようになったんですね。<br />　阿部長商店の名前は小さいころからずっと知ってて、大きい会社だということもわかっていましたし、運よく、縁があって内定をいただいたので戻って来ました。<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">◆いま友達が来てもどこに連れて行くんだろうって思っちゃいます</span></strong><br /><br />　復興にはまだまだで、道が通るようなってからはほとんど進んでない気がします。もちろん漁港の町ですから港の復興を最優先でやっていましたから、漁港は復活し、サンマ漁もカツオ漁もはじまりました。震災直後は火事で燃えて真っ黒になった船が打ち上げられていたり、港に船が沈んでいたりしましたから、そのころと比べるとだいぶきれいになったと思います。<br />　でも、生活はまだまだですね。たぶん、復興したと思えるのは観光客が普通に来てくれるようなったらだと思います。いまの状態だと友達が遊びに来てくれても、連れていくところがないんです。特に夜になると真っ暗になるし、若い人が遊ぶところもありません。大学にいたころは「気仙沼はすごくいいところだから、いつかおいでよ」と友達に言っていたんですけど、いま来てもどこに連れて行くんだろうって思っちゃいます。震災以前だったら、夏は大谷海岸で海水浴できるし、気仙沼港にくれば美味しいお魚も食べられるし、案内するところはいくつもあるんですけど、いまはご飯食べるところもないんですからね。<br />　阿部社長が雇用を確保した理由に、いまは工場が被災してほとんど仕事もないけど、工場が再開したときに、経験者がいないとすぐ稼働できないからだと聞きました。内定を取り消さなかったのは、震災があったにもかかわらず気仙沼で仕事をしようという若い力は、今後大事になるからだったと。若い人って本当になにもすることがないんですよ。このままでは仕事がないから、みんなどんどん外にでて人が減っちゃうと思うんです。そうするともっと街が寂しくなるんですね。だからといって外から人を呼ぼうにも仕事も住む場所もない状態で。だから、早く誰でも住みやすい町に復興してくれるといいなって思います。<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">■エピローグ……いろんな所に行ってみたい</span></strong><br /><br />　震災後に阿部長商店が開発した新商品に気仙沼ふかひれスープがある。小野寺さんは入社早々、そのパッケージのデザインや販路を考える部署に配属されたという。ベテランから新人までかかわって開発したふかひれスープの売り上げは好調だそうだ。再開した観光施設「気仙沼お魚いちば」やインタネーネットサイトの「うまい!三陸　気仙沼お魚いちば」では人気商品として販売されている。<br />　しかし、小野寺さんの好みはフカヒレスープよりも、さばの味噌煮だという。さばの味噌煮は「三陸海彩 三陸惣菜詰合せ」として「さんまの生姜煮」「ぶりの生姜煮」「ぶり大根」と一緒に販売されている。<br />　小野寺さんに、これからの夢を聞いた。<br />「これから、国内外問わず、仕事・プライベート問わず、いろんな所に行ってみたいですね。私は旅行が好きで、地図からその国のことを知りたいと思って、大学では人文学部社会科学科で地理学を専攻しました。だから、大学時代も海外旅行を何度かしてたんですね」<br /><br /><br />※フカヒレスープをはじめ阿部長商店の商品は以下のサイトで購入可能です。<br /><a href="http://osakana-ichiba.net/" target="_blank">「うまい!三陸　気仙沼お魚いちば」</a><span><br /><br /></span><hr />　<br /><span>［取材］島田健弘（しまだ・たけひろ）<br /> 1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。<br />　<br /></span></div></p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第2話】宮城県気仙沼市／仕事がなくても従業員800人の雇用は絶対に守る！！]]></title>
                <description><![CDATA[<p>宮城県で「サンマリン気仙沼ホテル観洋」などのホテルや、産加工工場、物販センターを経営している阿部長商店グループの社長・阿部泰浩さん。多くの施設を津波で失った阿部長商店グループを、震災の中でどのように導いたのか……取材者：島田健弘</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar18369</link>
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                <pubDate>Thu, 22 Nov 2012 19:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[気仙沼市]]></category>
                <category><![CDATA[ホテル観洋]]></category>
                <category><![CDATA[島田健弘]]></category>
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                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>宮城県で「サンマリン気仙沼ホテル観洋」などのホテルや、産加工工場、物販センターを経営している阿部長商店グループの社長・阿部泰浩さん。多くの施設を津波で失った阿部長商店グループを、震災の中でどのように導いたのか……</strong><br /><br />取材者：島田健弘</span><span><br />取材日：2011年9月12日<br /></span><hr /></div>
<div style="text-align:center;"><br /> 　<br /><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11134/6522ff15a51bfc059e449d242af756a138807d1b.jpg" data-image_id="11134" alt="6522ff15a51bfc059e449d242af756a138807d1b" height="321" width="240" /><br /><br /><br /></div>
<div style="text-align:left;"><strong><span style="font-size:150%;">■震災当日は絶望しかなかった</span></strong><br /><br />　宮城県気仙沼市、南三陸町、石巻市、岩手県大船渡市で水産加工工場、物販センター、ホテルなどを経営している阿部長商店グループは、今回の震災で気仙沼市内9つの水産・食品加工工場・冷蔵施設のうち8つを津波で流失した。<br /><br />　自社工場が巨大な津波に飲まれているとき、社長の阿部泰浩さん（47）は中国の上海にいた。ホテルのテレビで津波と炎に飲み込まれている気仙沼を見た時、「絶望しかなかった」という。日本とは連絡がとれず、気仙沼に戻れたのは3日後だった。<br />　重油とガレキとヘドロにまみれた気仙沼に戻り、すべてが失われたと思っていた阿部さんが目にしたのは、同社が運営する「サンマリン気仙沼ホテル観洋」と「気仙沼プラザホテル」だった。<br /><br />「それを見て希望が差し込みました。何もかも失ったと思っていたけど、そうではなかった。無事なホテルを見て、まだ立ち直れると思ったんです」<br /><br />　しかし阿部さんが確認できたのはホテルの無事だけ。気仙沼に帰ったのが夜だったこともあり、被害の様子はまだ確認できなかった。<br /><br />「その日はホテルが無事だったから、従業員は無事なんだろうなとは思いました。しかし、あとはまったくわからない状況でした。工場も市内に6つあるけど、全部みることもできませんでした。大船渡の工場、南三陸の工場、石巻の工場、おのおのがどうなっているのかという情報はまったくなかったですね。ひとつひとつ自分の目で確認しなければいけないと思って、翌日から気仙沼市内の工場を回ってみると、思っていた以上に壊れていました。でも、そのころはテレビ取材が密着してたからあまり落胆できないし、随分気を張り詰めていたというか、感情を表に出すこともできなかったというか……。でも、それがよかったかもしれないなと思いますね」<br /><br />　ホテル観洋はそのまま阿部さんを含めた従業員と地元被災者の避難所となった。従業員全員の生存を確認できたのはそれから一週間。奇跡的にほとんどの生存が確認できた。<br />　上海で震災を知り、帰国の途中、阿部さんは父・阿部泰兒さんの落ち込みを心配していた。同社は1961（昭和36）年に泰兒さんが気仙沼市で鮮魚仲買業を創業し、育てた会社だった。<br /><br />「一代で連結の売上が200億円を突破する企業にして、それがほとんど壊されたんです。きっと落ち込んでるんだろうなと思ったら逆で、一番元気でした」<br /><br />　歌津町（現南三陸町）出身の泰兒さんは母（阿部さんの祖母）のお腹の中で1933年の三陸地震を経験していたという。さらにチリ地震でも店舗を壊された経験を持つ。それが泰兒さんが元気な理由だった。<br /><br />「親父が店舗を津波で流されるのはこれが2度目なんですね。父は歌津の小さな浜の育ちで昔から漁業やってた家に生まれ、13人兄弟の12番目だったそうです。結婚する前に南三陸町の志津川で魚の小売店をやっていて、二店舗くらいまで増やしたと聞いていますが、それが1960年のチリ津波で全部ながされた。そこで無一文になって、それから結婚を機期に気仙沼にでてきて行商からいまの阿部長商店をはじめたのです。そんな父でしたから、『今回は全部流されたわけじゃないだろ』と。それで僕も楽になりましたね」<br /><br /><br /><strong><span style="font-size:150%;">■震災を経験しはじめて社長業を意識した</span></strong><br /><br />　阿部さんは幼稚園のころから家業を継ぐものと思ってきた。<br /><br />「幼稚園のころから何になりたいかと聞かれるとひとりだけ魚屋って言ってました。ほかは警察官とか野球選手とか言っているのに。何も疑うことなく家業は継ぐものと思っていたんでしょう」<br /><br />　大学は東京。最初の就職先は東京の水産会社だった。福岡の支店などで勤務し、1986年に退社して、同社に就職した。当時は徐々に水産加工の事業を広げていった時期で、その年に石巻市の工場を作り、その翌年には南三陸町に工場を作った。<br /><br />「バブルはじまってちょっとしたくらいの時期でしたから、景気はよかった。帰ってきたばかりだったし、特に意識して仕事をしていたわけではなくて、その時の流れにまかせて仕事をしてきたような気がします」<br /><br />　バブル崩壊後も経営は厳しくなりつつも、水産業のほかにホテル経営などを展開し、同社はいつしか三陸沿岸で有数の企業に成長していた。港町の産業の基本は水産業、食品製造業、水産関係者や観光客が泊まる宿泊業だ。そのすべてを備えた同社は、まさに港町の顔だった。2010年の売上高は連結で200億円にのぼった。しかし阿部さんはこれらの成長は泰兒さんの力によるものだという。<br /><br />「いま思い返せば社長になっても震災前までは社長らしい仕事をしてこなかったかもしれないと思うんです。自分の中では、なんとくこれまでの延長で、決められたことをただやってきたような気がします。私が社長になっても会長が引退したわけではなくバックにはいると思ってたから、特に社長業を意識したというよりは現場的な仕事のほうに比重を置いていたのかもしれません」<br /><br />　2011年は創業50周年にあたる年だった。4月には50周年を記念したお祝いを考えていたが、震災でそれどころではなくなった。会社をどう立て直すか、800人の雇用をどう維持し続けるか。社長である阿部さんには考えることが山ほどあった。<br />　阿部さんは震災を経験し、はじめて社長業を意識した。<br /><br />「経営者としてすべきことは、こんな時だからこそ従業員の雇用を守るということでした。水も食料も電気もありませんでしたが、ホテルは被害も少ないし、いずれ復旧できると思っていました。でも、その時に従業員がいなくては仕事はできません。政府の雇用支援は必ずあるだろうからと、従業員には仕事がなくても給料を払いました」<br /><br />　阿部さんはグループ含め800人におよぶ従業員を誰一人解雇しなかった。雇用を維持するためには休業手当や社会保険料などで月1億円以上かかった。政府からの助成金が降りるのを待ったが、一向にそんな話がない。そのうえ、頼りとする行政からは解雇を勧められた。<br /><br />「『企業負担が少ないのは解雇することです。通常の解雇とは違うので安心して解雇してください』と行政から言われました。『国が面倒みますから、解雇が一番いいですよ』と勧めるわけですよね。それにはすごく違和感をもちました。待てよと。いくら通常の解雇ではないといっても、受け取る立場からみれば会社から必要ないという通告じゃないですか。そんなことしたくありませんでした。でも、いつ事業が再開できるか見通しもなかったんですね。解雇もやむなしという意見をもっていた役員もいました」<br /><br />　結果的に阿部さんは従業員全員の雇用を維持し続けた。<br /><br />「実はその時はなにも計算なんてしてませんでした。誰も解雇したくないという気持ちだけでしたね。震災前は創業50周年のお祝いを4月にやろうと言ってたんですよ。それに震災で信頼関係をなくしたくなかった」<br /><br />　阿部さんの自宅も被災し、同社のホテル住まいを余儀なくされた。阿部さんのように自宅が被災し、ホテルに身を寄せた従業員は少なくなかった。<br /><br />「震災直後は物騒で、非常に治安が悪かった。物取りとかもずいぶん横行したと聞いているし、いつこのホテルが襲われるか、みんなが不安でした。宿泊業はある程度の現金商売でもありますから、本来であれば毎日銀行に預けたりします。しかし、そのころは銀行も被災していたりしたので、まとまった金額をホテルで管理していたのです。だから従業員が交代でロビーで寝泊まりしながら、ガードマンみたいなこともしてもらいました。ほかにもホテルの設備は放っておくと劣化するものも多いので、頻繁に保守管理も交代でやってくれたりしていましたから、従業員とは一つ屋根の下で家族みたいに一か月間ホテル暮らしをしたんです」<br /><br />　阿部さんの従業員を守りたいという決意は、この暮らしで固まった。<br /><br />「この時に生まれた信頼関係は壊したくないし、みんなを職場に戻したいという気持ちも強くなりましたね。それでダメになったらダメになったときに考えようという半分開き直りのような状況でした。だから計算もなにもないんです。計算したら絶対こういう答えにはならないですから。あとは仕事を再開したいという思いですね。再開した時、また新しい人を雇用するのでは、育てる労力がかかるし、気持ちもひとつになれない。でも、いま頑張って会社を支えてくれている人は、経験もあるし、信頼関係もある。彼らにいてもらったほうが断然いいはずなんです。これはいまでも間違いなくベストな選択をした思っています」</div>
<div style="text-align:center;">　　<br /><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11135/4d233c6da0774558949b1f3425304fec02e3a397.jpg" data-image_id="11135" alt="4d233c6da0774558949b1f3425304fec02e3a397" height="240" width="322" /><br /><span style="font-size:80%;">　津波によって破壊された阿部長商店のトラック</span></div>
<div style="text-align:left;">　<br />　</div>
<div style="text-align:left;"><strong><span style="font-size:150%;">■従業員の協力で生まれた大ヒット商品</span></strong><br /><br />　社長の心意気に社員も答えた。<br />　水産部門とホテルの調理部門が共同で同社オリジナルの新商品「ふかひれ濃縮スープ」を開発したのだ。<br />　これまでは水揚げされたカツオやサンマを大量に冷凍保存し、注文に応じて解凍して出荷したり、加工場で干物などの加工品にしたりしていたので、一年を通じて仕事があった。しかし冷蔵庫が被災してしまったいまは、水揚げされた魚を加工することができない。水揚げが少なくなる冬以降の仕事を作らなければならなかったのだ。<br />　ふかひれ濃縮スープはそんな時に誕生した。この新商品は現在は、被災した大船渡食品の2階にあって、浸水を免れた加工場で作られている。大船渡食品は昨年8月に完成したばかりだった。7月24日にホテルや直販店で販売を開始すると、たちまち売り切れ、大ヒット商品となった。<br />　ふかひれ濃縮スープは原料の調合からスープの仕込み、袋詰め、ラベル張りまですべて従業員の手作業でおこなれる。そのため、1日の生産数は2000パックだという。<br />　念願の自社オリジナル商品の開発は、従業員に自信を与えた。<br /><br />「以前から自社開発商品をつくろうという話はありましたが、お付き合いのある納入業者との関係もありなかなかできなかった。けれど、震災で地元メーカーのほとんどの工場が機能を失い、地元の商品がないという状況になってしまいました。いまなら復興の目玉として新しい人気ある商品を作れるかもしれないということになったんです」<br /><br />　発案は従業員から。商品の選定、生産ラインの構築、販促戦略、デザインなど従業員たちが相談しながら開発した。<br /><br />「私が指示したのは納期だけでした。これまで営業は営業、加工場は加工場、販売は販売とそれぞれの部署が独立していて、協力して何かにあたるということはありませんでした。それが震災をきっかけに自分たちで考えて行動しなければ、この町も会社もよくならないという気持ちが芽生えたようで、みんな一所懸命やってくれるようになりました。そういう意味では、会社が変わるひとつのきっかけになりましたね」</div>
　　
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11136/55a27672800787b61e43f2a83d646841369c049f.jpg" data-image_id="11136" alt="55a27672800787b61e43f2a83d646841369c049f" height="240" width="322" /></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">ふかひれ濃縮スープ</span></div>
<div style="text-align:left;">　<br />　<br /><strong><span style="font-size:150%;">■命ある喜びをかみしめて、仕事していきたい</span></strong><br /><br />　阿部さんには「震災前の水産加工業に戻りたくない」という思いがある。危機感は震災前からあった。魚の国内需要は減り続け、2010年の時点でサンマは全国で年間に45万トン水揚げされながら、国内では20万トン強しか消費されていなかった。縮小する国内マーケットに危機感を持っていた阿部さんは海外に売っていかないと将来がないと考えていた。そこで　2005年から、ロシアや中国向けの輸出に力を入れていた。毎年、1年の3分の1は海外出張だった。おかげで同社のサンマの輸出量は、2000年代前半には年間取扱量約1万トンの1割にも満たなかったが、09年には約4割に増やすことができた。<br />　ただ、新たな市場を求めるだけでなく、ユーザーのニーズを掘り起こしていかなければいけないと考えている。<br /><br />「戦後から水産業の流通販売のシステムは変わっていません。川上から川下までの間にいくつか介在する業者がおり、それぞれの連携の悪さもあり、環境の変化に合わせた販路拡大も商品開発もなかなかできませんでした。これから復興に向かう段階になっても、昔ながらのシステムに戻るのでは、水産業は縮小するだけでしょう。自分たちで新しい商品を作り、いろんな企業とパートナーシップを組み販路を築き、同時にBtoBだけではなく、ネットも利用して消費者とも直接取引する。そうすればきめ細かいサービスができる新しい水産業の形が示せるかもしれないと思っています」<br /><br />　水産業ならではの古いしきたり、とは言い過ぎかもしれないが、「暗黙上の役割が決まっていた」（阿部さん）これまでから、経営を変えていかねばならない。<br /><br />「この先は変化に対応できる組織が大事です。そのためには売上よりも利益を求める体質にならないといけません。目標は3年後に震災前の規模に戻し、減収しても前年増益するという体質にしていきたいですね」<br /><br />　その変化のきっかけを震災は与えてくれた。<br /><br />「震災前までは僕も従業員もホテルはホテル、水産は水産というスタンスでやって来ていましたから、それを融合させるということがなかなかできませんでした。それが震災を経験し、各々の従業員が会社全体を考えながら自律的な仕事をするようになってきたのです。気仙沼の産業は津波でほぼ壊滅しました。そういう意味で我われはやろうと思えば、どこにでも参入できるわけです。いまは何をやっても誰も悪いと言わないはずです。ですから可能性はまだまだあると思います」<br /><br />　気仙沼は古くから水産業で栄えた町だ。現在においても水産加工業が基幹産業で、それが観光資源にもなっている。<br />　それらの事業を擁する阿部長商店は、いわば気仙沼そのものだ。<br /><br />「地域の方々からの期待は正直感じます。プレッシャーでもあります。震災前までなら自分ひとりでそれを受け止めなければ、と思ったことでしょう。でも、震災を経験して一番感じたのはひとりではなにもできないということです。ひとりではなく、みんなが協力してくれる組織だったら、期待に応えることができると思っています。はっきり言って、人生でこれ以上ないというくらいの体験と勉強をさせてもらいました。命ある喜びを十分かみしめて、仕事していきたいですね」<br /><br />　阿部長商店は2011年の入社式を2か月遅れの5月28日におこなった。現役の従業員だけでなく、将来の従業員を守るため、内定を取り消すこともしなかった。<br />「これだけの大災害があったら、普通はそこから去ろうと思うでしょう。震災後のガレキの山を見たら、ここに住みたいとは思いません。それなのに残ろうとしてくれる若い人はこれからの地域と会社を支えてくれる宝です。必ずいい人材になってくれると思います」<br /><br /><blockquote><strong>阿部泰浩さん（あべ・やすひろ）<br /></strong>１９８６年明治大商卒、宝幸水産（現・宝幸）入社。８７年、父親が経営する阿部長商店に入社し、２００２年１月から社長。47歳。気仙沼市出身。<br /><br /><strong>株式会社阿部長商店<br /></strong>［所在地］宮城県気仙沼市内の脇2－133－3<br />［創業］1961年<br />［従業員数］約800人（グループ企業含む）<br />［資本金］5000万円<br />［事業内容］水産事業・観光事業・不動産事業<br />［ホームページ］ <a target="_blank" title="http://www.abecho.co.jp/" href="http://www.abecho.co.jp/">http://www.abecho.co.jp/<br /></a></blockquote>
※フカヒレスープをはじめ阿部長商店の商品は以下のサイトで購入可能です。
<div><a href="http://osakana-ichiba.net/" target="_blank">「うまい!三陸　気仙沼お魚いちば」</a></div>
<hr />　<br /><span>［取材］島田健弘（しまだ・たけひろ）<br /> 1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。<br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch1396/18369</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【第1話】宮城県仙台市／津波が襲ってから10日後の避難所を訪れた]]></title>
                <description><![CDATA[<p>2011年3月11日、東北を襲った大地震の直後、仙台市若林区荒浜の人たちは、地元の荒浜小学校に一時避難をした。すぐに10メートルを超える津波が襲い、荒浜地区全体を呑み込み、荒浜小学校の校舎は浸水して孤立した。それから10日後、ヘリコプターで救出された人たちが集まっていた避難所を訪ねた。そこには、荒浜にあった町内会の一つで町内会長を務めていた早坂勝良さんがいた。取材者：渋井哲也</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar18376</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar18376</guid>
                <pubDate>Wed, 21 Nov 2012 20:00:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[宮城県]]></category>
                <category><![CDATA[仙台市]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜]]></category>
                <category><![CDATA[荒浜小学校]]></category>
                <category><![CDATA[渋井哲也]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div style="text-align:left;"><span><strong>2011年3月11日、東北を襲った大地震の直後、仙台市若林区荒浜の人たちは、地元の荒浜小学校に一時避難をした。すぐに10メートルを超える津波が襲い、荒浜地区全体を呑み込み、荒浜小学校の校舎は浸水して孤立した。それから</strong></span><span><strong><span><strong>10日後、</strong></span>ヘリコプターで救出された人たちが集まっていた避難所を訪ねた。そこには、荒浜にあった町内会の一つで町内会長を務めていた早坂勝良さんがいた。</strong></span><span><strong><span><strong></strong></span></strong></span><span><br /><br />取材者：渋井哲也</span><span><br />取材日：2011年3月21日<br /></span></div>
<hr /><div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:center;"><img src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11142/1b60485a556b200bd046839e3fdd0256101d7139.jpg" data-image_id="11142" alt="1b60485a556b200bd046839e3fdd0256101d7139" height="238" width="318" />　</div>
<div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:left;">　東日本大震災の発生から10日後の３月21日、私は仙台市内の避難所を取材した。仙台の沿岸から約10キロ離れた八軒中学校の校舎内に行くと、水や食料などの多くの支援物資が山積みになっていた。この避難所の責任者は、仙台市若林区荒浜の５つある町内会の一つで町内会長をしていた早坂勝良さんだった。<br /><br />　「私どもの地域は（宮城県仙台市若林区）荒浜で海岸に接していたところです。仙台市唯一の海水浴場で、深沼海水浴場がありました。夏になりますと、仙台市の住民の方々が夏の涼を求めて集まる海水浴地帯なんです。地名が深沼と荒浜とありますが、同じで、（現在の）仙台市の地名でいうと荒浜というところです。<br />　生まれも荒浜です。子どもの頃から海に飛び込んで、泳いでいました。今も地域の愛着なり、あるいは、海に対する気持ちはある。まさか、こういう形になるとは思っていませんでした。浜の恵みをいただいて生活していた方々、漁業と、陸の恵みをいただいて生活をしていた方々、米づくり、畑づくりをしていた農業と、あの地域は半農半漁という地域だったんです。ところが、漁業はだんだん廃れてきたんです。以前は、あの浜辺から船が出ていたんです。それも時代とともになくなった。農業の方は一瞬にして再起不能の状態になっています」<br /><br />　仙台市荒浜地区は、仙台市の南東部に位置している。江戸時代から明治時代にかけて運河が一続きになった「貞山運河」がある。仙台藩の伊達政宗が最初に開削を命じたものだ。約６０キロにも及ぶ日本最長の運河だ。海岸には深沼海水浴場があり、多くの仙台市民が訪れる場所にもなっている。その海岸には数メートルの堤防がある。住宅地との間には海岸防災林としての松林があった。<br /><br />　「あの地域は堤防で津波が来ないようにしている。ところが、津波によって完全に川と一緒になってしまった。海の水が引くと、引き潮となり、海と川が同じになってしまった。槌が流されて、土手も松林もなくなったんです。松の木を投げ倒した。<br />　貞山運河という川があります。伊達政宗が物資を運ぶために、北上のほうから亘理のほうまで掘った運河がある。大きな津波がきても、ここで止まるだろうとは思っていた。こっちまでこないと思っていた。私の家は、運河から内陸側になる。そこで昔、水浴びをし、貝を採ったりしていた。最近では、川があふれたり、水が汚れたりしていた。その川と、やっぱり、海は私達の心のふるさとだと思います。荒浜から海をとったら、何もないわけですから。<br />　私の家は、学校から見ると、土台しかない。屋根もなにもない。見に行っても土台しかない。もう諦めしかない。でも、みんな家がない。影も形もない。そういうのに、浸っている暇はない。同じような状況の方々と一緒にやっていくしかない。<br />　まだ家には行っていない。見に行くのなら、ここに避難しているみなさんも一緒。私だけ単独で行くというのも、ちょっとはばかる。また、実際、行くのも自転車しかない。行政側が、マイクロバスを用意してくれればいいとは思うが、それはない」<br /><br />　中央防災会議では「想定宮城県沖地震」を前提にした防災計画を立てるように関係の県には通知している。宮城県沖は数十年に一度大きな地震が襲う。しかし、これほどの大津波は近年にはなく、「仙台平野には津波はこない」といったムードが漂っていた。<br />　例えば、昭和三陸津波（1933年）のときは、仙台市は５m以下だった。2005年の宮城県沖地震でも、津波はほとんど確認されていない。しかし、貞観地震（869年）のときも（当時の海岸線から）内陸へ数キロほど津波がやってきているし、江戸時代でも仙台平野にも津波が襲って来ていることが記録されている。<br /><br />　「だいぶ、大昔には津波はあったけれど、何十年と住みついてきた。津波は松林の近くまできたというのは事実としてありました。しかしながら、あんなものすごい勢いで、いわゆる外国の津波をテレビで見るかのようになものを経験したことはない。防災訓練とか、津波訓練とか、毎年行っています。消防や若林区の主催でやっています。集合場所に集まって、訓練が終わったら、小学校の校庭に来て、壊れた家から人を救出する方法とか、仮設トイレのつくり方とか、あるいは、けがをした人の救助の仕方、人工呼吸の仕方などは参加していた人はしていました」<br /><br />　そんな海岸線で津波が来たときの備えは避難することだ。指定避難所は荒浜小学校だった。<br /><br />　「津波がくるときは、私どもの地域住民は、荒浜小学校に避難する、という「申し合わせ」があります。ですから若林区の区民生活課のほうから津波の警報が起きたときには、指定避難所の荒浜小学校に避難する、ということになっていたのです。それは全戸数に知れ渡っておりました」<br /><br />　住民たちの多くは津波警報が鳴ったとき、小学校へ避難した。また、荒浜新町の住民の中には、小学校よりも近い防災センターに逃げたという人たちもいた。しかし、津波警報が６mと聞くと、２階しかない防災センターでは心配だったこともあり、結局、荒浜小学校へ避難していた。<br /><br />　「津波警報が鳴り、『６mの津波が来ます。すぐに避難してください』という広報がでました。警察や消防関係者ほか、いろんな方々が『とにかく逃げろ』『早く避難しろ』と言っていました。そのため、避難を始めたんです。町内にも警報機があったんです。ラジオでも、NHKだと思いますが、『６mの津波ですから、海岸地帯に一切いかないで、避難してください』と言っていました。<br />　避難する方法としては、（内陸側に）車で逃げるというものと、避難所の荒浜小学校に逃げるの二通りありました。ですから、車で逃げる場合は、相当遠くの方へ逃げることになります。津波という想定を頭に浮かべながら遠くへ逃げようと。そして、小学校はコンクリート造りで、５階が屋上です。６mの津波ですから、屋上まで行かなくても、3階や４階の教室に、三々五々、みんな避難してきたわけです」<br />　</div>
<div><center><img style="margin-left:auto;margin-right:auto;" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11144/dd396a40e0e55d22cb6c503c5637b080e81be419.jpg" data-image_id="11144" alt="dd396a40e0e55d22cb6c503c5637b080e81be419" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">2011年3月22日、瓦礫が散乱する仙台市若林区荒浜地区　</span></div>
<div style="text-align:center;">　</div>
<div style="text-align:left;">　早坂さんは街中にいたため、身の安全は確保できる状態だった。しかし、町内会長としての責任感、使命感からか、街中から海岸線に向かった。つまり、津波に向かうことになったのだ。<br /><br />　「私は地震の時、街中にいたんです。孫と買い物に出かけていました。孫はお店に買い物へ行きましたが、私は車の中にいました。そしたら車がものすごく揺れたんです。『これは大きな地震だ』と思って、車内のラジオをかけたんです。地震や津波の情報を伝えていた。たまたま孫の両親がこちらに向かっていたので、孫を両親に預けたんです。私だけ単独で、荒浜小学校へ向かっていたんです。<br />　町内会長だったものですから、『避難する人たちが、必ず、荒浜小学校に来る』と思ったんです。みんなが車で逃げており、信号などで数珠つなぎになって逃げているところに、逆の海岸に向かって行きました。責任もございましたので。そして、セブンイレブンの駐車場に車を止めて、小学校に入ったんです」<br /><br />　まさに危機一髪だ。セブンイレブンの駐車場ということは、小学校よりもやや内陸部であるが、徒歩で数分の距離。そのセブンイレブンは津波にのまれ、跡形もなくなっていた場所だ。かろうじて、駐車場の跡や建物の残骸などを見ると、「ここにセブンイレブンがあったのか」と想像することができるくらいになっている。もし、遅れていたら、早坂さんも津波に飲まれる可能性があったということだ。<br /><br />　「みんなが避難して来た場所は、普通の民家よりは高いところにあるので、（海岸のほうが）見えるわけです。突然、津波がやってきました。私は津波をこれまでテレビなどの外国の報道で見ておりました。あれよりもまず、見たこともない状態で押し寄せてきました。ものすごい音、バリバリ、バリバリという音と土煙、水煙、それからモノが流される、家が流されているのです。津波の枕、いわゆる津波の先端にいろんなものを巻き込みながらどんどん小学校に向けて押し寄せてきたわけです。<br />　私もそれを眺めていたんですが、『学校に寄って来た。自分たちも危ない』と思い、ベランダから見ていた人たちも中に入り、じっと我慢しておりました。その間、波が通り過ぎていきました。そして一段落したら、それなりに、周りを見たら、水位が高くなっていました。いろんなものが瓦礫となり、車やら、なんやらが学校の周りに浮かんでいました。<br />　私は３階にいたんです。２階にいた人の話では、膝まで津波がきたので、 それ以上くるといけないと、 机に飛び乗ったのです。息を飲むというのはこういうことだと思います。言葉にならなかったですね。我々、何十年と生活してきて、初めての体験じゃないですか。なかには避難しなかった方もいるわけですよ。それはなぜか。こんなに大きな津波がくるわけがない。来たって、これほど大きなものではない。安心というか慢心という気持ちを持たれていた方々もいたんじゃないでしょうか」<br /><br />　荒浜には１０メートルを超える津波がやってきた。海岸防災林の高さを越えてしまっていた。実は、この海岸防災林には、避難に役に立った部分もある。防災林はクロマツだが、津波後も残っている場所がある。倒されなかった場所は過去に盛り土をした上で植林がされたのだ。<br />　一方、海岸の砂に直接植林をしていた場所は、倒れてしまっている。仙台空港付近の北釜地区では、海外防災林が津波から一定程度、住民を守った。それによって避難する時間があった、という。深沼海岸の近くではほとんど残っていない。ほとんどが押し波で倒された格好になっている。そのため、避難は時間との勝負だった。<br />　体育館は全壊している。避難所は小学校の校舎内だけだった。それも２階までは津波によって浸水したため、３階で過ごすしかなかった。<br /><br />　「避難民は区域ごとに別れました。荒浜北、荒浜南、荒浜東、荒浜西、荒浜新町の５区あります。その区域の方々が、教室ごとに別れ、避難することにしていました。暖をとる方法はありませんでしたが、毛布がありました。といっても３人に１枚とか、あるいは２人に１枚という程度だった。毛布の下に段ボールを敷いたりしていました。その段ボールは、もともと毛布を入れたものです」<br /><br />　しかし、荒浜は一体が津波で浸水していた。仙台付近は仙台東部道路が「堤防」の役割を果たし、そこが津波浸水エリアの境界線となった。そのため、広大な被災地域のために、避難している人たちを捜すのに時間がかかっていた。<br /><br /></div>
<div><center><img style="margin-left:auto;margin-right:auto;" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/11143/e58360969a419fb0fd6ca87d0a075ba669427525.jpg" data-image_id="11143" alt="e58360969a419fb0fd6ca87d0a075ba669427525" height="240" width="320" /></center></div>
<div style="text-align:center;"><span style="font-size:80%;">行方不明者の捜索をする警察。2011年3月22日、仙台市若林区荒浜　</span></div>
<div style="text-align:left;"><br />　「だんだん暗くなっていきました。救助隊のヘリが小学校の屋上にやってきました。ヘリコプターで救助だというので、私どもも「やっと救助されるんだなあ」と思ったのです。そのときに、各区の避難民の人数を数えたら、２６３人いました。その人たちを救助をいっぺんにするかというとできません。<br />　そのために、まずは未就学児、小学生、中学生、高校生と、子ども優先にしました。そして、具合の悪い人、障害者、高齢者の女性、高齢者の男性という順にトリアージしました。これがヘリで救助してもらう順番づけです。<br />　その順番でヘリに救助していただくが、ヘリは一機飛んで来て、３人が救助されるといった程度でした。ヘリからロープが降りて来て、救助するのです。それで次のヘリが来るんです。しかし、荒浜だけが被災しているわけではないために、救助ヘリはいろんな避難所を回ってくるんです。<br />　ですから、２時間経って、ヘリがくるという間隔でした。３人救助できるヘリだったり、５人が救助できるヘリのときもありました。２００人以上いるのに、そんな状況です。次のヘリがくるのに２時間、３時間経ちます。そうした中で、私どもは救助されるのを待っていたんです」<br /><br />　津波被災地は仙台市だけではない。岩手県から千葉県までの広大なエリアが被害を受けている。そのため、自衛隊や消防、警察の救助活動は難航している。他の都道府県からの応援で入るものの、津波浸水エリアが広くて、思うように救助が進まない。そのため、孤立した避難所でも、電気や食料がないまま、待つしかなかった。<br /><br />　「子どもたちも寒い。毛布だけではどうにもならない。残っていた先生方は教室のカーテンを外したり、あるいは、暗幕を外したりしながら、子どもたちを廊下に寝かせて暖をとるようにしました。とにかく、教室の中から暖かくなるものを持ち出して、廊下にいる子どもたちに与え、救助を待ったのです」<br /><br />　ようやく救助ヘリが到着する。時間が何時なのかを覚えている人はほとんどいない。「暗くなっていた」ことしかわからない。<br /><br />　「ヘリがくると音がします。「来た！」という声があがります。しかし、まだ子ども達は残っています。「まだ、高校生までいかないの？」とつぶやく声も聞こえました。夜は、寝るに寝れない。着の身着のままですから、大変な状態です。そして、朝方になり、やっと病気の方、高齢者まで回ってきました。救助される方が多くなってきましたが、朝の７時、８時になると、陸路から救助隊がやってきました」<br /><br />　救助ヘリが来ても、避難民全員を救助するには時間がかかる。それだけ、救助活動が拡散していたのだ。そのため、津波による浸水が徐々にひいてきたときに、歩いて避難するグループも出て来た。<br /><br />　「『腰まで濡れても歩ける人、いろんな瓦礫があるので、多少、けがをしてもいいという人、一緒に歩きますから、避難の準備をしてください』と救助隊員が言ったのです。『俺も歩く』『私も歩くわ』。そのとき４０人くらいが名乗り出た。それは、なぜか。ここにいたのでは、一回３時間待ち、４時間待ちです。一日２０人か３０人しか救助されない。それでは何日ここにいるかわからない状態です。<br />　食べ物もアルファ米しかない。アルファ米も温水があれば暖かくなるが、何もない。水はペットボトルしか備蓄がない。あの備蓄水を５０食分のアルファ米に入れましてね。ドクドクと。お米を炊くと１５０分かかりますと。これは腹がすいても止むをえない。乾パンみたいなものはありました。<br />　でも、それをポリポリ食べても、配食されればなくなります。ということで、食糧も限定されているから、それほどない。いつまでいるかもわからない。そしたら、陸路を歩いてでも、避難したほうがいいと判断された方が多かったんじゃないでしょうか」<br /><br />　「これ（長い紐）に伝わって、これに出てください」<br /><br />　救助隊が示す紐を目印しに、４０人ほどが救助されていった。しかし小学校の昇降口は瓦礫の山。昇降口の南も北も簡単には出て行けないような状況だった。材木を片付けて、歩けるような通路を作って、出て行った。<br /><br />　学校内では構内に設置されている消化用ホースが放置されていた場所が多かったが、それは避難用のロープとして使われていたのだ。そのホースに捕まって、歩いて避難する。しかし、海水にぬれることを覚悟できても、足下には何があるかわからない危険な状態ではあった。それにもかかわらず、徒歩で避難したのは、それだけ切羽詰まっていたということになる。<br /><br />　「ヘリで救助されるときは、ブラブラしているもの、手荷物はダメでした。ペットはダメ、という制約があったわけですね。でも、リックサックはいいですよ、ということになった。ヘリでつり上げてもらうために、ブラブラしたものは危険です。そのため、ペットのいる方は後回しです。ただし、犬をだっこすれば脱出できると思った人は、歩いていった人もいました。歩いてもいけないという人は、犬も一緒に残ったのです。<br />　まだまだ救助されない人がいる。午後３時すぎに救助ヘリが来ました。ところが、屋上じゃなく、地面に降りたんです。水が引いて来きたからです。荒浜地区は全滅という風景でした。ヘリコプターはいますぐ全員を救助するという方針になりましたが、残っている人は１２０人ほどいました」<br /><br />　「順次、みなさんを救助します」<br /><br />　救助ヘリからそうした声が聞こえた。翌日には荒浜小学校に避難している人がいることが伝わり、次々にヘリがくるようになった。<br /><br />　「ヘリコプターは次から次へと降りて来たんです。そのヘリには３人乗り、５人乗り、８人乗りのものもありました。どこへ行ったかと思うと、自衛隊の霞目駐屯地です。そこへ行っては降ろし、行っては降ろしの繰り返しをしていたんです。あそこに避難した人は全員救助された。最初は何日かかるかはわかりませんでしたが、そうやって救助されたのです。１２日の夕方、暗くなりかけのころでした。4時半ごろでしょうか。<br />　津波当初は、パニック状態です。電話は全然通じない。携帯電話はだんだん電池がなくなります。そのうち、電池切れです。方法はなにもございません。ヘリで救助されて、八軒中学校に世話になりました。この地域の方々が避難されていました。その方に、「充電器を貸してくれない？」といい、貸していただいて、差し込み口が１０個ぐらいあるものとか、メーカー共通の充電器を貸してもらいました。それを変わる変わるみんなで使っている状態です。だから、当初、連絡手段は何もないんです」<br /><br />　こうしたようやく避難所での生活が落ち着きを取り戻していた。避難所は混乱し、また、緊張や不安でピリピリした空気が漂った。そのため、一部の避難所では、「報道陣立入り禁止」の張り紙まで出されていた。<br /><br />　「もう１０日が経ちます。消息が分かって来て、なかには遺体で発見されたという連絡が入るんです。近所でみんな生活していました。お互いに情報交換しながら、「どこどこの家にお世話になってる」とか入ります。車で逃げた方がどこにいるかわからないんです。とにかく命をいただいたわけです」<br /><span><br /></span><hr />　<br /><span>［取材］渋井哲也（しぶい・てつや）<br /> 1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」（河出書房新社）など。ビジネスメディア「誠」（ <a target="_blank" href="http://bizmakoto.jp/">http://bizmakoto.jp/</a> ）で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。<br />■<a target="_blank" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">渋井哲也の「てっちゃんネル」</a> <br /><a target="_self" href="http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui">http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui</a><br />　<br /></span></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch1396/18376</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【サンプル記事】東日本大震災　証言アーカイブス]]></title>
                <description><![CDATA[<p>はじめまして。このブロマガは、東日本大震災の証言記録を残すために開設されました。ごあいさつをかねて「Fプロジェクト」について説明します。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar16704</link>
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                <pubDate>Tue, 13 Nov 2012 04:14:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[Fプロジェクト]]></category>
                <category><![CDATA[東日本大震災]]></category>
                <category><![CDATA[3.11]]></category>
                <category><![CDATA[アーカイブ]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><br /><hr /><div style="text-align:left;">
<p><span style="color:#00ccff;">■Fプロジェクト■</span><br /><strong><span style="font-size:150%;">東日本大震災　証言アーカイブス</span></strong><br /><br />第０話<span style="font-size:150%;">「ごあいさつ」</span></p>
</div>
<hr /><div style="text-align:left;">
<p><br />　はじめまして。<br />　このブロマガは、東日本大震災の証言記録を残すために開設されました。<br /><br />　2011年10月、『自由報道協会が追った3.11』（扶桑社）という書籍が発行されました。当時、自由報道協会に所属していたメンバー達が、東日本大震災からの半年間、日本の姿をどう捉えていたか、25人の執筆者のそれぞれの視点をまとめた一冊です。この本こそ、「Ｆプロジェクト」を実現するために発行されたものでした。<br />　以下、この本の書籍の巻末にかかれた言葉の引用です。</p>
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<div style="text-align:center;">＊　＊　＊　＊　＊</div>
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<blockquote><strong>自由報道協会有志による<br /></strong><strong>東日本大震災被災地支援プロジェクト<br /></strong>　東日本大震災に対して報道に携わる立場の人間として何ができるのか……。<br />　体力に自信のある者も少なく、重機を操れるなどのスキルもない私たちにとって、被災地で復旧活動をしても足手まといになるだけかもしれない。それよりもこれまで培ったノウハウを利用して、被災地を支援することはできるはず……。<br />　私たちが培ったノウハウとは何でしょうか？<br />　それは見て、聞いて、伝え、記録することです。そこで現在、自由報道協会有志は次のような支援プランを考えています。<br /><br /><strong>○ワークショップ：取材の作法、ビデオ撮影の方法、文章の書き方、文章やビデオ編集のコツなど我われが培ってきたノウハウを伝え、被災地の人たちがその場の声を記録し、広められるように支援する。<br /><br />○公開討論会：被災地の問題を現場で公開の場で議論・情報交換し、被災地の人びとの思いを全国に発信する活動をする。<br /><br />○被災地アーカイブ：被災地で話を伺ったさまざまな人たちの証言、街の記憶、郷土の歴史をまとめ、後世に伝える。</strong><br /><br />　これらの活動は、「公的記者会見のオープン化」「パブリックアクセスの公平性」を目的にした自由報道協会の主旨とは異なるため、それまでご支援いただいたみなさまからの寄付金を充てることはできません。そこで、支援プロジェクトの活動資金のために、この本を上梓いたしました。本書で執筆した全員が、この趣旨に賛同し、無償で文章や写真を提供しています。そこで得られた印税は、同プロジェクトの予算として全額プールされ、有志たちによる支援プロジェクトの実現に活用することにしました。<br />　また、この活動は、あくまでも自由報道協会の諸活動とは切り離し、「有志の会」として独立し、その予算や活動についても、独立したものとして進めて行くことになりました。<br />　震災からこの間、ある者は被災地に行って災害の状況をその目で捉え、ある者は被災した方々の話を聞き、ある者は東京電力や政府という権力を監視し、ある者は復旧・復興の希望を伝えてきました。<br />　しかし、いまだ震災は現在進行形で続いています。これからも、長い時間をかけて、それぞれの「現場」で見たことや感じたことを報じていくことでしょう。それと同時に、刻一刻と変わる復興・復旧に合わせ、“私たちらしい支援”というものを通じて、別の側面から震災と向き合っていきたいと考えています。</blockquote>
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<div style="text-align:center;"><img style="margin-left:auto;margin-right:auto;" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch1396/9992/6e455aa68282b472629a62e835448fdaa4e57b67.jpg" data-image_id="9992" alt="6e455aa68282b472629a62e835448fdaa4e57b67" height="213" width="149" /><br />　<br />＊　＊　＊　＊　＊<br /><br /></div>
<div style="text-align:left;">　現在は自由報道協会に残っているメンバー、協会から去ったメンバー、それぞれの立場で取材活動を続けていますが、購読者の方々とのお約束であるこれらの活動は、それぞれの責任で果たしていきたいと思っています。<br /><br />　そこで、この一連の活動を「Ｆプロジェクト」と名付けました。<br />　そして、その「Ｆプロジェクト」の一環として、ブロマガ「東日本大震災 証言アーカイブス」を立ち上げた次第です。<br /><br />　前述の通り、このブロマガは『自由報道協会が追った3.11』の印税を予算にして運営されています。寄稿者の中心は同書の筆者達ですが、それと同時に、「Ｆプロジェクト」に賛同してくれ、東日本大震災を取材し続けている我々の仲間のジャーナリストやライターも記事を提供してくれます。<br /><br />　不定期刊行となりますが、毎月少しずつ、皆様の元へと記事をお送りいたしますので、「Ｆプロジェクト」の活動を末永く見守っていただければ幸いです。<br />　そして、こうした証言記録を残し、皆様が読んでいただく事によって、震災が風化しない一助となればと考えている次第です。<br /><br />　よろしくお願いします。<br /><br /></div>
<div style="text-align:right;">自由報道協会 有志の会 被災地プロジェクト 賛同者一同</div>
<br /><hr /><br /><span style="font-size:150%;"><strong>【追記】</strong></span><br /><span style="font-size:150%;"><strong>「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」解散のお知らせ</strong></span><br /><br />　2012年12月末日をもって、「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」は解散され、この活動は休止となりました。ただし、当証言アーカイブは、このまま公開しておく予定です。「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」についての詳細につきましては、当該ブログをご参照ください。<br /><br />　なお、今後、「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」に関する問い合わせにつきましては、下記のメールアドレスまでご一報いただければ幸いです。<br />［メールアドレス］<span>information_project●mail.goo.ne.jp（●を＠に変更してください）</span><br /><br />　これからも私たちは、取材や支援ボランティアなど、個々の活動の中で東日本大震災に関わっていくことと思います。また、そこで私たちが見た被災地の様子は、様々な方法でアウトプットされ、被災地以外の皆様にも届けられると思います。<br />　今後とも、私たちの個々の活動を見守っていただけますよう、よろしくお願いいたします。<br /><br />　　<b>2013年２月</b><br />　　<b>自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト　有志一同</b><br />　　<a target="_blank" href="http://blog.goo.ne.jp/information_project">http://blog.goo.ne.jp/information_project</a><br /><br /></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[Ｆプロジェクト]]></dc:creator>
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