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EACI News Weekly 第18号(5月8日号)
東アジア共同体研究所(East Asian Community Institute )
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【目次】
【1】《今週のニュース 5/2−5/8》
政治(2)、経済(2)、国際(3)、社会(3)
【2】《UIチャンネル放送予告 No.102》
5月11日(月)20時 鳩山友紀夫×高野孟×瑞慶覧長敏対談
http://live.nicovideo.jp/watch/lv220369140
【3】《EACIレポート》
孫崎享氏が5月29日に『日米開戦の正体』出版記念講演&サイン会
【4】《研究員コラム》
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)
「首里城 旧32軍司令部の前にて」
【5】《連載》検証・フテンマ(琉球新報より)
第2部 官僚の壁 vol.18 「『抑止力』の虚構」
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【1】《今週のニュース 4/25−5/1》
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【政治】
■憲法改正 自民“参院選後に” 民主・公明は慎重
(NHK 2015.5.8)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150508/k10010072731000.html
■今こそ考えてみたい<9条だけじゃない>憲法
(ハフィントン・ポスト/種田和敏(弁護士) 2015.5.3)
http://www.huffingtonpost.jp/kazutoshi-taneda/japan-constitution_b_7177414.html
【経済】
■TPP交渉文書、国会議員に開示へ 内閣府副大臣が表明
(朝日新聞 2015.5.5)
http://www.asahi.com/articles/ASH554RPFH55UHBI00W.html
■ TPP情報公開をめぐり 西村副大臣が発言を撤回
(TBS 2015.5.8)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2487401.html
【国際】
■ネパール地震 山村崩壊、支援物資不足が深刻 現地リポート
(神戸新聞 2015.5.8)
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201505/0008004878.shtml
■オスプレイ「役立たず」 ネパール支援で地元紙
(琉球新報 2015.5.8)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-242684-storytopic-1.html
【社会】
■移設阻止「仁義」の心で 「同志的連帯」菅原文太さんの妻 辺野古基金1億円超す
(朝日新聞 2015.5.5)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11739248.html
■宮崎駿氏「辺野古基金」共同代表へ 新基地阻止、内外に
(琉球新報 2015.5.8)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-242675-storytopic-271.html
■危機迫る憲法 自作反戦歌 今こそ 美輪明宏さん(79)
(東京新聞 2015.5.3)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015050302000129.html
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【2】《UIチャンネル放送予告 No.102》
5月11日(月)20時 鳩山友紀夫×高野孟×瑞慶覧長敏鼎談
http://live.nicovideo.jp/watch/lv220369140
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第102回目となります、5月11日(月)20時からのUIチャンネル放送は、鳩山友紀夫×高野孟×瑞慶覧長敏「沖縄時事鼎談」をお送り致します。
■5月11日(月)20時 鳩山友紀夫×高野孟×瑞慶覧長敏「沖縄時事鼎談」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv220369140
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【3】《EACIレポート》
孫崎享氏が5月29日に『日米開戦の正体』出版記念講演&サイン会
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東アジア共同体研究所の孫崎享所長の新刊『日米開戦の正体』発行を記念して5月29日イベントが開催されます。(以下、HPを参考に掲載)
▽ ▼ ▽
「真珠湾攻撃」は、歴史上最悪の愚策といわれます。なぜ、日本は負けるとわかっているのに、この戦いを仕掛けたのでしょうか。
この本では、できるだけ多く、当時の人々の発言を紹介しました。後世の人間が「後知恵」で解説するのでなくて、当時の人々自らの声で歴史を語ってもらいたいからです。歴史にはいろんな選択肢があった、異なった道があった、その中でなぜ真珠湾攻撃という選択をしたのか。戦後70年の今こそ、日露戦争から真珠湾攻撃までの歴史を検証し、この「なぜ」を徹底的に考えたいと思います。
※講演会終了後、サイン会を実施いたします。
(お持ち込みの本・色紙・グッズ等へのサインはできません。)
日時:2015年5月29日 (金) 19時00分~(開場:18時30分)
講師:孫崎享氏(元外務省国際情報局局長・防衛大学校人文社会科学学群長)
場所:八重洲ブックセンター本店8階ギャラリー(会議室1と2)
募集人数:100名(申し込み先着順) ※定員になり次第、締め切らせていただきます。
主催:八重洲ブックセンター 協賛:祥伝社
https://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/6595/
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【4】《研究員コラム》
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)
「首里城 旧32軍司令部の前にて」
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戦後70年企画 上陸地点から摩文仁までを歩く 2
沖縄戦を知るピースウォーキング (前回の続き)
シャーマン戦車による水平撃ち
前田高地から降りてしばらく歩いたところでNPO「がまふやー(壕掘り)」代表の具志堅隆松氏の話を聞いた。白兵戦で日米が戦った平野だ。
「あのところどころ穴が空いている小さな丘が、掘り込み墓群とよばれるところです。山形の32連隊(伊藤大隊)が隠れていました。ここに2方向から水平に戦車の大砲の弾が撃ち込まれています。壕の壁に跡が残っています。
ここは文化財調査の対象になっています。茶碗一つ出てきても調査の対象になりますが、遺骨が発見されても工事は止まりません。遺骨調査について法律がないのです。
遺骨は「家族の元へ返せ」と主張しているのですが、厚生労働省は、遺品に名前があればDNA鑑定をする、と言ってます。しかし身元が分かるのは100体のうち5体くらいしかありません。沖縄では毎年100体ずつ遺骨が見つかりますが、国立戦没者記念公園に埋葬する時、火葬してしまいます。そうするとDNA鑑定ができなくなります。そこで県議会に陳情して火葬をやめてもらいました。ところが一昨年の6月22日に再び火葬が再開されました。理由は仮安置室がいっぱいだから、というのです。部屋を増やせばいいじゃないですか。赤紙一枚で人を戦場に送っておいて、遺骨を一人一人の遺族の元に返すのは国の最低の責任じゃないですか。
遺族の了解なしに火葬にするのはだめだ、と主張しました。再び火葬中止になりました。沖縄県議会は独自でDNA鑑定実施を決定しました。
民間人の身元はほとんどわかりません。兵隊は認識票を身に着けているはずですが、これもなかなかわかりません。認識票が束になって見つかることがあります。どういう部隊がいるのか、ばれるといけないので持たせないのです。軍事機密です。認識票は兵隊は番号のみ、将校は名前が入っています。」
束になった認識票については、前回ご紹介した「私の沖縄戦記 前田高地六十年目の証言」(外間守善著 角川ソフィア文庫)の証言とも一致する。
(1944年4月)「前田手前で米軍の艦砲、迫撃砲、重機などの激しい攻撃を受け深い痛手は負ったものの、二日後の二十九日には前田高地の奪取に成功した。
この出発に際し、認識票が回収された。階級章もむしりとった。」
これでは部隊名も階級も個人名も分からない。軍人は携帯した万年筆に彫られた名前などで特定できることがあるが、身元が分かるのはごく一部だ。
この一帯は軍人同士の戦いで民間人は南部に避難していた。まだ犠牲者は少ない。5月下旬から6月下旬の間の犠牲が急増する。県民の4人に一人が亡くなった。
「軍と一緒に行動するということは、最前線を彷徨するということにほかならない。若く健康なものはみな現地入隊、郷土防衛隊員や学徒動員にとられ、老人と子供ばかりが右往左往したのである。」―上記、外間著より。
具志堅隆松氏は捕虜収容所での犠牲者にも注目している。四千人収容の民間人収容所で
千人が栄養失調やマラリヤで亡くなったケースがある、という。これも戦死だ。
15歳(最年少)の鉄血勤皇隊
ピースウォーキングの一行は平良交差点を越し、儀保十字路でモノレールの下をくぐり、首里へ上った。途中、安谷川嶽(アダニガーダキ)を左横に見ながら首里城の城壁が見えるところまで来た。
―この御嶽(うたき)は琉球国由来記にも記載されている。王府時代の高級女神官の一人が司った御嶽の一つだ―
11時25分。沖縄県立芸術大学に到着。道沿いに師範学校跡の石碑が建っている。師範学校は廃藩置県の翌年に創立された当時の最高学府。皇国史観を植え付けるための学校だった、と説明があった。
11時45分。元共産党衆議院議員の古堅実吉氏登場。86歳。旧司令壕の前のゆるやかな傾斜地に約60人が座り、話を聞いた。後ろには手話通訳が付いた。以下は古堅氏直筆のメモ(コピー)と合わせて紹介する。
「日本軍は満州から東南アジアまで向かうところ敵なし。侵略戦争という認識は日本人の99%が持ってなかった。♪ 取れ膺懲(ようちょう―懲らしめる)の銃と剣、という歌があった。しかし(この破竹の勢いは)ガダルカナルで逆転した。1944年3月22日、第32軍(沖縄守備軍)の創設、配備が決定された。これが沖縄の命運を分けることになった。
戦場化に備え、沖縄の人も、土地も、学校の校舎そのほかの公共施設も、物もあらゆるものが根こそぎ動員された。全土が陣地化され、小卒の男から女性まで徴用された。
8万人の現役軍人が入ってきて小学校、中学校の校舎に寝泊まりした。沖縄では見たこともない(大きい)軍馬や大砲の陣地を見て、これだけ日本軍が入ってきたら大丈夫と思った。なにくそ(米軍なぞ)やっつけてしまえる。
龍潭池のほとりは樹齢2~300年、直径2~3mのアカギに覆われていた。そこの(目の前にある)弁財天に沿って奉安殿があった。いくら遅刻しそうな時でも最敬礼して坂を上った。
―沖縄師範学校は坂の上にある―
「入学後の一時期だけは普通どおりの授業が受けられたが、夏休み後の2学期からは連日全島陣地化の作業動員であった。私たちは、小禄飛行場、天久高射砲陣地、識名から繁多川、軍司令部壕などの作業。
45年2月の情勢緊迫で、1年生は親元へ帰された。3月14日に帰校命令の通知を受けた。」「いったん親元へ帰ったが「兄は病弱、妹は小さい。なかなか出発できない。山中のフンガーダムまで4キロ、母親が見送ってくれた。辺土名にいとこの姉がいたので一晩泊まった。役所の近くで車に乗せてもらおうと一日待ったが、車は通らない。そこでもう一晩過ごした。姉さんから「実(さね)ちゃん行くな」と言ってくれんかな、と考えていたが、そんなことはあり得ない。言ってくれたら、(首里へ)戻らなかったかもしれない。しかし当時はそんなことは口にできなかった。翌日、覚悟を決めて首里へ出発。5日間かけて約120キロを歩いた。けなげなもんだなあ。軒先で夜を過ごしながら3月22日の夜の9時に寮に到着した。その夜は分散会といってお別れの会が開かれていた。無礼講でどんちゃん騒ぎが続いていた。久しぶりにようやくふとんの中に入った。翌3月23日早朝、(朝食後)食器を洗おうとしたら妙な音がする。空を見上げた。大空襲だ。これが米軍攻撃の始まりだった。」
「45年3月31日、軍司令部からの召集命令により、「留魂壕」(りゅうこんごう)前の広間で全校生徒・教職員による「鉄血勤皇師範隊」を結成し、軍司令部直属とされた。(生徒386人教員24人=410人、その他に3月1日に入隊の75人を加えて総計485人となり、戦死者は総計309人―63.7%である。健児の塔に刻銘されている)」
「留魂壕は、沖縄師範学校(男子部)の避難壕として生徒自らの手で1945年3月に完成した。所在地は、首里城の物見台の下辺りで、城壁に向かって横穴式・コの字形に掘り込んである。名称は、吉田松陰の「留魂録」にちなんで命名された。(戦後の首里城復元工事の際に埋め立てられたが、現在は発掘進行中で、この1~2年内に一部公開も可能だという。)戦中、その一部を沖縄新報が使用し、「陣中新聞」を発行した。」
「4隊に分かれた。本部隊、野戦築城隊、情報宣伝隊、日本軍がもう少ししたら来て米軍をやっつける、といったありもしない作り話を伝える役割、それに斬りこみ隊だ。
私は発電機の冷却水を運ぶ任務だった。12時間交代で、雨のように弾が降る中を集団で行き帰りする。留魂壕から7~800m離れているが、だんだん首里城の石垣が破壊されて本殿から歩けるようになった。何度も至近弾を浴びておしまいだな、と思った。4月21日、美里出身の久場良雄先輩が最初の犠牲になった。部屋が一緒で机は右隣だった。艦砲でやられて足を無くした。一晩中、あんまーあんまー(お母さん、お母さん)と大きなうなり声が聞こえた。夜明け前にその声も途絶えた。出血多量で亡くなった。みんなそうなって(亡くなって)いくんかなあ、と思った。」
「沖縄作戦に投入した米戦力は、空母40隻、戦艦30隻を中心に艦船1500隻以上、艦載機1600機、上陸部隊18万2000人、海上舞台を含む兵員合計は54万8000人である。」
この時、沖縄に残っていた人口は約50万人と推定される。
「5月20日頃、弁が嶽(べんがたけ―首里城のすぐ上の丘)の米軍を攻撃する25人の名簿を校長先生が一晩中かかって作った。真っ先に来るのは戦車部隊だ。穴に隠れ爆雷を背負って突っ込む。全滅した。
5月27日には司令部が南部へ去った。5月末には我々も摩文仁に着いた。6月18日には解散命令が出た。校長先生から「死ぬなよ」と言われた。6月21日、配属将校によると直撃弾をくらい5~6人が見えなくなった。(その中に校長先生もいた)
私たちは具志頭の浜の近くを5人で海面すれすれを歩いていた。絶壁の上には米兵がいる。前を歩いていた上級生二人が止まった。私は最後尾だ。何だろう、と近づくと5~6人の米兵に銃を突きつけられて逮捕された。
金武の収容所に10日くらい収容された。7月3日嘉手納沖からハワイに送られた。3週間かかってハワイの真珠湾に到着した。ずっと真っ裸のままだ。7月5日、船内で16歳の誕生日を迎えた。」
運良く生き残った・・はひっかかる
私は偶然、生き残った。運良く、という言葉は逃げるのにたくみだ、という解釈もある。これでは教訓にならない。「軍隊は住民を守らなかった」と良く言われるが、これも狭い解釈だ。日本政府は基地を造り、戦争に訴え、地獄を生み出し、沖縄はすべてを失った。その後も過酷な軍事占領が続いている。なぜそうなったのか、そこに教訓を求めるべきだ。日本は総括しない、反省しない、責任をとらない。
「許しがたい戦争を繰り返す世の中になってはいかんよ」。これが戦後のみんなの気持ちだった。(非戦の)世界に誇る憲法を作った。憲法の前文は国際社会に対する誓いだ。」
古堅実吉氏の話は30分の予定を1時間オーバーして続いた。木陰に座っていた約60人のメンバーはある者は口元にタオルをあて、時々涙をぬぐいながら聞いていた。
解散した後、龍潭池のほとりを巡って帰った。池の上にロープが2本貼られ、それぞれに約20匹のビニール製の鯉のぼりが垂れ下がり、風に揺られていた。
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【5】《連載》検証・フテンマ(琉球新報より)
第2部 官僚の壁 vol.18 「『抑止力』の虚構」
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普天間飛行場の移設を含む在日米軍再編は民主党政権下の2012年2月に大きな転機を迎える。日米両政府が同飛行場の名護市辺野古移設を進めるため、それまで普天間移設と「パッケージ」と説明してきた在沖米海兵隊のグラム移転や嘉手納より南の米軍5基地の返還を、普天間移設から切り離したのだ。その再編見直しの協議で米側は海兵隊のグアム移転について、日本側にある変更を提案した。「まさかと思った。06年の米軍再編合意から全く変わっていた」。米軍再編に関して長年携わった日本政府高官は、米側からの提示に驚いた。
合意は在沖海兵隊については司令部要員を沖縄から移転し、地上戦闘部隊を残す計画だった。しかし見直しで米側が示した案は、逆に地上戦闘部隊の大半を沖縄から出すというものだった。
だがこの変更は日本政府にとって極めて都合が悪かった。なぜなら防衛省はそれまで、軍事的に台頭する中国などを念頭に、海兵隊の地上戦闘部隊が沖縄に駐留することで抑止力が維持されると説明してきたからだ。同省が在日米軍や海兵隊の駐留意義について11年にまとめた小冊子でも、そう説明している。
地上戦闘部隊の大半を沖縄の外に出すことは、抑止力に関する説明の根拠が大きく崩れることを意味していた。
だがアジア太平洋重視の観点から戦力を同地域に広く分散させる新たな国防戦略を進める米側の意思は固かった。「最終的には飲むしかなかった」(日本政府高官)。日本政府は移転部隊の変更を受け入れる。当初の在沖海兵隊8千人のグアム移転計画は、沖縄の海兵隊約9千人を国外に出し、うち約4千人はグアム、約5千人はハワイなどに分散する計画へ変わった。
一方で高官は、地上戦闘部隊が沖縄に残ることで抑止力が維持されるとしてきたそれまでの説明をこう変えた。
「実戦部隊が(グアムなどに)後退しても海兵隊は機動力があるので、有事にはすぐに駆け付けられる。同盟を結ぶ米国を信じる」。日米の信頼関係こそが抑止力ーという理屈だった。しかしそれは、在沖海兵隊駐留の必要性を強調した従来の説明とは明らかに矛盾する考え方だった。
米軍再編見直しは最終的に12年4月27日、両政府が結論となる共同文書を発表する。海兵隊の「抑止力」については兵力の分散で各地にプレゼンス(存在感)が確保され、「強化される」と明記した。だが、なぜ駐留場所は沖縄でなければならないのかという疑問には全く答えられるものではなかった。逆に分散で抑止力が強化されるなら、沖縄以外でもいいということを認めたにほかならない。米軍戦略が変化しても「抑止力」はいかようにも理屈付けできるという日本政府の虚構性が浮かぶ。
安倍政権は県内移設を強行しようとしているが、実は海兵隊駐留も普天間の県内移設も、昨年4月の共同文書で説得力を失っている。(「日米廻り舞台」取材班)琉球新報提供
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