「政権が代わることで政策が変わるのは民主主義国家ならどこでもある。そういうことも含め、米国と議論してみたい」
民主党政権初代外相の岡田克也は就任翌日の2009年9月17日、報道各社のインタビューでこう意欲を示した。米軍普天間飛行場の移設問題で、まだ県知事仲井真弘多が県外移設を打ち出す前だ。岡田は県民世論の大半が県内移設に反対しているとの認識も示す。辺野古移設の日米合意見直しに動くものと多くの人々が受け止めた。
岡田は翌18日、外務省で米国務次官補カート・キャンベルと会談。笑顔で顔合わせしたが、岡田の前日の発言から、普天間の移設見直しをめぐる日米協議の始まりとも映った。だが内部告発サイト「ウィキリークス」によると、同席していた駐日米大使ジョン・ルースは本国への公電でこう報告した。「岡田は日本の外交政策に新たな驚きはないだろうと約束した」
民主党政権も辺野古移設の方針を大きく変化させない-。少なくとも米側はそう解釈した。
「期限を区切り、もし代替地が見つからなければ辺野古に戻ることを関係大臣で内々に確認していた。私からルースにも伝えていた」
鳩山政権で沖縄担当相を務めた前原誠司はこう振り返る。前原は直接の基地問題の担当ではなかったが、外交・防衛に明るく、米側とのつながりもあった。
「最低でも県外移設」を掲げて首相に鳩山由紀夫が就任。自然と高まる期待とは裏腹に、閣僚らは政権発足直後から「落としどころ」を模索していた。
民主党政権発足から防衛相を約2年務めた北沢俊美は、普天間飛行場の移設先は辺野古しかないと考えた時期は「かなり早い」と吐露する。政権発足1、2カ月後には「日米合意を守るしかない」と考えていた。
防衛省内に県外を本気で追及する動きはなかったのか。鳩山政権で防衛政務官だった長島昭久は断言する。「(県外移設模索の)発言も発想もなかった」
それから約4年。鳩山の女房役として官房長官を務めた平野博文は昨年夏、大阪府の事務所で鳩山政権の移設先検討作業を穏やかな表情で振り返った。
移設先は県内も含む全国四十数カ所を検討したが、辺野古を除く全ての場所は最終的に残らなかった-。候補地名や移設できないとした詳細な理由については決して口にしなかった。
「地域に混乱を招く」。候補地を明かせない理由について平野は語った。さらに尋ねると、こう続けた。「当時において移設できないと判断したのであった、将来も可能性がないということではない」
平野は九州の自衛隊基地などへの移設について「技術的には可能性があると見ていた」と明かしている。だが米軍と違い自衛隊基地は使用制限が厳しいことや、住民の反対が想定されることなどから断念したという。基地の県外移設という非常に重い作業と向き合っていた時の官邸の覚悟の程度が分かる。と同時に、民主党政権最後の防衛相森本敏が移設先について退任間際に語った、「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域」という言葉も想起されよう。
3年3カ月の民主党政権で県外移設の可能性が真剣に検証されることのないまま、移設先は辺野古へと戻り、自民党が政権に復帰。再検証の可能性について安倍政権は「辺野古移設は抑止力を考えて日米で決めたこと」(官房長官・菅義偉)と冷淡にあしらいながら、移設作業を強行しようとしている。(敬称略)
(「日米廻り舞台」取材班)
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