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1970年代の古き良きプロレス界――少年時代からプロレス業界に入り込み、外国人レスラーとの交流を重ねていたウォーリー山口。のちにプロレスマスコミに転身、「ピラニア山口」として『ゴング』を中心に活躍する一方で、プロレスショップの経営、学生プロレスの育成、はてには「ヤマグチ・サン」という日本人マネージャーとしてWWEのリングにも足を踏み入れた。プロレスに関することならなんでも引き受けたウォーリー。その「プロレスなんでも屋」の歴史を振り返ってもらった。




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par16

①理不尽小僧・金村キンタローがすべてをぶっちゃける!
「インディで年収1500万……一銭も残ってないです!」

②「おまえ平田だろ!」平田淳嗣のスーパーストロングなプロレス人生
「働いていた新聞配達店に山本小鉄さんから電話があったんです……」

③小佐野景浩のプロレス歴史発見……デンジャラスK・川田利明物語
「三沢光晴を追いかけて――」

④元・日本テレビアナウンサー倉持隆夫インタビュー
作られたスポーツを実況するということ――「古舘伊知郎はすべてを知ったうえでしゃべっていた。私は何が起こるかを知らず実況していたんです」

⑤タイトルマッチ惨敗! 堀口恭司はどうして攻略されてしまったのか? 大沢ケンジが解説!

⑥ピエロの狂気! 矢野啓太「胸いっぱいのプロフェッショナルレスリング論」矢野啓太

⑦マット界事情通Zの「プロレス点と線」トーク
・高橋奈苗退団から見えてくる世IV虎の今後
・諏訪魔vs藤田和之を実現させる方法
・高木大社長W-1CEO就任と静かなる帝国GENスポーツエンターテイメント

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山口 今日は何を聞きたいの? 俺の何を知りたいんだよ?

――ウォーリー山口さんのプロレス界の歩みについてお聞きしたいな、と。

山口 それについて話し出したら30時間以上かかっちゃうぞ〜(笑)。

――ネタは尽きないですか(笑)。

山口 長くなるぞ〜。今日は手短に話すけどさ(笑)。

――じつは1年前くらいにウォーリーさんの取材をしようとしたんですけど、住所だけしか入手できなくて。たしか品川近辺を尋ね歩いたことがあるんですよ(笑)。

山口 へえー。その住所は◯◯◯◯になってる?

――あ、違いますね。

山口 違う? じゃあ西馬込?

――そうそう、西馬込です。

山口 ロング・ロング・タイム・アゴーだよ。延べ16年は住んでいたけど、西馬込から離れて10年近くは経ってる。あそこまで行ったんだ?

――近所の聞き込みもしましたね。「ウォーリー山口さんという方は住んでなかったでしょうか?」って(笑)。

山口 西馬込の事務所にはリングも置いてあったんだよ。

――ウォーリーさんが経営していたプロレスショップ『マニアックス』ですよね?

山口 『マニアックス』と言っても、そこには長い歴史があるからさ。もともとは、俺が大学時代に、かの竹内宏介(『ゴング』創始者)に命名されたユニットなんですよ。当時のマニアックスにいた仲間が清水“会長”勉、宍倉“アナクラ氏”清則、小佐野“トド”景浩、小林“ヤシクン”和朋、寺内“にぶんのいちベエ”正孝、そしてジミー“カチャーラ”鈴木~かな。

――のちのプロレスメディアを支えるメンバーが集っていたんですね。

山口 俺が店舗として『マニアックス』をやり始めたのが中原街道沿いのステーキ屋の下。『タモリ倶楽部』から取材を受けたりしたよ。んで、その時点で西馬込に引っ越すことは想定されていたというか。半地下にリングを置いて、俺の事務所兼お店もやってね。

――リングを作ったのは何かビジネスを見据えてのことなんですか?

山口 なーにも考えていない。道楽だよ、道楽。リングを作るのに400万もかかったから、道楽では済まないけど(笑)。

――そのうち学生プロレスに貸すようになったんですよね?

山口 うん。そうしたら学生プロレスやTPG(たけしプロレス軍団)の連中がやってきた。

――邪道さんや外道さんも『マニアックス』のリングで基礎を学んだんですよね。それはTPGから依頼があったんですか?

山口 ないよ、そんなもの。彼らはゴミみたいな扱いだったからね。銀河スタジオでTPGの公開オーディンションがあってさ。それを見に行ったらマサ斎藤さんがテストをやらせてるわけだよ。

――『ビートたけしのオールナイトニッポン』の番組内で行なわれた入団試験ですね。

山口 そこで高山(外道)や秋吉(邪道)たちと「おまえらトップ取りたいよなあー」「そうですね……」なんてやりとりをしてね。ウチにリングがあると知って10人くらい来たかな。スペル・デルフィンもその一人だよ。

――そこで練習することでプロレスラーの道は見えていたんですか?

山口 なーんもない。保証も未来もへったくれもないよ。TPGもそのうちどうにもなくなったでしょ。だからゴミみたいな扱いだったって言ったの。

――『マニアックス』は行き場を失ったレスラー志望者の受け皿になったんですね。

山口 あのリングがなかったらいまの邪道&外道、デルフィンは生まれていないよな。

――邪道&外道はいまや新日本とNOAHの現場を取り仕切ってますからね。ある意味でトップに上り詰めたという。

山口 よし、俺との対談を組もう!

――絶対に嫌がると思いますよ(笑)。2人の見込みはありました?

山口 秋吉はしょっぱかったねぇ。

――外道さんは?

山口 高山はボービー・イートンだったね。ミッドナイト・エクスプレス! “日本のボービー・イートン”だったよ、俺的には。バンプの取り方もナチュラルだし。

――その『マニアックス』のリングに馬場さんが現われて、学生プロレス勢を指導したという信じがたいエピソードがありますよね。

山口 あったなあー。俺と馬場さんの関係はおいおい話をするけど、こっちから「社長、来てください!」なんてお願いしていないよ。元子さんから「ちょっとアンタ、リングを作ったの? お父さんが行きたいって」ということで。天上人が下界に降りてきたわけですよ(笑)。

――ハハハハハ!当時の学プロって、プロからすればタブーじゃないですか。

山口 そうだよ。プロからすれば「ふざけるな!」という世界ですよ。

――それがどうして馬場さんが指導を?

山口 なんでだろうね? まあ、ヒマなんだよ。当時のお父さんはヒマだったんだよ(笑)。

――ヒマだから!(笑)。

山口 理由を聞いたことないけどね。「社長、なんで来たんですか?」なんてはさ。当時の全日本は景気も良くなって後楽園ホールも毎回満員。馬場さんは前座で悪役商会とやるようになって余裕があったんだろうね。馬場さん、ジャージ姿で来たもんな。元子さん、和田京平さんの3人でさ。それで最初はソファーに座って学プロの練習を見てるんだよ。

――学プロの選手もそれはそれは緊張したでしょうねぇ(笑)。

山口 そうしたらさ、しばらく練習を眺めていた馬場さんが立ち上がって、リングで指導し始めるんだよ(笑)。

――うわあ!(笑)。

山口 天下のジャイアント馬場が学プロ連中に手取り足取り教えるんだよ(笑)。

――学プロのベーシックな動きが全日本流なのは、馬場さんの指導の影響が大きいんですかね。

山口 そうかもしれないね。そこにいたのがMEN'Sテイオー。彼は全日本というか馬場さん大好きだもん。

――『マニアックス』にはTPG絡みでコーチ役だったアポロ菅原さんも来てたんですよね。

山口 わけのわからない国際プロレス流のボディスラムを教えていたよ(笑)。

――団体によって違うんですねぇ。そんな『マニアックス』の存在が90年代のプロレス多団体時代を導いたといっても過言ではないですね。

山口 FMW、パイオニア、ユニバーサルプロレス。全部に俺が関わっていたよ。W☆INGのイバちゃん(茨城清志)とは子供の頃からの知り合いだし。ジャパン女子は直接は関わってないんだけど、そこにいた高橋英樹とは凄く仲良くなったよ。

――高橋さんはFMWの営業をやっていて、全日本プロレスの営業を経て、最近「超戦闘プロレスFMW」を復活させましたね。大仁田さんもFMW旗揚げ当初は『マニアックス』を間借りして事務所にしてたんですよね。

山口 俺は家主だったんだよ。

――大仁田さんいわくの「借りた5万円で電話線を引いてFMWを立ち上げた」瞬間を目撃してたんですね。

山口 5万円もないよ。そもそも電話線もウチのを引っ張っただけだし(笑)。

――ハハハハハハ!

山口 たしかに大仁田くんは何も持ってなかったんだよ。前日までドカチンで働いていたんだかね、彼いわくね。FMW旗揚げそれ以前、彼のプロレスへの未練というか葛藤は俺はさんざん聞いていたからさ。大仁田くんが引退してタレントをやってたことは全然知らない。仕事がダメになってドカチンをやってたことも全然知らなかったけど。あるとき大仁田くんとイバちゃんの3人で新宿で会うことになって「じゃあ、新しい団体をやるべ」という話になった。

――茨城さんが外人ブッキング担当で。本来は新間(寿)さんの世界格闘技連合としてやるはずだったんですよね。

山口 そうそう。世界格闘技連合。でも、大仁田くんはそれを待てなかった。いつやるのかもわからないから、自分で団体を作っちゃえという話になった。千葉かどこかでパイオニア戦志の設立会見があったときに、俺や大仁田も行っててね。そこで俺の育ての親である竹内さんが「いい名前がある。フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング、FMW」って名づけてくれたんだよ。

――FMWはうまくいくと思いました?

山口 経営が乗ってきたと感じ取ったのは、汐留で有刺鉄線電流爆破デスマッチをやったとき。FMWとしての売りができたからいけるかな、と。あと営業がちゃんとできる人間、高橋英樹が入ったから。それに山口家にちゃんと家賃が支払われていたから。毎月の家賃15万(笑)。

――家賃が滞らないなら大丈夫だ、と(笑)。『マニアックス』はインディ創世期の震源地だったんですね。

山口 よくも悪くもプロレス界は変わったよね。電流爆破で盛り上がり、かたや四天王プロレスもあり。ベリー・リッチ、トミー・リッチですよ(笑)。

――ウォーリーさんはマスコミとしての立場以外に、いろんなかたちでプロレス界に関わってきたんですね。

山口 レフェリーもやったからね。やってたもんじゃないぞ、コラ(笑)。

――ハハハハハハ! プロレスマスコミって団体と手と取り合いながら誌面を作っていくじゃないですか。

山口 俺はどこのマスコミがどこの団体に繋がってやってきたか、その癒着の歴史を全部知ってるわけよ(笑)。その双璧は誰? 

――時代によりますけど、80年代は『ゴング』の竹内さん、90年代は『週プロ』のターザン山本じゃないんですか?

山口 オーイエー! 

――あ、正解ですか(笑)。それはつまりジャイアント馬場の相談役の歴史でもありますよね。80年代は竹内さん、90年代はターザン。竹内さんからターザンにスイッチしたことで、馬場さんと竹内さんの関係は疎遠にはならなかったんですか?

山口 いや、あの2人の関係は永遠のものだったね。馬場夫妻と竹ちゃんはずっと一緒だった。80年代は小佐野くんが全日本の担当で馬場さんとガッチリだったでしょ。それなのになぜ90年代に入ってから、馬場さんはターザン・市瀬(英俊)組に鞍替えしたのか? 全日本プロレスの四天王時代を築き上げたのは市瀬くんだよ。

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