ヤマヨシの次はこっちの山本が登場! 「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ今回のゲストは元『週刊プロレス』編集長のターザン山本。80年代末頃から新生UWFや骨法を誌面で取り上げ、“プロ格”という言葉を生み出した山本氏は、あの総合格闘技が生まれた時代を編んだ男とも言える。灰色の90年代を振り返る同シリーズのサブテキストとしてお読みください! UWFとは何だったのか――?
☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!! 入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧
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山本 キミは桜井章一のところの人間だったんだろ?
山本 昨日も競馬でぜ〜んぶ負けたよ!! Suicaまで解約してつぎ込んだ!
――ハハハハハハ! さすが破滅型ギャンブラーですねぇ。
山本 麻雀も好きなんよ。でも、麻雀はメンバーを4人集めないといけないじゃない。ベースボールマガジン時代は社内に麻雀好きがいっぱいいたんだよね。もう仕事を放り出してどれだけ徹夜したことか。
――あの忙しさの中、そんな無茶を(笑)。
山本 会社の前に小さいな雀荘があるんだけど、夕方5時頃になるといつものメンバーが集まって、朝まで麻雀ですよ。そんなことを毎日やっていたら、部下が総務部に垂れ込んだんですよぉ。「山本さんが仕事をしないで麻雀ばかりやってます。なんとかしてください!」と。
――ハハハハハハハ。
山本 それであるときベースボールの池田(恒雄)会長に呼ばれたんだよ。会長と俺はツーカーの仲だったからさ、いろいろと世間話をしていたら「麻雀好きなんだろ? いつも誰と打ってるんだ?」と聞かれて名前を挙げたら、なぜか会長がメモしてるんだよね。「……おかしいなあ」と思ったら、ボクが名前を挙げたほかの3人は6ヵ月減給の処分を食らったんですよ!
――うわっ!(笑)。
山本 「もう二度と仕事をサボって麻雀を打ちません」という誓約書も書かされてさ。でも、俺だけはお咎めなし。他の3人は「誰がチクったんだろう?」と探ってたけど、俺は黙ってたよ(笑)。
――今日はそんなベースボールマガジン社で過ごした90年代を振り返っていただきます(笑)。
山本 最近では村上和成のインタビューやったんでしょ? もうあの時代はネタの宝庫ですよ。
――90年代の格闘技でいうと、堀辺正史師範の骨法と山本さんは関係が深かったですよね。
山本 うん。堀辺先生との出会いは猪木さんとレオン・スピンクスの異種格闘技戦ですよ。猪木さんが「何かいい必殺技はないか」と考えていたときに、誰かが堀辺先生の存在を教えたんだよねぇ。
――それで猪木さんが骨法で「浴びせ蹴り」を会得したわけですね。
山本 そんなことがあったから、ボクも東中野の骨法を訪ねて堀辺先生を取材したんですけど。話をしてみたら格闘技の理論に秀でた人だということがわかったんだよね。
――それで堀辺先生を語り部として起用していったわけですね。
山本 編集者として最高の評価ですよ! 堀辺先生はUの解説者としてももの凄く的確だったし、プロレスを語っても面白い。非常に分析力に優れた人なんだよね。それでボクの第一ブレーンになったわけですよ。毎晩電話をしていろいろと話しをしてさ、先生のアイデアを『週プロ』の巻頭記事に使ったりね。ほかの格闘技の人たちからは「なんで堀辺正史だけ取り上げるんだ!」という反発も食らったんだけど。
――そういう声はあったんですか?
山本 あった。凄くあった。でも、ほかの格闘家の先生はそこまで言語化できないからね。
――骨法否定派は堀辺先生の格闘家として実力を疑問視してますね。
山本 そこは俺は関知しない話だから。実際の格闘技界でどういうポジションにいようが、こっちはUを言語化してもらってるだけなんだから。
――あくまで語り部としての堀辺正史である、と。
山本 堀辺先生はいろんな本を読んでるから知識が豊富だし、話を聞いていると憑き物が落ちたみたいにスッキリするわけですよ。「ああ、そういうことだったんだ!」って。あと骨法は整体もやってるじゃない。取材に行くといつもタダで整体をやってもらってるんだよねぇ。『週プロ』の仕事が忙しくてストレスが溜まってるボクからすれば、整体で身体の血液の流れがよくなるわけ。
――山本さんの頭と身体がスッキリしていんですね(笑)。
山本 それに取材と整体が終わったあとに局長(堀辺師範夫人)が食事に連れていってくれるんですけど。そこがまたいいお店なんだよねぇ。グランドパレスの美味しいステーキとか、いつも特別なものを食べさせてくれる。
――それは山本さんが『週刊プロレス』というメディアの編集長だったがゆえのVIP接待でもあったんですかね?
山本 そりゃそうですよ。当時の『週刊プロレス』というのは、とんでもなく影響力があったわけだからね。だから食事だけじゃなくて旅行にも連れて行ってもらったよ。宮本武蔵の足跡を訪ねて熊本まで行ったし、佐渡ヶ島まで行ったよ。黒澤明の話をした「命懸けの論理」という対談本も出したしさ。
――持ってますよ、その本(笑)。ベースボールマガジンから発売した骨法のビデオも売れたんじゃないですか。
山本 たしか5000円で9000本。
――ひえー!!
山本 空前の大々ヒットですよ。会社がいくら儲かったことか。あの当時パンクラスやみちのくのビデオも出したでしょ。どれも5000本は売れたんですけど、骨法は9000本ですよ。バカ売れだから会社はボロ儲けだし、向こうも印税が凄かったんじゃない。だからボクにごちそうしたって安いもんなんだよぉ!!
――ハハハハハハ!
山本 骨法自体は他流試合で負けたじゃない。あれがよくなかったけど、ボクは格闘技そのものには詳しくないからさ。話を聞きたいのは堀辺理論だけ。格闘技としての骨法は『格闘技通信』がやってたんじゃないの。そこは『週プロ』と住み分けができていたからね。
――その他流試合での惨敗を受けて『格通』が「いままで骨法にページを割きすぎました」という異例の声明を出しましたよね。
山本 朝岡(秀樹)さんがやったよね。あれはビックリしたよ。
――山本さんが大激怒したと聞きますけど。
山本 怒ったんじゃなくてビックリしたよね。『格通』は『週プロ』に対してコンプレックスがあったじゃない。部数は全然違うし、影響力も違う。だからいつかはそんなことが起きるとは思ってた。それに朝岡さん自体が大道塾の人間だから、そういう立場的なこともあったんじゃないの。
――『週プロ』と『格通』では部数はそんなに違いました?
山本 それでも谷川(貞治)が増やした。月2回の発行にしたし、5万6万と部数は伸ばして最終的には7万まで行ったんだよ。
――7万までいったんですか。PRIDE全盛時に格闘技雑誌で一番売れていたkmaiproでさえ実売で20000部くらいですよ。
山本 それくらい当時は格闘技のムードがあったわけだよね。
――いまでも堀辺先生と付き合いはあるんですか?
山本 もうない。ボクが『週プロ』を辞めた時点で利用価値はないじゃない。それは馬場さんにしたってそうですよ。『週プロ』の編集長だから価値があった。ボクと付き合うことで紙面に登場できる、応援してもらえる。そこはボクもドライだから「ああ、もう利用価値がないんだな」って引き下げるんだよ。だって彼らをつなぎとめる材料がないわけだからさ。付き合う理由がなくなっちゃうんだよねぇ。
――K−1創始者の石井和義氏も『週プロ』の影響力を求めて接近してきたんですよね。
山本 石井館長とは正道会館が有名になる前からの付き合いですよ。石井館長は愛媛出身。芦原空手の中でも有能な人物で大阪で芦原空手を大繁盛させたんだよね。それで今度は独立して正道会館を立ち上げたんだけど、石井館長は空手側から、猪木さんやUWFの繁栄をずっと見てきたわけだよ。「格闘技でもなんでああいう大きな興行ができないのだろうか?」と。それまでの空手の先生はさ、興行に関わることは不浄でやっちゃいけないもの。武道精神に反するものだという考えがあった。でも、石井館長は優秀な商売人なのでどんどん興行に乗り出すわけですよ。
――プロレスの手法を取り入れて格闘技をショーアップしていったわけですね。
山本 大山USA空手との5vs5対抗戦とかさ、これは新日本が維新軍団とやっていた綱引きマッチ企画と同じ発想ですよ。それくらい石井館長には猪木さん的な野心があった。なぜプロレスは興行的に繁栄して、定着してるのか。なぜ格闘技がマイナーなのか。石井館長はプロレスに巨大なコンプレックスを持っていて、反抗心と反発心で燃えていったわけだよねぇ。
――空手の先生としては珍しいタイプですよね。
山本 それはビジネスマンとしての能力が高いからですよ。芦原空手を大阪で成功させ、正道会館も成功させ、K−1を世間に定着させた。石井館長はプロレスに対して偏見がなくて、『週プロ』が売れているなら利用してやろう、と。K−1が幸運だったのは、あのときフジテレビが格闘技委員会を作って地上波でK−1を扱うことになったでしょ。石井館長からすれば、継続的にKー1をやるためには、『週プロ』の力は必要。あのプライドが高い人がベースボールマガジンまで来て「興行のことを教えてください」と頭を下げるんですよ! こっちは気持ちよくなって『週プロ』に石井館長のことを載せちゃうわけだよねえ。
――懐への入り方がうまいんですね(笑)。
山本 K−1は最初は代々木第二クラスの興行をやっていたけど、横浜アリーナに進出する、と。そのときに石井館長はボクに「打撃の有名選手を集めたオールスター戦をやるか、それともK−1リベンジをやるのかどっちがいいか」と聞いてくるんだけど。石井館長の顔を見たらさ、「K−1リベンジをやる」と大きく書いてあるんですよ(呆れ気味に)。
――答えが決まってるのに聞いてきた(笑)。
山本 わざわざ確かめに来るわけ。俺も「そんなのK−1リベンジに決まってますよ!」と言ったよ。石井館長も他人の意見を聞いたら確信が深まるじゃない。「やっぱりそうか!」と。それでK−1リベンジをやって大成功ですよ。
――「リベンジ」は松坂大輔も口にしたことで流行語にもなりましたよね。
山本 「負けた者がやり返す」という図式は人間の感情に訴えるものがあるし、非常にプロレス的な発想だしね。
――しかし、「山本さんの意見を取り入れました!」というくすぐり方もさすが館長ですね(笑)。
山本 人垂らしですよ! あるときなんて、締め切りで忙しいのに熱海温泉に連れて行かれて宿泊先は超一流ホテル。スイートルームでマッサージをやってもらってねぇ。気持ちよかったねぇ。
――骨法もそうですけど、マッサージ接待に弱いんですね(笑)。
山本 あの頃の俺はファッションは良くなかったから、館長が「山本さんがテレビに出るときのための服を作ろう」と大阪から仕立て人を呼んでくるわけですよ。それでオーダーメイドのスーツをプレゼントされたりさ。
――わざわざ大阪から!
山本 あと石井館長から当時にしては相当珍しい携帯電話を渡されたんだよ。凄く重くて大きい携帯。それはどういうことかというと「山本さんとホットラインを作りたい。何かあったときに山本さんに相談したい」と。
――でも、『週プロ』を辞めたあとに取り上げられたんですよね?(笑)。
山本 そう! 『週プロ』を辞めたあとも使ってたんだけど、K−1からすると意味不明な経費になるわけだよ。それで返さないといけなくなってさ。俺と石井館長の関係なら死ぬまで与えられると思ってたの。途中で「返してくれ」と言われたときはガッカリしたよねぇ。「なんだ、俺たちの友情も賞味期限があったのか」ってさあ。
――まあ、残当ですよ(笑)。
山本 でも、こういう石井館長のエピソードからK−1大成功の要因がよくわかるよね。そこまで徹底する人はプロレス界にはいないじゃない。「価値があるなら利用すればいい」。そこまで割り切ってるやる人間はプロレス界にはいなかった。みんなお山の大将だから。
――石井館長は山本さんの個人会社の資本金も提供されたんですよね。
山本 あれはビックリしたよ。石井館長がいきなり紙袋を持って現われて中身は1000万円。
――ハハハハハハ!
山本 「山本さんは『週刊プロレス』というジャンルを超えてるから、会社を作っていろいろとやったほうがいい」と。俺はそのお金で競馬をやろうとしたんだけど、当時のカミさんがダブルノックアウトという会社を勝手に作って。それがのちに離婚するきっかけになったわけだけどさあ。たしかに石井館長の言うとおりでフリーでやったほうがよかったんだよ。でも、当時はプロレス馬鹿だからそんな考えはまったくなくてね。フジテレビの格闘技委員会からも話がきたんよ。あとサムライTVからも話があった。
――三井物産がバックについていたときのサムライTVですね。
山本 あのとき会社をやめていれば、また世界が変わったよなあ。当時の『週プロ』は部数が落ちていたから転機ではあったんだよね。アメリカ人なら転職することがステップアップになるけど、それができなかった俺は田舎者だよ。2回もチャンスを逃している。
――そのチャンスをものにしてるのは谷川さんですね。谷川さんは当時『紙のプロレス』発行人だった柳沢忠之さんと組んで、K−1やPRIDEのプロデュース業に携わっていきましたよね。
山本 柳沢さんは表に出ない人。谷川は表に出れる人。いいコンビだったよねぇ。柳沢さんは頭がいい人なんでPRIDEとK−1を股にかけていろんなアングルを考えていたからね。つまり彼らはさ、僕らのやってきたことを映像メディアでダイナミックにやろうとしたわけだよね。それまでは雑誌レベルだったけど、彼らは自ら興行団体の中に入っていった。
――山口日昇もそうですね。
山本 あの3人はボクの後継者みたいなもんだからね。ボクがプロレス界で活字でやったことをイベンターとしてやって成功して。いまは悲惨だけどねぇ、3人とも。クククククク。
――ハハハハハハ! 山口のオッサンなんて数百万の時計を大人買いしてたんですけどね。
山本 羨ましいほどの天下を取ったわけじゃない。俺からすると、PRIDEとK−1の人たちは馬鹿だよなあって思うよね。なぜあんな栄光と繁栄をみすみす逃してしまったのか。ホントありえない話だよ。
――K-1は脱税、PRIDEは反社会勢力との接点疑惑、『ハッスル』は日プロばりの放漫経営。いずれも凡ミスではありますね。
山本 本当にもったいない。あんな繁栄は二度と訪れないわけだから。そこは舞い上がってしまったんだろうねぇ。大きな金が動くと人間誰しもおかしくなる。でも、俺だってまさかK−1やPRIDEがなくなるなんて思わなかったよ。
――プロレス格闘技の紙媒体もどんどんなくなってますし。
山本 『格通』がなくなるとは思わなかったよ。『ゴング』もkamiproもなくなるんだよ。『週刊ファイト』だってレジャーニュースもなくなった。どおりで俺に仕事がないわけだよ!
――山本さんは『SRS・DX』の編集長もやってましたよね。
山本 あれで毎月50万もらってたよ。
――専属じゃないのにそんなに!
山本 そうなんよ。それ以外にもターザンカフェ、単行本、他媒体の原稿を書いてたりしてた。
――月収で80〜100万くらいあったわけですよね。凄いなあ。
山本 全部競馬に使った! 俺は金に困ったことがないんだよ!!
――Suicaを解約して競馬に打ち込んだ男の言葉だとは思えない(笑)。そんなK-1やPRIDEの格闘技ブームの原点はUWFですよね。
山本 思ってなかったよ。UWFにそんな理想はなかった。
――あ、言い切りましたね。
山本 UWFはあくまでプロレスという世界の改革者だった。80年代後半の新日本プロレスは相当いい加減なプロレスをやっていたわけですよ。名ばかりのストロングスタイル。フェンスアウトでお茶を濁していたりさ。
――当時はいまのように完全決着スタイルではなかったですね。
山本 カードもいい加減。ファンが望んでる試合、たとえば猪木vs前田をやらなかったりして、ストロングスタイルが堕落したものになって、極端なバラエティプロレスになっていた。藤原喜明を中心として新日本の道場で培われたアイデンティティがまったく活かされてなかったわけですよ。
――そのアイデンティティを活かすためにUWFは立ち上がったわけですね。
山本 「俺たちはあんなふざけたプロレスをやるために厳しい練習をしてるんじゃない!」という。だからUWFの原点は“プロレス復権”なんですよ。格闘技だ真剣勝負だは関係なかったんですよね。
――なるほど。同時期に全日本プロレスで起きた天龍革命と意味合いは似ている。
山本 UWFと天龍さんの動きは表裏一体だったわけ。馬場さんのプロレスは格式のプロレスで序列があるじゃない。全日本もその格式や序列を保つために場外乱闘引き分けなんかが多かったわけですよ。大物同士の試合になるとほとんど決着がつかない。「またかよ……」。ファンはそんなプロレスにガッカリしていて絶望感と失望感が蔓延していたんですよ。☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ
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