プロレスと格闘技の境界線が曖昧だった「プロ格・大航海時代」の90年代――格闘家のプロレス転向の嚆矢ともいえた存在が村上和成である。初期・和術慧舟會を知る男は、伝説の格闘技イベント『トーナメント・オブ・J』やバーリトゥードと呼ばれていた時代のアメリカを体験し、日本では『PRIDE・1』の記念すべきオープニングマッチを務めた。プロレス転向後はアントニオ猪木が率いる最凶軍団UFOに参加し、“暴走王”小川直也の片腕として活躍。100年に1度のシュートマッチ、小川直也vs橋本真也の通称“1・4事変”では、UFO軍団の暴挙に怒り狂った新日本プロレス勢に集団で踏みつけられ意識不明の重体に追い込まれた。そのアクシデントをきっかけに新日本勢との抗争劇が開始。「平成のテロリスト」として多くの団体で存在感を示していたが、脳挫傷を負って以降はリングとは距離をおいている。そんな村上和成の命懸けのプロレスロードを16000字でロングインタビューで振り返ってみた。
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■アンデウソン・シウバを極めた元カリスマブロガーの懺悔録! 高瀬大樹ロングインタビュー「俺は本当に悪い奴でしたよ……」
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「SWSが使った金は100億円。凄くいい団体だったよ……」
「メガネスーパーの田中社長が亡くなる直前、あることを頼まれたんだよ」
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「今年DEEPがやらなかったら、大晦日のたまアリで二度と格闘技興行はできないかもしれない」
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――いまは格闘家が気軽にプロレスのリングに上がれる時代ですけど、村上さんは意識不明に脳挫傷……命がけでプロレスに取り組んでましたよね。
村上 あー、そこは時代的なものもあると思うんですね。ボクの場合は佐山(サトル)先生や小川直也という人間に出会って、もっといえばアントニオ猪木にプロレスというものを教えられたわけですから。
――プロレスデビュー当時から濃い方々との付き合いがあって。
村上 じつはボクはガキの頃からプロレスをバカにしていた人間で。格闘技やってた頃も「なぁ〜にがプロレスだよ?」と文句を言っていたほうなので(笑)。それがこんなにもプロレスに惚れこんでしまって……。ボクの人生でプロレスくらいなんですよ、ここまで惚れ込んでしまったものって。
――村上さんは新弟子生活を経てデビューしたわけじゃないですよね。
村上 はい。だからプロレスの練習をしたことがなかったんですよね。それに猪木さんが小川さんに出した指令が「村上にはプロレスの練習をさせるな!」ですから(笑)。
――ハハハハハ! プロレスをやるのに!
村上 「おまえは本能のままに戦え!!」と。それはいまでもそうなんですけどね。受け身とかは現場で勉強していくというか、「これは痛いな」「このまま受けるとヤバイな」ってそんな状態。だから最初は「なんでみんなロープに振られるんだろう?」ってバカにしてたんですけど。でも、ちゃんと背中にロープを当てて返らないと危険なんですよね。
――ロープの中には鉄のワイヤーが入ってるから、ヘタに受けると危険ですね。
村上 それでロープを利用したほうがいいことがわかったんですよね。それでも理解するのに5〜6年はかかりましたけど(笑)。あとボクがラッキーだったのは「本能のまま戦え!」とは言われたけど、実際にそう戦ったら相手が大怪我することもあるじゃないですか。「本能のまま戦え!」という猪木さんの難しい言葉を具現化してくれたのは、バトラーツの石川(雄規)社長だったんですよね。
――なるほど! 石川さんって“猪木プロレス”を真剣に考えて実践してましたね。
村上 そうです、そうです。石川さんは猪木さんの黒いタイツや赤いタオルも真似てましたし、猪木さんのような試合をしていた。ボクがバトラーツに上がったときに「何をやってもどんなことをやってもいいんだよ」と言ってくれたのがその石川社長で。その言葉を受けてボクは試合になるとケガをさせたり、ケガをしたり……たいていはケガをさせるほうだったんですけど(苦笑)。
――そうやって場数を踏むことで、村上さんの暴走スタイルが確立されていったんですね。
村上 はい。バトラーツで経験が積めたのは大きいですよね。
――小川さんとはその経験の違いがあったのかもしれませんね。
村上 小川さんはWWEとかアメリカンプロレスが大好きだったりするじゃないですか。
――ハルク・ホーガン大好きですからね(笑)。
村上 そうなんですよね(笑)。それでいて猪木さんや佐山さんにプロレスとは何かを教えられ、新日本プロレスとも緊張関係がある中で、リングに立ち続けてきたので、小川さんはどうしても「コノヤロー!」というスタイルにはなっていきますよね。
――経験が浅い時期から先鋭的なストロングスタイルが求められてしまった、と。
村上 それは小川さんしかできない役割でしたし、一緒に長くやってきましたけど、ボクとは立場は違いましたよね。あとUFOのときは小川さんの命令もあって身体を絞ってたんですよ。でも、永田裕志の蹴りをもらったときに「この身体ではダメだ」と思って。永田裕志もボクと同じ本能のまま戦ってくるタイプですけど、それだけに細身だとあの蹴りは耐えられないんですよね。
――永田さんのキックでプロレスに目覚めたところもあるんですね。
村上 当時のボクは90キロもなかったですからね。ボクと戦う相手は蹴ったり殴ったりバンバンくるわけで、ボクはその攻撃をガッチリ受けて「そんなの効かない!」とアピールしなくちゃならないですから。それで肉を付けるようになったんですよ。
――村上さんは格闘家の頃からプロレスラー志望ではなかったんですよね?
村上 考えもしてなかったですよね。というか、ボクの場合、人生の分岐点がほぼほぼ自分の意思じゃないんですよ。高校の柔道部の監督の命令で拓殖大学に入りましたし、大学卒業間際に拓大の先輩にあたる西良典先生が東京で和術慧舟會の大会をやったんですけど、意味もわからず出ることになったり(笑)。
――総合格闘技も自分の意志ではなかった、と。
村上 そうなんです。「おまえ、殴って蹴って骨を折ったら、みんなから拍手されるんだぞ? 喧嘩しても拍手はされないだろ?人生の記念になるぞ!!」とか言われて(笑)。しかも大学の先輩後輩の関係ですから断ることなんかできないんですよ。先輩の言葉に「NO」はない。それで大会に出たら優勝してしまって。
――それが「真・格斗術トライアル・トーナメント」なんですね。
村上 あれは新宿スポーツセンターでやったんですよ。1回戦の相手がトーワ杯3位の方で。柔道着にグローブをつけさせられて「先輩、これだと相手を掴めないんですけど」って言ったら「馬鹿野郎!とにかく相手をぶん投げて骨を折ればいいんだよ!」と怒られて(笑)。
――ハハハハハハハ! 総合格闘技の知識はあまりなかったんですね。
村上 まったくないです。柔道と相撲と喧嘩殺法だけ。とりあえず格闘技をやらなきゃいけないと紹介されて通ったところが黒崎道場だったんですよ。「誰だよ、黒崎って?」という感じだったんですけど。
――“鬼の黒崎”を知らなかった!(笑)。
村上 まったく知らなかったです(笑)。黒崎先生には「つま先で立って構えていろ」と言われて。ボクはバカだからそのままの姿勢で立ってたんですけど、何時間経っても先生が来ないんですよ(笑)。
――必殺・放置プレイ笑)。黒崎道場にはセメントでできたリュックを背負って歩くという練習もあったそうですね。
村上 ありましたねぇ。二宮金次郎のようにマキが入ったカゴを背負って走ったり、砂袋が入ったタイヤを引っ張りながら走ったり。そのうちに「佐山のところに行ってこい」ってことで佐山先生のところでキックの練習をするようになりました。それでトーナメントで優勝したら「フリー」だった所属がいつのまにか「和術慧舟會」に変わっていて。
――あ、入門した記憶がない(笑)。
村上 「えっ、和術慧舟會ってなんだろ?」って感じですよ(苦笑)。
――村上さんの頃って東京本部の道場はあったんですか?
村上 道場はボクがアメリカで試合をする半年くらい前にできたんですよね。東京での活動自体は、久保(豊喜)社長と、亡くなられた守山(竜介)さんが拓大出身だったことで、西先輩に頼まれて始まったんですけど。
――そこも拓大の上下関係から生まれたんですね。
村上 久保社長は当時、不動産の仕事をやっていて。その久保社長の事務所の中に間借りするかたちで、守山さんは中古車ディーラーの仕事をやってましたね。
――当初は仕事の合間に東京本部の活動をされていたんですね。
村上 新宿スポーツセンターや区の柔道場を借りて、守山さんと2人きりで練習してたんですよね。ただ広い柔道場に2人だけで(笑)。
――それが和術慧舟會東京本部の原点だったんですねぇ。
村上 そのうち宇野(薫)くんとかあのへんのチームが練習に来るようになって、そのうち東京本部の道場ができたんですよね。
――のちに和術慧舟會のエースになる小路(晃)さんと村上さんと同郷ですよね。
村上 アイツとはまったく接点がないんですよ。高校が同じ柔道部なんですけど、大学に進んだボクが格闘技をやってることを知っていて、「格闘技をやりたい」という電話があったので慧舟會に入るように薦めたくらいで。どこかで会えば「おう!」と話はしますけど。
――話を戻すと村上さんは「トーナメント・オブ・J」にも出ることになりましたけど。高阪剛さんをはじめ、のちの有名格闘家がこぞって参加した伝説のイベントですよね。
村上 ボクは1回戦で郷野(聡寛)選手と闘ってハイキックで負けて。そこで初めて火が付いたんですよ。「コイツにはリベンジをしないといけない!」って。蹴り一発で負けた自分が情けなくて、就職活動を一切放棄して格闘技に集中したんです。
――無茶しますねぇ。
村上 いろいろと就職の話はあったんですけどね(笑)。それで翌年の「トーナメント・オブ・J」で郷野選手にリベンジを果たして、格闘技をやってることがだんだん楽しくなってきたんですけど。働かないと当時は格闘技だけで食べていけないじゃないですか。
――「プロ格闘家」が成立しない時代でしたね。
村上 それで築地の市場で働くことにしたんですよ。築地の仕事って早朝に始まって昼に終わるという感覚があって、それなら練習もできるかなと考えていたら、ボクが働いていたところは朝早くて夜遅いんです(苦笑)。そんな中、アメリカのエクストリームファイティングからオファーがあって。慧舟會を通しての話だったんですけど、試合の3週間前に「行け!」と言われて。
――そこも断れない命令でしたか(笑)。
村上 なんで自分にオファーがあったかというと、ボクが木村政彦先生の孫弟子にあたるという話題性もあったと思うんですよね。強かろうが弱かろうが、柔術発祥の地である日本の格闘家に勝ったら「凄い」という話になりますし。
――木村政彦の名前はやっぱり轟いていたんですね。
村上 本当に木村先生は凄いですよ。とくに大外刈りは倒されたら一本だし、倒されなかったら足の骨が折れますから。
――ファッ!?
村上 拓大では木村先生式の大外刈りの練習させられるんですけど、それは木村先生にしかできなくて。ボクの拓大時代の柔道部監督だった岩釣(兼生)先生が、木村先生の弟子の中でも唯一習得したと言われてるんですけど、木村先生に言わせるとそれでも半分の出来らしくて。岩釣先生にその大外刈りをかけられたんですけど、足の骨が折れるかと思いましたね(笑)。
――半分でもその破壊力(笑)。
村上 当時の岩釣先生って60歳近かったたんですけど、身体を持たれたら動けなかったです(笑)。で、アメリカの試合に出ることになったんですけど、試合に備えるとなると仕事をやめないといけないじゃないですか。そこで困っていたら、働いていた会社の専務がバスケのジュニア五輪の選手だったことがあるんです。その方が社長に「村上が試合に出るから試合前後は休まないといけない」と頼み込んでくれて。
――元スポーツマンとして親身になってくれたんですね。
村上 社長も最初は「総合格闘技ってなんだよ、それ?」って半信半疑だったんですけど、ボクが取り上げられてる『格闘技通信』を見せたら「おまえは雑誌に載るくらい選手なのか?」って納得してくれて。ボクが働いていたのは仲卸の青果だったんですけど、店の前にカンパ箱を置いてくれて。毎朝1万円を入れていってくれるオジサンもいたんですよ(笑)。
――築地を挙げて応援されてわけですか(笑)。
村上 1週間か10日くらいで20万円くらいになりましたねぇ。でも、対戦相手の写真を見せたら「おまえ、こんな身体のでかいヤツには勝てねえだろ!?」って。
――バート・ベイル。スーパーヘビー級の体格でリングスや藤原組にも出てましたね。
村上 そんなことはまったく知らなくて。アメリカに行ったら、ほかの選手たちが「頼むからアイツをぶっ飛ばしてくれ!」って口を揃えて言ってくるんですよ。通訳が言うには「ベイルはみんなから嫌われてるらしいんだよ」って。
――ちなみにファイトマネーはどれくらいだったんですか?
村上 慧舟會を通してたので正確な金額はわからないですけど。あんときは面白いシステムで、相手のファイトマネーが100万、ボクが10万だとしますよね。ボクが勝ったら金額がひっくり返るんですよね。
――それは面白いですね。
村上 イベント側はバート・ベイルを看板選手にしたかったみたいですけど、ボクが勝ってしまったから相撲といえば金星ですよね。ボクは10万円もらってなかったですけど(笑)。
――ひっくり返ったお金は届かなかった、と(笑)。
村上 まあ、アメリカで試合ができるだけで満足でしたけどね。相手はホントに力が強くて、ハンパじゃなかったんですよ。もう柔道の原理が通用しない。「殺さなかったら殺される!」と思って、そこからはもう喧嘩殺法ですよね。しこたま殴りまくって、それでレフェリーに止められてコーナーに戻るように言われたんですけど、ドクターチェックみたいなことをして試合を再開させようとするんですよ。
――看板選手を負けさせることはできなかったんでしょうね。
村上 でも、ベイル本人が「もうできない……」ということで。それで後日、ベイルが出る予定だったタイトルマッチにボクが出ることになったんです。
――それがモーリス・スミス戦なんですね。
村上 そこではモーリスに負けてしまったんですけど。当時の格闘技興行って「生きるか、死ぬか」みたいなところがあって、控室で「俺は何人殺したぞ!」とかうそぶいてるような連中ばっかなんですよ。
――ならず者の集まりという。
村上 試合も危なくて、どんなに殴られても、完全に伸びてる状態でもレフェリーが止めない。いまの10倍は殴られたあとでようやく止めるから、負けた奴はみんな救急車で運ばれますよね。
――いまからするとホント危ないですよね……。
村上 レフェリーが総合格闘技というものをよくわかってなかったんですよ。だからセコンドが割って入って試合を止める。あとルール上は噛みつき、金的、目潰しは禁止だったんですけど、噛み付き以外は全部やってきますからね。パンチを打つふりして目に指を入れてきますし、ファールカップをズラしてきますし。
――まさに“なんでもあり”という。
村上 あとエクストリームファイティングの第2回大会に出場した選手は全員逮捕されてますからね。
――地下格闘技でも一斉摘発はされないですよ!(笑)。
村上 なんで逮捕されたかというと、グローブをつけることは州の規則で決まってるんですけど、試合前にみんなグローブを外して素手で戦ったんです。それで宿泊先のホテルに帰ったら警官隊に囲まれて全員逮捕(笑)。ボクの出場した回からグローブをちゃんとつけるようになりましたから。
――あの頃のMMAイベントは開催するだけでも一苦労でしたね。
村上 あのときはボクシングを脅かす存在だったんですよね。お客なんて5割も入ってないんですけど、PPVがたくさん売れたみたいで。翌日にショッピングモールに買い物に出かけたら、みんなから声をかけられて驚きましたね。
――そのあと村上さんは「PRIDE・1」の記念すべき第1試合に出られて。
村上 それで「もう格闘技はいいかな」と思ったんですよ。もともと好きで始めたことではないし、ある程度やったんでこれでいいかな、と。UFOに入ってからも自分の意志で格闘技のリングに上がったことは一度もないんですよ。すべて会社なり小川さんが「行け!」ってことで。
――伝説の2003年『猪木祭り』のステファン・レコ戦も急なオファーだったじゃないですか。
村上 オファーから試合まで2週間なかったですね。ルールも総合にするかどうかという話になったんですけど、「なんでK−1の選手と戦うのに総合なんですか。プロレスラーはどんなルールでも戦うんですよ」ってことであえてK−1ルールで戦って。
――プロですね!
村上 でも、ギャラもらってないんですけどね(苦笑)。
――あら、村上さんも『猪木祭り』被害者の会でしたか!(笑)。
村上 半分もらってないです。半分は事務所に言ってもらいましたけど。けっこうもらってないことがあるんですよね。『真撃』とか。
――ゼロワンが主体となったプロ格イベントですね。主催したステージアはじつは第1回『猪木祭り』も主催していて。
村上 大阪城ホール、超満員だったんですけどねぇ(笑)。ジョシー・デンプシーというボクサーにおもいきりフックでぶっ倒されてるのにノーギャラだったんだよなあ……。
――話を戻すと、村上さんは猪木さんが主宰するのUFOでプロレスデビューすることになりますね。
村上 きっかけはホント偶然で。ちょうどゴールドジムが日本にやってきたんですけど、行徳のゴールドジムを間借りするかたちで「何かをやってもらえないですか?」という話になって。そんなにやる気はなかったんですけど、順道会館という道場を始めたんですけど、格闘技界って閉鎖的じゃないですか。「俺のところには連絡が来てないぞ!」という声が凄くあって。
――道場をやるなら挨拶してこい!と。
村上 そうなんですよ。お金もないし、手書きの文章を作って、いろんなジムや道場にFAXを送って。そうしたら以前練習をさせてもらった佐山先生から連絡があったんですよ。「村上くん、六本木の事務所に来てよ。会長がいるからさ」と。会長って最初は誰のことかわからなかったんですけど(笑)。それがプロレスの始まりですね。
――FAXを送ったことで佐山先生の目に止まったわけですか。
村上 そうなんですね。それで事務所に行ったら猪木さんと佐山さんがいて。「会長、彼です。2年前から言っていたのは」と言われて。「はじめまして、村上です」と挨拶したら猪木さんは「おお、頑張れよ!」とおっしゃられて。何を頑張るのかわからなかったんですけど(笑)。そうしたら1週間後にまた佐山さんから電話があって「3日後にロサンゼルスに行ってくれない? オーちゃんも行くから」と。「誰だよオーちゃんって?」感じで。
――「会長」だの「オーちゃん」だの(笑)。
村上 あらためて事務所に行ったら小川さんがいたんですよ。「オーちゃん=小川直也のことかよ!?」ってビックリしちゃって(笑)。柔道家のボクからすれば小川直也というのは雲の上の存在ですよ。直立不動になりましたし。
――それで小川さんと一緒にロサンゼルスに格闘技修行に行くことになったんですね。
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