静岡の超有名アマチュアファイター、佐野哲也。プロレス・格闘技ブログ「スイミングアイ」を運営するブロガーとして、前田日明が主催した不良格闘技イベント『アウトサイダー』に参戦。“リアル神代ユウ”のキャッチフレーズで活躍した。現在はパンクラスに参戦中である。「見る側」、「書く側」、「やる側」という何足ものわらじを履いた男を通して見える格闘技界とは?
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――佐野選手が格闘技をやるようになったのは何がきっかけなんですか?
佐野 最初に興味をもったのはプロレスなんですけど、中学生の頃、『ワールドプロレスリング』が深夜にやってたんですよ。初めて見たときにグレート・ムタvs小川直也の試合が流れていて。
――ムタが“指”ひしぎ逆十字固めで小川直也に勝った試合ですね。
佐野 そうです、そうです(笑)。レフェリーがアントニオ猪木で。
――あの試合は97年ですからPRIDE前夜の頃ですね。
佐野 あの当時のプロレスってテレビは夜中しかやってないじゃないですか。プロレスラーもテレビにはそんなに出てなかったし、一般的には馬場さんが『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!! 』に出演していたくらいで。アントニオ猪木はいちおう知ってる。小川直也もオリンピックに出ていたから知ってる。「じゃあこの黒塗りの男は誰だ?」って話になるんですけど、その男がいちばんカッコ良かったわけですよ。レフェリーのアントニオ猪木にいきなり毒霧をかけるわ、試合でも好き放題やって。あの試合が入り口でしたね。
――そこから格闘技に興味を持つようになったんですか?
佐野 大学生になりまして。埼玉大学だったんですけど、関東だったら格闘技のジムや学生プロレスがあるだろうと思ったんですよ。それでサークル紹介誌を見ていたら、一面プロレスの写真や絵のサークルがあったので入ってみたら全然プロレスとは関係なくて。実際はキックボクシングだったんですよね。
――騙されて入会したわけですか(笑)。
佐野 そうですねえ。ミットをガンガン蹴らされたりしてサークルにしてはハードでした。そこはキックだけじゃなくて最初は寝技もやってたんです。創始者が和術慧舟會のA3ジムに通ってた方で。そのうちボクは新空手に出場するようになって、空手着を着てK−1ルールで戦うんですけど、空手をやってないのに空手着を持ってましたから(笑)。あとはアマチュアのシュートボクシング。
――大学の頃から“やる側”だったんですね。
佐野 プロレスのほうが好きだったんですけど、学生プロレスがないならやりようがないので。プロレスは見るものとして楽しむ、格闘技はやるものとして楽しむ、と。
――格闘技をやり始めると、プロレスから離れていきがちなんですけど。
佐野 ボクの入り口はグレート・ムタだったんで。いわゆるガチだヤオだはどうでもいいじゃないですか(笑)。
――90年代って多様性がありましたよね。プロレスも格闘技もどちらも見る層がいまよりも多くて。
佐野 ボクも両方見てましたからね。大学の英語の先生が「おまえ格闘技やってるのか?アントニオ猪木は本当に強かったんぞ!!」と力説されたんですけど。実際に強かったと思うんですけど、その頃はPRIDEもやっていてから、格闘技とは違うものとしてプロレスは楽しんでいましたね。
――当時はK−1も絶頂期ではありましたね。
佐野 あー、大学に入る前はK−1も見てましたね。あとシュートボクシングにも憧れはありました。漫画の『修羅の門』ってあったんですけど、そこにシュートボクシングのキャラが出ていたので。
――大学卒業後に地元の静岡に帰らず、東京に残って格闘技をやるという考えはなかったんですか?
佐野 格闘技は続けたかったんですけど、もともと警視庁に就職するはずだったんですよ。でも、警察学校に入ってみて考えが変わりまして。この環境で仕事をやりながら格闘技を続けるのは厳しいかなあ、と。警察をやりながら格闘技をやってる方もいるんですけど。たとえば静岡県でいえば関根秀樹選手。
――ヘビー級のシュレック関根選手ですね。
佐野 でも、ボクはそこでスパッと切り替えて警察学校をやめて、地元で就職することにしたんです。それで格闘技も続けよう、と。
――それはおもいきりのある決断ですねぇ。格闘技のために警察学校をやめるという経歴は青木真也選手と同じですけど。
佐野 そうですね。もちろん仕事というのは、生活をしていくうえでベースになるんですけど「なんのために仕事をするのか」といえば、生きていくためと、やりたいことをやることだと思うんですよ。
――それが佐野選手にとっての格闘技だった、と。
佐野 関東のほうでも就職を考えたんですけど、地元で戻ることになって。ちょうどその頃、和術慧舟會駿河道場が沼津にオープンしたので入会しました。格闘技に人生を懸けるわけではないんですけど、継続は力なりで、格闘技を継続できる環境があるのは重要だと考えたんですね。
――格闘技をやる環境作りっていろいろとありますよね。ジム経営、スポンサー獲得、ファイトマネーだけの生活。佐野選手のような道もある、と。
佐野 アマチュアSBで大学のときに優勝したので、仕事をしながらアマチュアSBには継続して出ていこうかな、と。駿河道場は総合のジムではあったんですけど、寝技はとくにいいやって感じで。五味(隆典)選手の名言じゃないですけど「寝技はゴチャゴチャしてわかんねーや」っていうのがあったんで(笑)。
――就職後もアマチュアSBだけに出られてたんですね。
佐野 だから迷惑なくらい優勝してるんですよね。7回くらい(笑)。
――アマチュアSB永世名人(笑)。
佐野 シーザー(武志)さんも「いつもありがとうな」って感じで言われてまして。
――プロのSBに上がらなかったのはなぜですか?
佐野 プロはやっぱり強いので(笑)。
――アマチュアSBに出続けることで飽きが出てきたりはしませんでした?
佐野 それもあって総合に出ることにしたんですよ。ジムではグラップリングも教わってたんで「出てみようかなあ」と。最初に出たのが新宿でやったアマチュアDEEP。当初は韓国人選手とやるはずだったんですよね。
――いきなり国際戦だったんですね。
佐野 そうしたら当日対戦相手が来なくて。試合のために静岡から来たのに「相手がいないの!?」って困ったんですけど。で、当時ボクは77キロ級だったんですけど、一階級下の70キロ選手が2試合受けてくれると。その選手が吉田道場の選手で国体2位の中村謙作選手で。当日に試合が決まって、体重差もあったんでボクが勝ったんですけど。そういう縁もあるので中村選手のことは陰ながら応援させていただいてます(笑)。そのあと『アウトサイダー』に出始めたんです。
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