インタビュー形式で90年代のプロレス界を回顧する新連載! 元『週刊ゴング』編集長・小佐野景浩の「プロレス歴史発見」。初回のテーマは1990年春――プロレスベルリンの壁崩壊と謳われた2・10『スーパーファイトin闘強導夢』と、WWFが全日本、新日本と手を組んだ4・13『日米レスリングサミット』、そしてメガネスーパーのSWS設立。怒涛の時期を振り返ります!
――1990年代のプロレスバブルを振り返るときに、全日本プロレス勢が新日本プロレスに初参戦した歴史的興行、90年2月10日『スーパーファイトin闘強導夢』、そして全日本、新日本、WWF(現WWE)の共催となった4月13日『日米レスリングサミット』の2大東京ドーム大会は欠かせません。その直前までは“プロレス冬の時代”なんて言われてましたけど、当時はどんな不況感があったんですか?
小佐野 “プロレス冬の時代”の話をすると、プロレス・マスコミが”冬の時代”という言葉を使うのは新日本が低迷している時期なんですよ。だから83年夏にクーデター騒動が起こり、84年春にまず旧UWFが誕生して、秋に長州力たちがジャパンプロレスとして新日本から全日本へ集団移籍したあたりからが冬の時代に突入しましたね。ようやく春を迎えるのは87年に長州たちが新日本にUターンしてからですよ。
――あれだけの数の選手が離脱して、新日本はよく持ちこたえましたね。
小佐野 あのときの新日本って、アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳、木村健吾とその年に入門した三銃士(橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋)や山田恵一しかいないから、平田淳嗣やヒロ斎藤を海外から呼び戻したりしたんです。そのあと旧UWFと業務提携するんですけど、それでもお客は戻らなかったんですよ。
――あ、前田日明ら旧UWF勢が帰ってきてもお客は入らなかったんですか。
小佐野 ええ。それで結局、87年に長州力たちを全日本から呼び戻すというウルトラCを仕掛けたわけですけど。全日本としても、長州たちが加入して凄く盛り上がると思ったら、意外にそんなでもなかった。馬場さんの予想を下回っていたと思いますね。
――ジャパンプロレスというあれだけの大所帯を抱えることになったら、そのぶんお金もかかったでしょうし。
小佐野 あの頃の全日本って40人以上の選手を抱えて巡業してましたからね。とんでもなく人件費がかかってましたよ。全日本プロレスからしてみたら、人気絶頂の長州力たちを呼び、大塚直樹とか元・新日本の精鋭営業部も手に入れたわけなんですけど……。
――馬場さんは大勝負を懸けたわけですね。
小佐野 本気で新日本プロレスを潰そうと思ったんでしょうけど、思ったほどはお客は入らなかったんですね。だからあのときにスーパー・ストロング・マシンとヒロ斎藤、高野俊二のカルガリー・ハリケーンズも全日本に来たけど、馬場さんからすれば、ぜんぜんいらなかったというか(苦笑)。
――選手はもう間に合ってます!(笑)。
小佐野 そんな引き抜き戦争の最中、決定的な出来事が起きるんです。85年の暮れにブルーザー・ブロディがIWGPタッグ決勝を当日ボイコットした事件があったでしょ。ボクはね、ブロディはそのまま全日本に戻るのではないかと思ったんです。というのは、ブロディが新日本の仙台大会ボイコットした日は、ちょうど全日本の武道館大会があった。全日本の最強タッグの決勝戦だったんですよ。
――もうお膳立ては整ったと見るのが妥当ですよねぇ。
小佐野 僕は全日本担当だったので、ブロディの来場に備えてカメラマンを入り口に張らせたりして。でも、馬場さんにそれとなく聞いたら「引き抜きなんかするわけないし、ブロディがこの会場に来る勇気もないはずだ」と。
――結局ブロディは姿を現われませんでしたね。
小佐野 新日本と全日本も引き抜き戦争に疲れてしまったところもあったんでしょう。あの直後に馬場と猪木の間で話し合いが行われて、引き抜き防止協定が結ばれたんですよ。その協定書は弁護士を入れて作った本格的なもので。
――それはどんな内容なんですか?
小佐野 当時は日本人も外人も全員どちらかの団体の選手だったわけじゃないですか。まず「この選手はこの団体の選手です」と明文化をすると。それでたとえば新日本の外国人選手が新日本と契約が切れたとしても、新日本が「その選手とは契約をしません」と通告するまでは全日本は手を出してはいけないという。
――なるほど。不可侵条約なんですね。
小佐野 その協定を破った場合は、引き抜いた選手の年俸の5倍の違約金を相手の団体に払うという。
――5倍!! 当時のプロレスラーって年俸も高かったじゃないですか。仮に安くて500万だったとしたら、2500万を払わなくてはいけないってことですね……。
小佐野 それはつまり当時のプロレス界は馬場と猪木に逆らったら生きていけませんということなんです。たとえば前田日明が長州力の顔面を蹴って新日本を解雇された事件があったじゃないですか。それでも全日本は前田日明に声をかけられないんです。なぜかといえば、あのとき新日本は記者会見で「前田日明を解雇したけど、フリーとしていずれ上がる可能性がある」と言ってるからです。
――そうすると全日本からすれば、協定書上は新日本所属となっている前田日明に声をかけることができないわけですね。
小佐野 前田日明はその後に新生UWFを立ち上げますから、馬場と猪木の支配体制から抜け出た最初の人になるわけですけどね。
――そういう防止協定を結ぶほど、引き抜き合戦という企業戦争で疲れきっていたんですか?
小佐野 かなり疲れきっていたんですね。84年秋に全日本が長州を引き抜きました、85年になって今度は新日本がブルーザー・ブロディ、越中詩郎を引き抜きました。馬場さんからすると、今度は長州らジャパンプロレスの動きが怖くなってきた。「裏切って新日本に戻るんじゃないか?」と。
――長州を信用できなかったんですね。その馬場さんの読みは大正解なんですけど(笑)。
小佐野 そうなると、どんなに仲が悪くても馬場と猪木は手を組むんですよ。
――猪木さんと馬場さんのあいだにはホットラインはあったんですか?
小佐野 たぶん坂口さんと馬場さんのあいだにあったんでしょうね。どっちが先に連絡を取ったかは知らないけれど、新日本のハワイ遠征があったときに、猪木・坂口のふたりがハワイにあった馬場さんのマンションを訪問してるんですよ。
――馬場さんと猪木さんの会話は聞いてみたかったですねぇ。その引き抜き防止協定はちゃんと守られたんですか?
小佐野 はい。そこでかわいそうなのはカルガリー・ハリケーンズですよ。馬場さんは防止協定を作ったから「ハリケーンズは全日本には上げない」と。だからなかなか全日本にハリケーンズは上がることができなかった。最終的な妥協点として、テレビ朝日への違約金はハリケーンズが解決してくださいということで決着はついて。
――当時のレスラーはテレビ局とも契約してたんですね。違約金はけっこうなお金なんですか?
小佐野 金額はわからないですけど、マシンたちは新日本に戻ったあとも、あのときの違約金を払うために給料から天引きになってたとか。
――給料から天引き(笑)。
小佐野 新日本に戻って新日本に上がりながら新日本にお金を払うというね(笑)。結局、87年春に長州たちが新日本に戻ることでその協定がついに破られたわけですよ。
――違約金はとんでもないことになりますね(笑)。
小佐野 たぶん払ってないですし、あのときは裏側でいろいろあったんだと思う。ブロディとブッチャーも全日本に戻ったりしてますから、とりあえず手打ちがあったんでしょう。
――協定は破られたけど戦争にはならなかったという。
小佐野 戦争どころか新日本と全日本の距離は近づいていくんです。89年に猪木さんが参議院選挙に出馬するために、社長の座を坂口さんに譲ったことで、新日本と馬場さんの友好ムードは高まっていきました。馬場さんからすれば、猪木さんは信用ならないけど、坂口さんはかわいい後輩でしたから。
――そこで今回のテーマである90年2月10日『闘強導夢』のお話になるわけですけど。あの大会の目玉はリック・フレアーvsグレート・ムタ(武藤敬司)。新日本に初参戦するフレアーと、当時WCWで活躍していたムタの凱旋帰国試合でした。ところが直前になってムタの怪我で試合が中止になりましたが、あの理由は本当なんですか?
小佐野 いや、あれは坂口さんいわく「WCWのドタキャン」。そうなったのは4月13日の『日米レスリングサミット』に新日本が協力すると発表されたからじゃないか、と。
――アメリカでWWFとWCWはライバル団体でしたね。新日本は『日米レスリングサミット』に協力することで、フレアー派遣中止の可能性が出てくることを考えなかったんですか?
小佐野 新日本の東京ドーム大会は『日米レスリングサミット』より前だからいいと思ったか、『日米レスリングサミット』で新日本はWWFのレスラーと戦わずに、新日本のカードを提供するだけという立場を取るから問題ないと考えたのか。フレアーといえば、あのときの新日本が呼ぶのは協定違反になるんですよ。
――あ、フレアーは全日側ですね(笑)。
小佐野 だから坂口さんは馬場さんに断りを入れてるんですよ。そこで馬場さんが出した条件は「その代わりにスティーブ・ウィリアムスをくれ」と。馬場さんは、新しいタイプの外国人レスラーとしてスティーブ・ウィリアムスが欲しかったんですよ。馬場さんは以前からウィリアムスに興味を示していて、89年の秋ぐらいから「ウィリアムスってどんな選手だ?」って聞かれたりしてたんですよ。
――のちのウィリアムスの大活躍を考えると、馬場さんの見る目の高さたるやですねぇ。
小佐野 だから事実上のフレアーとウィリアムスのトレードだったんですよ。
――『闘強導夢』に話を戻すと、“元・横綱”北尾光司のプロレスデビュー戦も行なわれましたね。
小佐野 そうそう。坂口さんにしてみたら、自分が社長になって初めての東京ドーム大会だから、前年から北尾獲得に動いてたんですよ。北尾はプロレスラー転向宣言して、アメリカのルー・テーズ道場に通っていたりしてたじゃないですか。あの時点で新日本とは話ができていた。残りのカードは、橋本真也vs蝶野正洋の三銃士対決、長州力vsベイダーのIWGPヘビー級タイトルマッチ。
――藤浪辰爾vsラリー・ズビスコのAWA世界戦(結局、藤波は欠場。マサ斎藤が出場してタイトルを奪取する)もあったりして超豪華ですよね。
小佐野 ところがフレアーvsムタが消滅して大ピンチですよ。新日本はそのカードを目玉としてずっと宣伝もしてきたし、『ゴング』も表紙をムタにして煽ってましたからね。それで本当に困った坂口さんが馬場さんに相談したんですよ。「フレアーが来れなくなったのでスタン・ハンセンを貸してもらえませんか?」と。そうしたら馬場さんはハンセンどころか「天龍(源一郎)とジャンボ(鶴田)も貸すよ」と。
――あ、馬場さんからの提案だったんですか。
小佐野 じつはそうなんです。馬場さんが「おまえの社長就任祝いだ」ってことで。それで坂口さんはビックリ。現場責任者の長州に即連絡して「天龍と鶴田が貸りれるから、すぐにカード考えろ!」と。
――そりゃあ驚きますよね(笑)。しかし、その馬場さんの決断は謎ですね……。
小佐野 あの判断って凄く謎ですよね。なんだったんだろう? 全日本に余裕があった時代だったのかもしれません。当時は日本武道館前売りチケットが、カードを発表しなくても超満員。
――ひえ〜(笑)。そのうえ武道館を年間4大会もやっていたんですよね……。
小佐野 後楽園ホールも超満員あたりまえという時代。馬場さんは自分が日本のマット界のボスだくらいの自負があったと思います。そういう背景もあったんじゃないかな。
――それで全日本と新日本の対抗戦が急遽実現したことでドーム大会のチケットはメチャクチャ売れたんですよね。
小佐野 超満員になりましたよね。東京ドームで一番お客さんが入ったのは猪木さんの引退興行なんでしょうけど、それこそUインターと新日本が急遽ドームで対抗戦を決めたときと同じように売れたんじゃないかな。
【90年2月10日『スーパーファイトin闘強導夢』東京ドーム大会/決定カード】
1.飯塚孝之vs松田納
2.獣神サンダーライガー&野上彰vs佐野直喜&ペガサス・キッド
3.星野勘太郎&馳浩小林邦昭vs後藤達俊&ヒロ斉藤&保永昇男
4.ブラッド・レイガンスvsビクトル・ザンギエフ
5.スティーブ・ウィリアムスvsサルマン・ハシミコフ
6.AWA世界ヘビー級選手権
ラリー・ズビスコvsマサ斎藤
7.ジャンボ鶴田&谷津嘉章vs木村健悟&木戸修
8.天龍源一郎&タイガーマスクvs長州力&ジョージ高野
9.IWGPヘビー級選手権
ビッグバン・ベイダーvsスタン・ハンセン
10.北尾光司vsクラッシャー・バンバン・ビガロ
――対抗戦カードはジャンボ鶴田・谷津嘉章の五輪コンビvs木村健吾・木戸修、ハンセンvsベイダーの外国人レスラー頂上対決。ただ、長州力・小林邦昭vs天龍源一郎・川田利明は途中で変更されましたよね?
小佐野 そこはね、会社同士は手を組んでやっているけれども、リング上の話はまた別で。先にカードを変更したのは全日本なんですが、天龍からしてみたら「新日本は何をやってくるかわからない」と。そうなるとパートナーが川田というのは不安だと考えたんでしょうね。それで何事にも動じなくてメンタルが強いタイガーマスク(三沢光晴)のほうがいいんじゃないか、と。天龍さんは馬場さんに相談したんですよ。
――いまだと変更理由はよくわかるんですが、当時はなぜ天龍と敵対しているタイガーマスクなんだろうと不思議でした。
小佐野 そうですよね。あの頃、三沢は毎試合のように天龍さんにマスクを破かれて「お金が持たないよ……」なんてグチをこぼしていたくらいですから。マスク代は自前だったんですよ(笑)。
――それを受けて長州もパートナーを変更して。
小佐野 長州も新日本の現場監督として黙ってないわけですよ。小林邦昭からジョージ高野に変更。ジョージは何をするかわからないタイプ。この選択も正解だったと思いますよ。
――度胸がある番長・三沢光晴と、何をするかわからない宇宙人・ジョージ高野(笑)。
小佐野 お互いに戦闘モードに突入ですよ。馬場さんも地元の新潟で講演会をやったときに「今度、新日本にウチの選手が上がるので違いを見てくれ」と。慎重居士で知られる馬場さんがそういう発言をするくらい盛り上がっていたわけですよね。
――あの馬場さんが珍しく挑発的な発言をして。
小佐野 大会当日、馬場さんは会場には行かなかったんですけど。その代わりにグレート・カブキをお目付け役で送りこんで「何か変なことがあったら全員引き上げて来い」と言っていたんです。
――坂口征二は信用するけど、新日本は信用していないという。
――ベイダーの目が完全に塞がってましたよね。痛みに耐え切れなくなったのか、マスクを脱いだことで会場は騒然となって。
小佐野 その光景を控室のモニターを見ていたカブキさんが「これはちょっとヤバイな……」と。急遽、全日本の若手たちをあの試合のセコンドにつくように指令したんですよ。
――ベイダーがキレて何かが起きてもおかしくない、と。
小佐野 そういうことです。あのときはベイダーがハンセンをリスペクトしていたから、何事もなく試合は行なわれたんだと思います。いまあの試合をDVDで観ても凄いことになってますよね。
――いや、本当にデンジャラスな試合でしたね。
小佐野 2人ともギリギリの線で闘ってましたよね。だって試合始まって3分くらいですよね、ベイダーがマスクを脱いだのは。そのあとも平然と試合をこなしてるところが凄い。あの頃のベイダーはメチャクチャ暴れていたし、いまでこそハンセンはニコニコしてるけど、当時のハンセンの試合は危なくてしょうがなかった。お客さんが見ていないのに天龍と控室で殴り合いになったりとか、天龍に失神させられたときは会場中、天龍を探して暴れ回ったりだとか。
――“ブレーキの壊れたダンプカー”はギミックじゃなかったんですねぇ。
小佐野 ハンセンに話を聞くと「あの頃は仕事だけど仕事の範疇を超えていた。そこまでやんないと上にいけなかった」と言ってるんですけどね。
――そんなハンセンvsベイダーの盛り上がりに比べて、天龍組vs長州組の反響はイマイチだったようですけど……。
小佐野 なんかね、凄くグチャグチャした変な試合。気まずさがしか残らなくて、試合後の天龍さんの不満は大きかったですよね。だって、長州とジョージがまったくいい試合をしようとする意思を見せなかったわけですから。天龍さんからすれば「おまえらの団体のイベントなのに、どうしてこういう試合をするんだ……!?」と。
――せっかく助けに来てるのに(笑)。
小佐野 長州とジョージがとにかく攻める、攻めっぱなしと言ってもいいぐらいの試合。だんだんと天龍さんが冷めていくのがわかるんですよ。「なんだコイツら……」という表情。あと天龍さんが怒ってたのは、長州の身体がオイルですべっていた。なんでそんなものをつけてくるんだ!?と。
――身体をさわった瞬間、信頼関係のなさを感じたわけですね……。