大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ! 今回はキングダムエルガイツ代表入江秀忠(イリエマン)が登場! 最近のファンからすると「DEEPバラエティ代表」、古しのファンからは「UWFを勝ってに名乗ってる男」のイメージが強い入江。しかし、その格闘技人生はさすが90年代を生き抜いてきた男、ド濃厚なものであった。
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「大相撲、学生相撲、修斗、そしてキングダムへ……」
――というわけではないですね。90年代の格闘技界ってグチャグチャしていてホント興味深いですし、いまだからこそ語れることもあると思いまして。
入江 はいはい、ボクもかなり長いですからね。
――もともと入江さんは大相撲をやられていたんですよね。
入江 はい、相撲ですね。一級上が貴乃花や曙さんであり、同期が魁皇。周りはそうそうたるメンバーだったんですよ。
――大相撲全盛期。
入江 当時の相撲人気はヤバかったですね。チケットは取れないし、満員御礼の記録が続いていたし、千代の富士さんが53連勝していた頃で景気はよかったですね。タニマチが若手まで全員にお小遣いを渡したり、もの凄く羽振りのいい時代だったと思いますよ。
――入江さんは相撲取りになりたかったんですか?
入江 いや、ぜんぜん。
――あ、違うんですか(笑)。
入江 10代の頃は相当グレていて。高校を2回クビになるくらい荒れていまして。それで3校目の高校に入学しようとしたときに、大相撲の元・佐渡ヶ嶽親方(元・横綱、琴櫻)が「ウチの部屋に入門来てみないか」と。自分の親が佐渡ヶ嶽部屋を後援してたんですよね。親からすれば不良でどうしようもなかったので預けようということだったと思うんですけど。ボクも東京に行けば何かあるかなと思って。
――入門してみてどうですか? 最近だと新弟子のかわいがりが問題になってますけど、当時はかなり厳しかったんじゃないですか。
入江 日本最後の封建制度みたいなところはありましたね。本当にもう……それはそれは地獄というか(笑)。
――日本最後の地獄(笑)。
入江 いまでも夢にうなされるくらいの地獄ではあったんですけど。ただ、そこを我慢してきたことで、そのあとの人生で何が起きても耐えることができましたよね。
――いちばん酷い目にあったのはなんですか? 言える範囲でいいですけれども。
入江 言える範囲のことはないですね(笑)。
――ハハハハハハ! すべて言えない範囲(笑)。
入江 本当にね、想像を絶する世界ではあったので。いまの時代はちょっとしたことで大問題になったりするじゃないですか? ボクがいたときは問題にもならなかったので本当に凄かったですね。
――何か悪いことをやって怒られるのではなくて、意味もなく怒られたり殴られたりする理不尽の嵐だったというか。
入江 そうですね。それがいいところでもあるんですけど、いまの相撲部屋は業界の取り組みでだいぶ良い方向に変わったと思います。それで相撲には1年くらいいました。
――相撲を辞めた理由はなんだったんですか?
入江 取り組みで飛び蹴りをやってしまいまして。3大新聞の紙面を飾ったくらい大問題になったんですよ(笑)。
――ハハハハハハ。どうしてそんな荒技を?
入江 突っ張りはともかくとして、張り手という行為は反則という意識があって。張られたもんだから頭にきて相手を土俵下に投げたあと、勝ち名乗りも受けないでドロップキックを喰らわせたという。
――凄い!(笑)。
入江 それがきっかけで廃業したというか。それ以前に大学に行きたかったこともあったんですね。ちょうど学生相撲から誘いがあったので、それで自分から廃業届けを出して。
――大相撲から学生相撲に移るのは珍しくないんですか?
入江 当時でも珍しい話ですし、ありえないかもしれません。自分は節々でそういう運に恵まれていたところはありますよね。どうしようもなくなったら誰かに助けてもらっている気がします。
――それで大学に通うようになったんですね。
入江 日大だったんですけれども、大学相撲で8連覇している名門だったんですよ。だけど、その当時の監督が、ボクが相撲を1年間やったとはいえ、日大は小学校から相撲をやっているようエリートが10人くらいいたので。追いつけないとはいえないまでも、エースにはなれないなって感じだったと思うんですよ。だったら1年のときからバリバリのエースでやれるようなところに行ったほうが活きるんじゃないか、と。それで国士舘大学を紹介してもらってそこに移籍したんですよね。
――流れ流れてますねぇ。
入江 国士舘では1年から卒業までエースでやらせていただいて。いま考えると日大で補欠の2番手3番手でやっていても相撲は続かなかったんじゃないかなとは思ってます。
――総合以前から壮絶な格闘技人生ですね(笑)。卒業後はどう考えていましたか?
入江 先生になりたかったんですよね、学校の。
――大相撲に戻りたいと思わなかったですか?
入江 大学卒業後、まわしを巻いたことは一切ないですね。
――もともと好きで相撲を始めたわけではないこともあるんですかね。
入江 それもたしかに(笑)。ただ一度やり始めたことは納得するまでやる気持ちがありましたから。それで先生になろうとしたんですけれど、冷静に考えるとボクって高校を2回もクビになってるんですよね(笑)。
――ハハハハハ。
入江 じつは高校もバレーボールの特待生で、大学も相撲特待で入っているじゃないですか。まったく受験を知らない男だったんですよ。なんだかんだで教員免許は取ったんですけれど、当時の採用試験1000人受けて30人しか通れないような倍率だったので。だから受験を知らない男が通るようなものではないですよね。そこで総合格闘技をやろうと思ったんです。きっかけは第1回のバーリトゥードジャパンでヒクソンが優勝したじゃないですか。その試合を見て総合格闘家になろうと思っちゃったんですよね。
――プロレス格闘技に興味はあったんですか?
入江 ぜんぜんです。じつはここだけの話、現在U系の団体を背負ってはいても、当時はとくに興味がなかったんですよ(苦笑)。UWFっていうムーブメントは知っていましたよ。大きなムーブメントでしたし、一般のマスメディアなども扱ってましたから。総合格闘技がどんなものか知られていない時代だったんですけど、ヒクソンの試合を見て「これなんなんだろう?」っていう興味が出てきまして。それでシューティングをやり始めたんですよね。
――当時格闘技を習うとなるとシューティングしかなかったですもんね。あとは骨法くらいで。
入江 骨法にも問い合わせてみたりしたんですよ。でも、骨法の場合は、体験も何もなくいきなり入門しなくちゃならなくて。
――骨法は見学ができないシステムなんですよね。
入江 だからどういうことをやってるのかもわからないし。シューティングもその頃は三軒茶屋のジムはもうなくて。オープンしたばかりのK'z FACTORYに入ったんですよね。
――佐山シューティングは体験してないんですね。「地獄の合宿」とか。
入江 佐山先生とはここ数年知り合う機会がありまして掣圏道で教えてもらってるんですけど。当時もその合宿には本当に興味があって。大相撲とどれくらい違うのかな?と。ボクも毎日が地獄の合宿だったので(笑)。
――毎日が地獄の合宿(笑)。
入江 ボクも佐山先生直系の弟子の方たちに教えてもらったんです。K'z FACTORYでは草柳(和宏)さんを初め、初代シューターの先輩方。そのあと移籍した木口道場での師匠は木口(宣昭)先生ですね。
――K'z FACTORYのあと木口道場に移ったんですね。
入江 はい。木口道場には1年くらいかな。そのあいだに全日本アマチュア修斗選手権のヘビー級で優勝してるんですよ。総合を初めて7ヶ月で取ったんです。決勝で戦った藤井克久は全日本レスリングの準優勝をしていて。総合格闘技にグランドパンチも導入されるかされないかの瀬戸際の頃ですね。
――入江さんや藤井さんも相当な逸材だったんじゃないですか?
入江 優勝したときは『格闘技通信』がページを割いてくれて。「どすこいシューター」というキャッチフレーズで初めは鳴り物入りだったんですよ。ところが途中から鳴らなくなったという(笑)。
――鳴りませんでしたか(笑)。
入江 充実してましたけどね。朝起きたら走りこみをして、昼間はバイトして、夜は19時くらいから22時くらいまで練習して。そして寝る前に走りこみをする生活を毎日送っていて。なぜそこまでトレーニングをしていたかというと、ヒクソン・グレイシーは8時間練習していると。だから俺も8時間やらなくてはいけないなと(笑)。
――入江さんの「打倒ヒクソン」はその頃からの目標なんですね。のちにヒクソン戦実現1万人署名運動もやってましたけど、思いつきで言い始めたわけではなくて。
入江 アマ修斗のチャンピオンになった直後から言っていたんですよ。ヒクソンとやるためにこの世界に入ったので引くに引けなかったんですよね。
――K'z FACTORYや木口道場でいうと五味(隆典)選手との接点はあったりしました?
入江 五味選手は木口道場の昼のレスリングで。まだ五味選手がアマチュアの頃でしたけど。あと佐藤ルミナさんとかプロが集まってましたし。
――当時は佐藤ルミナがブレイクする前夜でしたね。
入江 総合自体が「これから盛り上がって行くぞ!」という期待感が凄くありましたね。ルミナさんもあの頃が一番面白かったと言ってたそうですけど、勉強することがたくさんあって本当に面白かったですよね。それでルミナさんが修斗の後楽園でヒカルド・リッキー・ボテーリョに一本勝ちしたじゃないですか。
――日本人が柔術黒帯からMMAで初めて一本勝ちした伝説の試合ですね。
入江 ボクも後楽園でガッツポーズしましたよ! 柔術の青帯にも勝てないと言われていたので。いい時代でしたよね(しみじみと)。ボクはバイト2つを掛け持ちして、あと練習はするだけで遊びも何もしない。夜は「あしたのジョー」か格闘技のビデオを見ながら酒を飲む。それだけが楽しみの20代でした。
――そんな修斗漬けの生活からプロレス団体のキングダムに入門するんですね。
入江 自分でも不思議だなと思いました。当時U系と修斗ってまったく接点がなくて、まったくのベツモノ。言い方は悪いけれど、修斗はU系を認めていない部分があったし。それなのにどうしてU系のキングダムに入門したかというと、修斗のヘビー級っていまもそうですけど選手があまりいなくて、デビュー戦もできない状態だったんですよ。3年も4年も毎日毎日練習して、どこに出稽古に行っても負けない状況になっていたのに闘う相手がいない。チャンスがなかったんですよね。そんな中でPRIDEでヒクソンvs高田延彦があったじゃないですか。「キングダムに入ったら、もしかしたらヒクソン戦っていう可能性もゼロではないんじゃないかな……?」と思ってキングダムに電話したんですよ。
――そこもヒクソン戦実現が動機だったんですか。
入江 そうしたら運良くキングダム取締役の鈴木健さんと会えることになって。身体と実績を見て「すぐにデビューさせる」という話になったんです。それで1998年1月の興行に来てくれと言われたので会場の後楽園に行ったんですよ。お客さんは超満員だったんですけど、試合が終わったあとに桜庭(和志)さんたちがリングに上がって「ボクたちはキングダムを辞めて高田道場に移籍します」って発表して。そんな話は一切聞いてなかったんですよ!(笑)。
――高田さんはキングダムには正式参加してなかったんですよね。高山(善廣)さんや垣原(賢人)さんたちも全日本プロレスに移籍して。
入江 あの時点で安生(洋二)さん、金原(弘光)さん、ヤマケン(山本喧一)さん以外はみんなキングダムから出ていくことになったんですよね。後楽園は暴動寸前の空気になって「高田を呼んでこい!」とか野次が飛んでたりして。
――団体崩壊寸前のタイミングで入門(笑)。
入江 「やばいな、これ……」って思いましたね。大会が終わったあとに安生さんと鈴木さんが来て「おまえをこれから売り出すから」って言われたんですけど。
――デビューもしてないのに(笑)。
入江 いちおうそこから道場通いですよ。5階地下1階の立派なビルの道場。
――キングダムはどういった団体だったかはご存知だったのですか?
入江 知ってましたよ。U系の流れをくむ団体っていうことは。
――キングダム母体のUインターにはエンセン井上さんがよく出稽古に行かれていましたけど。
入江 その話をボクも聞いてて。エンセンさんから金原さんや桜庭さんが強いよっていう話は聞いてはいたんですけれど、そのときは別世界のことでしたね。ボクは修斗信者、修斗最強みたいな思想があったので。
――キングダムの試合スタイルにはどういう認識があったんですか?
入江 ボクは最後に入ったので詳しいことはわからないんですけど、ボクの試合はシュートを要求されましたね。
――それは入江さんとしても競技にしか興味がなかったっていう。
入江 そうですね。シュートしか興味がなかったし、それは修斗からきているのでそれ以外のスタイルができるとは思わなかったですね。あと好き嫌いというより、ヒクソンと闘うことしか考えていなかったので。食うため、有名になりたいとかは興味がなかったんですよね、だけど、ヒクソンとやるには有名になるしかないな、と。
――キングダムは選手の数は減ったけれども、このまま団体として続いていくと思っていたんですか?
入江 続くっていうか、ボクに期待していることが凄く嬉しかったんです。当時まだ20代だったし、どこに練習にいっても負けなかったし、キングダムでもやっていけるなと思ったんですよ。いまでも俺、「弱い」と言われるようなことは一度もないんで。
――周りも納得する強さがあったんですね。
入江 これはもう誰に聞いてもいいと思います。
――キングダムで練習してみて、Uと修斗の違いは感じましたか?
入江 ポジショニングと関節技の考え方の違いはありましたね。U系の人たちはポジショニングより関節技なんです。ポジショニングの概念があんまりないんですね。たとえばU系はバックやマウントを取られても「一本を取られないようにしのげばいいじゃん」って感じなんですけれど、修斗で育ったボクからすると「殴られたらどうするの?」っていう考えがあって。そこはU系と修斗の大きな違いだと思うんですよね。ボクは修斗でやってきたからポジショニングに関してはU系の選手より自信はあったんですけど。U系の極めはボクより発達しているな、と。関節技を極めるのって凄く難しいんですよね。
――それは現代MMAを見てもわかりますね。
入江 ただでさえ難しいのに、昔のU系はロープブレイクもあったじゃないですか。そういうルールの中でやっていれば極めは強くなりますけど。95年のヒクソン来日からその流れが大きく変わって、ポジショニング重視の時代になったと思うんですよね。たとえば相手の体力を削って削って闘っていけば、隙を見せることがなければ極められることはそんなにないんです。極論から言ったら、いまは「打撃+レスリング」の削りあいみたいなところがあるじゃないですか。
――誰もがU系最強と評価する安生さんがMMAだとそこまで戦績がふるわなかったのはそこなんですかね。
入江 極め重視のルールで闘わせたら、もちろん安生さんは強いと思いますよ。ポジショニングの概念がないグランドパンチなしのルールだったら。MMAの中でもU系のスタイルが活きたのは桜庭さんですよね。やっぱりレスリングが強いのは大きかったと思います。桜庭さんのPRIDE時代の活躍を見ましても、テイクダウンができて上になれましたので。あと当時のU系は殴るのあとのつなぎ、昔でいう「打・投・極」の連携が緩かったんですけど、それが素晴らしかったのは桜庭さん。打撃もできて、上になれて、そして極めれたのが桜庭さんの強みですよね。
――桜庭さんと肌を合わせたことはあったんですか。
入江 桜庭さんとはギリギリやれなかったですね。入ったときにキングダムを辞められましたから。
――U系で言うと田村(潔司)さんとは木口道場で練習する機会はあったんですか?
入江 田村さんとは木口道場レスリングぐらいしかやってないですね。
――田村さんはいろいろと出稽古をやられてましたね。あの頃はU系の選手が出稽古するのはいかがなものかみたいな風潮もあって。
――そうやって振り返るとU系の中でも桜庭さんや田村さんが活躍したのもわかりますね。
入江 理解できますよね。考えが固くて外に出れない、プライドを捨ててある程度、技術の交換をできない人間は伸びないと思うんですよ。柔軟性がある人間は早く吸収したと思いましたし、まだU系もギリギリMMAに対応できた時代だったと思いますね。
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