高瀬大樹戦での「足首鳴ってんどー!」アピールや、前田日明の坂田亘鉄拳制裁事件などネット動画界隈で名を馳せている鶴巻伸洋。現在もキックボクシングやプロレスのリングに上がるなど、90年代初頭から戦い続ける「総合格闘技の生き証人」のひとりでもある。今回の「総合格闘技が生まれた時代」シリーズは鶴巻選手のさすらいぶりにスポットを当ててみた。
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――1992年12月に行われた伝説の格闘技イベント『格闘技シンポジウム 総合格闘技完成前夜』に出られた方でいまだ現役格闘家なのは鶴巻さんくらいですよね。
鶴巻 ですかねぇ。しかし、よく知ってますね、『格闘技シンポジウム』(笑)。
――そういう物好きな方が読んでるメールマガジンなんですよ(笑)。あのイベントって前田日明のブレーンだった治郎丸(明穂)さんが仕切ってたんですよね?
鶴巻 そうそう。治郎丸さんの名前を知ってる方も少なくなってますよね(笑)。『格闘技シンポジウム』の中にいろんなルールの試合があったんですよ。メインはロブ・カーマンvsアダム・ワットで総合格闘技も試合ごとにルールが変わっていて。あの大会がボクの総合格闘技のデビュー戦だったんですよ。その前にW☆INGでプロレスデビューしてるんですけど。
――プロレスのデビュー戦はヘッドハンターズが相手だったんですよね。
鶴巻 よくご存知で(笑)。それが19歳のときですから。
――それにしてもW☆INGと『格闘技シンポジウム』を体験してるって凄いですよ!
鶴巻 そうですね。凄く変な話だと思いますよ(笑)。
――それで鶴巻さんといえばリングスにも参戦されていて。坂田(亘)選手との試合がいろんな意味で有名というか。
鶴巻 あー、ぜんぜん知らない人から「YouTubeを見ましたよ!」(編集部注☆心臓の悪い方はクリックしないでください)ってよく言われるんですよね(笑)。
――鶴巻さんというより、前田さんと坂田さんの事件ではありますけども(笑)。
鶴巻 坂田選手のデビュー戦もボクが相手だったんですよ。そんときは負けちゃって「デビュー戦の人間に負けちゃったなあ……」と落ち込んでいたんですけど。控室に前田さんがわざわざ来てくれて「おもしろかった。いい試合だったな」って褒めてくれたんですよ。でも、前田さんは坂田選手には「デビュー戦で若いのに何をどっりし構えてるんだ。おまえが積極的に試合を組み立ててなきゃアカンやろ!」と注意してたようなんですね。「こんな試合をやっていたら次コレやからな」とも言ってて。
――ああ、鉄拳制裁の伏線があったんですね。
鶴巻 その半年後に坂田選手と再戦するんですけど、坂田選手はそこまで4連勝してるんです。で、ボクはそのあいだオランダ修行に行っていて。リングスの戦績が奮ってないじゃないですか。当時は「格闘技王国オランダ」と言われてたので、強くなるためにオランダに行くしかないなと思って3カ月くらいですよね。リングスオランダ軍団のところにに。
――バウンサー軍団との3ヵ月間!
鶴巻 ボクも最初は危ないイメージを持ってたんですけど、みんな優しくしてくれましたよ。クリス・ドールマン、ハンス・ナイマン、ディック・フライ、ヘルマン・レンティング。
――一見さんお断りの世界ですね(笑)。
鶴巻 たまにバス・ルッテンが来たり。強い奴が集まってるならそこにいくしかないっていう。20代前半で金もなかったですけど、激安11万円のオープンチケットで。
――リングスオランダはどうでした?
鶴巻 みんな強かったですよね。その中でもドールマンが一目置かれてましたね。
――ドールマン不在だとリングスオランダ軍団は制御不能になるという話は聞きますね。
鶴巻 フライが暴れてオランダの航空会社は使えなくなったとか聞きましたし(笑)。ドールマンはそのとき50歳だったんですけど、実力的にもブッチギリじゃないですかね。だからスパーになるとみんなドールマンとだけはやらないんですよ。
――フライたちの寝技が微妙だったのはそういう理由なんですかね(笑)。
鶴巻 だからボクが毎回ドールマンとやってたんですよ(笑)。ボクはいちばん強い人とやったほうが勉強になると思ってたんですけど、まあドールマンに押し潰されるだけで。ただ、ドールマン、レンティング、ルッテンからはアキレス腱固めで取りましたよ。
――さすが鶴巻さん!! 足首を鳴らせましたか!
鶴巻 ほかはボロボロでしたけどね(笑)。それでオランダから帰国して95年5月15日鹿児島アリーナで坂田選手と試合をしたんですよ。
――日付もちゃんとおぼえてるんですね。
鶴巻 30分1本勝負だったんですけど、開始5分で左膝をやっちゃったんですよ。試合後に靭帯を切ってたことがわかったんですけど。
――重傷じゃないですか!
鶴巻 立ってても力が入らないし。かといってオランダから帰ってきたばかりの試合だから投げるわけにはいかないじゃないですか。ただ、寝技になっても正直、坂田選手には取られることはないと思ったんです。自分も決め手に欠けたんですけど、グダグダの試合になっちゃって。
――引き分けという結果でしたね。
鶴巻 ボクはそのときサブミッションアーツレスリング所属としてリングスに出ていて。麻生先生にお世話になってたんですけど。麻生先生によると坂田選手はボクがオランダで修行をしてたことを知ってたんですよね。それで「引き分け」という結果にとりあえず安心したんでしょうね。だからなのか坂田選手は足を組んでコメントしてたじゃないですか。
――坂田さんとすれば合格点だと思い込んでいたけど、前田さんは勝ち負けの問題じゃないし、あの偉そうな態度が気に入らなくてキレた、と。あの暴行現場はご覧になってたんですか?
鶴巻 見ていないです。控室もコメントブースも別の場所なんで。ただ、全試合終了するまで坂田選手がスクワットさせられてる姿は見てたんですよ。
――あのあとに! あの試合は第一試合ですよね?
鶴巻 はい(笑)。だからボコボコにされたあとに2時間近く何千回とスクワットやってたじゃないですかね。でも、前田さんはボクのことは褒めていたんですよ。というか、ボクは前田さんにけっこう気に入られてて。「なんで鶴巻はしょっぱいのにリングスに出ていたんだ?」と思ってた方は当時多かったと思うんですけど……。
――今日はW☆INGからそのリングス参戦話を含めて、いろいろとお聞きします! あ、もちろん「足首鳴ってんどー!」の件も。
鶴巻 ハハハハハ! よろしくお願いします。
――鶴巻さんはもともとプロレスラー志望だったんですよね。
鶴巻 物心ついた頃からプロレスラーになりたかったんで。ホントだったら中学卒業してプロレスラーになりたかったんですけど親に反対されて。
――鶴巻さんが通っていた新潟商業高校の先輩に漫画家の小林まこと先生がいましたけど、その作品群に影響されたりしたんですか?
鶴巻 いや、新潟商業高校に入学してから小林先生が先輩だったことを知って。先生の漫画自体も知らなかったんですよ。それから『柔道物語』や『1、2の三四郎』を読み始めて。漫画に出てくる校舎や柔道場の雰囲気がまったく同じなんですよ。
――「ザス、サイ、サ!!」の岬高校と(笑)。
鶴巻 だから感情移入しましたよね(笑)。ただ当時の柔道部は廃れまくっていて。ボクの代で部員ひとりで、上の代はいなかったんじゃないかな。商業高校だから8割方女子で仕方ないんですけどね。それでもラクビーは活気があったんでそこに入って。『1、2の三四郎』も最初はラクビー部だったじゃないですか(笑)。
――プロレスラーになるため身体を鍛えていたりしたんですか?
鶴巻 もちろんやってましたよ。中学の頃からスクワット1000回と腕立て伏せは500回、高校のときはスクワット3000回と腕立て伏せ1000回はできてましたね。
――すでに仕上がってるじゃないですか(笑)。どこの団体が好きだったんですか?
鶴巻 とにかく前田さんとUWFが大好きだったんですけど、当時ってプロレスラーって限られた道だったじゃないですか。身長180センチが当たり前だし、体力テストをクリアしても不合格する奴がいたんですよね。
――いまだったら体力テストをクリアしたらオッケーですね。
鶴巻 やりたかったら誰でもなれるところはあるじゃないですか。それでたまたまFMWが身長規定なしで練習生を募集してたんです。当時はそれは画期的なことだったんですよ。高校卒業の翌日にFMWの入門テストを受けてその5日後にはFMWの合宿所に入りました。
――FMWという団体についてどう思ってたんですか。
鶴巻 ……正直、微妙でしたよね(苦笑)。
――大仁田(厚)さんが“涙のカリスマ”になる前ですもんね。
鶴巻 あの頃の大仁田さんってチャボ・ゲレロに負けて引退した人というイメージは強かったですよね。旗揚げのときなんかもそんなに人気はありませんでしたし。
――でも、プロレスラーになれるのであればFMWだろうがどこでもよかった、と。
鶴巻 そうです。とにかくプロレスの世界に入りたかっただけですよね。
――FMWの入門テストは何人くら集まったんですか?
鶴巻 『週プロ』の記事には全国から75名の応募があったと書いてあって。実際に書類選考が通ったのは20名弱だったんですかね。体力テストはスクワット500回だけだったですよ。
――そこは余裕でクリアして。
鶴巻 はい。それで大仁田さんと(ターザン)後藤さんが面接して合格したのは8~9人くらい。実際に合宿所に来たのは5人だけでしたね。同期が新山勝利選手とディック東郷。あとのちにキックボクサーになる明日華和哉。全日本キックで小林聡選手とメインイベントをやった選手なんですけど。
――そんな人材も輩出してましたか(笑)。練習生の待遇はどんな感じでだったんですか。
鶴巻 フランスベッドっていう会社がFMWのスポンサーだったんですよ。そこが所有している川越の2階建ての倉庫かなんかを寮に改造してたんですよね。2階が寮でボクが割り当てられたのは4畳半で窓もない部屋で。最初の頃はシャワーもついてなかったんですよ。
――いわゆるタコ部屋ですね。
鶴巻 そこには一期生で先輩の上野幸秀や三宅綾、ザ・シューターなんかもいて。まず朝起きてフランスベッドに行って仕事をするんです。ボクは春日部の工場でベッドのメンテナンスするみたい仕事をしていて。それが9時から15時まで。ただ川越から春日部まで車で片道2時間近くかかるので毎朝6時頃に起きてましたね。
――1階は道場施設だったんですか?
鶴巻 1階で練習してたんですけど、リングはなかったんですよ。練習と言ってもいま考えたらほとんど自主練なんですよね。スクワットを黙々とやるだけで。
――充実感ありました?
鶴巻 なかったですよねぇ(苦笑)。ボクがUWFや新日本が好きだったのは「強さ」なんですね。あの頃のプロレスや格闘技って住み分けがされてなかったと思うんですけど。ボクの中でプロレスというのは強さ。「プロレスが世界最強」という思いがいまでもあるんです。そういう意味では「FMWにこのままいても強くなれるのかな……?」という不安はありましたね。それに当時のFMWはデスマッチ団体じゃなくて、総合格闘技団体という触れ込みだったじゃないですか。
――怪しい異種格闘技戦路線でしたね。
鶴巻 当時のFMWはフロンティア・マーシャルアール・レスリングの略ですし。格闘技っぽいところがあったからFMWに入ったところはあるんですけど。ボクは3月に入門して7月中旬にはやめちゃって。
――ここにいたんじゃ強くなれないと?
鶴巻 そうですねぇ。プロレスは子どもの頃から大好きで、プロレスラーになるためにずっと練習してきて。FMWには申し訳ないですけど「これは違うかな……」って。へんな話ですけど、もっと練習が厳しかったらやりがいを感じて残ってたかもしれないですね。やっぱり『プロレススーパースター列伝』のイメージがあるじゃないですか。スクワットで水たまりができるみたいな(笑)。
――当時のFMWはファンタジー不足だったんですね。
鶴巻 練習は楽だったかといえばそうではなかったんですけど。何がつらいというのはなかったんですよね。スクワット1000回や2時間やりっ放しでもぜんぜん余裕で。それで東郷さんはボクより先にFMWをやめちゃったんですよね。ボクは東郷さんとは2期生の中ではいちばん仲が良かったんでそのあとも密に連絡は取り合っていたんです。だから7月下旬にやめたときも東郷さんの家に住んだんですよ。東郷さんとは1年半くらい一緒だったのかな。
――そこまで親密な関係だったんですね。
鶴巻 巣鴨の風呂なしアパートにふたりで住んでいて。ボクがそのアパートを出たあとにTAKAみちのくが住んで。TAKAみちのくがメキシコ遠征に行くとなったら296選手が入って。
――そういう歴史があるんですね(笑)。FMWをやめたあとはどうするつもりだったんですか?
鶴巻 東郷選手はユニバーサルに行ったじゃないですか。でもそこはルチャだったのでボクはちょっと違うなと思って。FMWでザ・シューターをやってた猿川さんがボクの前にやめてたんですけど。その人は強かったんですよ。
――ザ・シューターを名乗るくらいの実力があって。
鶴巻 シュートボクシングをやってた人なんですけど。その当時のボクからするとFMWの中では強くて身体がいちばんできていてカッコいいみたいな。猿川さんに続いて俺もやめようとなったところはあるんですよね。その猿川さんとふたりでシューティング関係のジムを何軒か見学に行ったんですよ。そうしたら木口道場が熱のある練習をしてたので入門しようとなって。
――ギラギライケイケ時代の朝日(昇)さんがいた頃ですかね。
鶴巻 朝日さん、草柳(和宏)さんとか初代シューターがいましたね。ボクは入ったばっかなんで総合のスパーリングは参加してなかったんですけど。レスリング練習に参加したときに左腕を脱臼しちゃったんですよ。で、話は前後しちゃうんですけど、木口道場に入ったときにW☆INGから話があったんです。でも、W☆INGの旗揚げ戦はその腕の脱臼で出られなかったんですよね。
――W☆INGは誰から話があったんですか?
鶴巻 その猿川さんですね。元FMWのフロントだった方から連絡があって。選手がいなかったんでしょうね。練習生だった鶴巻も一緒だと話をしたら連れてきてくれと。
――最初は「世界格闘技連合W☆ING」という名前で、のちの「W☆INGプロモーション」とは路線が違いましたよね。
鶴巻 旧W☆INGは木村さん、斎藤彰俊さん、徳田光輝さんの“格闘三兄弟”がメインの格闘技路線で。ボクも格闘技をやるという話だったから参加したい気持ちもあったし。格闘技団体として士道館と連携してくという話があって。これは殺し文句だなと思ったのは「鶴ちゃん、ムエタイのチャンピオンとやらせるから」と(シュートサインをしながら)。
――ホントに格闘技路線志向だったんですか!
鶴巻 こっちは「よっしょ!」って感じだったんですけど。
――でも、格闘技団体なのにミスター・ポーゴさんがいる時点でおかしいと思いませんでした?
鶴巻 ……そうなんですけどねえ(苦笑)。
――ハハハハハハ!
鶴巻 どんどんW☆INGの話が進んでいったときに、どこかのスタジオでパンフレットの撮影があって。そこにポーゴさんがいらっしゃったんですけど、ボクらはとくに挨拶をしなかったんですよ。ポーゴさんは格闘技路線とは別枠という考えがあったんで。
――格闘技路線とは関係のない人間という。
鶴巻 べつにポーゴさんに反発をしてたわけじゃないですよ。ポーゴさんも先輩風を吹かすタイプではないのでその場では何も言われなかったんですけど。あとから人を通じて「みんな挨拶はちゃんとしようよ」という話が回ってきて。ボクもいま考えると失礼なことをしちゃったなって思うんですけど。
――でも、当時は別部門の人間という考えがあったんですね。
鶴巻 そうですね。たとえば格闘技興行の休憩時間に出てくる歌手みたいな感じで(笑)。
――ハハハハハハ! 鶴巻さんはW☆INGで「格闘技」と「格闘プロレス」、どっちをやりたかったんですか? <後編へ続く>
W☆INGのPRIDE化構想、「身体の小さいボクがどうして前田さんに気に入られたと思います?」鶴巻伸洋インタビュー後編はコチラ
W☆ING、サブミッションアーツレスリング、リングス――同じルーツを持つ木村浩一郎のロングインタビューも読めます!
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