骨法を通して浮き彫りになる格闘技に懸けた青春――!! 「総合格闘技が生まれた時代シリーズ」で実現した“エセ骨法”矢野卓見インタビュー。90年代の格闘技界で最も幻想的だった堀辺正史の骨法の内幕を初めて明かす内容は各方面から大反響を呼んだ。では、内弟子の立場から見た“喧嘩芸”はどんな実態だったのだろうか。編集部は矢野氏を通じて、ある元・骨法の人間にコンタクトを取った。当時、骨法の寮生(内弟子)として道場生の指導をしていた北條誠氏である。北條氏は“骨法のエース”大原学氏や“骨法の狂気”小柳津弘氏たちの盟友的存在。現在は地元・小山の格闘技ジム和神会のサポート活動を行なうかたわら、骨法の追求に励んでいる。北條氏は小山を訪れた取材陣にいまだに練習を欠かしていない掌打のミット打ちと、骨法愛を披露してくれた。北條氏の青春は終わっていなかったのだ――。

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――北條さんは骨法の寮生(内弟子)として道場生を指導する立場にいらしたそうですね。
北條 そうですね。いま45歳なんですけど、20歳から骨法を始めまして、寮生を9年間やっていました。
――9年間も! 骨法はどういう理由でやめたんですか?
北條 ボクの場合はまだやめてないんですよ。なんて言うんですかね。AKB48の卒業みたいなもんで(笑)。
――え? それはどういうことですか?(笑)。
北條 寮生を9年やったから堀辺先生から「地元(栃木県小山)で自分でやりなさい」と言われたんです。
――それって免許皆伝みたいなもんですかね。凄いじゃないですか!
北條 いやいや、皆伝ではないんですけど、自分でやっていいよと。はなむけに先生が小山の体育館を借りて大会を開いてくれたんです。
――やっぱり凄いことじゃないですか!
北條 東京から先生と道場生たちが来てくれて。ただ、いかんせんボクは道場を広げようという気持ちはなかったんですよね。個人的に骨法をもっと追求したかったし、指導者としてやっていきたい気持ちはそんなになくて。あと結婚して子供が生まれたことで、生活が家庭中心になったこともありましたよね。
――格闘技を優先するわけにはいかなくなったんですね。
北條 地元に戻ってきてからは昼間は整体、深夜はコンビニで働いていたんですけど、貯金なし、将来性なし。それなのに奥さんはボクのところに来ちゃったんですよ。これは俺が面倒を見ないといけないということで格闘技をやってる場合じゃないなって。でも、骨法の研究はできるので。マがあると掌打の素振りとかはやってますから。
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掌打の金的打ちを披露する北條氏。ミット打ちの動画もチェックだ!

――
いまだに掌打の研究を! 堀辺先生とはどれくらい会ってないんですか。
北條 10年以上かな……地元でやった大会以降はお会いしてないですね。疎遠になった理由は、ボクが悪いかたちにはなってるんですけど。骨法には新年式ってあるんですよ。そこで各自が新年の決意を述べるんですけど、それが終わったら先生とはべつに骨法の道場生たちが新宿でご飯を食べたりするんですよ。で、ボクは昼に整体の仕事があったんで新年式には出ないで夜の集まりだけに顔を出したんですね。そこで話したことが、骨法のみんなのやる気をそいだということになってしまって。そのあと本部から連絡があって「自分ことだけをしっかりやれ」と。そこから連絡を取らなくなりましたねぇ。
――そういったすれ違いがあったんですね。
北條 でも、地元でボクが教えていた人を本部の稽古に行かせたりして。ボク自体は本部のつながりはなくなりましたけど、いまでも骨法を追求してますし。そこは大原ともよく電話で話すんですよ。
――あ、骨法のエース・大原さんと。
北條 この取材を受けることも大原には相談したんですよ。良い反応はなかったんですけどね(笑)。でも「載せるときに勝手に原稿内容を変えられてもオレはしゃべるよ」と。前にイヤな思いをしたことがあったんですよ。肝心なところ変えられたことがあったんです。それってマスコミの悪意があればできるじゃないですか。骨法にいた頃からマスコミにはいい面ばかりじゃないことはわかっているし、言いたことが伝わらないことは知ってるので。先生はターザン山本さんという理解者がいたから問題はなかったと思いますけど。
――マスコミにはイヤな思い出はあるわけですね。
北條 だからみんな心配してるんですよ。矢野くんのインタビューとかも気にしちゃうから。
――矢野さんのインタビューを読んでみてどうでした?
北條 読んで思いましたもん。「矢野くん、そう考えていたんだ……」て。俺が謝れば済む問題じゃないんだけど、いろいろと伝わらないことがあったんだなって。こないだボクがお世話になっている和神会の選手がZSTに出たのでセコンドとして付いて行ったら、矢野くんがいたんで俺から声をかけたんですよ。いろいろ話をして矢野くんも俺のことを受け入れてくれたと思うし、こういう取材の機会を作ってくれたのは矢野くんですし。ただ、矢野くんはインタビューで道場で迫害されたみたいなことを言ってるじゃないですか。こっちの認識とはだいぶ違うんですよねぇ。
――あ、矢野さんもそういう話が聞きたいんだと思うんですよ。立場によって見方は変わってきますから。
北條 いまの矢野くんのことは否定はしないんですよ。自分のやり方を貫いてちゃんと実績を残しているし。でも、先生は矢野くんを捨てた覚えはないんですよねぇ。
――そこは矢野さんの誤解なんですかね。
北條 見方が食い違うのは面白いですよね。「そう思っていたんだな……」って。細かい話ですけど、1年間掌底の素振りしかやってないともありえない。だってボクらが教えていたわけですから。あとイジメを受けた寮生が夜逃げしたとか言ってるでしょ。全然違うんですよね。そんなことは一切ない。
――骨法の台湾遠征で現地のプロレスラーにボコボコされた骨法の寮生が、そのあと骨法内部でイジメにあって夜逃げしたという話ですね。
北條 あれは夜逃げじゃないんですよ(苦笑)。ぜんぜん違いますよ。逃げてないんですよ。彼は当時いっぱい悩んでいて。決して夜逃げじゃないんです。
――イジメていたわけでもない。
北條 だーれもイジメてない。誰がイジメていたんだって話で。ネットでその人をやめさせたのは北條だって書かれていたらしいんですけど。違いますね。
――そもそも台湾合宿ってなんだったんですか。
北條 先生の昔からのお知り合いで国会議員の方が台湾にいて。そういった縁で台湾の格闘家たちと交流するはずだったのが、稽古をしているうちにそうじゃなくなったんですよ。
――決闘の雰囲気になっていったそうですね。
北條 ボクからすれば普通の動きをしてたんですけど。相手を倒して馬乗りになってという。向こうと格闘技の認識が違ったのかもしれないですよね。それで身体の大きい人が出てきて。115キロくらいあったんじゃないですかね。ボクも怖かったですもん。そんな相手に「北條、行け!」と言われたらイヤでしたもん。
――得体のしれない相手とガチスパーをするわけですもんね(笑)。
北條 骨法側は大原や小柳津さんとか強い選手から出て行ったんですけど。◯◯さんが3番目に出てそのプロレスラーとやることになって。◯◯さんの掌打も凄かったんですけど、やっぱりパワーがぜんぜん違いましたからねぇ。体重も30キロくらい違いましたから。
――とんでもない遠征だったんですね。
北條 だからたしかに台湾遠征でそういうことはあったのはたしかですけど、イジメ云々は違いますよ。どこでそういう話になったんだろって(笑)。
――矢野さんは骨法を辞めたあといろいろと挑発な言動を繰り返してきたじゃないですか。そのことは内部の人間はどう思っていたたんですか。
北條 矢野くんが先生の似顔絵Tシャツを着て茶化しにきたときは、運営の人間が「脱げ!」と怒ったんですよ。で、その次は作務衣を着て髭を生やしてきたじゃないですか。
――いわゆる堀辺先生のコスプレですね。
北條 矢野くんはたとえ偽物でも先生を取り押さえることになるから無視されたと言ってますけど、骨法の中では「どうせやるんだったら作務衣ではなくて袴や羽織を用意してほしかった」という話になってたんですよ。
――ハハハハハ!
北條 先生はかなりオシャレで羽織や袴にお金をかけてあつられていましたから(笑)。それであのコスプレのときは「もう好きにやらしておこう」と。こっちはそれどころじゃないですから。骨法の大会を成功させるために精一杯ですから。
――そういう理由で無視したのではない、と。それで順序立てて聞きたいんですけど、北條さんは上京する前は格闘技をやっていたんですか?
北條 何もやってないんですよ。ボクは二十歳で会社をやめて上京して骨法に入ったんです。高校のときは野球をやっていて、卒業して地元の会社に就職したんですよ。エアシリンダを作る工場だったんですけど、すぐに辞めたくなって。そう思うようになったのは、習志野の自衛隊空挺団に4泊5日の新人研修があったんですよ。自慢になっちゃうんですけど、そこでスポーツテストをやったら成績が優秀だったんですよね。
――それで格闘技をやってみたい、と。
北條 仕事はやってらんねえなって。もうイヤだなって。そこの職場は昼休みはみんな食堂でごはんを食べるんですけど、ボクは真っ暗な倉庫で腕立て伏せとスクワットをやってたんです。「俺は東京に行って格闘技をやるしかない!」ということで。
――格闘技は好きだったんですか?
北條 プロレスは好きだったんで。新日本も好きだったんですけど、やっぱりUWFが大好きで。それで東京に行ってそれでシューテイング(修斗)をやろう!と。いまからボクシングは年齢的に遅いと思ったんですよ。それで上京して品川のお花屋さんの仕事を見つけて。自分の結婚式のときにブーケを作りたかったんですよね(笑)。
――そんな夢もあったんですか(笑)。
北條 花屋で働きながら格闘技ができればいいかなって。見てのとおり、ボクは話好きなんですけど。ただ、ペラペラしてるのは男としてどうなのかって考えたときに強さを求めたんです。
――実際にシューティングには入会したんですか?
北條 ちょうどプレ大会があったんです。八角形のリングで後楽園ホール大会。それを観に行ったんですけど、結局シューティングには入らずに。その理由は「いまからじゃ遅いかな」と思ったんですよね。ボクはレスリングをやっていたわけじゃないし。でも、みんなイチから学んでいたわけだから、いま考えるとボクでも入門できたんだと思うんですけど。当時はそう判断しちゃったんですよねぇ。
――それで骨法に?
北條 実家に弟が買ってきた堀辺先生の本があったんですよ。「骨法の極意」というタイトル。その本を東京に行くときにもらってきたんですよ。ふと読んでいたら東中野に道場があることが書いてあって「俺は競技をやりたいんじゃないかもしれない」と思って。格闘技を始めたい動機は好きだった女の子に「頼られたい」ということだったから(笑)。骨法の喧嘩芸を習って女の子を守ってあげればいいんじゃないかって。
――男として正しい動機ではありますね(笑)。
北條 その女の子は骨法の祭典を見に来てくれたんです。凄く嬉しかったですね(笑)。そうやって競技じゃなくて非日常の喧嘩に対して免疫を付けたい。それでシューティング後楽園大会の翌々日くらいに東中野の道場に行ってみたんですよね。そうしたら当時指導員をやっていた小柳津さんが「見学はお断りだよ」って。骨法をやりたいんなら即入門する覚悟で来なければならない。「見て決める程度ならほかに行ったほうがいいよ」って言われたんですよね。そこからですね。花屋さんで働きながら、帰り道に東中野の道場に通う日々になったのは。
――当時は1989年ですよね。骨法の道場には何人くらい通ってたんですか?
北條 どうですかね。常時5、60人はいたかもしれない。凄かったですよ、熱気は。楽しくて一日でも欠かしたくなかったんです。
――そこは矢野さんと同じですね。
北條 やっぱそうですよ。楽しかったですよ、骨法。当時は人気があったんですよ。ただ、いかんせんほかの道場から煙たがれていて。
――どうしてですか?
北條 知らないです(笑)。骨法自体はよくわからないから怖かったんじゃないですかね。気味悪がられたんですよね。
――最初はどんな練習をしていたんですか?
北條 小柳津さんから掌打の指導を受けて。その頃は10級から始まって、動作の試験に合格すると次に進むんです。矢野くんは指導がヘタだったと言ってましけど、ボクも途中から指導員になったんですが、なかなか思うようには伝えられなかったんですよね。感覚でできる人はできるんだけど、伝わらない人は全然伝わらなくて。そこらへんは申し訳なかったんですけど。骨法は身体の使い方や力の出し方が独特なのかなって。
――寮生の1日ってどんなスケジュールだったんですか。
北條 ボクらがいた当時は先生が整体をやられていて、日中はその準備やお手伝いをしてました。夜は道場生の指導をして、そのあとにそれぞれが練習をして。
――それが特訓生と呼ばれる選手候補の練習ですか?
北條 いや、特訓生や選手という位置づけができるのは、大会をやるようになってからなんですよね。当時は選手という意識はなかったんですよね。
――では、骨法を極めることが寮生の目標なんですか?
北條 一日を終えるのがいちばん大事なことでしたねぇ。練習で死ぬことはないんですけど、その日一日を終えることの繰り返しなんですよ。寝るときに「ああ、今日は終わった!!!!」と。
――今日は終わった(笑)。終わりなき修業の日々というか。
北條 大原もボクと同じように本部を卒業してると思うんですけど。結局、大原も小柳津さんも「俺らはいつかは本部を出て行かなきゃならないな」って話はしていたんですよ。ほかの格闘技の内弟子期間は2~3年くらいだと思うんですよね。内弟子をまっとうすれば、どこかに道場を出せるというか。でも、骨法にはそのカリキュラムはなかったですよね。だからエンドレス寮生。
――その生活を9年間も繰り返すって凄いですね……。
北條 「今日一日終わった。また明日だ!」という生活。終わりがどこにあるのかわからないんですよ。ただ、「今日は先生にこれを教わった」とか「先生に手首を極められて痛かった」とか刺激的な毎日ではありますよね。
――やっぱり堀辺先生の動きは凄いんですか。
北條 凄いです。じゃなかったら9年間もやりませんよ(笑)。しかも手加減してるというか、本気を出せばもっと凄いんだろうなって。
――それは幻想的ですね。北條さんはパンクラスの元レフェリーで現在はトレーナーとして活躍されている廣戸(聡一)さんの指導は受けてるんですか?
北條 廣戸さんとはかぶってないです。小柳津さんはかぶっていたそうですけど。
――骨法初期は廣戸さんの存在が大きかったと言われてますよね。
北條 そこはわからないですね。廣戸さんは身体能力もあるし、精神力も凄かったと聞いてますけど。でも、廣戸さんのいた頃は掌打はそんなにやってなかったみたいなんですよ。それで先生の一番弟子と言われる人たちから教わると、メインは「突き」なんですよ
――同じ骨法でも技術が違ってくるわけですね。
北條 先生が通しや掌打を開発して。船木(誠勝)選手も道場に来てめちゃくちゃ掌打の練習をしてましたし。UWFが大人気になったことで掌打が広まりましたよね。ただ、みんな掌打を使うと張り手っぽくなるんですけど、本物の掌打は真っ直ぐ打つんです。たとえばバス・ルッテンがパンクラスでやっていた掌打は凄い破壊力ですけど、骨法家からすると本物の掌打とは違うんです。ただ、本物の掌打が広まらないのはよくわかるんですよね。
――掌打は指が相手の目に入っちゃう危険もありますね。
北條 いや、指が目に入る掌打をやるのは骨法家とは言えないんです。相手のアゴを的確に揺らすことができるのが本物の掌打であり、骨法家だと思うんですよね。ただ、喧嘩になったときは、あえて指を曲げて打てば、相手の目に入れることはできます。
――な、なるほど。
北條 そこは自由自在なんですよ。ボクはその掌打を身体の中に染み込ませたいし、いまだに追求はしてるんですけど。グレイシーが来る前は骨法は掌打と蹴りがメインで。至近距離から掌打をよける練習をしたり。あと2人の周囲を10人くらいで囲むんです。で、どちらかが下がったら周囲が押し返すんですよね。それは狭い環境で闘うことを想定していて。
――ランバージャック形式のスパーですか(笑)。
北條 だから顔はしょっちゅう腫れ上がっていましたし、鼻なんて骨折でグニャグニャですよ(鼻をさわりながら)。
――そこは喧嘩芸なんですねぇ。
北條 「ここで喧嘩になったらどうなるんだ?」ってことをいつも考えているから、自然と危ない人ばっかが集まったんですよね。
――矢野さんいわく退会時のボールペン騒動があったり……。
北條 いつもボールペンを指しているのは武器として使う理由だったりとか。それは極端な例ですけどね。武器になるものがあれば即それを使う。掌打ができると、武器を持って打てるんです。たとえば、家の鍵なんかを指のあいだに挟めば、掌打で相手の目を狙えるんですよね。

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北條 喧嘩で勝つことを考えたら、こざかしい武器なんか持ってないで刃物で切りつけたり、パイプでぶん殴ったほうが早いんですよね。でも、普段からそんなものを持ち歩くわけにはいきませんから。身の回りのもの使って自分の身を守るための術ですよね。もっと言うと、いまと昔では喧嘩芸のあり方も違うんですよね。昔は殺傷ありきだったんですけど、現代は相手を殺したり、半身不随にしたり、目を潰したりとかすると社会的に制裁を食らうわけですよね。先生がいつも言われていたのは「暴力を封じ込める喧嘩芸を目指す」と。他人を傷つけず自分も傷つかず。相手を倒しても自分の目ん玉や金玉を潰してしまったら意味がないですからね。
――護身術としての考えなんですね。
北條 その当時は喧嘩芸がどういうものかがわかってなかったですけどね。いまでもわかってないんですけど。だからいまでも掌打にこだわってるんです。先生から当時教わったことをノートに取ってあるんですけど。
――そんなノートが!
北條 たまにそのノートを見返したりして「ああ、先生、こんなことを言っていたな……」とか。
――そうすると骨法は喧嘩芸として競技である総合格闘技のほうに行かないほうがよかったと思いませんか?……<後編へ続く>




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part1 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー
 
part2 菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」

part3【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」/小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」


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①エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」
②ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る
③平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」
④クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法 
⑤田口隆祐の「将棋とプロレス」