ヨネ 2001年からノアですからね。藤原組でデビューして、バトラーツも解散して……というときに、先に全日本プロレスに上がっていた先輩の池田大輔さんがノアの旗揚げに合流したんで、そのご縁があって。
――藤原組、バトラーツ、ノアと、いろんな時代のプロレスを見てきたわけですね。
ヨネ デビューして今年で30年ですから、もうだいぶ長くなりましたねぇ。
――ノアのOZAWA選手が道場のあり方をテーマに発信してますけど、ヨネさんもいろいろ思うところがあるんじゃないかなと。
ヨネ そうですねぇ。道場って本当にいろんなことが起こるし。人によっては魔法の家かもしれないし、逆にいえば精神が蝕むような場所というか(苦笑)。
――いまと昔ではだいぶ違ってますよね。
ヨネ 全然違うんじゃないですかね。だっていまの道場には、ケツを拭いてウ●コがついた紙を持って追いかけ回す人はいないでしょ(笑)。
――ハハハハハハハ!
ヨネ トイレに呼ばれたと思ったら、四つん這いでケツを向けた姿勢で「オッス!」って挨拶してくる先輩はいないじゃないですか(笑)。
――いたら大変ですね……まあ、昔はいたわけですけど(笑)。
ヨネ トンパチじゃないけど、キテレツな人も少なくなったし、道場もだんだん変わってきますよね。俺らはそういう道場で育ったけど、なんていうのかなぁ、べつにウ●コがついた紙で追いかけ回そうとは思わないんですよ(笑)。
――はい(笑)。
ヨネ 思わないけど、おもちゃ箱を引っくり返したような日常だったんですよね。常に散らかってるところが面白かったし、「やめたい」と思ったことは1回もなかったしなあ。
――どんなに過酷でも。
ヨネ なかったですね。「これは修行なんだ、非日常の世界が日常なんだ」って受け入れてました。
――世間と遮断するのがプロレス道場だったりするわけですね。
ヨネ そうだと思います。常識は持っててもいいと思いますけど、常人ではいけない。「そんなやり方はもう通じねえよ」って言われるかもしれないけど、いやいや通じるよ(笑)。
――通じるんですか?(笑)。
ヨネ あんまりハミ出さなきゃ通じると思いますよ。いまって、誰かのあらを探して突こうとする人が多いですから。人のことを突いて自分を防御してる人もいるわけですよね。だけど、完璧な人間なんていないんだし、変わってて面白いなっていう眼鏡で見てくださいって。だからってムチャはダメですよ。
――いまは何か厳しいってだけでパワハラ扱いされがちで。
ヨネ 言葉もそうですしね。ついつい家でも「おい」とか「てめえ」とか「この野郎」という言葉が出ちゃうんですよ。そうすると妻から「何そのキツイ言い方?」ってたしなめられて。「悪い悪い、プロレスラーだからさ」って(笑)。
――家庭にプロレスラーを持ちこんじゃいけないと(笑)。
ヨネ 結婚当初は家庭にプロレスラーをけっこう持ち込んでいたから、俺のことを知ってる周りの人からは「ヨネちゃん、奥さんは新弟子じゃないから」って(笑)。一緒にいると生活の規則が道場のものになっちゃうというか、自分の常識に持っていきがちなんですね。
――その常識は世間からすれば非常識だと。
ヨネ だからOZAWAも自分の物差しでは測れなかった部分が道場にあったのかもしれないけど。それがいまネタになってるんだから面白いじゃんって思っちゃうんですよ。
――ノアも20年以上続いてるわけですから、道場の常識も時代によって違ってるんでしょうね。
ヨネ 全然違うと思いますよ。最初の頃は夜中の合宿所に帰ってきた先輩が寝てる新弟子の口に日本酒をガブガブ入れて「おい、いまから飲むぞ!」「わかりました!」と。いまでは絶対ダメですけど(笑)。
――まだ昭和の延長だったんですね(笑)。そもそもヨネさんがプロレスラーを目指したのは、どういったきっかけだったんですか?
ヨネ 中学・高校と部活動や勉強を真面目にやったことはなくて、1回でも自分を頑張らせないと、どうしようもない大人になってしまうなと。自分は埼玉の高校だったんですけど、近所の大宮スケートセンターなんかにプロレスが来てたんですよね。見に行ったときに目の前をプロレスラーが通ったときのあまりのデカさにびっくりしたり、当時は外国人ってあんまり見たことなかったんですよね。その外国人と日本人が戦ってることにも痺れました。それまでテレビでプロレスは見たことありましたけど、目の前で見たときの衝撃から、プロレスの門を叩いたんです。
――どうして藤原組だったんですか?
ヨネ 自分の兄貴がプロレス好きでUWFのビデオを見ていたんです。それで私も一緒になって見るようになって、そうしたら、おじいさんが……若い子にやられながらも最後にキュッと関節を極めて倒す。「なんだ、この仙人みたいなおじいさんは!プロレスラーになるなら、この人の元で修行したい
」と。
――それが藤原喜明さんとの出会いだったんですね。
ヨネ 藤原組長の弟子っ子になろうと調べたら、藤原組が足立区にあることがわかってですね。高校3年生のときに藤原組に履歴書を送ったんですよ。まあ梨のつぶてで、2回3回を送っても返事は何もない。当時の藤原組は船木(誠勝)さんや鈴木みのるさんが抜けたあとで活動休止状態だったんですよ。でも、「藤原さんに教えてもらいたい」っていう若い奴が何人も集まってまして。その人たちが電話番をやってたんですけど、活動休止中だし、自分のライバルが増えることもあって「いま弟子は取ってねえよ!」とガチャ切り。こうなったら道場に直接行くしかないと。
――チャレンジしますねぇ。
ヨネ いまはネットの時代だから、知れば知るほど怖さがあると思いますよ。でも、当時は自分の未来しか見えてなかったから。電話もダメ、手紙もダメ。じゃあ、もう行くしかないと。
――実際に突撃したわけですね。
ヨネ でも、当時の自分はこの身長で、体重は60キロしかなかったんですよ(苦笑)。道場にいた若い選手に上から下まで舐めるように見られて「細いな。何キロだ?」って聞かれて、盛りゃいいのに正確に「60キロです」って答えちゃったんです。そうしたら「最低でも80キロはないとダメだ」と。そこから無理やり80キロまで増やしました。
――増えるもんですね(笑)。
ヨネ いまならプロレスラーのトレーニングはどういうものかはわかりますけど、当時はスクワットしか思いつかない。だから毎日スクワットをやりながらプロテインを取っていたら、上半身はガリガリなのに下半身はガッチガチの不思議な身体の米山少年ができあがりました(笑)。
――ハハハハハ!
ヨネ で、あらためて連絡したら、藤原さんが関節技セミナーをやっている日に来たら会えるんじゃないかと。藤原さんってお腹を空いてるときはすごく機嫌が悪いんですけど(笑)、ラッキーなことに自分がお会いしたときはは食後だったんですよ。「何歳だ?」「18歳です」「身長・体重は?」……って一通り受け答えしたら「じゃあ、明日から来い」と。
――あっさり藤原組に入門できたんですね。自宅から通いだったんですか?
ヨネ 最初は埼玉から通いました。朝5時ぐらいに起きて道場に行って、夜遅くになってから帰るんで、もう身体がもたなくてですね。藤原組の道場はプレハブの中にあって、寝るところはなかったんですけど、覚悟を決めて住み込みをすることにしました。リングの下に布団を敷いて……。
――寝るところがないのに住み込み!
ヨネ 田中稔さんが食事するスペースに布団を敷いて、池田大輔選手、小野武志選手はリング下に住んでました。
――すでにリング下の住人が!
ヨネ 自分は第3号室ですね(笑)。そこから道場住まいが始まりました。
・藤原組の道場論
・デビュー前の新日本プロレス巡業体験
・ガッチガチだったリングス道場の技術交流会
・月1回だけの試合のために…1万字インタビューは会員ページへ続く
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コメント
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モハメド・ヨネ選手は人徳者より人格者なのかも、しれないですね。
ユーモアを忘れず、人に感謝し、人と戦う!
人と戦い、人に感謝し、時にはユーモアをさらけ出す!
カッコ良いインタビューでした