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PRIDEからRIZINまで! 選手の名前をコールし続けた男・太田真一郎

2023/11/27 12:14 投稿

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PRIDEからRIZINまで! 選手の名前をコールし続けた男太田真一郎さんの17000字インタビューです!(聞き手/松下ミワ)


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レスリングを20年間、撮り続けきたカメラマン――保高幸子インタビュー





――
今日は、太田さんの取材で青二プロダクションのオフィスに来ているんですが、さっそく打ち合わせ室にTHE MATCHの記念Yogiboが置いてあります(笑)。

太田 そうなんですよ。THE MATCHのようなビッグイベントに立ち会えた記念として買っておこうと思いまして。勝利した選手がもらえるのは「THE MATCH」のところが全部刺繍なんですけどね。これ、自分の家にも一個置いてあります。

――
ということは、ふたつ買ったんですか!?

池田マネジャー(以下、池田) ここに置いてあるのは、太田がボクに買ってくれたんですよ。せっかくだから会社に置いておこうと思って。

――
いずれにしても筋金入りのマニアですね!

太田
 いやいや、筋金入りと言うほどまったくアレなんですけど。でも、ボクはDropkickの会員です。

――そうだったんですか(笑)。ありがとうございます!

太田
 全部を楽しく理解しながら読むほど、格闘技・プロレスも含めて詳しいわけではないんですけども。

――
とはいえ、太田さんは格闘技・プロレス業界にはかなり関わりが長いですよね。

太田
 長いですねえ。2000年のPRIDE GP開幕戦からなので、年数だけ言ったら23年間、リングアナウンサーをやらせていただいてます。

――
23年もやっている方ってなかなかいないですよ。

池田 当時はレニー(・ハート)さんと一緒にスタートしたんだっけ?

太田
 いや、ボクが開幕戦で、レニーさんが決勝戦からじゃない? だって、開幕戦のときはまだ前の方がいた気がするから。

――さすが詳しい(笑)。というか、レニーさんの前の方がいたんですね。

池田
 いました、いました。じつは、ボクはPRIDE.1から関わっていて。というのも、以前はUインターでフロントスタッフをやっていた人間なんですよ。

――
えっ! そうなんですか?

池田
 で、当時Uインターには小野坂昌也と吉水孝宏と石川英郎という青二の声優がリングアナで来ていたんですけど、その後、ボクが青二に転職して、それでPRIDE.1が開催されるとなったときに、ちょうどブッカーK(川崎浩市)さんが「池ちゃん、青二に移ったんだからリングアナをブッキングしてよ」と。それで小野坂昌也をブッキングしたんです。

――
なるほど。だからそんなに詳細に。

池田 だから、PRIDE.1とPRIDE.2を小野坂がやって、PRIDE.3をUインター時代に最後にやっていた吉水がやったんですよね。ちなみに、PRIDE.4からはたしかウチの服部潤という、いまトップナレーターのひとりとして活躍しているのが……ええっと、サクちゃん(桜庭和志)とホイラー・グレイシーの試合っていつでしたっけ?

――PRIDE.8ですね。

池田 そこまでは服部さん確実にやってるはずですね。

太田
 服部さんはね、ボクが参加しはじめた開幕戦までいたんですよ。だって、ボクはそのときリング周りのアナウンスはやってないから。リング上のコールだけしてくれればいいと言われて、「あとは?」と聞いたら「何もしなくていい」という感じだったから。

池田 そうか。で、英語のアナウンスは、たしか最初はローリングストーンズのファンクラブの会長をやってたマイク越谷という方でした。

――
凄い情報が続々と(笑)。

池田 「ヒクソ~ン・グレイシ~」みたいなちょっと味のある男性で。そのあとにも日本人のバイリンガルの方がやるんだけど、今後PRIDEは海外に向けても放送していくから英語ネイティブの人がいいということでレニーさんに決まったんですよね。当時、まだ彼女は青二の所属じゃなくてフリーランスでやってたんだけど。だから、ボクは太田さんは同じタイミングだったと思ってたけど、違ったんだね。

太田 ボクの記憶では、レニーさんはGP決勝戦からだったような気がする。

池田 いやあ、だいぶ記憶が遠くなっちゃったなあ。

――
いずれにしても、PRIDEのコール関係は代々、青二プロダクション所属の方がやってらっしゃったということなんですね。

池田 PRIDE.1からずっとそうですね。レニーもいつの間にかうちに所属になりましたし。

――
そんな中でも、長年担当されてる太田さんは、そもそも声の仕事をしようと思ったのはいつぐらいからだったんですか?

太田
 最初は中学生の頃ですね。中学のときに学習塾で仲良くなった別の学校の友達がいたんですけど、高校になってからその子とラジオドラマみたいなのをつくるようになったんです。その場のアドリブで友達にセリフを言って、それに対してセリフが返ってきてという。アドリブで物語をつくるという遊びをやっていて、友達が音楽を入れて編集してくれていたんですけど、それがきっかけでこういう世界の仕事に興味を持ちました。

――
へえ~、面白いですね。

太田
 で、高校卒業のときに、NHKの何かの番組で青二の養成所のことが紹介されていて。それで「ここに行こう」と思って入って、いつの間にかいまに至るということです。

――それまでって、なんかこう自分の声が人と違うなという認識ってあったんですか?

太田
 もう全然。まったくないです。とくにちっちゃい頃、ボクは「か行」が言えなかったんですよ。というか「か」は言えたんですけど、たまにちっちゃい子供にいるんですけど、「き」というのをしっかり言おうとして、ちょっと空気が漏れちゃうような「き」の言い方になっちゃう子がいて、「あー、ボクもそうだったなー」という。そのぐらい全然言えなかったですね。ただ、よくしゃべる子ではあったみたいで。それは、何かを読んだりとかじゃなく、ただおしゃべりだっただけという感じでしたけど。

――
それで養成所に入って声の勉強をして。

太田
 ウチは東京校と大阪校があるんですけど、東京校で1年間やって。で、まあオーディションというんですか? 養成所から事務所に所属するための査定があって、それに受かって青二に入所ということになりました。

――
そんな太田さんの最初の印象って、個人的に『料理の鉄人』のイメージが凄く強くて。

太田
 ああ~、ありがたいですねえ。もう、それはすっかり言われなくなりました(笑)。若いスタッフだと『料理の鉄人』という番組があったこと自体も知らない世代の人が多いので。でも、2000年の会社の新年会のときに、池田から「太田さん、リングアナやりませんか?」と自衛隊の勧誘のように言われて。

――
自衛隊の勧誘(笑)。

太田
 よくわからないんだけど「やってみる」と。それでまあ動いたんですけど、そのときにやっぱり『料理の鉄人』をやっているということが、選ばれた中の理由として大きかったという話でしたよね?
池田 ボクが榊原(信行)さんや加藤(浩之)さんに「太田っていいなと思ってるんですよ。『料理の鉄人』にも出てまして」みたいな感じで、『料理の鉄人』のVを持っていったんですよね。それでふたりとも「いいんじゃない?」と。だから『料理の鉄人』が凄くいいプレゼン材料になったとは思います。「あの声の人か」とすぐにわかるじゃないですか。「『福井さん! 福井さん!』のあの声の人ね」みたいな。

太田
 おかげで、リングアナになれました(笑)。

――
その『料理の鉄人』は現場からのリポートというか、アドリブでしゃべる感じですよね?

太田
 いや、アドリブはほとんどないですね。じつは、あの横に作家さんがいるんですよ。で、もちろんその作家さんの想像でもなくて、鉄人側と挑戦者側にADさんがついていて、「いま、何を入れたんですか?」とそれぞれ本人に聞くんです。そのときに、たとえば鉄人・坂井(宏行)さんが「うるせーなー」と言って何も答えてくれなかったときは、そういうふうに言われたという情報が作家さんのところに来て、バーっと原稿を書いて「これ言って」と。だから、ボクのアドリブとなると、その情報を言うタイミングだけですね。

――
そうだったんですね!

太田
 だから、ボクは「いまだと、まだこの情報を言うのはまだ早いな」とか。福井(謙二・フジテレビアナウンサー)さんと服部(幸應・料理評論家)さんがその話題に触れたときに入れようかなみたいな。

――
それを、あのライブ感の中でやっていたなんて……。

太田
 だから怒られてましたよ。ADさんに「いま、この情報言えって言ってます! 言ってます!」と。でも、自分の中では「まだ言えない、まだ早い」と思って言わなかったら、ADさんのヘッドホンに「言えーー!!」というディレクターの怒号が届いたり(苦笑)。まあ、ボクはヘッドホンはしてないのでそれは食らってないんですけど、そこには戦いがありましたね。

――
そんな過激な仕事がプレゼンとなってPRIDEにつながったんですね。最初の格闘技に関わることについてはどういう気持ちだったんですか?

太田
 あのー、こんなこと言っちゃうとアレなんですけど、ボク格闘技に微塵も興味がない人間だったんですよ。

――
そうだったんですか(笑)。

太田
 「微塵も」と言うとちょっと語弊がありますけど、怖かったんですよね。痛いじゃないですか。当時は格闘技というより、プロレスのイメージだったと思うんですけど、なんか痛そうで。タイガーマスクかなんかは「カッコいいなあ」と思ったことはありましたけど、やっぱり血が出る、悲鳴を上げているというので、あんまりいい印象はなかったです。とくに、自分の近くに格闘技・プロレスというのがなかったので、声をかけられたときは何のことかわからなかったというのが正直なところですね。まあでも、せっかくの縁なので「やります」という返事はしました。

池田 当時も「格闘技とかわかってないけど大丈夫なのかな?」と言ってましたよね。だからボクが「大丈夫です!」とあと押しして(笑)。

太田
 最初、現場ではリング上でのコールだけやればいいよという話だったので、「それなら、よかった」と。

――
当時は、どうコールしようかというのは何かイメージはあったんですか?

太田
 最初に服部さんがやっていたのを聞いて、「こんなテンポで、こんなふうに言うんだな」というのはだいたい。あとは、リングアナってイメージはプロレスや格闘技を知らなくても、「青コ~ナ~」みたいな昔ながらのイメージもあったので。そのふたつをすり合わせてやってみたということだと思うんですけど、いかんせん、もう23年前の記憶なので(苦笑)。

――
最初のコールってどの試合だったか覚えてます?

太田
 それが、覚えてないんですよねえ。ただ、2000年のPRIDE GP開幕戦と決勝戦は両方とも東京ドームでの開催だったんですけど、リングがあって、アリーナにお客さんもいて、そのアリーナからちょっと入れるところにトイレがあるんですけど、トイレで用を足していたら「お兄ちゃん、さっきのガイ・メッツァーのコールよかったで!」と言われたという記憶だけは残ってます(笑)。

・リハーサルは朝8時から!
・「ボブチャンチン」のコールは難しかった
・高田延彦のいい話
・PRIDEとRIZINの違い……17000字インタビューはまだまだ続く
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コメント

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