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DDT25周年……「文化系」から文武両道プロレスへ■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

2022/04/04 10:12 投稿

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  • 小佐野景浩
プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回はDDT25周年……「文化系」から文武両道プロレスへです!



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――
小佐野さんはDDT25周年興行の解説をやられてましたね。

小佐野 面白かったけど長かった。6時間半だよ。

――
椅子に座ってるだけで大変ですね(笑)。

小佐野
 前半3時間半、後半は3時間。その前日の東京女子の解説もやってるんだけど、それが前半2時間半、後半2時間の合計4時間半。DDT翌日の全日本大田区大会の解説もトータル4時間だから3日間で15時間ですよ(笑)。

――
おつかれさまです!

小佐野
 出場選手が多くて、それぞれの流れも全部把握しなきゃいけない。なによりDDT&東京女子の両国はけっこう寒くてね。底冷えするんだけど、休憩にならないとトイレも行けないから、水分を控えに控えた3日間でしたよ(苦笑)。

――
いまのビッグマッチは昼過ぎに始まって21時前後までやるから、長くなってあたりまえで。プロレスファンも慣れっこになってますね。

小佐野
 たまに試合数が多すぎて、どうやって大会進行するんだろう?って興行もあるよね。

――
25周年記念イベントはどうでした?

小佐野
 DDTが旗揚げした1997年は多団体時代でしょ。当時『週刊ゴング』編集長だった私からすれば、当時のプロレス界にとって、あってもなくてもいい団体だったんですよ。

――
雨後の竹の子のように団体が出てくる時期だっただけに。

小佐野
 しかも団体の中心となる高木三四郎、三上恭平(MIKAMI)、野沢一茂(NOSAWA論外)の3人はキャリアが浅かったし、コーチ役的存在だった木村浩一郎(スーパー宇宙パワー)や、仮面シューターの渡部(優一)さんもビッグネームではなかったから。プレ旗揚げ戦で集まったファンに旗揚げしていいかどうかジャッジしてもらってスタートという流れだったけど。その頃はファンタジー路線でもなく、ジャイアント馬場の遺伝子やアントニオ猪木の遺伝子を持ってない団体がポンと生まれただけで。木村浩一郎のことはその前から知っていて、彼らは旗揚げ前に編集部に挨拶に来たのかな。木村浩一郎が「マジメにやります」みたいなことを言ってたような記憶がある。

――
『週刊ゴング』の編集長として視界には入ってなかったんですね。

小佐野
 編集長時代は一度も会場に行ったことがない。というか、あの時代は団体が多すぎて行けなかった。まして編集長は現場取材に行く立場ではないから。それでも、なるべく現場の空気を知りたいから行くんだけど、さすがにDDTまでは手回らなかった。初めてDDTを会場で見たのは編集長をやめてからだから、99年や2000年頃かな。北沢タウンホールや渋谷クラブATOMでやっていた定期戦に行くようにしてたんだけど、けっこうカルチャーショックを受けた。お客さんがプロレスファンとは違う。あの頃のDDTは若者のサブカルのトレンドみたいな感じにしたかったと思うんけど。たとえば大学生ぐらいの女性ファンが多かった。彼女たちの会話を聞いてると、やったらDDTのストーリーに詳しい。でも、絶対にこの子たちは既存のプロレス団体を知るわけがないなっていう種類の子たち。ああ、ここを開拓したんだDDTは……って思ったよ。

――
ATOMでプロレスをやる時点で新しい団体ですね。

小佐野
 初めてATOMに行ったとき場所がわからなくて。コンビニで道を聞こうかなと思ったら、たまたま高木三四郎がコンビニに入ってきたから、「これから取材に行くんだけど」って連れていってもらったんですよ(笑)。

――
話は変わりますけど、円山町周辺のクラブっぽい箱で、『ゴング』の発行元だった日本スポーツ出版のリニューアルパーティーがあったじゃないですか。高田延彦のジンギスカン屋『モンゴリアンチョップ』も円山町でしたし、妙にプロレス界隈が円山町づいていたなって。

小佐野 あのパーティーに私もいたよ(笑)。天龍(源一郎)さんが呼ばれたからアテンドしてね。そのとき天龍さんに「俺、会社を辞めますから」って初めて伝えて。

――
そんなことがあったんですか。

小佐野
 あの日、会社の新しい幹部に初めて会ったんですよ。

――
ボクは新生『ゴング』に一枚噛んでいた宮崎満教さんと繋がりがあったから、なぜかカミプロの人間だったのに呼ばれたんですね。

小佐野
 満教さん自体がバイタリティのあるすごい人というか、人間的には嫌いではなかったよ。一生懸命やる人で、自分で広告を取ってきたりとか。

――
面白い人ですよね。山師感はすごかったんですけど(笑)。

小佐野 で、編集長じゃなくなってDDTを見に行くようになったその年の暮れだと思うんだけど。後楽園ジオポリスの大会でポイズン澤田JULIEが高木三四郎に負けて。そのあと澤田が自分の生首を持って炎の中に入っていく……という映像が流れたんだけど。それって当時としてはギリギリの演出だったんですよ。

――
そんな映像が用意されているのは、おかしいってことですね。DDTは現実とファンタジーのリンクのさせ方が早い団体でしたね。

小佐野
 それはWWEでいえば、試合に敗れたアンダーテイカーが棺桶に入れられて、映像が切り替わると天国に消えていくみたいなことだったから。それをDDTはやったから「うわ、日本のプロレスもここまで来たか!?」と驚いた。それは高木三四郎も冒険だったみたいで「はたして、ここまで踏み込んでいいのか……」と。

――
新生FMWもエンターテイメント路線でしたけど、そこまではやってなかったと。

小佐野
 映像ではそこまでやってないかな。新生FMWはリング上でのエンターテイメントだったというか。DDTの場合は最後までパッケージされたものだから、けっこう衝撃的だった。その当時はファジーって言っていたと思うんだけど、曖昧なファンタジー路線。簡単にいえばDDTの胡散臭い路線はそこから確立していったのかな。それから10年近く経ったあとに、DDT両国でポイズン澤田JULIEが蝶野正洋と一騎打ちをしたんだけど、蝶野も澤田のジャラジャラの呪文にかかって動きが止まったからね。

――
新日本の練習生だった澤田が、新日本のトップを取った蝶野をDDTの世界に引き込んだ歴史的なシーンですね。

小佐野
 新日本でいえば、フリーになった田中ケロちゃんが長井満也とDDTに乗り込んで「こんなくだらない団体」って煽ったこともあった。

――
新日本時代の田中ケロちゃんはインディ批判が絶えなかったから、そこを火種にしてましたね(笑)。

小佐野
 さんざんやりあって最後には認めあってね。

――
同じエンタメ路線でも『ハッスル』の場合はいきなり大砲をぶっ放した感じですけど、DDTはちゃんとマスコミや他団体とのコミュニケーションを取りながらやっていた……から、エンタメ路線も批判が出なかったのかなと。

小佐野
 やりかたがうまかったよね。『週刊プロレス』の菓子折り事件とかあったでしょ(笑)。

――
DDTの誌面での扱いについて広報が菓子折り持参で編集部を訪問したら、当時の編集長に「菓子折りは必要なかった」と誌面に書かれたことが騒ぎになりましたよね。このネタ、もう何年も何年も転がして(笑)。
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