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国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第2弾。アポロが見た80年代・90年代のプロレス界とは?

【前回はこちら】
アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」



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――
菅原さん! 前回のインタビューが好評だったので今回もよろしくお願いいたします。

菅原 ああ、そうですか。期待に添えられるかどうかわかりませんけど(笑)。

――
前回は国際プロレス崩壊までのお話を伺いましたが……全日本プロレス入団後、当初は本隊の一員として行動されてたんですよね。

菅原
 ヨーロッパ遠征に行くまではそうですよね。遠征に出るまで4年近くそうだったんじゃないですか。

――
全日本でやってみて国際プロレスとの違いは何か感じましたか?

菅原
 そんなに大きくは感じませんでしたけどね。 あまり変わらない感じでしたよ。ただ、これはもう言ってもいいですけど、国際の巡業は外国人選手と一緒に移動してましたからね。

――
敵陣営の外国人と一緒に行動する姿を見せることはご法度でしたね。

菅原
 途中からは分かれるようになりましたけど。全日本は日本人と外国人は別々でしたね。

――
途中入団はやりづらくなかったですか?

菅原
 まあ、やりづらいかといえば、やりづらいですよ(笑)。ヨソからきてるわけですから。そこは気にしてもしょうがないなぁと思ってましたけどね。

――
外様の扱いも受けたという。

菅原
 そういうことを気にしちゃうと「これもそういうことなのかな」って思っちゃうんですけど。自分は意外とそういう細やかさはないんですよ。「こういうこともあるさ」という感じで受け止めていましたよ。

――
寮住まいではなかったんですよね?

菅原
 なので毎日道場には行ってなかったですね。道場に行かない日は遠藤(光男)さんのジムでトレーニングをしたり。あの当時の道場には越中(詩郎)さん、三沢(光晴)、(ターザン)後藤なんかがいて。自分だけひとり歳が離れてるんですけど、お互いに練習で頑張れたというか。

――
切磋琢磨したわけですね。

菅原
 そういう格好のいい話ではないですけどね(笑)。でも、そういうことですよね。最初の柔軟運動から始めて、最後までキッチリやっていた記憶がありますよ。 

――
プロレス団体ってどうしても派閥というか、グループができるじゃないですか。菅原さんはどなたと一緒に行動したんですか?

菅原
 いやあ、巡業でもだいたいひとりだったんじゃないですか。天龍(源一郎)さんや渕(正信)さんから、たまに飲みに誘われたりしましたけど。レスラーってあんまりつるまないんじゃないんですか。ホテルに入って少し休憩してから会場に向かって、試合をやってホテルに帰ってきて寝て。翌朝も移動で早いですからね、基本はやっぱりひとりで自由に過ごすんじゃないですかね。

――
先輩レスラーの付き人をやってるような立場だと雑用で大変だけど、という。

菅原
 そうですね。たとえば越中さんなんかは馬場さんについてましたから、いろいろと大変だったと思いますよ。まあ付き人の仕事がなくても巡業中は自由な時間ってあんまりないんですよ。次の日が試合だったりしますから、たまに深夜2時ぐらいまで飲むことはありましたけど。たまには、ですよ(笑)。

――
国際プロレスと比べてお客さんを入ってましたよね? 

菅原
 それはもう入ってましたね。 国際プロレスと比べたら数段上ですよ。やっぱり、できればたくさんのお客さんの前で試合したいですからね。そういう面では、やりがいはありましたね。もちろん国際プロレスのときもやる気はありましたよ。やっぱり自分の身体が商売道具ですから、お客さんが少なくても真剣に試合はやったし、試合に備えてトレーニングをやってましたしね。

――
4年近く全日本で活動されている最中、ヨーロッパ遠征に出るわけですね。

菅原
 あれはどういう流れなんでしょうね。突然という感じではありましたね。先にヨーロッパ遠征に出た鶴見(五郎)さんを自分が追っかけるようなかたちで。

――
ヨーロッパ遠征は乗り気だったんですか?

菅原
 もともと海外修行の願望は持ってました。あとからの話なんですが 、上田(馬之助)さんが「靴とパンツだけで世界中で商売できるのはプロレスラーだけなんじゃないか」と。「そのとおりですね」って感心したんですけど。

――
初体験となったヨーロッパのプロレスはいかがでしたか?

菅原
 ラウンド制は日本のプロレスとは違うもんだんだなあと思いましたよ。プロモーターから「2ラウンドまではやって3ラウンドで勝負を決めてくれ」みたいな話もありましたからね。 そういうところは日本とは一緒なんですよ。 日本にも10分なら10分という単位があるわけじゃないですか。そこはヨーロッパも日本も変わらないくて、プロレスは仕事だということですよね。

――
日本だろうがヨーロッパだろうが、お客さんをどうやって楽しませるかってことですね。

菅原
 向こうではボクは韓国人ということで試合をやりましたね。誰のアイディアっていうわけではないんですけど、 鶴見さんがゴロー・タナカという日本人だから、もう日本人は2人はいらないだろうと。向こうの人から見れば、韓国人も日本人もよくわかんないでしょうし(笑)。

――
ヨーロッパのプロレスは一箇所にテントを張ってロングラン興行を行なうんですよね?

菅原
 そうですね。ひとつの場所にサーカスのような大きなテントを張っていて、巡業というより相撲の本場所と言ったほうがいいかもしれないですよ。1ヵ月くらいは同じ場所でやりますよね。オーストリアのウィーンで1ヵ月ぐらいやって、そのあと転々として、西ドイツのハノーバーで1月半ぐらいやってるはずです。

――
同じ場所で1ヵ月近くやるのにお客さんがよく入りますね。

菅原
 それがそれなりに入ってるんですよ。リングに上がって選手紹介するときにお客さんから、おひねりが飛ぶんですけど。向こうでは3試合目、4試合目がメインイベントなのかな。たいていタッグマッチなんですけど、試合はけっこうヒートしますから、お客さん同士でお金を出したりするんですよ。「いまこのチームにいくらお金が入りました!」とかアナウンスされて。

――
いまでいうところの投げ銭ですね(笑)。やる気もどんどん出てきますね。 

菅原
 そうするとまたヒートしてね、現金が飛び交うところがありましたから楽しかったですよ。試合が終わったら、そのお金でホテルのバーで一杯やるわけですよ(笑)。

――船木誠勝さんがヨーロッパ遠征のときに腕試しの相手をさせられた、みたいなことを言ってましたけど。菅原さんはそういう経験はありますか?

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