前回は「剛竜馬とパイオニア戦志」について12000字のボリュームで語ってくれた松崎和彦後編!今回は自身の経験を通して平成インディの歴史を12000字で語ります! キミはどこまでついてこれるのか?(聞き手/小野仁)
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・俺と剛竜馬とパイオニア戦志12000字■松崎和彦インタビュー
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――少年時代、地元の川崎球場を本拠地とするプロ野球・ロッテオリオンズのファンだった松崎選手ですが、実は「川崎球場凱旋」が目前で幻になったことがありますよね。
松崎 ああ、レスリングユニオンがやったとき(1994年4月3日)か。まぁグラウンドでフリーマーケットが開催されている中で、その一角にリングが組まれたんだけどね(笑)。
――不運にも、その1週間ほど前に大会プロモーションで島根県の浜田へ向かう際、乗っていた車が横転する事故で肋骨を折って無念の欠場となったんですよね。
松崎 ワゴンの後部座席にオレとユニオンの武井(匡)氏、助手席にオレがリングネームを付けた新人の大野望(おおの・のぞみ)が乗ってたんだけど、ドライバーも含めて4人とも死なずに済んだのは奇跡的だった。事故直後に大野がドライバーにエンジンを切るように促してくれて頼もしかったね。特に危なかったのはオレの席で、横転した車を切り裂くように道路標識が降ってきたんだけど、たまたま寝転んでいたから九死に一生を得たんだよ! 「普通に座ってたら首が飛んだところだ」って警察で言われたね。あの恐怖はいまだに忘れられないな……。で、浜田市内の民宿を警察が紹介してくれたんだけど、やっと落ち着いて民宿でトイレに行ったら真っ赤な血尿が出て……恐怖で眠れない夜を過ごしたね。
――それでは、川崎球場どころではないですね……。
松崎 でも、そのときは球場には行って、ベンチ裏からグラウンドに抜けて、初めて内部の構造が見られてよかったなって。川崎球場のグラウンド自体には、小学生の頃にラジオ体操で外野の通路から入ったことがあったんだけどね。
――ああ、川崎在住の少年として。
松崎 憧れのグラウンドに足を踏み入れたなって。昔ね、ロッテの前に大洋ホエールズ(横浜DeNAベイスターズの前身)がフランチャイズにしてた頃には、試合後に観客がネットを越えてグラウンドに入って選手たちと勝利の喜びを分かち合うってことが許されてたんだけど、それはどうなんだろう?って子ども心にあって。まさか、それがのちのち、インディープロレスの聖地みたいになっていくとはね。
――まさに大仁田FMWが川崎球場に初進出した91年を最後に千葉へ移転したロッテ球団については……。
松崎 まったく興味がないね。
――けれども、久々に訪れた川崎球場には郷愁を感じたと。
松崎 うん、いまだに愛着があるね。あんないい球場はないでしょう。
――その愛してやまない川崎球場で、FMWは毎年のようにビッグマッチを開催していました。それを傍目に見て、どのような思いでしたか?
松崎 いや、いいんじゃないの?って。ああ、(大仁田厚が川崎球場を檜舞台に)選んだんだなと。あと、IWA(JAPAN)も川崎球場でやったよね。IWAのとき(95年8月20日)は、川崎の駅前にカレーのうまいホテルがあって、たまたま当日そこで食ってたら通りがかりのプロレスファンがオレを見て「あらっ?」って言うわけ。「今日、出るんですか?」「いや、出ませんよ」って(笑)。あ、そういえば、川崎球場に観に行ったこともあるんだ。剛竜馬が出たことがあるでしょ?
――はい。96年5月5日のFMW川崎球場大会で、剛さんは冴夢来MAXをパートナーに忌神(イマジン)&宇宙魔神シルバーXと対戦していますね。
松崎 そのときは内野席で観てたんだ、冴夢来プロジェクトの伊藤さん(章彦氏)たちと。
――では、その試合に出た「被り物」たちの中身ではなかったと。忌神はY選手、シルバーXはH選手、冴夢来MAXはA選手だったという認識が確信に変わりました(笑)。
松崎 そんなことがあったね。川崎球場も今は様変わりして、アメフトの競技場になってるのかな。
――その内野席で剛さんの試合を見守っていたときにしても、駅前でファンに声をかけられたというIWAのときにしても、あるいは石川孝志さんら東京プロレス勢が参戦した95年5月5日の大仁田引退興行にしても、出場メンバーに入っていたって不思議はなかったわけですよね。
松崎 そうだね。なんか、そういうときに入ってなくて。それこそ地元だから、「出ればチケット売れるだろう?」の世界になってくるところだけど(笑)。
――そこで「なんで川崎球場を愛するオレが呼ばれないんだ!? チクショウ、出たいな」とは……。
松崎 思わなかったね。なぜなら、川崎球場は野球を観る場だからね(笑)。ほかの人たちが試合をしているからって、じゃあオレも川崎球場を目指そうとは思わなかったね。
――川崎球場はインディープロレスの聖地ではなく、あくまでもロッテオリオンズの聖地であると。
松崎 そうそう。そういうこと。
――川崎球場にかぎらず、ギリギリのところでビッグマッチに絡まないできましたよね。それこそ新日本の東京ドーム大会にだって、(97年4月に)石川さんのセコンドで行ったでしょう。邪道軍としてはNOAHの両国にも……。
松崎 行くことは行ったね。新日本の博多スターレーンで川畑さん(輝鎮)と奥村(茂雄=OKUMURA)が平成維震軍とやったときはセコンドで乱闘に加わったけど。そういうところに特に出たいという欲がないからね。
――とはいえ、WJマットで長州力や天龍源一郎、越中詩郎、佐々木健介、90年代にはブッチャーやシンなど、それなりにビッグネームと同じリングに立ってきましたが。
松崎 それでいうと、やっぱり圧巻はエッジ&クリスチャン(・ケージ)でしょう。
――彼らが98年にアダム(エッジ)&ジェイ(クリスチャン)のカナディアンロッキーズとして新東京プロレスに参戦した当時に対戦してますけど、それはWWF入りして名を上げる前のことでしょう!
松崎 まぁ、世界のスーパースターになる彼らを育てたかなって(笑)。初来日の第1戦で当たってるからね。
――往年のトップスターに触れた中で、特に感慨深かったのは誰でしょう?
松崎 タイガー・ジェット・シンかな。佇まいといい、姿勢といいね。剛竜馬と3人で組んだ程度で、当たってはないはずだけど。
――具体的にコーチやアドバイスを受けた選手でいうと?
松崎 日本式の練習方法しか知らなかった若手の頃に(オリエンタルプロレス所属として)W★INGに出て、海外式の練習を教わったことは勉強になったね。ミグエル・ペレス・ジュニアとかいたけど、クラッシュ・ザ・ターミネーターが冗談も通じてうまいことアドバイスしてくれたね。オレはそんな呑み込みが早いタイプじゃない不器用なほうだから、クラッシュは褒め上手で教え方がうまくて感謝してるね。いい人間だったね。彼はアメリカ人かな。プエルトリカンはちょっと違うからね。ペレスあたりは正直、苦手だったね。彼らは日本人を小馬鹿にしているようなところがあって。本国(アメリカ)に虐げられているから、そうなるんだろうけど。
それと、オリエンタルの頃に高杉さん(正彦)から「不器用なヤツがいるからいいんだぞ。みんな器用だったら特徴がなくなってしまうだろう」と言われたことがあって、いまだに座右の銘にしてるし、それは若手にも言うことだね。
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コメント
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(ID:2884205)
ほとんどついて行けませんね❗