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リッキー・フジのロックンロールなロングインタビュー第3弾!! 今回は新生FMW崩壊編です!
【第1回】ロックンロールなプロレス人生!! リッキー・フジ「今の俺からじゃ想像できないけど、UWFに憧れて……」
【第2回】【FMW編】リッキー・フジ「シーク、スピンクス、ベリチェフさん……素晴らしきガイジンレスラーたち!」
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――今回は新生FMWのお話を中心にお伺いします。大仁田さんが引退されたことでFMWは新生FMWに移行しますが、その前に大仁田さんは1年かけて引退全国ツアーをやりましたよね。
リッキー やりましたねぇ。あの1年のあいだは、ほぼ自宅に帰らない感じでしたよ。ずっとツアーに出てました。
――引退シリーズだから、まさにかき入れときというか。
リッキー そうそう。どこへ行っても満員があたりまえでね。2~3000人規模の地方体育館でもやっぱり満員でしたから。
――あの当時の地方巡業ってタイトな日程でガンガン打ってましたから、とんでもない稼ぎだったんでしょうね。
リッキー いやあ、凄かったですよ! ボクらはあの頃のイメージが強いので、「お客は入ってあたりまえ!!」みたいなところがあったんですよ。そこはやっぱり大仁田さんの知名度というか、大仁田さん自身がいろんなメディアに出られていたことが大きかったんですけど。当時の一般人にとってプロレスラーというと、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、そして大仁田厚という時代でしたよね。
――そんな中、大仁田さんの引退試合の相手だったターザン後藤さんをはじめ数名が、95年5月川崎球場の引退興行直前になってFMWを離脱されたました。現場にいたリッキーさんたちは、あの離脱をどう聞いていたんですか?
リッキー いやあ、あれはボクもよくわからなかったです。というか、当人であるお2人が口を開かないのでボクもわからないというか……。
――直前まで後藤さんたちが離脱する気配もなかった。
リッキー ボクは当時、後藤さんとタッグを組んでいたんですけどね。大仁田さん引退後のFMWに対して、双方で行き違いがあったのかなあ……と想像はするんですけど。2人がいまだに口を開かないということは、よっぽど何かあったんでしょうねぇ。
――いまだに何も言わないという点では、逆に2人の絆すら感じますよね。普通だったら、どちらかが暴露してますし。
リッキー 後藤さんが離脱しちゃうということで、代わりに大矢剛功選手とタッグを組むことになったんですよね。そのおかげと言ったら変ですけど、世界ブラスナックルタッグ王座に挑戦してチャンピオンになったんです。変な話、いちプロレスラーとしてはプラスになったというか、そのまま後藤さんが残っていたらチャンスは巡ってこなかったかもしれなかったなって。
――1人減れば、ほかの誰かにチャンスが生まれる世界ですもんね。結局大仁田さんの引退試合の相手はハヤブサさんが務めて、大仁田さんは引退することになりました。それ以降のFMWについては、どうなると聞いていたんですか?
リッキー 大仁田さんはもう完全に団体から離れるという感じでしたね。エースをハヤブサに据えて新生FMWはスタートすると。大仁田さんの引退が95年5月5日で、新生FMWのスタートが5月の半ばだったんですけど、早くも現実を見せられたというか……。新生FMWの始まりは埼玉あたりの体育館だったんですけど、それが本当にガラガラでした。
――引退ツアーとのギャップが相当あったんですね。
――それぐらい大仁田厚というプロレスラーの存在が大きかったということですね。新生FMWの会社経営は、FMWの旗揚げ時からリングアナやフロントとして関わっていた荒井(昌一)社長が見ていたわけですよね。
リッキー そうですね。でも、荒井さんは現場にはほぼ口を出さなかったです。
――現場を仕切っていたのはどなただったんですか?
リッキー 基本的にはみんなでやっていたんですけど、最終的にはレフェリーの伊藤豪が仕切っていました。大仁田さんが引退されたことで、良くも悪くも自分らでやっていかなきゃいけないんだなという思いはみんなの中にあったんですよ。ボクも一緒にタッグチャンピオンになった大矢選手と「会社がハヤブサを持ち上げてエースにするんだったら、ボクらはその反対側に立とうか」みたいな話をしていたり。その流れで「リーサル・ウェポン」というグループを作りまして、ザ・グラジエーターや、最終的にはポーゴさんまで引き入れて暴れていたんですけどね。
――みんなでアイデアを出しながら実行していたわけですね。
リッキー たとえば大矢選手と相談して、藤原組に乗り込んだりしましたし。FMWのタッグタイトルを懸けて試合をすることになったときは、相手は藤原組長と、当時藤原組でまだデビューしたてのショー・フナキ選手がパートナーで。そのときの後楽園ホールは満員だったし、お客さんも熱かったんですよね。藤原組とFMWの応援がそれぞれ真っ二つに分かれて、ファン同士がケンカするぐらい熱量で。
――団体のカラーがまったく違いますもんね。
――そもそも藤原組って会場は静かな感じでしたもんね。
リッキー 新生FMWに話を戻すと、大仁田さんのカラーを消さなきゃいけないという思いがみんなにあったんですよ。ましてや、ハヤブサを活かすのであれば、やっぱりレスリング主体のプロレスというところに行き着いたんですよね。その中でも金村(キンタロー)や松永(光弘)とか、デスマッチの流れを汲む選手が入り混じって戦うという感じでして。
――そうやって新生FMWの軸が決まってきた頃、引退から1年半後の96年12月に大仁田さんが戻ってきちゃったんですね。
リッキー あのときは凄く複雑な気持ちでした。自分たちで試行錯誤しながらハヤブサを中心にレスリング主体のプロレスを作り上げていた矢先ですよ。それがようやくカタチになってきて、後楽園もようやく埋まるようになってきた。新生FMWが軌道に乗ってきたところに大仁田さんが戻ってこられて。なんて言うんですかねぇ、「いまの流れを変えられるのかなあ……」という危惧がありました。
――現場側から大仁田さんに「戻ってきてほしい」と要請したわけじゃないんですよね?
リッキー それはなかったです。
――たとえば荒井さんからお願いしたということも?
リッキー それもないと思います。大仁田さんが引退されるときに上層部でどういう約束があったのかはわからないですけど。戻ってこられたからには、大仁田さん主導でやるしかないんだろうなと。そのへんの対応が難しかったですよね。
――大仁田さんにはお世話になってはいるんだけれど……。
リッキー そうなんですよ。ボクなんかはとくに大仁田さんにお世話になっているんでね。前回もお話しましたけど、90年代から金髪・ロン毛といういまと変わらないスタイルでプロレスをやっていた中で、どんなに酷い野次が飛んでも大仁田さんだけは「どんどんやれ!」と応援してくれたわけですから。
――でも、現場は対立してしまって。
リッキー まあ、そうですね。結局「大仁田さんがいるかぎりは新生FMWは続けられない」ということになったので、みんなで話し合った結果、大仁田さんにはFMWから出て行ってもらおうということになったんです。
インタビュー14本、コラム8本、12万字オーバーのインタビュー詰め合わせセットはまだまだ続く……
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