この記事は山本KID徳郁の死を語ったDropkickニコ生配信を編集したものになります(語り:ジャン斉藤)
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山本KID徳郁さんが癌により、お亡くなりになりました。KIDさんは2年前から癌と戦っていたそうですが、ちょっと前に週刊誌が報道するまで、闘病中であることは世間に漏れてきませんでした。正確にいえば、KIDさんは表沙汰にする気はなかったんですが、自分の意に反して報道されてしまうことを知り、その前に自ら発表したんですね。癌であることを伏せたまま治療し、またUFCのオクタゴンに立ちたかったというKIDさん。ジムだけではなくRIZINやUFCの関係者にも伝えられていたのに、表面化しなかった。誰もがスクープを発信できるSNSの時代にですよ? KIDさんの意志を尊重する周囲との絆の深さを感じます。
KIDさんのことは何度か取材させていただいたんですが、一番印象に残ってるのは修斗のデビュー戦なんです。ボクがまだマスコミの世界に入る前のことで、後楽園ホールで観戦しました。2001年3月2日。この日付からピンとくる方がいるかもしれませんが、両国国技館で橋本真也のZERO-ONE旗揚げ戦と同日だったんです。両国国技館と後楽園ホール。どちらも最寄りは総武線の駅なんですが、両国と水道橋、どっちの駅で降りるか迷ったんですよねぇ。
KIDさんは「凄い奴がデビューする」という噂だったし、ZERO-ONE旗揚げ戦も小川直也と三沢光晴の初絡み。橋本か、山本か……。気持ち的にはZERO-ONEに傾いてたんですが、新宿からだと水道橋のほうが先に着くじゃないですか。水道橋で降りちゃったんですよね。ところがその日の修斗は個人的にはそこまで面白くなかったんですよ。一方のZERO-ONEは大爆発も大爆発で。なのでKIDさんの試合を見るたびにZERO-ONE旗揚げ戦を思い出してしまう変な身体になっちゃったんですよねぇ。
KIDさんの死はあらゆるメディアが報じていますが、KIDさんの活躍で中・軽量級に光が当たった……というのが一般的なストーリーなのかもしれません。それは大正解でもあり、ちょっと間違いもあるんです。どういうことかといえば、2000年代前後の修斗は、ファッションやサブカルと融合したことで若者に絶大な支持をされていて……。
修斗は地上波で大々的に放映されていなかったのにけっこうな認知度を得ていて。KIDさんと戦った魔裟斗さんの自伝「青春」には、彼がキックをメジャーにするために全日本キックを離れたり、石井館長やテレビプロデューサーに直談判したり、そうやって必死に行動することになったきっかけは、あの時代もっとも洗練されていた修斗の存在に触発されたと記されているんです。
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