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プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「馳浩」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!




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――今回のテーマはプロレスのリングに11年振りに復帰した馳先生です!

小佐野 復帰したのは「もりかけ問題」の大変なときで。武藤(敬司)は「馳先生が来たらブーイングが飛ぶんじゃないの? 大ヒールだよ」って笑ってたけどね(笑)。

――馳先生は議員活動で忙殺されてるとは思えない見事な肉体を披露しましたね

小佐野 彼は本当にストイックなんですよ。朝3時頃に起きて新聞を読み、トレーニングをしてから事務所に出勤して、午後は新幹線で地元・金沢に行って、夜は東京に帰ってくる。そんな生活を毎日繰り返してるんですから。

――心身ともに
かしくなりますよ!(笑)。プロレスラーから議員になった人はたくさんいますけど、雑巾がけから初めて大臣まで昇りつめたのは馳先生だけですよね。

小佐野 馳は1995年に参議議員で当選した。あのときはタレント候補がけっこう多かったんだけど、政治家としての資質を問う声に対して馳は「タレントとは才能がある人のことを言うんです。もし私に知名度があるというのならば、これまでの肉体的な努力と精神的な努力を見ていただきたいし、知っていただきたい!」と反論したんですから(笑)。

――理論立ててくる感じが馳先生っぽいですね(笑)。

小佐野 あの人は努力する自分が好きなんだろうね。一種のナルシスト的なところがあるんですけど。同い歳なんですよ、私は。

――あら(笑)。

小佐野 1961年生まれの56歳。84年のロスオリンピックに出場して、85年8月に入ってきて。ジャパンの道場は6月にできたんですけど、あの頃は合宿所に個室があったんです。

――相部屋じゃなかったんですね。

小佐野 1階が道場、2階が事務所、3階が合宿所でリビングがあってそれぞれの個室があった。そこに健介や新倉(史祐)くん(新倉記事はコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar628895)の部屋もあったんだけど、馳の部屋に初めて入ったら短歌を詠んでいたんですよ。「何をしてるの?」「ちょっと短歌を……」って(笑)。

――もともと星稜高校の国語教師でしたもんね。

小佐野 プロレスラーって試合を終えたら巡業でバスに乗って次の場所に……という生活だから、ちゃんと意識してないと自分がどこの土地にいるかもわからなくなっちゃう。だから新聞や本を読むことで世の中の動きを把握してたんでしょうね。

――しかし、なんでそんな人間がプロレスにやってきたんですかね(笑)。

小佐野 あの人がジャパンに入ったときは契約金はゼロだったんですよ。

――えっ、オリンピックレスラーなのに。

小佐野 「給料も教師時代と同じでいい」ってことで入団したんです。ジャパンもそんなにお金があったわけじゃないんですよね。道場の建物は竹田(勝司)会長のものだから。

――ジャパンのオーナーだった竹田会長。

小佐野 長州力はあの当時イチから教えなきゃいけない新人は欲しくなかった。「結局一人前になるまでに何年かかって、いくら金がかかるんだ?」と。だったら1年2年でモノになる即戦力がいい。団体としてはお金は持ってなかったわけだし、ましてやあの頃は業務提携していた全日本プロレスから完全独立を狙っていたから。

――そこまでの余裕はなかったということですね。

小佐野 新弟子として健介は取ったんですよね。ジャパンの新弟子1号は健介。あと山本(英俊)くんという新弟子がいて、彼もデビューしたんだけども身体を壊しちゃってやめてる。

――馳先生はそれなりの待遇を得られそうな全日本や新日本に入るという考えはなかったんですか?

小佐野 そこは松浪(健四郎)先生の専修大学人脈からのジャパン入りだったんじゃないかな。あと馳はそこまで身体が大きくなかったんだよ。グレコローマンの90キロ級だったし、入門規定に満たなかったんだと思う。あの当時のプロレス界は狭き門で、誰でもなれるような世界じゃなかったから。

――オリンピックレスラーでも簡単にはまたげない。

小佐野 本人もプロレスラーになりたかったから、契約金も求めず、星稜高校の教員時代と変わらない給料という条件だったんでしょう。

――エリートに見えますけど、そうではなかったですね。

小佐野 それでも健介とは扱いが違ったとは言われるけどね。あの2人ではまず年齢が違うでしょ。高校を出たばかりの坊やと、オリンピックに出て高校の先生をやっていた人だから。

――違いが出て当然という。

小佐野 一緒にするのは無理があるよね。健介は2ヵ月先に入ったから「馳!」って呼び捨てにして、「何がオリンピックだ!」って負けたくない気持ちが強かった。そこは馳が大人だったからケンカにならなかったんだけど、馳が健介のことを何も悪く言ってなかった。というのは「彼は何も持っていない」と。馳はいろんなものを持って入ってきたし、大人だから要領もいい。健介は何も持っていないし、要領も悪くてただガムシャラにやってる。その真剣さが馳には刺激になったみたいですね。

――大人の馳先生にとって健介は純粋に見えたんですね。

小佐野 ジャパンに入門した馳は翌86年2月にプエルトリコでデビューするんだけど、海外遠征に出る前に馬場さんにいろいろと教わった。そのときはマスコミはシャットアウト。

――全日本所属じゃないのに馬場さんに?

小佐野 馬場さんは全日本のリングに上がる選手ならば、頼まれれば全員に教えた。馳はジャパンの道場で基礎体力やプロレスの基本は習ったけど、海外でやっていくための所作や、ヒールのやり方を学んでいなかったから。

――ジャパンでは教えられる人は……

小佐野 本質的なところを教えられる人はいなかった。

――マサ(斎藤)さんは、あのときはいなかったですもんね。

小佐野 馬場さんは受けのプロレスなんだけど、この相手には何をやったらお客は喜ぶのかを考えさせるんですよ。馳は「お客の期待に応える馬場さん的なもの、いい意味でお客さんの期待に応えない猪木さん的ものを両方持ってますから」と言っていて。余談だけど、馬場さんは笹崎伸司にも教えたけど、笹崎は馬場さんに反発して大変なことになった。

――ファッ!? 馬場さんに反発ですか?

小佐野 笹崎くんはのちにUインターの渉外をやることになるでしょ。Uインターのときはビリー・スコットやダン・スバーンらの外国人選手をUスタイルに変えて送り込んできた。彼らはもともとUスタイルじゃないんだから。

――魔改造したわけですね。そんな笹崎さんが馬場さんと衝突とするのもわからないでもないですけど……。

小佐野 当時からUWFっぽい思考を持っていたから、アメリカンプロレス的なものは嫌がるよね。笹崎くんが反発したことは大問題になって、長州と永源(遥)さんが馬場さんに詫びを入れた。笹崎は1シリーズ休んだのかな。

――1シリーズで済みましたか(笑)。

小佐野 話を戻すと、海外に出た馳が影響を受けたのは安達さん(ミスター・ヒト)。プエルトリコからカルガリーに移ったときにアメリカンプロレスのやり方を教わった。カルガリーではリッキー・フジと一緒に安達さんの家に住んでいてね。新倉くんは身体を壊して途中帰国したけど、笹崎くん、戸井マサル、途中からライガー、橋本真也もやってきて。

――みんな安達さんにお世話になったんですね。

小佐野 馳は最初ベトコンエキプレスのマスクマンでヒールをやってたけど、途中で素顔になってヒロ・ハセとしてベビーフェイスもやった。彼は英語をしゃべれるからベビーでもトップになれたんです。

――さすが語学堪能!

小佐野 プエルトリコにいたときも「日本の本を送ってください」って手紙が来た。適当にみつくろって送ったけど。

――そんな馳先生は長州が新日本にUターンしたこともあって帰国後は新日本参戦しましたが、どうもイマイチでしたよね。

小佐野 そうなんだよねぇ。なんというか「小さい長州力」だった。長州力の弟子だから、気負ってピリピリしている雰囲気を出すんだけど、まだ線が細かったから長州さんみたいに迫力はない。