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プロレスが格闘技へ転換するダイナミズムに溢れていた90年代――新生UWFから分派した団体の中で活動が途絶えていないのがパンクラスである。リングからケージに様変わりした舞台には、創始者の船木誠勝や鈴木みのるの姿はすでになく、拳にはグローブが装着され、ランキング制をもとしたマッチメイクのもと試合が行われる。「新しいプロレス」として出発したパンクラスは、長い時間をかけて、U系が目指した理想郷にたどり着いたといえる。ここまでの苦労をパンクラス旗揚げから携わる坂本靖本部長に話を聞いた。





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坂本 あんまり昔のことっておぼえてないんですよ。

――坂本さんは1993年のパンクラス旗揚げ前から格闘技界と関わってるわけですから、もう長いどころの話ではないですね(笑)。パンクラス入社はどういうきっかけだったんですか?

坂本 ボクはアパレル会社に務めてたんですよ。プロレス格闘技はもともと好きだったんですけど、その頃に出会ったのはパンクラス初代コミッショナーの持田(優)さん。

――おお、懐かしい名前です!

坂本 まだパンクラスができる前なんですけどね。持田さんはアパレルショップや飲食店をやっていて、仕事の打ち合わせをしていたときにボクのノートに挟んであった新日本プロレスのチケットが落っこちて。持田さんは「なんだ坂本、プロレス好きなのか。一緒に行くか」と。持田さんは船木(誠勝)さんや鈴木(みのる)さんとは新日本時代から交流があったんですよ。

――だから持田さんはパンクラスもバックアップされたんですね。

坂本 持田さんと一緒に藤原組を見に行って、試合後は選手たちと一緒にご飯も食べるようになって。そのときに船木さんたちが「自分たちが理想としているプロレスをやりたいんです!」と熱く語ってて、食事を何度か繰り返してるうちに「いつか新しいことをやりますから、そのときは協力してください」と。ボクは「もちろんですよ!」と応えて。

――意気投合したんですね。

坂本 そうこうしてるうちに『東スポ』に「藤原組解散」という記事が載って。持田さんから「藤原組の雲行きが怪しいんだよねー」という話は聞いてたんですけど、たしかに飲みの席には藤原(喜明)さんはいらしたことはなかったですし、船木さんたちは若手だけで行動してましたから。

――坂本さんの目から見ても、藤原組長と船木さんたちに溝があることがわかってたんですね。

坂本 それで持田さんから「船木たちが新しい団体を立ち上げるんだけど、いつから来れる?」と。こっちも社会人ですから明日から……というわけにもいかないですし。やりたい気持ちはあったので、アパレル会社に退社を報告して。最初は3ヵ月後にパンクラスに合流する予定だったんですけど、仕事の引き継ぎが長引いちゃって。向こうからしても「話が違う」と怒られたんですね。

――旗揚げ前でドタバタでしょうから、人手が欲しかったんでしょうね。

坂本 なので、朝はアパレル会社で仕事をしてから「営業に行ってきます」と会社を出て、乃木坂のパンクラス事務所で仕事をして(笑)。夕方にアパレルの仕事に戻るという二重生活を送ってましたね。

――掛け持ちでしたか(笑)。パンクラスではどんな仕事をやるのか説明はあったんですか?

坂本 「とりあえず全部」とは言われましたね。

――「全部」と言われても想像はつかないですよね?(笑)。

坂本 何にもわからなかったですね。藤原組で広報をやっていた方からチケット発券の仕方、会場予約の仕方、ポスターの作り方、貼り方のレクチャーを受けて。何もわからなくて大変でしたけど、当時は楽しくてしかたなかったんですね。若者が新しく立ち上がって「プロレスのすべてを変えちゃうんじゃないか?」という可能性を感じたんで。

――パンクラスは完全競技だったわけですけど、そういった説明もあったんですか?

坂本 藤原組のときの飲み会でそんな話は聞いてましたよね。「ゴングが鳴って、ヨーイドンで勝負する試合がしたい」と。その理想にボクも賛同して参加したわけですし、パンクラス旗揚げ前のミーティングでも「船木さんや鈴木さんがやりたいスタイルをやりましょう」という話は出てました。

――それまで完全実力主義の興行団体ってなかったじゃないですか。シューティング(修斗)は興行のかたちがそこまでなしてませんでしたし。

坂本 ボクもファン時代にシューティングを見に後楽園に行きましたけど、お客さんは全然入ってなかったですしね……。でも、なんていうか、既成概念がイヤだったというか、若気の至りもあって、「俺たちは自由にやりたいんだ!」っていう気持ちは強かったんですね。

――完全に若気の至りですよね(笑)。

坂本 ホントに(笑)。パンクラスという団体は、会社があってからスタートしてるわけじゃないんで。理念が最初にあって、それを具現化しましょうと動き出したものなので。

――蓋を開けてみたら秒殺の続出で。

坂本 全5試合の合計がわずか13分でしたっけ? 競技としてやることは当然だと思ってたんですけど、勝敗と試合時間の少なさにはビックリしましたねぇ。メインイベントで団体のエース(船木誠勝)が秒殺されちゃうわけですから。「俺たちは正しいことをやってるんだ!」と思いましたけど、結果としていろんなことは起きるんだろうなあって。

――あれだけUWFに真剣勝負を求めていたターザン山本さん(当時『週刊プロレス』編集長)は、尾崎社長に「なんてことをやったんだ!」って噛み付いたみたいですけど(笑)。

坂本 ボクはアパレル業界の人間だったんで、プロレス界には繋がりはなかったから、何か言われることもなかったんですね。繋がりがあったのは、選手たちと尾崎社長くらいじゃないですかね。ほとんどのフロントの人間がプロレス界とは接点がなくて。招聘担当は元・中学の英語教師だったし(笑)。

――興行の経験がない人間ばかりだと、月1興行は大変ですよね。

坂本 大変です。月1回の興行は本当に大変でした。初めて大阪府立でやったときは、会場側から「22時までに完全撤収してほしい」と言われて。「ウチは秒殺ですから……」なんて言っていたら判定、判定、判定の連続で。時間どおりに撤収できなかったんですけど、22時になった途端に電気を切られましたから。バチンって。

――会場側も冷たいですね(笑)。

坂本 翌日の府立がたまたま空いていたから、午前中に再度撤収できましたけど。それもまた余計な出費はかかるわけですよ、バイトを別で雇わないといけないですし。当時はマンパワーが必要だったというか。地方に行ってポスターを貼る、スナックとかプロレス好きがいる場所に行ってチケットを売る。朝から高校や大学の周りを宣伝カーで走ったり。

――営業部員はいなかったんですか?

坂本 いましたけど、それでも足りなかったかなあ。いまみたいにシステム化されてないから、とにかく雑務が多かったんですよ。事務所で寝泊まりあたりまえで。いまはシステムができてるから肉体的には楽になりましたけど、当時は新しいことをやってるから選手からの要求も多くて。前例がないから対処に困ったり。 

――何をやるにしても手探りというか。パンクラスは地方興行が多かったですけど、チケットは売れたんですか?

坂本 地方興行って一発目はなんだかんだ入るんですよ。新鮮さがあるし、もう来ないだろうってことで。それが2回目、3回目になっちゃうと慣れっこになっちゃうんで。東名阪が限界ですよねぇ。

――そもそも月1の試合がムチャですよね、いま振り返ると。

坂本 グローブではなく掌底ルールだったからできたことですよね。それでも大変だったと思いますけど、日本人の旗揚げメンバーは自分たちがいないと成り立たないという意識が強かったし、ケガをしたから休むとは考えなかったですよね。いまは勝敗重視だから、ケガをしたら休むのが当然じゃないですか。

――試合を休んだら団体が潰れてしまうと。競技者の発想ではなかったですね。

坂本 競技者として考えたらケガをしたら試合に出なくていい。実際は出たくない試合がいっぱいあったと思いますよ。「誰々はここをケガしてて、試合はちょっと無理だ」と聞いていても、普通に試合をしてる姿を何十回も見てましたからねぇ。ホントに頭が下がりましたよ。

――あの当時のお客さんって真剣勝負の見方ってわかってたと思います?

坂本 いやあ、わからなかったでしょうねぇ。いわゆる「シーン現象」という。とくに地方の興行は見方がわからなかったと思うんですね。最近もRIZINさんが福岡でやってましたけど、序盤はなかなか難しかったじゃないですか。

――最後のほうだけでしたね、会場が爆発したのは。

坂本 当時はいまより技術がわからなかったですし、どこで歓声を上げていいかはわからない。プロレスのように「さあ、いくぞー!」というフィニッシュシーンの掛け声があるわけでもないですから。

――当時の格闘技団体ってメチャクチャ仲が悪かったですよね。

坂本 たしかに悪かったですね。リングスのロゴマークは丸で、パンクラスのロゴマークはバッテンの×。そこからして合ってないだろって感じなんですけど(笑)。

――リングスにはどういう感情を持っていたんですか?

坂本 うーん、なんだろう……「こっちがホンモノだ!」と思ってやってたし、そこですよね。ファンからも電話も凄かったんですよ。「どっちなんだよ!?」とか。

――ハハハハハハハ! 熱すぎる(笑)。

坂本 いまでもたまに電話はありますけど、ネット社会だから、メールやSNSで書かれるくらいで楽ではあるんですけどね。当時は電話を延々3時間とか……。

――ファッ!? 3時間!

坂本 当時は受け止めるしかないんですよ、熱い思いを(苦笑)。あとは外国人選手の引き抜きですよね。あの当時って総合格闘技をやってる外国人選手って少なかったじゃないですか。あとでわかることなんですけど、外国人選手が「向こうではこれだけ出すと言ってる」「他からこんなオファーがあった」とか、あることないこと言ってギャラの釣り上げをするんですね。それでこっちも「リングスが変な動きをしている」と真に受けちゃんですよね……。

――ホットラインがないから、お互いの溝が深まっていくんでしょうね。

坂本 当時は鎖国というか、他の団体とは交流がなかったですし、とくにしたいとも思ってなかったですし。

――当時格闘技を語る大きなポイントはそれこそ「どっちなんだよ!?」でしたけど、修斗は「パンクラスにはワークがあった」と暗に匂わせてましたよね。

坂本 そうですよね。

――海外だと「初期パンクラスはワークが多かった」という定説になっていて、最近出版された「アリ対猪木――アメリカから見た世界格闘史の特異点」という本にも根拠なくワークがあったと断定されてるんです。パンクラスは90年代の格闘技団体にしては試合映像が残ってるので、いくらでも検証は可能なんですけど……。

坂本 なぜそう言われるようになったかといえば、ある外国人選手が「俺は勝った試合は真剣勝負、負けた試合はワークだ」って言っていたからじゃないかなと。それもメチャクチャな言い分ですけど(笑)。

――外国人選手が言いがちなやつ(笑)。

坂本 ボクは旗揚げしたメンバーを信じていたし、そういう噂があっても意に介してなかったですね。たまに「パンクラスも昔はいろいろとあったんでしょう?」って聞かれるんですけど「いやいや、何もないですよ」って。負けた外国人が悔し紛れに言ってるだけですよね。

――ワークがあったら、もっと楽なストーリーラインが組めたはずなんですね。

坂本 ああ、マッチメイクはホント大変でしたね。真剣勝負だから思うようにはいきませんでしたし、この選手が勝ってくれれば、ビッグマッチのメインはこうなって……というストーリー作りが難しかったですよねぇ。船木さんが負けてしまう、鈴木さんも負けてしまう。

――格闘技の現実。

坂本 外国人のスターは出てくるんですけど、興行的に引っ張ってくれるかといえば、なかなか。

――そこまで人気があるわけじゃなかったチャンピオンのガイ・メッツァーが、船木さん、柳澤龍志さん、近藤さんの挑戦を立て続けに退けたときは、興行の難しさを感じました(笑)。

坂本 かなり無理がありますよね、それは(笑)。でも、もうそのとき強いものをメインにするしかない。これはいまでも言えることですけど、競技としてやることと、興行として見せていくことをどうやって並行してやっていくかですからね。

――とくにパンクラスはNKホールや武道館クラスの大箱でやってましたから。

坂本 選手のカリスマ性やキャラクターで競技性を支えていたというか。ボクシングでいえば、亀田3兄弟を見るとわかりますよね。ああいうキャラクターが出てくると興行的としてはうれしいんですけど、淡々と競技をやっていくだけでは……。

――そのうちバーリトゥードという流れが大きくなってきますね。

坂本 アルティメット(UFC)が始まったときは「ゲテモノ的にヤバイな」って感じだったんですよね。続かないだろうし、競技というよりは残酷ショーみたいな感じで終わるんだろうとは思ってて。でも、日本でもバーリトゥードジャパンが盛り上がって、修斗四天王はキャラクターがあったし、より凄いことが始まるんだろうなとは思いましたね。

――掌底ルール、エスケープありのパンクラスは、時代に取り残されていく感じはありましたか?

坂本 ジレンマがありましたよねぇ。「正しいことをやってるのになぜわかってくれないんだろう」っていうか。でも、興行の世界ってお客さんを入れたもん勝ちですからね。

――パンクラスも、なんでもありのパンクラチオンマッチを導入しますね。

坂本 奇をてらった何かをやらないと目立たない。資金がなかったということもありますけど、外国人選手をどんどんと取られていくじゃないですか。普通に契約書を巻いていればよかったんですけど、そこまで考えてなかったとか。

――えっ、契約書がなかったんですか!?



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