和術慧舟會創始西良典ロングインタビュー! 大道塾時代は「北斗の覇王」と恐れられ、慧舟會設立後はキックやリングスなどに参戦し、あのヒクソン・グレイシー初来日の相手も務めた。総合格闘技夜の明け前を知る男が2万字の大ボリュームであの時代のことを語ってくれた。
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――最近UWFが再び注目を集めているんですが、西先生は総合格闘技が影も形もなかった80年代から総合的な戦いを実践しようとしていましたね。
西 私も「UWFが本当に強いならばやってみたい」と思った時期があるんですね。でも、どれくらい強くないといけないのか、情報がないからわからないじゃないですか。「自分のこの練習量ではまだまだではないか……?」と。
――UWFで戦ってみたい気持ちはあったんですね。
西 そうですね。それはパンクラスもそうですよ。
――UWFは疑似格闘技だったわけですが、真剣勝負の場がなかった時代に総合的な戦いに取り込もうとしたのはなぜなんですか?
西 それは簡単ですよ。ケンカで勝つためです(笑)。
――至ってシンプルですね!(笑)。なるほど、ケンカだと全局面で対応しないといけない。
西 「どうやったら強くなれるか」だけを考えて稽古してましたから。たまたま流れに乗って、試合をする機会があったということですね。
――西先生は木村政彦先生や岩釣兼生先生が指導していた拓殖大学柔道部におられたんですよね。
西 私は長崎の海星高校で柔道をやってたんですが、あの頃は木村政彦先生の『鬼の柔道―猛烈修行の記録』が出たんですね。木村先生の強さに憧れるのは武道家としては誰もが思うことで。高校1年のとき木村先生が指導に来られたことがあったんですが、もう理論がしっかりしてるもんですから。
――単なる根性論ではないんですね。
西 そういうものではないですね。相当考えられた動きなんですよ。木村先生はその頃でも力が抜群に強かったから、ほかの先生から「技なんかいらない」と言われるくらいで(笑)。
――それでいて技術が凄かった。
西 力学的なことも考えられてたんですね。我々が何十年経ったあとに「ああ、木村先生がやっていたことはそういうことなのか」って気づくこともあって。木村先生はそこまで身体は大きくなかったですから、自分の身体に合った柔道を考えられておられたんだなって。
和術慧舟會設立時に西先生が彫って作成した道場の看板
――拓大の柔道部に入られた西先生は一度やめちゃいますよね。極真空手を学ぶためという理由で。
西 我々は『空手バカ一代』の世代でもありますから。小学生の頃は『虹をよぶ拳』を読んでいましたね。小さい頃、近所で空手をやってる人がいたんですが、空手家特有の雰囲気があるんですよ。猫背で暗い(笑)。
――空手はアウトローがやるものというイメージだったというか。
西 そういう印象があってですね。近所で何か騒ぎがあるとその人が「おい、やめろよ」と言うと静まるんですよ。
――空手は気になる存在だったんですね。
西 こういっちゃアレですけど、柔道をやっていてもそこそこ上には行けたと思うんです。でも、柔道には打撃がないですよね。どうしてもパンチに顔を背けてしまう。柔道家がほかの格闘技に負けるのは許せないという気持ちがあってですね。
――ああ、打撃ができる柔道家になろうとしたんですか。
西 必要に迫られてですよね(笑)。柔道の欠点を補うというか、当時は歳を取ったら柔道だけでは弱くなると思ってたんですね。いま考えたらそうでもないんですけど、60歳70歳になったら柔道だけでは無理だなと。
――10代の頃から70代になったらどう戦うかを考えていた(笑)。
西 強いジイさんでありたいと思ってたわけですね。
――そのためには打撃も習得したほうがいいと。
西 そうですね。高校のときは合気道もやってましたし、自分の知らない世界に対してはもの凄く興味があったんです。柔道家としてずっと空手を怖がる自分がイヤだったんですよ。
――でも、先生は拓大柔道部に戻るじゃないですか。
西 それは空手の欠点を知ってしまったということですね。要は顔面パンチがないじゃないですか。空手の長所はあるけども、欠点もあるんだなと。まだ19歳でしたから、もう1回柔道を基本から知ったほうがいいんじゃないかと考えたんですね。
――しかし、よく再入部が許されましたね。
西 許されなかったんですよ、本来は。私も3年前に気付いたんですよ。
――3年前ってつい最近ですけど(笑)。
西 「もう1回戻してくれ」ってマネージャーを通して頼んだら、監督が「空手をやめてまた戻ってくる?面白い奴だな」ってことで。私が許された背景には、拓大には木村先生や岩釣先輩の流れというものがあるんですよ。
――流れですか?
西 私が拓大に入った頃、岩釣先輩が木村先生の敵を討つってことで全日本プロレスと契約する、しないって話があったんですよ。
――力道山戦の因縁ですね。そのときに岩釣さんが全日本道場で渕(正信)さんとスパーをやったという話もありますね。
西 たぶん岩釣先輩の相手にはなってないと思いますよ。何かの本には渕が互角に戦った……なんて話が載ってるみたいですけど、岩釣先輩の相手にはならないですよ。
――プロレス側の言いぶんだと、裸のスパーで岩釣さんがヘトヘトになったとか……。
西 いやいや、それは無理ですよ(苦笑)。岩釣先輩のクラスになると裸だろうが関係ない。
――岩釣さんはやっぱりモノが違ったんですか?
西 大木に根が生えてる状態ですよ。もう動かない。私は入学前に拓大で練習して、その帰りがけに愛知県警に知り合いがいるので寄ったんですよ。そこで全日本でいい成績を収めた相手のことも投げたんですよ。「俺は天才かもしれないな〜」なんて思っちゃってね(笑)。それで大学に入ってから岩釣先輩とやったんですけど、も〜う全然、歯が立たない。投げられんですよ。あの強さにはビックリしましたね。
――岩釣さんは寝技もムチャクチャ強いんですよね。
西 強いですね。そういえば(ウィレム・)ルスカが来たときがあって。みんなボテ投げされてですね、ルスカはメチャクチャ強いですからね。帰ろうとしたから「待て待て、まだ寝技があるから」と。ルスカは寝技が弱いんですよ。寝技でギトギトにやられてたんですね(笑)。
――ただでは帰さなかったんですね(笑)。
西 岩釣先輩はサンボの世界チャンピオンでもありました。聞いたことあるんですよ、「サンビストってどうなんですか?」って。岩釣先輩でもサンボの練習ではやられていたみたいなんですよ。「たまたま試合で勝った」って珍しく謙遜されてましたね。
――木村先生も稽古には来られてたんですか?
西 60代でしたけど、打ち込みをやられてましたね。
――木村先生から力道山戦の話を聞いたことってあります?
西 しないですね。酔った後輩が一度聞いたときにボコボコにされたって言ってました(笑)。
――うわっ、タブーだったんですね。
西 タブーでしたね、もう。その頃はまだあの試合の裏側は知らなかったですからね。プロレスライターの門(茂男)さんという方がデイリースポーツに書いてあったのを読んで、何があったかはわかりましたね。
――ブラジルでやったエリオ・グレイシー戦のことは何か言われてましたか?
西 「ブラジルは強かったよ」くらいで、あんまり言わなかったですね。木村先生にとっては過ぎ去った過去のひとつじゃないですか。いまみたいにグレイシーがああして表に出てくるとは思わなかったですから。木村先生の中では勝ってあたりまえの世界だったんでしょうね。
――木村先生や岩釣先生の異種交流の流れがあるから、西先生の復帰も許されたというわけですね。
西 拓大は柔道界でも本流じゃなかったですから。猪熊(功)さんと東京オリンピックで対戦した(ダグ・)ロジャースは拓大で練習してたこともあって、拓大柔道部は猪熊さんじゃなくてロージャスを応援してたそうなんですよ。
――あの当時外国人柔道家を応援するってなかなかですね(笑)。
西 岩釣先輩は(モハメド・)ラシュワンを教えていたから、ロス五輪の決勝で山下泰裕と戦ったときはラシュワンを応援したと聞いてます。拓大は柔道界の異端だったんですよ(笑)。
――拓大柔道部の練習はやっぱり厳しかったんですよね?
西 朝1時間半、昼は4時間、それが終わったらバーベル。1日6〜7時間はやってましたね。上の選手になると、警視庁へ練習に行かされましたから。拓大の空手部も同じくらい練習してましたね。だから私は伝統空手を否定しないんですよ。練習はとにかくやってましたから。
――拓大はほかの格闘技も強かったですよね。
西 拓大の体育寮には柔道、空手、剣道、相撲、ボクシング部が入ってて。
――ヤバイですね、それ!(笑)。
西 ケンカが起きないわけがないんですよ(笑)。柔道部vs空手部をやったことありまして、空手部を寝技で締め落としたことがありましたね。空手部は締められたことがないから恐怖心があったみたいで。
――ほかの部とも衝突されたんですか?
西 ケンカはなかったんですけど、ボクシングには興味がありましたよね。その当時の拓大ボクシングには全日本チャンピオンが6〜7人いたんじゃないですかね。もう殺気立ってましたよ。大らかとしてたのは相撲くらいで(笑)。
――拓大というと物騒なイメージはありますね。
西 我々の前の時代はもっと凄かったらしいですよ。いろいろと事件を起こしたりして。私らのときは一週間のうちに焼きは5回くらいだったんですよ。
――焼きというと……。
西 夜になると、正座させられて先輩たちに殴られるわけですよ。
――理由はなんですか?
西 理由は先輩が勝手に作るんですよ(笑)。
――ハハハハハハハハ!
西 我々の前の時代は、一週間のうちに10回以上も焼きがあったというんですね。だから穏やかなになってたんですね、拓大も。
――拓大柔道部は犬鍋をやっていたという話ですし。
西 私の頃は大人しかったですからやってなかったですけど。昔は犬鍋をやりすぎて犬がいなくなったから、そのうち猫鍋もやりだして。でも、「猫はやめておけ。鍋が七色になるぞ」と言ってましたねぇ。
――猫を煮ると七色になるって、ゾッとしますねぇ。
西 すき焼きなんか、そこらへんの雑草が入ってましたからね(笑)。
――空手家だけじゃなくて昭和の柔道家もぶっ飛んでましたよね。
西 あー、そういう柔道家は多いと思いますよ。強いと言われてる奴は周りから「アイツは変やったな」って言われてましたもん。個人競技ですからね、自分が強くなることしか考えない。ちょっとおかしな人が多くなるんですよ。
――それでいて異端の拓大ですもんね。
西 強くなりたくて拓大に来てるんだけど、練習量が凄すぎてやめちゃう人もいましたから。私は拓大柔道が合ってましたね。岩釣先輩も自分が卒業後にいろいろな格闘技をやってることを喜んでましたから。私はそんなに強いほうではなかったし、拓大の頃は名前でなんか呼ばれなかったですよ。いつも「おーい!」ですよ(笑)。
――ケンカが強くなりたいということでしたけど、街で実践はされたんですか?
西 ケンカはですね……やりましたね(ニッコリ)。
――やりますよね(笑)。
西 でも、弱いですよ。
――弱い?
西 相手がですよ。私は基本的に柔道家だけど、普通の人を叩いたら危ない。だから掴んで引っ張って飛ばすんです。掴めば面白いように飛びますから。いまと違って当時はいろいろとあるんですね。後輩の知り合いが銀座で飲み屋をやってるけど、ヤクザが来るからなんとかしてくれと。
――ヤクザとケンカってイヤじゃないですか?
西 まあ、素人ですから。ヤクザと言っても殴り合いは素人ですよ。刃物は注意しないといけないですけど。だから懐だけには注意してましたね。
――いくら注意しても刃物はイヤですよ!(笑)。
西 我々の時代はよかったですけどね。殴っても一緒に酒を飲んでおしまいになったから。
――いまみたいに事件になるわけじゃない。
西 そうそう。ケンカの秘訣はその日のうちに丸く治めること。こっちが謝れば、相手の闘争心は消える。「よし、いまから飲み行くか!」って仲良くなるのも手なんですよ。引っ張ると恨まれるから。
――仲良くなるまでがケンカなんですね。
西 勝ったら仲良くする。やられたらしつこく追いかけなさい(笑)。
――ハハハハハハ!
西 やられたら、やって返さないとダメですよ。
――拓大卒業後は仙台に行かれたましたね。
西 まずは生活の糧が欲しかったですから、柔整師の資格を取るため東京に残ろうとしたんですけど、監督のほうが仙台で柔道が強い奴を欲しがってるから「東北の柔整師の学校に行きなさい」と。それは絶対命令ですからね。当時はそういう時代だったんですよ。いまだって大学のOB会に行くと、私は一番下ですから使いっ走りですよ(笑)。監督のことが好きだったもんですから「じゃあ仙台に行ってみようかな」と。
――同じ学校に武藤(敬司)さんが通ってたんですよね。
西 その学校は2年制だったんですけど、私が2年生のときに武藤が入ってきたんですよ。武藤は柔道やっててセンスがあったんだけど、「プロレスラーになりたい」って言ってて。「おまえは性格が優しすぎだから無理だよ」って言ってたんですけどね。
――いまやプロレス界を代表するレスラーですからね。
西 武藤は運動神経がいいですから、当時から後ろ回し蹴りをやってましたよ。私もプロレスは好きだったもんですから、武藤と「アントニオ猪木vsウィリー・ウィリアムスごっと」をやってましたね。帯でロープを作って「おい、武藤。おまえは猪木をやれ、俺はウィリーをやるから」って(笑)。
――ハハハハハハハ! 仙台にあった大道塾には通ってなかったんですか?
西 東(孝)先生の道場は当時まだ極真でしたから。顔面パンチなしなので、最初は青葉ジムというキックに入会してたんですよ。
――あくまで顔面ありを想定していたんですね。
西 顔面ありの間合いはやっぱりキックが一番なんですよね。でも、顔面なしの大事の間合いも大事だし、日本拳法の間合いも勉強しないということで、大学のときは日拳もやっていたんですね。
――ホントいろいろやってますね。武芸百般!
西 伝統派は遠いところから入ってくるじゃないですか。顔面あり、顔面なし、遠い間合い。いまでも生徒にはこの3つは絶対に知っておかなきゃいけないと言ってますね。
――UFCでも伝統派の動きは有効性が高いですね。
西 リョートなんかもそうでしょ。ケンカは間合いが取れない場合がありますからね。この短い距離で目を突いたり、叩く方法があるんですよ。日拳の直突きはボクシングのストレートより早いし、防御もしづらい。よく考えられたものだと思いますよ。でも、まずは顔面ありに慣れないといけないということで、キックのジムに通ったんですけど、スパーリングパートナーがいなかったんですよ。やっぱりみんな軽いから重量級がいない。それで東先生の道場に行くことになったんですけど、そのうちに大道塾に変わってスーパーセーフ(顔面防具)の顔面ありになって。
――投げも締めもあるルール。西先生からすれば願ったりな展開ですよね。
西 そうなんですけど、スーパーセーフですから。
――それでも不満でした?
西 不満でしたねぇ。やってる我々からすれば、相手のパンチを避けたつもりでもスーパーセーフに当たっちゃうし。スーパーセーフがあるからガードが下がっちゃうし、やっぱりグローブが一番いいんじゃないかって個人的には思ってましたね。
――ちょっと前に「リング・ケージ論争」というのがありましたけど、「グローブ論争」もかなり熱かったですね。
西 大道塾の試合を見に来ていた藤原敏男先生が「これは道着を着たキックじゃないかよ」ってポツリと呟いたのが聞こえたものですから。なおさら「キックボクサーから見たらそうだろうなあ……しかもスーパーセーフで顔面は痛くないし」って。
――痛みがあってこその格闘技。
西 あとスーパーセーフってダメージが溜まっていくんですよね。練習でもなんでもないときに一度倒れたことがあって。練習からスーパーセーフを付けてガンガンやってましたから。
――脳が揺れやすいですよね。
西 常にグローブは頭にありましたよ。長田(賢一)くんがラクチャートと試合をやったとき私はセコンドに付きましたけど。
――ムエタイ王者との伝説の一戦ですね。
西 あれはタイに行ったら急に決まったんですよ(笑)。長田くんは惚れ惚れするような動きでセンスが凄いんですよね。でも、ラクチャートとやったときにわかったのは、普段スーパーセーフを付けて戦ってるから、やっぱりワンテンポずれてるんですよ。そのぶんだけパンチがズレてる。ラクチャートは当然スウェイして見切りますからね。「ああ、いままでのやり方では勝てないな……」って思っちゃましたね。
――でも、東先生はあくまでスーパーセーフに拘ったということですね。
西 東先生からすれば、グローブにしちゃうとキックになっちゃうと思ったんじゃないですか。私はグローブの技術を知っておかないといけないってことで、ボクシングジムで練習して、その技術を持ち帰って見取り稽古。イメージしながらサンドバックを蹴る。
――ハウトゥーがあるわけじゃなくて、自分で理解していくわけですね。
西 いまの子は逆にかわいそうなんですよ。盗み稽古ができないから。かたちはできていても本質的なものは学べてないから。
――形だけおぼえても応用が効かないということですね。
西 いまみたいに情報がない時代ですから本当に必死でしたよ。練習仲間が「いいビデオが入りましたよ」ってどんな映像だろうって見たら、映画の中に出てくる藤原敏男先生。
――それでも貴重! 『四角いジャングル』とかですかね(笑)。
西 その動きをみんなで見て、いろいろと解釈するんですよ(笑)。みんなが映像を「貸してよ」って言ってね。
――たくましいですねぇ……西先生は大道塾では北斗旗を連破するなどして「北斗の覇王」と呼ばれるようになりましたね。
西 私のスタイルは、キックジムで教わったワンツー左ミドルがベースですね。それで押しまくって、組み付いてくたら投げるっていう。
――倒れた相手の顔面の脇を「ドン!」と踏みつけてたとか。
西 あの踏みつけは私がやり始めたんです(笑)。相手に屈服感を与えるためだったんですね。「ホントだったら顔を踏んでるよ」ってことで。
――路上のケンカだったら終わり、ということですね。
西 そういう意思表示で心を潰してやろうと(ニッコリ)。
――そんな格闘家としての脂が乗っていた時期に故郷の長崎に戻られますよね。
西 私の場合は片親だったもんですから、母親がいつ死んでも後悔しないように面倒を見ないといかんなってことで。歳も30になりましたし、長崎に帰ってきたんです。まあ、いまでも親は生きてますけどね(笑)。
――西先生が面倒を見たから長生きされたんだと思います!(笑)。
西 だから長崎に帰ってきた時点で格闘家としては終わったところはあるんですね。本当だったら仙台に残って練習して、アメリカに渡りたかったんです。全米中を回りながら強い奴とやりたかったので、そういう準備をしてたんですけどね。
――その頃はUWFが注目を集めてましたけど、ああいった総合的なムーブメントには目が行きませんでした?
西 大道塾には大きな選手がたくさんはいなかったですから。同じような奴が10人いたらもっと強くなるだろうなって。かといって技術はそんなに心配はなかったんです、見るかぎりは。UWFは顔面もなかったですから、もうわかりますからね、寝技も打撃も。
――UWFはプロレスだったわけじゃないですか。
西 なので、技術を見たらどういうものかわかりますから。グローブをつけて稽古をやり始めたら凄いことになるなって思いましたけど。そういうことはやってないのは見ればわかるので。
――UWF系が真剣勝負に向かうのはだいぶあとのことですけど、もしその動きがあれば……。
西 興味はありましたね。私の兄貴はプロレスが好きだったものですから「プロレスラーになれ」ってよく言うんですよ(笑)。ただ弱いうちはイヤだったもんですから、なるんだったら強くなってからやろうと。
――長崎でも大道塾として活動されていましたが、「空手格斗術慧舟会」(のちの和術慧舟會)として独立されますね。
西 私らは地方じゃないですか。試合に出るためにはまず仙台まで行かなきゃならない。そのためにはお金や時間がかかりますよね。他流に出られればいいんですけど、他流はダメ。だったら独立したほうが生徒もチャンスは広がると思ったんですね。そのへんは東先生に手紙で説明させていただいたんですけど。私も合宿や大会に出るために年間数十万かかるわけですから。
――西さんは仕事されていたんですか?
西 その頃はしてなかったですね。実家住まいでプータローですよ、何年か(苦笑)。
――じゃあ道場の指導だけで……
西 いやあ、全然ですよ。生徒は20〜30人くらいかな。月5000円もらってましたけど、全員が払うわけじゃないですし、大道塾の頃は運営費として月何万円は上に取られるわけでしょ。そうすると手元に残るのは3万4万ですよ(笑)。
――貧乏生活ですねぇ。
西 強くなることだけを考えてましたから、貧乏は気にならなかったですね。昼は練習して、夜は指導。稽古が終わったら生徒に「メシでも行こうか!」って誘って。「先生、道場の家賃はどうするんですか?」「気にするなよ!」っていう気楽なヒトリモンの生活ですよ(笑)。
――浮世離れしてますね(笑)。
西 ホントそう。女房と結婚するとき表向きは仕事をやるとは言ってたんですけど、やるわけないし(苦笑)。
――ハハハハハハハ! ダメすぎますよ!
西 本当だったら格闘技をやめなきゃいけないですよねぇ。だから石井館長には感謝してるんですよ。『格闘技オリンピック』に呼んでくれて、リングスを紹介してもらって。それでも2ヵ月にいっぺんの試合ですから、貧乏には変わりはないですけど(笑)。
――『格闘技オリンピック』やリングスへの参戦は92年のことですよね。
西 私が36歳のときですね。
――87年に和術慧舟會を設立されたときの西先生ご自身の目標はどういうものがあったんですか?
西 とくにはないですね。自分に合うものがなかったですから。
――目標もないけど、ひたすら練習だけしていたんですか。
西 そのあいだはオランダに練習に行ったりとか。
――じつは慧舟會初期内弟子の方に事前取材してきたんですが、西先生は突然「オランダに行ってくる」と言ったきり姿を消したとか(笑)。
西 そうなんですよね。グローブの練習するのに千葉に3ヵ月間行ったりとか。いまは違いますけど、当時は少年部の指導が面倒くさくてね。自分だけが強くなりたいのに邪魔くさくてしょうがなくて(笑)。
――ハハハハハハ! 子供の指導なんかしてられるか!と(笑)。
西 普段の稽古も、自分のスパーリングパトーナーがほしくて教えてるようなもんですよ。
――ハードな稽古過ぎて、みんなやめていったそうですね(笑)。
西 酷いもんですよ。育てようなんて意識はあまりなかったですよ(苦笑)。
――オランダ修行はどこかアテがあったんですか?
西 ないです、ないです。
――いきなり渡ったんですか!
西 いきなり行きましたねぇ。
――普通は練習場所や宿泊場所の段取りを決めてから行きますよね?
西 なにもないです。オランダに着いてから「さて、どうやって探そうか……」と。アムステルダムという名前だけは知ってたんですよ(笑)。
――ハハハハハハハハハ!
西 ウエイト好きでしたから、ウエイトをやってる奴なら知ってるだろうってことで。ジムで身体を作りながら「キックのジムを知らないか?」って声をかけて。
――英語やオランダ語は……。
西 いやもう全然ですよ。カタコトで話しかけて。
――いろいろとムチャクチャですね!(笑)。
西 それで教えてもらって行ったのがヨハン・ボスのところ。でも、ちょっと雰囲気がおかしかったんですね。まず入っていくときにブザーを鳴らしてドアのロックを解いてもらう。ロックを解いて入っていくと、「ガチャン」とロックされるんですよ。
――ズバリ犯罪の匂いがします(笑)。
西 それが当時のオランダのやり方だったんでしょうね。犯罪者が多かったですから。
――オランダの格闘家は全員アウトローですよね。
西 オランダはましてや用心棒が多かったし、薬物をやってる人間も多いですしね。中に入っていったら、ジムの雰囲気はまるでなくてカウンターバーがあるだけ。身体のデカイ人間が何十人もいるんですよ。「マズイところに来てしまったなあ」と思いながら「キックの勉強に来た」と伝えたら、その相手がゴルドーの兄貴だったんですよ。
――ニコ・ゴルドーですね。
西 「極真の中村誠を知ってるか」という話になって打ち解けて。ようやくその奥の部屋にあるジムに紹介されたんですよね。
――もう秘密基地ですね(笑)。
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