皆さま ごきげんよう。
私の ブロマガを ご購読くださり、
ありがとうございます。
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昔は、新聞や 雑誌などに デジタル版など ありませんでした。
人々は、今より もっともっと 活字に親しんでいたように感じます。
新聞や雑誌の記者たちの活躍の場も、今よりずっと多かったのでは
ないでしょうか。「日刊ゲンダイ」会長 川鍋孝文さんは、そんな 時代を
代表する気骨精神旺盛な 稀有な ジャーナリストでした。
9月17日、食道がんのため 都内の病院でご逝去されました。
享年79歳。お別れの会は、その後 帝国ホテル
「孔雀 西南の間」にて 開催されました。
※「お別れの会」特別版より
川鍋さんは 早大第一文学部仏文科を卒業し 講談社に入社。
週刊現代 編集長時代は 同誌を100万部に伸ばすなど、
週刊誌 黄金時代を築いた。日刊ゲンダイの強烈な
一面見出しは 川鍋さんが ずっと書き続けてきた来たものだ。
他の追随を許さない 激しい政権批判は 川鍋さんの熱情を
そのままぶつけたものだったが、この批判精神は 病床に
あっても 衰えることはなかった。
1975年に 夕刊紙「日刊ゲンダイ」を創刊。80年~2007年まで
日刊現代の社長を務めました。40年もの長きに渡って
編集長、社長、会長と 第一線で指揮を取り、病床でも
批判精神は枯れることなく 最後まで激しく、熱い編集者魂を
貫いた一生でした。
私が 彼と会ったのは、彼がまだ 「週刊現代」の 記者だった
頃です。当時、私は 日本のマスコミ(主に週刊誌)から
総攻撃を受けていました。 マスコミは 私を抹殺せんばかりに
それはすさまじく 攻撃していました。私は 今に見ていろ、
正義が必ず勝つと 気骨精神で 自分を支えていました。
彼も 他誌と変らず 私を攻撃していた一人でした。
私が知り合った頃の 川鍋さん
1965年10月1日に起きたクーデター後の 1966年冬から
私は カリナを産むのに 日本に来ておりました。
そんな時、彼にインタビューを申し込まれた私は
受けることにしました。
彼は ヒョロヒョロとやせて 眼光だけ光らせた インテリの
肺病患者のようでした。
私と会った 川鍋孝文さんは イメージしていた 史上最悪の
女性ではなく、正しく 清く 運命に強く 懸命に生きる女性を
発見したのかもしれません。
それ以後、 彼は 私に対する態度を一変。
5週間に及ぶ連載を掲載し、 私に対しての世間の誤解や
マスコミによって造られた既成概念が大分 修復されたのでした。
それ以後は、「ナベさん」の愛称で 呼び合う仲間達と
近づきになりました。
当時のマスコミ 仲良し“三羽ガラス” です。
きっかけは 大宅壮一氏との対談で知り合った 文藝春秋の
堤 堯氏、プロデューサーの康芳夫氏と 私達は よく集い、
飲み合ったものでした。
まわりは (マスコミは) 敵ばかりの状態の中で、
私に ジャーナリストの友人が出来たのでした。
頼もしいことでした。
そのナベさんが亡くなった。 淋しい限りです。
「日刊ゲンダイ」の 「お別れの会」特別版
“ 川鍋孝文会長追悼号 ”
たくさんの写真と、几帳面な性格がうかがわれる
きちんと整理された スクラップブック
“ 見出し” は紙面の顔。 新聞も雑誌も 見出しを見れば、
社風、 編集者の質が わかるような気がします。
皆さんも、 商品のキャッチコピーにつられて 何がしかを
購入したことがあるのではないでしょうか。
それほど “言葉” というものは 人を動かすのです。
川鍋さんの言葉には 勢いがあった。
正義感に満ち溢れた ブレない 力があった。
なにより、 情熱があった。
だから、 たくさんの人が ついてきたんだろうと思うのです。
「肝心なのは、ブレないこと」 だという 川鍋さんの紙面に対する
情熱は、 これからもずっと 社員へと受け継がれていくことでしょう。
川鍋孝文氏のご冥福を 心より お祈り申し上げます。
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では 皆さま 次号をお楽しみに。
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昔は、新聞や 雑誌などに デジタル版など ありませんでした。
人々は、今より もっともっと 活字に親しんでいたように感じます。
新聞や雑誌の記者たちの活躍の場も、今よりずっと多かったのでは
ないでしょうか。「日刊ゲンダイ」会長 川鍋孝文さんは、そんな 時代を
代表する気骨精神旺盛な 稀有な ジャーナリストでした。
9月17日、食道がんのため 都内の病院でご逝去されました。
享年79歳。お別れの会は、その後 帝国ホテル
「孔雀 西南の間」にて 開催されました。
※「お別れの会」特別版より
川鍋さんは 早大第一文学部仏文科を卒業し 講談社に入社。
週刊現代 編集長時代は 同誌を100万部に伸ばすなど、
週刊誌 黄金時代を築いた。日刊ゲンダイの強烈な
一面見出しは 川鍋さんが ずっと書き続けてきた来たものだ。
他の追随を許さない 激しい政権批判は 川鍋さんの熱情を
そのままぶつけたものだったが、この批判精神は 病床に
あっても 衰えることはなかった。
1975年に 夕刊紙「日刊ゲンダイ」を創刊。80年~2007年まで
日刊現代の社長を務めました。40年もの長きに渡って
編集長、社長、会長と 第一線で指揮を取り、病床でも
批判精神は枯れることなく 最後まで激しく、熱い編集者魂を
貫いた一生でした。
私が 彼と会ったのは、彼がまだ 「週刊現代」の 記者だった
頃です。当時、私は 日本のマスコミ(主に週刊誌)から
総攻撃を受けていました。 マスコミは 私を抹殺せんばかりに
それはすさまじく 攻撃していました。私は 今に見ていろ、
正義が必ず勝つと 気骨精神で 自分を支えていました。
彼も 他誌と変らず 私を攻撃していた一人でした。
私が知り合った頃の 川鍋さん
1965年10月1日に起きたクーデター後の 1966年冬から
私は カリナを産むのに 日本に来ておりました。
そんな時、彼にインタビューを申し込まれた私は
受けることにしました。
彼は ヒョロヒョロとやせて 眼光だけ光らせた インテリの
肺病患者のようでした。
私と会った 川鍋孝文さんは イメージしていた 史上最悪の
女性ではなく、正しく 清く 運命に強く 懸命に生きる女性を
発見したのかもしれません。
それ以後、 彼は 私に対する態度を一変。
5週間に及ぶ連載を掲載し、 私に対しての世間の誤解や
マスコミによって造られた既成概念が大分 修復されたのでした。
それ以後は、「ナベさん」の愛称で 呼び合う仲間達と
近づきになりました。
当時のマスコミ 仲良し“三羽ガラス” です。
きっかけは 大宅壮一氏との対談で知り合った 文藝春秋の
堤 堯氏、プロデューサーの康芳夫氏と 私達は よく集い、
飲み合ったものでした。
まわりは (マスコミは) 敵ばかりの状態の中で、
私に ジャーナリストの友人が出来たのでした。
頼もしいことでした。
そのナベさんが亡くなった。 淋しい限りです。
「日刊ゲンダイ」の 「お別れの会」特別版
“ 川鍋孝文会長追悼号 ”
たくさんの写真と、几帳面な性格がうかがわれる
きちんと整理された スクラップブック
“ 見出し” は紙面の顔。 新聞も雑誌も 見出しを見れば、
社風、 編集者の質が わかるような気がします。
皆さんも、 商品のキャッチコピーにつられて 何がしかを
購入したことがあるのではないでしょうか。
それほど “言葉” というものは 人を動かすのです。
川鍋さんの言葉には 勢いがあった。
正義感に満ち溢れた ブレない 力があった。
なにより、 情熱があった。
だから、 たくさんの人が ついてきたんだろうと思うのです。
「肝心なのは、ブレないこと」 だという 川鍋さんの紙面に対する
情熱は、 これからもずっと 社員へと受け継がれていくことでしょう。
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