そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
フィリピの信徒への手紙/ 01章 20節
この聖句、パウロの思いは・・・ものすごく深い。
パウロという男は、この世の価値がキリストにおいて一切、負債であると・・・そういう事を言い切ったキリストの僕です。
この神様からのメッセージ、またパウロの人生を通じ働かれた聖霊の力はどれほどだっただろうか?
なぜここまで、キリストにこだわるのか?
しかも十字架で捧げられたキリストにすべてをかけている様な、捧げている様な・・・そこまでの思いはどこから来るのか?
一言で言えば・・・神様がそう定めてその様に用いたからと説明出来ます。
が・・・わたし自身の歩みを照らし合わせてそのパウロの信仰、キリストにたいする思いが・・・なんとなく今、一つわからせられた様な気がしますので・・・書いておきたいと思います。
聖書の言う所の肉の思い・・・肉における人・・・その行為は・・・神様に対して全く意味がなく、役に立たない・・・それほどに人は、汚れている・・・
キリストを通して、パウロ自身が、自身の歩みをそう深くまで感じたということです。
そしてキリストのあまりの清さ、神のその御心というか・・・神様が、神である故のご性質というか・・・
まさに神様の偉大さを・・・ものすごく感じさせられたと・・・十字架とダマスコ途上での出来事によって。
わたしは思います。
なぜキリストなのか?
人の地上の生活は、人の数だけあります。
恵まれている人もいれば、苦難の連続の方もいます。
人の性格、関係性・・・様々です。
しかしその人の数だけある営みが・・・キリストのたった一言のみ言葉の前に・・・塵あくたであり意味のなさい物なんです。
ここまでの思いが、信仰として確立された時・・・自分の肉、わたしであれば・・・過去してきた事を誇ったり、卑下したり・・・そんな事が全く・・・何の意味もなかったと・・・
そう思えるんです。
が・・・ただこれだけであれば・・・この世の人生をあきらめるだけの様な・・・そういう思いに包まれるだけになってしまうかもしれません。
が・・・パウロはそうでありませんでした。
キリストと共に死にキリストのためにキリストが生きたのです。
本当に不思議な事です。
人が、キリストによってなぜこうも変えられ、価値観が転換したにも関わらず・・・歩めるのか。
復活のイエスとの出会い、聖霊の満たし・・・人の愚かさ・・・罪による死・・・
神の愛・・・・。
お読みくださる皆様・・・わたしは肉に砕かれる時・・・神様の清さを毎回、知らされます。
すべての事は、十字架によって成し遂げられ完了した。
これは、聖書が間違えなく成就するという意味でもあります。
人は、どこまでいっても罪人です。
が、十字架によって罪、赦され義人とされる・・・一日も早くイエス様を信じて共に神様を崇めましょう。
どんな人でも神の愛によって新しく生まれます。
アーメン!
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
ヨハネの手紙一/ 05章 20節
フィリピの信徒への手紙/ 01章 20節
この聖句、パウロの思いは・・・ものすごく深い。
パウロという男は、この世の価値がキリストにおいて一切、負債であると・・・そういう事を言い切ったキリストの僕です。
この神様からのメッセージ、またパウロの人生を通じ働かれた聖霊の力はどれほどだっただろうか?
なぜここまで、キリストにこだわるのか?
しかも十字架で捧げられたキリストにすべてをかけている様な、捧げている様な・・・そこまでの思いはどこから来るのか?
一言で言えば・・・神様がそう定めてその様に用いたからと説明出来ます。
が・・・わたし自身の歩みを照らし合わせてそのパウロの信仰、キリストにたいする思いが・・・なんとなく今、一つわからせられた様な気がしますので・・・書いておきたいと思います。
聖書の言う所の肉の思い・・・肉における人・・・その行為は・・・神様に対して全く意味がなく、役に立たない・・・それほどに人は、汚れている・・・
キリストを通して、パウロ自身が、自身の歩みをそう深くまで感じたということです。
そしてキリストのあまりの清さ、神のその御心というか・・・神様が、神である故のご性質というか・・・
まさに神様の偉大さを・・・ものすごく感じさせられたと・・・十字架とダマスコ途上での出来事によって。
わたしは思います。
なぜキリストなのか?
人の地上の生活は、人の数だけあります。
恵まれている人もいれば、苦難の連続の方もいます。
人の性格、関係性・・・様々です。
しかしその人の数だけある営みが・・・キリストのたった一言のみ言葉の前に・・・塵あくたであり意味のなさい物なんです。
ここまでの思いが、信仰として確立された時・・・自分の肉、わたしであれば・・・過去してきた事を誇ったり、卑下したり・・・そんな事が全く・・・何の意味もなかったと・・・
そう思えるんです。
が・・・ただこれだけであれば・・・この世の人生をあきらめるだけの様な・・・そういう思いに包まれるだけになってしまうかもしれません。
が・・・パウロはそうでありませんでした。
キリストと共に死にキリストのためにキリストが生きたのです。
本当に不思議な事です。
人が、キリストによってなぜこうも変えられ、価値観が転換したにも関わらず・・・歩めるのか。
復活のイエスとの出会い、聖霊の満たし・・・人の愚かさ・・・罪による死・・・
神の愛・・・・。
お読みくださる皆様・・・わたしは肉に砕かれる時・・・神様の清さを毎回、知らされます。
すべての事は、十字架によって成し遂げられ完了した。
これは、聖書が間違えなく成就するという意味でもあります。
人は、どこまでいっても罪人です。
が、十字架によって罪、赦され義人とされる・・・一日も早くイエス様を信じて共に神様を崇めましょう。
どんな人でも神の愛によって新しく生まれます。
アーメン!
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
ヨハネの手紙一/ 05章 20節
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