イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
ルカによる福音書/ 05章 20節
聖書のメッセージに罪の赦しがあります。
愛や赦しというテーマは、聖書を語る時に外せない部分であり・・・
また何度でも伝える必要のある事です。
赦されるというのは、聖書からするとどういう事を言っているかというと・・・
失われていた事柄の回復です。
創世記エデンの園での出来事を引用していきたいと思います。
神様は、アダムに善悪の知識の木からはとって食べてはいけない、必ず死ぬから・・・と言われました。
その後、アダムから女性、エバが造られました。
ある時、サタンが操る蛇が、エバを誘惑します。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
不思議です。
サタンの声を聞いたあとは・・・善悪の木を見るとおいしそうに見えて目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていたとあります。
ここで誘惑ということの本質が分かります。
誘惑とは、一見、よく見えるように、目を引き付け、賢くなる(偉くなり権力を手に入れる)ことを導くことです。。
(あたかもその事がなければいけないかの様な思いを入れられるのかもしれません)
まず、おいしそう・・・という味覚を刺激します、そして肉の目が開かれ、賢くなる、というそそのかしを受け取ることとなります。
神様は、すべての木を良く造られていました。
ですので・・・この善悪の木だけがよく見えることはないのです。
この手口は、勧誘や営業で日常使われています。
この世での営みは、良いと思われる様な分野、教育や医療などでもこうした悪魔の手口を使って営まれています。
この世は、どこまでいっても・・・悪魔の方法でしか物事をすすめられません。
誘惑の方法を身につけるために教育があるといってもいいのです。
赦しに戻します。
神様は、アダムに死ぬようになると言われました。
主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
創世記/ 02章 16節
が、蛇のいうとおり、実を食べても死にませんでした。
しかしここで大事なのは・・・実際に死ぬ・・・ということではなく・・・
神様から見たら・・・死んだ者になるということです。
神様が、食べたら死ぬと言われたのだから・・・食べたら死ぬのです。
それは、神から失われた存在になるということ。
人の営みにおいて・・・人同士、お互いを評価します。
その功績などで人の価値が査定されます。
どんな関係性においても何かしらで査定します。
スキル、経歴、年齢、容姿、家柄、国籍、人柄、所有物・・・
これらすべて、良かれと感じることでも・・・ええ・・・!!と思う事でも評価して、また査定として世の損得を受け取らないにしても・・・
結局の所・・・人間賛美となり・・・神から失われた存在でのやり取りにしかなりません。
キリストの十字架にしか救いがない・・・というのは、人はどうやってもこの人間賛美から抜けれないからです。
聖書に神は、愛です。
とある通り、人と人の営みに、愛はありません。
たとえ全財産をすてて命を捨てても・・・愛はないんです。
では、愛とは、何かといえば・・救い主であるキリストを受け入れてキリストに従うことだけです。
とまた話が、飛びました・・・。
人と人の関係性において・・・失われることを感じる一番の出来事は、死別ではないでしょうか。
またなにかのコミュティから人が分離して行ったり、仲の良い友達が引っ越してしまったり・・・もう生涯あえなくなることもあるでしょう。
その時、人は、つらい思いになったりします。
ある時は、すべてが終わったかの様な気持ちにすらなるかもしれません。
この様な思いは、聖書でいう滅びと同じかと思います。
罪により滅ぼされたソドムとゴモラ、塩の柱にされたロトの妻・・・。
やがてくる神様の裁きの時は、永遠に失われた者になるのか・・・それとも永遠に生きるものとなるのか・・・ということの決定の時です。
人と人の関係性においても・・・回復されるということが必要です。
もし・・失われたものがそのままであれば・・・その人や物は、もうそのまま失われるのです。
古くなったパソコンは、もう使えません。
中には愛着がありとっておく方もいるかもしれませんが・・・
神様は、この失われた人を・・・再び神様につなぐために十字架というみ業をなしてくださいました。
赦されなければ人は、死ぬ者です。
人間関係においても分かります。
人と人の間の裁きは、精神に苦痛を与えて肉体の死をもって終わらせるということ・・・・
この人間関係の裁き、争いは、賢さから来るものかもしれません。
しかし・・・神の賢さは違いました。
それは・・・神自らが人となり肉体に裁きを受けるという事でした。
身代わりの死・・・神の賢さ、その知恵は、愛と赦しです。
どんな時もいつもこの神様の赦しに感謝して・・・また赦し赦されるものでありますように。
信仰は、人間側における肉の努力ではありません。
蛇の誘惑のように・・・よく見せて導くことでもありません。
ただ神に聞き、神を求めること・・・あとは、聖霊が教えてくれます。
答えは、一つです。
十字架によって・・・神は赦してくださった。
アーメン。。
悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
コリントの信徒への手紙二/ 02章 05節~
神を信じる人に言います。
天の父なる神は、罰を与えるのではなく・・・罪びとを愛することを神は望んでおられます。
ただ聖霊が働きますように。。
アーメン。。。
ルカによる福音書/ 05章 20節
聖書のメッセージに罪の赦しがあります。
愛や赦しというテーマは、聖書を語る時に外せない部分であり・・・
また何度でも伝える必要のある事です。
赦されるというのは、聖書からするとどういう事を言っているかというと・・・
失われていた事柄の回復です。
創世記エデンの園での出来事を引用していきたいと思います。
神様は、アダムに善悪の知識の木からはとって食べてはいけない、必ず死ぬから・・・と言われました。
その後、アダムから女性、エバが造られました。
ある時、サタンが操る蛇が、エバを誘惑します。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
不思議です。
サタンの声を聞いたあとは・・・善悪の木を見るとおいしそうに見えて目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていたとあります。
ここで誘惑ということの本質が分かります。
誘惑とは、一見、よく見えるように、目を引き付け、賢くなる(偉くなり権力を手に入れる)ことを導くことです。。
(あたかもその事がなければいけないかの様な思いを入れられるのかもしれません)
まず、おいしそう・・・という味覚を刺激します、そして肉の目が開かれ、賢くなる、というそそのかしを受け取ることとなります。
神様は、すべての木を良く造られていました。
ですので・・・この善悪の木だけがよく見えることはないのです。
この手口は、勧誘や営業で日常使われています。
この世での営みは、良いと思われる様な分野、教育や医療などでもこうした悪魔の手口を使って営まれています。
この世は、どこまでいっても・・・悪魔の方法でしか物事をすすめられません。
誘惑の方法を身につけるために教育があるといってもいいのです。
赦しに戻します。
神様は、アダムに死ぬようになると言われました。
主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
創世記/ 02章 16節
が、蛇のいうとおり、実を食べても死にませんでした。
しかしここで大事なのは・・・実際に死ぬ・・・ということではなく・・・
神様から見たら・・・死んだ者になるということです。
神様が、食べたら死ぬと言われたのだから・・・食べたら死ぬのです。
それは、神から失われた存在になるということ。
人の営みにおいて・・・人同士、お互いを評価します。
その功績などで人の価値が査定されます。
どんな関係性においても何かしらで査定します。
スキル、経歴、年齢、容姿、家柄、国籍、人柄、所有物・・・
これらすべて、良かれと感じることでも・・・ええ・・・!!と思う事でも評価して、また査定として世の損得を受け取らないにしても・・・
結局の所・・・人間賛美となり・・・神から失われた存在でのやり取りにしかなりません。
キリストの十字架にしか救いがない・・・というのは、人はどうやってもこの人間賛美から抜けれないからです。
聖書に神は、愛です。
とある通り、人と人の営みに、愛はありません。
たとえ全財産をすてて命を捨てても・・・愛はないんです。
では、愛とは、何かといえば・・救い主であるキリストを受け入れてキリストに従うことだけです。
とまた話が、飛びました・・・。
人と人の関係性において・・・失われることを感じる一番の出来事は、死別ではないでしょうか。
またなにかのコミュティから人が分離して行ったり、仲の良い友達が引っ越してしまったり・・・もう生涯あえなくなることもあるでしょう。
その時、人は、つらい思いになったりします。
ある時は、すべてが終わったかの様な気持ちにすらなるかもしれません。
この様な思いは、聖書でいう滅びと同じかと思います。
罪により滅ぼされたソドムとゴモラ、塩の柱にされたロトの妻・・・。
やがてくる神様の裁きの時は、永遠に失われた者になるのか・・・それとも永遠に生きるものとなるのか・・・ということの決定の時です。
人と人の関係性においても・・・回復されるということが必要です。
もし・・失われたものがそのままであれば・・・その人や物は、もうそのまま失われるのです。
古くなったパソコンは、もう使えません。
中には愛着がありとっておく方もいるかもしれませんが・・・
神様は、この失われた人を・・・再び神様につなぐために十字架というみ業をなしてくださいました。
赦されなければ人は、死ぬ者です。
人間関係においても分かります。
人と人の間の裁きは、精神に苦痛を与えて肉体の死をもって終わらせるということ・・・・
この人間関係の裁き、争いは、賢さから来るものかもしれません。
しかし・・・神の賢さは違いました。
それは・・・神自らが人となり肉体に裁きを受けるという事でした。
身代わりの死・・・神の賢さ、その知恵は、愛と赦しです。
どんな時もいつもこの神様の赦しに感謝して・・・また赦し赦されるものでありますように。
信仰は、人間側における肉の努力ではありません。
蛇の誘惑のように・・・よく見せて導くことでもありません。
ただ神に聞き、神を求めること・・・あとは、聖霊が教えてくれます。
答えは、一つです。
十字架によって・・・神は赦してくださった。
アーメン。。
悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
コリントの信徒への手紙二/ 02章 05節~
神を信じる人に言います。
天の父なる神は、罰を与えるのではなく・・・罪びとを愛することを神は望んでおられます。
ただ聖霊が働きますように。。
アーメン。。。
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