カンヌだかの賞を取ったという事で、彼女がこの映画を観たいというので、
まったく興味がなかったが仕方なく観る事になった、河瀨直美監督の映画「光」。
大体が、賞を取ったから観たいというその性根そのものが気に食わない。
観たい題材や作品なら賞をとか関係なく観るものだろう。
日本の映画なのに、外人に評価されたから見に行くというのもなんだか
情けない話だ。
少し前、この作品がカンヌで賞を受賞するとワイドショーがこぞって
こぞってこの作品を特集。それに釣られて多くの人が野次馬のように映画を
観に行く姿が放送された。
そして映画を見た人らの感想が「感動しました」「考えさせられました」「泣けた」などなど、よくある映画の宣伝文句そのままで呆れていたが、まあTVの短いインタビューじゃマトモな感想も言えないだろうと思い、ヤフー映画の感想を読んだ所、たいして変わらない感想と、TVインタビューではまず紹介されないであろう、表情アップがキツイ、ツマラナイなどとったネガティブなコメントがある程度。
こうした認識で「光」期待せずに観ましたが・・・素直に傑作だと思います。
邦画のこういうヒューマンドラマは「お涙頂戴系」があまりに多いので、こうしたメッセージ性のある作品は久々のようにさえ感じました。
さて内容ですが、大まかなストーリーは映画の予告などがTVなどで流れていたので知っている人も多いでしょうが、
映画の音声ガイドの台本を作る美佐子と、弱視で視力が衰えていくカメラマン雅哉との交流を描いたラブストーリー(らしい)
しかしこの映画で描かれているのは少なくともラブストーリーなどではないと思われる。
物語は劇中映画の試写会で、雅哉が音声ガイドのセリフに不満を言う所から話は動いていく。
劇中映画の中で妻を亡くした主人公の男性の表情に
美佐子が「その目に希望の光が」と音声ガイドを入れた事に、雅哉が指摘する。
雅哉はあのシーンはそんな単純なものではないと語るが、美佐子はそれが納得できない。
こうしたやりとりをきっかけに二人は反目し、いつしか互いを知り、恋人となっていく。
この映画が表そうとしているのは、視覚障害者に対するいたわりや、それを支える人々への賛辞などではない。
この物語で描かれているのは、「夢」や「希望」や「感動」といったモノを物語りの中に追ってしまう、人々に対しての違和感だったように思う。
「夢を持たなきゃ」・「希望は無いの?」そうした言葉に突き動かされ、
夢や希望を求め彷徨う多くの人ら。しかしその行き着く先に幸せがあるかどうかは、また別の話だ。
雅哉は完全に失明し希望を失い、カメラマンとしての夢を絶たれる。
その結果、彼にとっての夢や希望がカメラから美佐子へと移り変わる姿に、
人間の弱さを感じてしまう。
夢や希望というのは、扱い方を間違えると呪いのように変容する事はなんとなく感じるが、その事に対してあまり世の中は興味がない。理想や夢を追い破綻した人よりも、成功した人に目が行くは仕方のない事だが、そうした落伍者から目を逸らしているようにも感じる時がある。
ラストシーンも印象的だ、完成した映画多くの一般客と一緒に観ている雅哉。
樹木希林の音声ガイドで劇中劇を解説していく、そして冒頭で美佐子と雅哉が言い合いになったセリフ「その目に希望の光が」が「彼の瞳に光」と変わっているシーンが流れ劇中劇の映画が終わる。ここからが、この映画の言わんとする所だと感じる。
映画が終わり観客たちの表情は明るく朗らかなのだ。悲惨で捉えづらいラストシーンを「いい映画だったねー」「感動的だったなど」軽薄で当たり障りのないな感想を言い合っているように見える。
そして映画はエンドロールへと入る。
このシーンにはエヴァ劇場版の劇場挿入シーンを思い出す。
(エヴァ旧劇場の1シーン)
冒頭で美佐子の雅哉があれほど言い合い・考えても視聴者には最終的に
「感動的でした」と伝わってしまう。
私には視聴者が見たいメッセージを物語の中から勝手に抽出し解釈され消費
されていくのが現代の映画の在り方のようにさえ感じてくる。
あまりに自傷的メッセージの映画だが、幸いにも国際舞台で評価される。
しかしそれでも、その評価は「泣けた」「感動した」といった定型の感想から出る事はなかった。
エキュメニカル賞を取ろうとどの部分がキリスト教的かも考えられる間もなく、「感動した」で括られていく。
冒頭での、雅哉と美佐子の言い合いはなんだったのかと思えてくる。
しかしこうした内容の捉え方が違うのも、最近の映画では仕方がないのかもしれない。映画といっても、ひとつの作品でも見る人にとっては、素直にストーリーを見に来る人もいれば、アイドル俳優を見に来る人もいる、最近ではオマケ目的で映画を見るなどもいる昨今だ。
映画というモノそのものの捉え方さえ広がってきている。あまりに情報や選択肢が増えすぎて、作品を見る事が難しくなってきている気がする。
それだけに、この作品は視覚的情報が抑制された視覚弱者を擬似体験させる事により、物語へと視聴者のピントを作品みずから合わせようとしたのかもしれない。そうした試みを含め、内容も大評価してよいと思う。
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