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ガン・ソード一挙放送感想  幸せとは快楽なのか?

2017/05/07 22:51 投稿

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放浪のヨロイ乗り(ロボット乗り)の主人公ヴァンが、恋人を殺した「鉤爪の男」を
倒すまでの「復讐冒険活劇」。

どことなく雰囲気や絵柄は当時流行っていた内藤泰弘の「トライガン」や
ロボに乗り仇を追う設定から、「戦闘メカザブングル」を思い出す人もいるだろう。
ヨロイに乗るために自身を改造し復讐に挑むという姿には初期仮面ライダーの姿も重なる。




(トライガン)      (仮面ライダーV3)     (ザブングル※敵役のティンプ)

さて物語は仇の「鉤爪の男」を追う旅の中で主人公のヴァンとヒロインのウェンディは
出会いや別れ、敵との戦いなどを通して様々な経験をしていく。


ストーリーが進むにつれ、この作品が語ろうとしているテーマの概要がみえてくる。
「復讐冒険活劇」と名乗るだけに「復讐」が一つのテーマなのだろう。
だがその「復讐」という儚い行為に駆り立てられるヴァンを通して、問われている
真のテーマが「幸せとはなにか?」であるかのように感じた。

 幸せの頂点であった主人公のヴァンは、恋人のエレナを「鉤爪の男」に殺され
復讐を決意し旅に出る。

ヴァンでなくとも、恋人や肉親を殺されれば「復讐心」を抱くのも理解できる。

現実の殺人事件の裁判などでも、遺族が加害者に死刑といった極刑を望む場面を
ニュースなどで何度も見た事がある。それが復讐心からそうした思いに到ったかどうかは
確信できない。だがそうした「復讐心したい」といった気持ちはどうしたって
「混ざる」ように思う。

だが、復讐に意味があるのだろうか?そうした問いに対して、よく言われる言葉が・・

    (ZZガンダムより)

「憎しみは憎しみしか生まないって」

      この他にも、
「復讐は虚しいだけ」「争いは争いを生む」
      などなど

たしかにそうだろう、復讐なんて相手を不幸にした所で自身が幸せになるワケでもなし、
なにか得するワケでもない。
もちろん被害者が心情的にある程度の納得や気持ちの整理はできるだろう、しかしそのために人を死刑にするとなると行き過ぎな気がする。

考え方によっては「復讐」とは不思議なモノである、 幸せを奪われたのであれば、    新たに幸せを探せばいい。新たに恋人を探してもいいし。全く別のなにかでも良いはずだ。

しかしそうでは無い、そんな風には割り切れない。全てを捨てて復讐をする事に多くの人が 共感してしまう。もし自身の肉親や恋人が殺されたら・・と思ってしまう。


では「幸せとはなにか?」「命とは何か?」


そんな掴みどころの無い問いに答えたのは宿敵の「鉤爪の男」だった。

12話:「帰らざる日々…」より

ウエンディと対した「鉤爪の男」が言う「命は尊い、だが全て必ず無残に死に消えていく・・
だから命や人生が紡ぐ夢が最も尊いのではないか?ならば全ての人の夢や希望を一元化し
叶えれば、真の平和と幸せな世の中が訪れるはずだ(一部略)」

なかなか魅力的な考えだ、たしかにみんなで一つの目標を目指すのは盛り上がるし、楽しそうではある。しかし「夢や希望を一元化」という所に息苦しさや「夢を」押し付けられるような鬱陶しさも感じる。全体主義的であり同調できないと弾圧されたりしそうだ。


「夢や希望を一元化」する事により幸せを追求するというのは、どこかで自分自身の価値観を抑えだれかの価値観に希望の「夢」を託して生きる事に素直に幸せを感じられるか不安だ。
だが、そうした思想に共感した人々が「鉤爪の男」の周りに集まっていく。

仲間を捨て理想を追うガドヴェド。
母親への愛情と父への憎しみに悩み、そうした思いを捨てたいウィリアム。
「鉤爪の男」から捨てられる事を恐れるカロッサ・メリッサ。
自身の汚れた過去を捨てたいファサリナ。

一方、主人公ヴァンの周囲にも「鉤爪の男」を追うという理由で様々な人が集まる、


「鉤爪の男」を追う兄を諌める弟・鉤爪の男を慕う兄を追う妹ウェンディ・
物見遊山のユキコ・ヴァンに恋心を抱く女プリシラ・
なんとなくというノリでついてくる男ら。

それぞれの人がそれぞれの価値観で一つの目標に集約していく。

「鉤爪の男」とその「同志」VS「ヴァン」と仲間たち。一見対照的に感じる二つの集団だが「同志」たちの背景を見ていくとそこには「多様」な価値観に悩む人々の姿が浮かびあがる。

執着を捨て・感情を捨て・家族を捨て・過去を捨て、幸せを得ようとする考えは「鉤爪の男」の最終目標である「幸せの時」と共鳴する所が大きいのだろう。
※「幸せの時間」計画は一度人類を全て原子分解し「鉤爪の男」の因子を植え付け時間ごと再構築する計画だが成功する確率は低い(ムッターカはそのためクーデターを起こした)。


ただ多様な形の幸せを否定し、苦しみや憎しみが全く無い世界が幸せな世界なのかというと、疑問に感じる人も多いだろう。

幸せの感じ方も色々あるが、リビドー(強い欲求)がありそれが果たされた時にこそ、
大きな幸せ・多幸感を感じるという経験は多くの人にあるだろう。

辛い受験勉強を乗り越え合格した時の達成感・お金を貯め欲しかった物をようやく手に入れたときの幸福感・など幸せと苦しみは表裏一体的な部分もあるように思う。



(お金を増やしたくて損するかもしれないゲームに興じるなど・・)

 だが孤独や戦争が無くなるのであれば、やはり「幸せの時間」計画は魅力的だ
こうした人類を強制的に変質させ理想郷を実現するという考え方はアニメやSFなどでよく
登場する。代表的なモノだとエヴァンゲリオンの「人類補完計画」や
機動戦士ガンダムSEED DESTINYの「デスティニープラン」。洋画のリベリオンなどなど。


(EVA映画人類補完計画)    (火の鳥2772 胎児の段階から選別される)
  
国家(政府・独裁者)などが人類から自由意志の一部を取り上げ、無理やり
「幸せ」「適性」といった状態に当てはめていくといった考えはよくある。
さらに遡れば手塚治虫アニメ「火の鳥2772」などでも遺伝子による優劣で職業や生涯を生まれながらに決定づけらるなども近いように思う。


現実の歴史にこうした「幸せ」の変革を促した思想の追えば、幸せを数値化した
功利主義の哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」や(最大多数が最大の幸福を得る考え)



※余談ですが、ベンザムさんは自身の遺体を剥製にして、晒すよう遺言しているためにこのような姿で現在も観覧できるそうです。 
顔の剥製は失敗したために頭は作りものですが、足元に本物の首が置かれています、
かなりグロいです。






 古代ギリシャ哲学、エピクロスの快楽主義
(※快楽を追求するのではない、苦しみを避け快楽の最大値を探る主義)
などなどにその思想の痕跡がみえる。






話は戻りヴァン一行はそんなこんなでいろいろあって



最終話:「タキシードは明日に舞う」    「鉤爪の男」との対決するヴァン

恋人エレナの命を奪った「鉤爪の男」がエレナを生き返らせようと提案する、
それに対するヴァン答えが・・。




ヴァン:「エレナは死んだ!お前が殺したんだ!!俺からエレナの死まで奪う気か!!?
死んだやつはなぁ、絶対に生き返らねえんだ!」

強烈な回答だ。恋人のエレナが生き返るのならば、復讐の理由が無くなるようにも思えるが、ヴァンは旅の中で見てきた、彼らが作った虚ろな命や姿や

      (5話:ツインズ・ガード 発狂するクローン)

彼らの思想に触れ、エレナが本質的に生き返る事の無いと感じとったようにも
思えるが、ヴァンの言葉はそうした計算的な物では無くもっと純粋な感情から出た
答えのように思える。

さらにヴァンの答え「俺からエレナの死まで奪う気か!!?」この言葉の意味はどういう事だろうか?


ヴァンは彼女が死ぬ事でなにかを得て、生き返る事でなにを失うのか?

私の思ったのは、エレナが「鉤爪の男」に殺される事でヴァンは強い絶望・喪失感・
といった苦しみを得ると共に、より深く彼女への愛を感じる事ができたのであろう、
その強い苦しみそのものが裏返しのように愛なのだと感じたのではないだろうか。


そうした苦しみを噛み締めならがら「鉤爪の男」に復讐するという苦行に身を落とす事が、
彼女を守れなかった自身への罰であり、彼女へ対する愛の表現方法でもあり鎮魂なのだろう。
そうして示してきた苦しみや罰という愛の形を否定する事になるのではないだろうか?

本質的に人間が生き返らないと思っているヴァンにとっては、自分が彼女の形をしたなにかを迎え、快楽や安堵・平穏を得る事そのものがエレナへの裏切りであり、
自身の示した愛を失うという事なのだ。

ヴァンにとって彼女は幸せ以上の存在だった・・という事ではないだろうか。




また哲学からの引用だが、 ジョン・スチュアート・ミルの
「満足した豚より、不満足な人間でいたい。」という言葉を思い起こさせる。





こうした思いを感じさせるエピソードが16話、ウーに完敗したヴァンが恐怖しウエンディに 喋った過去。


「世界は俺にとって単純に出来ていた・・・エレナに会うまでは。

食べる事だけ考えてて・・・それには、金と力さえあればよかった。
それまで俺は、殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられ・・・でもその相手を叩きのめして・・・
俺にとって「他の奴」ってのはそういうもんだった。なのにエレナは手を握ってくれたんだ。
俺はそれまでの自分がひどく、惨めに思えて・・・。」

ヴァンは彼女との出会い通して幸せを得たが、同時にそれまでの野蛮で惨めな自分と向き合い不幸で惨めだという過去も彼女から教えられた。

(7話より:エレナ・・お前を思い出にしていいか?

そして彼女を失う事で得た、深い悲しみと怒り、そして復讐心こそが彼女とヴァンを繋ぐ
最後の繋がりに他ならないのだろう。

そうした意味で捉えればヴァンのタキシード姿の理由はそうした彼女との繋がりや、    彼女が死んだ日から自身が変わらない事の象徴として科してるようにように見える、    苦しみや悲しみは時と共に薄れるからだ。

物語は鉤爪の男倒し、ヴァンは仲間の前から姿を消し数年後、偶然ウェンディと再会する所で終わる。


今作で語られている内容を、現実の世界や社会と照らし合わせるとなかなか感慨深い。
「鉤爪の男」とその同志の目指す社会は平和そうだがなにか気持ちの悪さを感じる、他人の感情が無断で自身に入ってくるというのは不快に感じるが。

 現実社会でもそうした価値観や思想の押し付けは世の中に溢れている。
自身の思想や嗜好が変わっていくというのはよくある事だし。

例をあげると捕鯨問題で鯨食文化への批判から、クジラを食べる事を躊躇する人が増えている事や。

中東やイスラム教や信者への印象も、西側諸国から通して情報得るため昔より悪い印象になっているように感じる。

よりわかり易い例だとゲームのアイテム課金など一昔前は、馬鹿馬鹿しく愚かしい事だと
思われたが、現在はそれが一般化しむしろそうした物がゲーム業界を牽引している。

こうした事例が良い悪いという事は一概に言えない、だが印象や感情論でなく、なにごとも自身にとって良いのか悪いのかを考える余裕はもっておきたい。

過去の記事の引用だが「好き」や「好む」という感情も他人に植え付けられている部分も大きいように思う。

ファン心理に思う「あなたの好きは誰の物?」


そうした物が悪いというワケではない、そうした意味では学校教育などもこの国に生きるための最低限の押し付けなのだろうし。


そういえばヴァンが食事の時に調味料を大量に注文するのも、そうした他人からの感覚や  感情・評価から限りなく切り離れた事を示す演出なのではないだろうか?

あくまで自分本位の意識や価値観を持つという事の象徴の気がする。


ガンソードを手がけた谷口悟朗監督が今期放送している『ID-0』もまた「意識」を
「Iマシン」というロボットに移し変え(戦う?)話のようだ。この作品でも、ガンソードで示した個性や価値観・幸福といったテーマをさらに掘り下げるのではないかと期待したい。






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