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デモって何だろう?――議会の外から意見を表明するための1つのルート

2015/09/27 20:32 投稿

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子供でもわかるまとめ

デモ」とは……

  • 政府や議会に対して外から圧力をかける集団的政治運動の1つ
  • 国民の権利の1つで、暴力行為や違法行為やクーデターとは異なる
  • そのとき政策を変えられなくてもその後に意味がある
  • 一時的な運動であり、持続することを目的としない
  • 政治の盲目的な暴走を防ぐことにもなる
  • 選挙以外で国民の意見を表明する1つのルート

■はじめに

先日のいわゆる安保法制に対する反対運動として、国会前をはじめとして全国各地でデモが行われ、注目を集めたのは記憶に新しいと思います。また、原発反対を訴えるデモや、沖縄での基地反対運動のデモなども、よく報道されているところです。

ところで、「デモ」とはいったい何なのでしょうか。どういう意味があるのでしょうか。いろいろと話題になった割には、意外に理解していない・説明できない人が多いのではないかと思います。今回は、「デモ」の意味について説明します。

■そもそも「デモ」って何?

デモ」とは、

  1. 自分たちの要求や主張を、
  2. 集団的な方法(隊列、行進、声援など)で、
  3. 公に示すことで、
  4. 人々に問題の所在を明らかにして仲間や支持者を増やしたり、
  5. 政治的な敵対者に対して心理的な影響を与える、
  6. 政治運動の手法の1つ

です。
とくに民選議会を通じて政治が行われる体制の場合、デモは国民が政府や議会に対して外から圧力をかけるための政治運動としてしばしば行われます。

※「デモ」という言葉自体はもともと英語の「デモンストレイション(demonstration)」を略したもので、日本語訳としては「示威運動」「示威行動」などの言葉が当てられます。

■デモは暴力行為ではない

まずよくある誤解として、デモは暴力行為じゃないかという見解があります。なるほどたしかに、デモの結果、ケガ人が出たり、暴力行為で逮捕者が出ることがあります。

しかし、それはデモそのものとデモの結果とを取り違えているのであって、本来デモ自体には暴力行為をはたらくという目的も意味もありません。あくまで非暴力の政治運動です。

むろん、デモは集団行動ですから、人々の興奮や不安が高まったり、混乱したりすれば、人間心理の結果として乱闘や暴力行為が起こることは十分にあり得ることです。デモの関係者(主催する側も、それを取り締まる側も)にそれを抑制する責任や、結果として生じた出来事に対する責任があるのもまたとうぜんのことです。

しかしだからといって、デモそれ自体は暴力行為ではありません。結果として暴力が生まれるからといって、もとの行為自体が暴力ということにはなりません。デモと暴力行為との関係について、きちんと区別して認識しておく必要があります。

■デモは違法行為ではない

あるいは、デモを違法行為だと思っている人がいるかもしれません。これもよくある誤解で、じっさいは「集会の自由」として保障されている国民の正当な権利の1つで、日本国憲法の第21条にも「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とあります。

集会の自由というのはべつにデモに限ったものではありません。政治的な会議や演説だけでなく、学術的な学会や研究会、趣味や芸事の会合、娯楽としての演劇、コンサート、ライブなどが自由に行えて参加できるのも、この集会の自由が保障されているからです。

※ちなみに、ご存じの人もいるかもしれませんが、つい70年ほど前まで、この国の社会では、集会の自由にも治安警察法などの法律で強い制限が課せられていました。警官による立会監視や即時中止・解散命令などが認められており、とくに政府に反対するような集会はまともに行うことができませんでした。

■デモはクーデターではない

暴力行為や違法行為でなくても、デモは議会で決めた法案をひっくり返そうとするのだからクーデター同然であってけしからんと思っている人もいます。

しかしよく考えてみれば、この意見もおかしいことがわかります。だいいち、デモは制度ではなくて運動なのですから、直接に法律を作ったり変えたりするような組織も手続きも持っていません。法律を作ったり変えたりするには、その主張を支持する議員を議会で増やして、法案を提出し、議決によって決めるしかないのがこの国の制度です。したがってデモがせいぜいできることは、議会の外から議員に心理的な圧力をかけて、それを通じて議会の決定およびそのプロセスに影響を与えることくらいです。

これはあくまで間接的な方法ですから、その経路からしても影響力からしても、デモ自体が直接に法律を変えるということとはまったく異なります。これを短絡・混同して、あたかもデモそのものが直接に法律をひっくり返すクーデターであるかのように誤解するのは、改めなければなりません。

※なお、議会の外から間接的に圧力をかけること自体は、違法なことでも、おかしなことでもありません(日常の日本語で「圧力」というとどうしても物理的な力のニュアンスを伴うので、何か不穏な響きがしますが、ここでは「特定の方向に向けて影響を与える」というていどの意味です)

たとえば企業や業界団体・労働組合などが、政党に献金したり議員や閣僚と会談したりすることだって立派な圧力の1つです。また、たとえば日本国憲法の第16条では「請願」という、国家や地方公共団体に対して意見を提出する権利も正当に認められています。

上述の集会の自由でも見たように、この国の政治制度は、内閣や議会だけでなく、議会の外での/外からの政治へのはたらきかけを認めています。もしこうした議会の外からの圧力がすべて違法になるというのでは、われわれはいちど選挙が終わったらただ黙って次の選挙まで国会の決定を見ていろということになりかねません。それでは選挙が終わったら議員の好き放題になってしまい、国民主権が空洞化してしまいますから、そうならないようにこの国の制度では、議会の外でのさまざまなレベルでの政治運動が保障されているのです。

■デモはそのとき政策を変えられなくても意味がある

さて、こうした制度的な側面がクリアーになったとして、それでも実質的にデモにはやる意味がないと思っている人もいるようです。けっきょくは議会の多数派によって決められてしまうのだから、デモの影響力など微々たるものにすぎないといった意見です。

なるほどたしかに、政権党はそもそも議会で多数派を占めているのですから、法案を通すこと自体は強引にやろうと思えばもとからできるわけです。政党の党議拘束がある以上、よほどのことがないと議員を動かして決定を覆すことが難しいのも確かです。

しかし、デモの機能を考えると、べつにそれでもよいのです。

何度も言うように、デモはあくまで政策決定に間接的に影響を与えるものであって、直接手を下して法律や政策を変えることはできません。したがってその成功率というのはそもそも低いのがあたりまえです。

しかし、デモが行われているという事実によって、政府や議会の側もその審議や政策決定のプロセスにより配慮せざるを得なくなります。どんなに議会内で優勢でも、あまり無茶なことはしづらくなるという抑制効果を持つわけです。

また、たとえ最終的にそのときの政策決定を変えることができなかったとしても、特定の問題に対して、これだけの人が意見を持って集まったぞということを公に見せる(お披露目する)ことで、その問題が政治的に取扱注意であることを政府や議会や人々に知らせたことは、その後も大きな意味を持ちます

典型的にはその後の政策や選挙で、その問題を扱いづらくなるでしょう。このままだと次の選挙で落選するかもしれない、というのは議員にとって最も恐れるべきことですから、デモによってこの恐れをたとえ一時的にでも感じさせるだけでも意味があるのです。政治家に対する世論の側からの警報機能と言ってもいいかもしれません。

※歴史的な例としては、1960年のいわゆる60年安保での大規模な反対デモのあと、自民党政権は存続しましたが、その後長らく安保や憲法改正については議論を封印せざるを得ませんでした。

■デモは盛り上がりが持続しなくてもよい

また、デモの盛り上がりはどうせ一時的なもので、法案が成立したらすぐ人数が減るのだから意味が無い、と言う人もいます。

ですがこれも、デモの機能からすれば、それでもよいのです。

そもそも、デモは流動的な運動であって、固定的な制度や組織ではありません。運動は特定の状況や目的に応じて形成されるものなので、その状況や目的が変わったり無くなったりすれば、縮小、再編、解散が必要になるのはとうぜんでしょう。また常識的な経験から考えても、日常生活の中で運動に割ける人的・時間的・体力的・物質的・金銭的リソースというのは限られており、これを継続的に続けられる人が多くないというのもまたとうぜんです。

つまり、デモというのは継続性を目的としたものではないのです。したがって、継続性がないからといってデモを意味がないものと言うのは、デモの機能を誤解していることになります(継続性を目的とするのは組織や制度のほうです)。

むしろデモというのはその一時的な盛り上がり自体に大きな意味と機能を有するものです。その点では非日常的なもので、けっして日常に組み込まれたふるまいではありません。この非日常性こそが、ふつうのことではないというインパクトを増している側面もあります。

もしデモが日常的なものになってしまったら、ムリヤリにその意義や目的を作り出そうとして、政治的には見当外れな永遠の祝祭になってしまいかねません。

■もしデモが無かったら?

それでもデモはやる意味があるのかどうか疑問を持っている人は、逆にデモを行わなかったときのことを考えてみるといいと思います。

たとえば今回の場合だと、国会前でのデモなど無かったと仮定してみましょう。デモが起こらないということは、それがメディアで頻繁に取り上げられることもなくなります。デモ参加者を街中で見かけることも、知人から参加を誘われることもなくなります。そうなれば、世の中での法案自体の話題もじっさいよりずっと少なくなるでしょう。議会の外では世論が盛り上がらない状態になります。

そうなると、いっぽう議会の中ではどういうことが起こりうるか。デモがあったときと同様に、最終的に与党が進める法案がそのまま通って終わりだろうと考える人もいるかもしれません。

ところが、そうとは言い切れないのが政治の仕組みの面白い/恐ろしいところです。世論が盛り上がらないということは、国民の意見が見えなくなるということでもあります。議会の側はその政策や法案が、はたして国民の支持をどれくらい得られるものなのかどうか、十分な情報が得られないまま審議を進めなければならなくなります。

この場合、政権与党の側からは、どうせ世論が盛り上がっていないのだから強行に押し切ってしまえという論と、いやここは分からないのだから慎重に行くべきだという論の両方が出てきます。そのどちらが優勢になるかはそのときの具体的な状況によって異なりますが、もしその政権にとって重要な政策で、強硬論のほうが勝った場合、世論が見えないままいわばあてずっぽうで決めるわけですから、常識的な節度を超えた、非常にギャンブル性の高い政策決定がなされる可能性があります

他方でそうした場合に反対党の側も、世論の反対のていどが分からないので、下手に妥協するよりは多少の無茶をしてでも国民の耳目をひくパフォーマンスを行うべきだという、逆の強行論が出てくるでしょう。

こうなると、デモがない結果として、議会内で強硬論と強硬論のぶつかり合いになった場合、およそ世論とはかけ離れた、やみくもな権力闘争とやみくもな政策決定という最悪の結果を招くおそれがあります(国民の意見表明が封殺されていた戦前の議会政治末期に見られたのは、まさにこの症状でした)

そうならないためにも、デモというのは行われる意味があるのです。

とくに今回のような重要な法案の場合、デモが起こって議会外の意見が見える/聞こえるからこそ、与党にとっても野党にとっても、議論や政策決定の行き過ぎを防ぐ一応のめやすができ、その意味では相対的に穏当な議会政治が行われやすくなります。デモにはいわば、政府や議会が盲目になって暴走しないようにガイドラインを示す効果もあるわけです。

■まとめ

ここまでデモのさまざまな意味や効果を説明してきましたが、まとめると、デモというのは、主に政府や議会を中心に行われている政治に対して、国民がその外から間接的に、空間的・時間的に影響を与える方法の1つであり、権利の1つであるということです。職業政治家だけに政治を一任してしまわないための、国民の意思表明の1つのルートと言ってもいいでしょう。ここではデモだけに絞りましたが、ほかにもいろいろなルートがあります。民主主義というと選挙で議員を選ぶことだけを考えてしまいがちですが、じつはそれ以外のルートもけっこうあるんだということを知ってもらえたのなら幸いです。


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