今回はメカさAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■ネットで「物分りの良い」自分に酔ってる人たちに聞きたい(メカAG)
ネットでは「それぐらいいいじゃないか」という論調がウケる。物事を杓子定規にしか考えられない頭の硬い人間が多いから、日本はイノベーションを起こせないのだ、と。学校教育しかり、いつぞやの遅刻問題しかり、掛け算の順序しかり。
でもイノベーションを起こす人というのはどんな環境でも起こすと思うんだよね。むしろちょっとぐらい抑圧されたからといって、それで潰れてしまう人間にイノベーションが起こせるかの方が、俺としては疑問。成功まで無数の障害物があるわけで。
まあそれはそうと、俺としてもあまり好きじゃない「規律」の話。いや、ホント俺もこの話は書きたくない。俺自身こういうの嫌いだから。しかし現実問題として必要なのは確か。
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なにか事故が起きるたびに、現場の人間の気の緩みが問題視される。どっかの国の船の事故もそうだけど、一つ一つはいい加減でも、すぐには問題にならないんだよね。船体を無茶な改造して重心が上がって不安定になっても、それですぐに事故がおきるわけではない。救命ボートのメンテナンスが悪くても、事故が起きる確率がそもそも低いから、普通は問題にならない。積み荷が多すぎるのも、それが直ちに事故につながるわけではない。
一つ一つは直ちに致命的ではないが、でも大事故が起きる確率はそのたびに上昇してるんだよね。いくつかある悪条件の1つでも重ならなければ事故は起きなかった…大事故が起きるといつも言われることだ。
んでなんでそういう悪条件が揃ってしまうかといえば、やっぱ「これぐらい大丈夫だろう」と手を抜くからなんだよね。確かに1つぐらい手を抜いてもたいして危険はない。でもその調子でどんどん手を抜いていくと、いつか事故が起きる。
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おいおい、そんな重大な話と遅刻を一緒くたにするなんてナンセンスだろうと思う人も多いだろう。しかしここが難しいところで、じゃあそもそもなんで守るべき重要事項が守られるか?というと、職場の空気…規律なんだよね。ようするに社員の「守らなきゃいけない」という意識が守らせる。
幸か不幸か、きちんとした職場に勤めてる人たちは、この危うさが実感できない。実感できないのはすごく幸福なこと。規律が保たれていて、それがなぜ保たれているのか考える機会もない。すばらしいことだ。
日本はしばしば他の国よりも安全な国だといわれる。おとしものをしてもきちんと届けられるとか、夜である手もさほど危険ではないとか。でもなんで日本が安全なのか?は住んでる我々にはよくわからないよね。ずっと「そういうもの」だったからそうだとしか。
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会社の規律も同じで、崩れてみないとその大事さがわからない。なぜ維持されていたのか?は、それが崩壊して初めて分かる。やっぱなんというか、どうでもいい些細な事をうるさくいう人間が、そういうものを維持しているのだと思うのだよね…。
そういう人間がいなくなると、だんだんといろんなことが少しずついい加減になっていく。ただ一つ一つは重大なことではないので、誰もストップが出来ない。「なんか最近、いろいろいいかげんになってね?」と自覚はあるものの、流れを止められない。
なぜか?それは他ならぬ自分が「その程度のこと、うるさく言わなくてもいいじゃん」と否定していたことだから。「その程度のこと」という認識なので、因果関係が結びつかないんだよね。
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やっぱ人間は都合よく考えるもので、これぐらいなら大丈夫というのが、徐々にエスカレートしていくものだ。「あいつもいい加減なんだから、自分もいい加減でいい」と。「あれが許されるなら、これも許されるだろう」と。
むろんそういうことをきちんと考慮した上で、不必要に厳しい規律を緩めることは否定しない。俺だってゆるい方がいい(笑)。ただ、そういうさじ加減というのは、やってみないと分からない部分が大きいと思うのだよね。
ネットで「物分かりがいい」人を演じている人というのは、イッチャなんだけど、そういう経験がない人が多いのではなかろうか。規律を維持する側に回ったことのない人間。規律がなぜ重要か実感する機会が(幸か不幸か)これまでなかった人間。
現状のすべての職場の規律が適切なレベルだとはいわないけど、やっぱどれぐらいまでなら大丈夫というさじ加減を肌で知ったことのない人間が、「これぐらい、そんなにうるさくしなくても大丈夫だろう」と判断することが、本当に安全なんですかね。というかどの辺の「これぐらいなら大丈夫」という根拠があるのか。
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これまで述べてきたように、人間の行動や心理は複雑で、その中で絶対守らなければならない一線を維持する方法というのは、かなり間接的で曖昧な方法に依存している。まさに「職場の空気(規律)」としか表現できないものに。
そうしたことを考えた上で「これぐらいはOK、此処から先はNG」と持論を展開してるのか、単に何も考えずに、その事柄の是非だけを単純にOKかNGかを判断してるのか。後者なら非常に危険。
戦争につながるような事柄は、かなり手前で拒絶反応を起こすよね。1つ揺すると歯止めがかからず、どんどん戦争に邁進していく、と。全肯定はしないけど全否定もしない。歯止めはかなり手前にあった方がいいのは確か。なのになぜ職場の規律のことについては、開戦直前ぐらいまで物分かりがいいんでしょうかね。
本気で「絶対超えてはいけない一線」は維持しようとする責任のある発言なんでしょうかね。なんか「本気でやばいことになりそうなら、誰かが止めてくれるだろう」という甘い考えじゃないんですかね。子供ってそんな感じだよね。「本当に危険なら大人が止めるだろう」と、怒られるまで突っ走る。自力で適切な判断をすることを放棄してる。
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「割れ窓理論」とかみんな知ってるよね。でもせっかくの知識も、自分にとって都合が悪い状況では忘れてしまうらしい(苦笑)。絶対重要な事はしっかりやるって?上述のように「絶対」の境界は曖昧なんだよ。一つ一つは致命的でない原因の積み重ねが、破局をもたらす。だから「絶対に重要」なんてものは存在しない。
薄っぺらい合理性では手に負えないほど人間の心理・社会は複雑。なのにどうしても合理性を持ち出すなら、一つ一つ細かく決めるしかない。理屈で対抗すればその分理屈(ルール)が増えていくだけ。それは結果的に自由度を減らす。それでいいんですかね。なんかそういうものが理解できず、単に年長者が威張るために考えだしたルールだと思ってる人が少なくないが。
職場の規律が乱れて取り返しの付かないことになったら、きっとどこかから誰かがやってきて立てなおしてくれるだろう、だからそれまでは俺達はできるだけ自由にやるんだと、ガキみたいに甘えてるんじゃないですかね。
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合理性について少し補足。彼ら(物分りの良いタイプ)が持ち出す合理性というのは、浅いんだよね。合理性に深いとか浅いとかあるのか?と覆うかもしれないが、もちろんある。
たとえば物体の運動。質量とか加速度とかは計算できても、空気抵抗は簡単には計算では求められない。計算できるようになったのはコンピュータシミュレーションが発達したつい最近のこと。だからそれまで経験的と勘に頼っていた。あとは風洞実験とか。
んでそういう「経験と勘」の部分を合理的でないと取り除いてしまったら、逆におかしくなってしまうよね。本当に合理性を追求するならコンピュータシミュレーションするしかない。膨大な計算が必要だからコンピュータがない時代は無理だった。
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人間の心理や社会も、いまの人間の知識では「合理的」には計算出来ない部分があるわけだ。それは経験と勘に頼るしかない。遠い未来には人間の心理もコンピュータシミュレーションできるようなってるかもしれないが、そこまで辿り着いて始めて合理性が完結する。
現状は非合理な部分が残ってるのは仕方ないこと。伝統や因習、経験則というのはそういう部分をカバーしているわけで、打ち破らなければならないものもあるが、安易に「非合理だから」と軽視すべきものでもない。
本当の合理性を知らないうすっぺらな合理性というのはそういうものだ。現段階で合理的に扱えないものを単に除外すれば合理的になったと思い込むような考え。「合理性」という言葉を思考停止を正当化するために使うのはやめてほしいものだ。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年05月23日時点のものです。
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