学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界

今回は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

■学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界(中部大学教授 武田邦彦)
ある読者の方から、「どうしてそんなに小保方さんを擁護するのか」、「武田の言い方が単なる擁護から共同研究者などへの批判へと変わっている」、さらに「武田は小保方さんのパトロンではないか」とのメールをいただきました。

ご返事は出しておきましたが、この読者の方が錯覚されるのは無理からぬことです。私が科学の教育をしてきて、矛盾を感じ、悩んできたことそのものだからです。

日本の大学の理科系の学部では、4年になると「卒業研究」で各研究室に配属になります。サボりの学生もいますが、結構、熱心に研究をする学生も多いのが事実です。

ところが、真面目な学生ほど、一つの特徴があります。それは「自分」と「他人」を区別することです。最初の症状は、レポートを書くときに「自分のデータ」だけを使って書こうとします。同じ研究室ですから、類似のデータを研究室の別の学生も測定していて、それを加えたほうがはるかに前に進むのに、どうしても「自分」にこだわるのです。

そんな学生は「自分」にこだわるがゆえに、実験も良くするのですが、自分にこだわるのです。

武田「なぜ、自分のデータでなければいけないのだ?」

学生「だって・・・・」

学生は、小さいころから、「自分のことは自分でやりなさい」、「人のものを盗んではいけません」、「他人のものは他人のもの」、「汚いことをしてはいけません」などと言われてきて、正直に自分の力で生きてきたのでしょう。だから「自分」にこだわっているのです。

現世の社会は、全てのものが「誰かの所有物」です。国土、自分が住む土地、家、家の中のもの、すべて「所有者」がいます。食べる時にもお金を払わなければなりませんし、電車も切符が必要です。すべてのものは「所有者」が決まっていて、もしそれをもらう場合はお金などが必要なのは当然の社会で生活をしています。

でも、学問は違います。もともと、人間の「知、情、体」から生まれる「知、芸、武」は人類共通の財産でした(武とはスポーツのこと)。学問、芸術、スポーツは誰に所属することもなく、所有者もいなかったのです。

それが、18世紀になって例外を設けることにしました。一つは「著作権」、もう一つが「工業所有権」です。これらは所有権ですが、厳重な制限があります。著作物というのは、「誰かが書いたもの」ではなく、著作権法で「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」とされていて、権利として認められるには次の事項をすべて満たしていることが必要です。

(1) 「思想又は感情」に基づいているもの(単なるデータは対象外)

(2) 思想又は感情を「表現したもの」(アイデア等は対象外)

(3) 思想又は感情を「創作的」に表現したもの(「事実」は対象外)

(4) 「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」に属するもの(工業製品等は対象外)

また「工業所有権」は自分が権利にしたい範囲を明確に示し、特許庁に申請して認められたものに限定されます。これも「書いたから」とか「出版したから」という理由では権利はありません。

つまり、現在でも「人間の知恵の産物」のうち、単なるデータや、アイディア、思想や感情を表現したもの以外、学術など以外は、「誰が実験しても、誰が書いたり、出版したりしても」なんの制約もなく共通に使用しても良いのです。

また、著作権法第32条には、「公表された著作物は、引用して利用することができる・・・」とあり、引用元を示さなければならないのは、「著作物」に限定されるので、思想や感情に基づかないものは引用も必要がありません。

私はこの制限をとても誇りに思ってきました。つまり、科学は人間にとってとても大切なものだから、その成果は「人類共通の財産」であり、所有権などの世俗の権利とは違う神聖なものだ・・・それが私が科学に人生をかけた大きな理由だったのです。

スポーツの感動が人類共通の財産であり、オリンピックは勝つためではないというクーベルタン男爵の思想と同じです。

だから私自身は、世の中にあるもので「思想や感情に基づかず、創作でもなく、特許も申請されていないもの」については「所属なし」で、自由に使い、引用もしないのを原則としてきました。自分の著作物も同じです。

でも、世の中には科学を「お金儲け、収入、名誉、地位、所有物」のためにやっている人がいて、その人たちからクレームが来るので、面倒だから引用したり、使用したりをしないようにしてきましたが、私には苦痛でした。

この世には、世俗的なことも必要だが、崇高なものが残されていても良いというのが私の考えです。そして現実に法令でも残っているのです。ただ、法令に違反して科学の利権を主張する不届きものが多い(圧倒的)というのが残念です。

でも、マックスウェルは20世紀初頭(100年ほど前)、「学問が世俗にまみれてしまった」と書いています(「職業としての学問」(岩波文庫))

これをストレートに学生に教えると、学生は戸惑います。その理由は、

1) あまりにも常識に反する(世俗社会と違いすぎる)、

2) これまで教えられた世俗社会の道徳と違う(潔くない)、

3) 他人に罵倒されるのが嫌だ(学生にあるまじきと言われる)

ということで、学生はせっかく崇高な科学の道に進んだのに、世俗にまみれてしまうのです。

科学の成果は、お金でも名誉にも関係なく、発見発明した人の所有物でもなく、人類共通の財産だ。それをよく著作権法、知的財産という特殊な分野を作り、一般的な知の自由を守ってくれたというのが私の感謝の気持ちで、それを支えに私は学問をやってきました。

・・・・・・・・

かくして、私が「科学の世界では「自分」はないよ。私たちは自然に対して小さな存在だ。だから、自分のデータと他人のデータを区別するような力はない。全力を尽くして人類がもっている知識をすべて使い、ベストな考察をしてくれ」と言うと、学生はあまりのカルチャーの差にキョトンとしています。

そしてもし学生が私の言葉を理解して、自分と他人の区別をしないようになると素晴らしい科学者になるのですが、同時に激しくバッシングされます。だから学生に間違ったことを少し教えます。

今回のSTAP論文の誤解のほとんどは、社会が科学を利権レベルに引き摺り下ろそうとしていることに原因があると感じられます。残念でたまりません。

執筆:この記事は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2014年04月02日時点のものです。

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