今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■オウム事件は社会からの排除から起きた?
その通りです。他者を排斥する様な社会からは、第二第三のオウム、麻原が生まれかねません。僕らは過去から学ぶことが出来る。そのためには対話が必要なんです。 “@xxx そういう人達の事をもっと理解していければ同じ過ちを繰り返さないような気がします。”2014年03月13日 『Twitter』
http://twitter.com/hbkr/status/444182106189488128
まあ家入一真の「他者を排除しない」考え方には、俺も一部敬服するが、そうすれば何でもかんでも社会問題がなくなるとかありえないだろう。
そもそもオウム真理教事件は他者の排除によって起きたわけではない。事件後は確かにオウム信者は社会から排除される傾向があるのは否定できないが、それはあくまで事件が起きた後のこと。
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ではなぜオウム事件が起きたか?それは人間なら誰でも持っている「自分(たち)は特別だ」という自尊心。宗教、特に新興宗教は人間のそういう部分を利用する。「○○を信じている自分たちだけは救われる」という考え。いわゆる中二病ではあるけど、それはそういう思考が思春期にピークに達するだけで、人間は誰しも持っている。
当時オウム信者が社会から排除された人々という傾向はなかったと思うね。1995年の社会を今の感覚で考えるべきではない。そもそも社会的弱者、社会から阻害されたもの、が注目され始めたのも、そんなにむかしのことではないだろう。たぶん小泉改革の頃まではその傾向はなかった。リーマンショック以降。
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オウム信者は社会から排除された人間が集まったのではなく、彼ら自身が既存の社会を振りきって、「新たな何か」を求めたため。空中浮遊とか神秘主義をね。そもそも地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年だが、勢力拡大していったのはもっと前であり、まあ日本の景気が良かった頃だ。初期の「オウム神仙の会」は1984年だし。まだバブルの頃。
なんども言うけれど彼らは社会から排除されたのではない。彼らが社会に見切りをつけた。むしろ彼らが一般社会を排除したのだ。彼らはマイナスから逃れるためにオウム真理教に逃げ込んだのではなく、プラスアルファを求めて集ったのだ。人間というのは自然と固まるものだ。排除するとかされるとか、そういうものではない。
フリーターという言葉もバブルの頃といまでは意味が変わってしまった。1980年代は、定職に就こうと思えばいつでも就けるところを、あえてアルバイトなどを選択し自由を満喫するという生き方だった。それが若者にとってかっこいい生き方だった。いまのフリーターというのは定職に就きたくても就けない若者という意味が強いよね。
そもそも宗教が弱者救済システムとして機能してるなら、弱者ビジネスなど成立する余地もないはず。宗教というのは、少なくとも現代の日本では、贅沢品なのだと思うね。恵まれない人間が救済を求めるのではなく、満ち足りた人間がさらなる充実感を求めるものだ。
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ということで、オウム真理教事件を今の時代の時代の感覚で捉えると間違うと思うけどね。そもそも似た思想の人間が集まるというのは悪いことじゃないはず。結果的に彼らは重大な事件を起こしてしまったが、それはまた別なところに原因がある。
異なる思想の人間と別け隔てなく付き合う社会であれば、事件が起きなかったかといえば、違うだろう。むしろ彼らが目指した、既存の社会の否定と新しい社会の建設というのは、いまの弱者ビジネスと共通するものがあるかもね。その意味では相性が良いのかもしれない。
まあ新しい社会の建設を目指すこと自体は悪いことじゃないが、新興宗教というのは危機感をモチベーションにして結束を図っていることが多いから、マッチポンプになりやすい。新しい社会の建設なんて一朝一夕にはできないわけで、その間どう信者のモチベーションを維持し続けるか?で自滅する。100年とか200年とかかけて、自分は恩恵を得られないけど、それでも未来の為に尽くしたいというのでないと。
執筆:この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年03月26日時点のものです。
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