今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■直感と証明
「思考を言語化する」 2013年06月29日 『ガジェット通信』
http://getnews.jp/archives/367166
良い記事だ。俺も似たようなテーマで過去いくつかエントリを書いている。思考を言葉(文字)にすることは大事。文字にすることで、自分の思考が自覚(チェック)できる。
とはいえ俺は子供の頃、まったく逆だった。算数の問題でも答えはあってるのだが式がデタラメ。イコールの使い方がめちゃくちゃで、先生によく怒られたものだ。
子供の頃、俺はずっと思ってたんだよね。頭のなかでちゃんと考えて答えは出せてるんだから、計算手順なんてどうでもいいじゃないか。なんでそんなことにこだわるんだ、と。
だからそもそも直す気がないから、全然直らない(笑)。
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小学校の算数って、4年生~5年生あたりで変わると思うのだよね。それまでは直感重視。数式ではなく何か身近なものに例えて、「ほら、こうでしょう」「なるほど、たしかにそうだ」という教え方をする。
ところが分数とかが出てくる頃に、思考の転換に迫られる。分数の割り算とか直感では処理できない。式の機械的な変形、思考の形式化が求められる。ここでこの切替に失敗した生徒が最初に脱落者になる。
世の母親とかが理想とする教育というのは「直感で納得できる」教育なんだよね。確かに「なるほどそうか!」という満足感がある。しかしそれは小学校低学年の頃はいいが、それ以上だと行き詰まる。
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俺の場合考え方が変わったのは中学で「証明」というものを習った時だろうか。最初意味がわからなかった。「当たり前のことをなんで示さなきゃならないの?」と(苦笑)。
でも、まあ言われるままに証明問題を解いていると、なぜか面白くなってきた。「大事さ」に気づいたわけではなくて、「面白さ」に気づいた。
ピタゴラスの定理とか、いろんな証明方法があると聞き、あちこちの本からかき集めたものだ。証明方法のコレクション(大笑)。パラドクスとかに興味を持ったのもその頃だろうか。「1=2 ???」
結局、小学生の頃、いくら親や先生に言われてもどこ吹く風だった「式の変形の手順」が、いつの間にか身についていたのだと思う。
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ただ他の思考については、ずっと小学生のままだったように思う。説明が苦手。というかなぜ説明が必要なのかわからない。自分にとっては「当たり前」のことなので、理由を問われても「当たり前じゃん」としか(ry
これは相当あとまで続き、まあ年齢とともに処世術的&表面的には、やるようになったのだけど、心の底では納得していなかった。表面的に取り繕ってるだけだから、身が入らず、きっと俺の説明を聞いている相手も、「こいつまともな説明ができないやつだな」と思っていたに違いない。そのとおりだよ!!!
基本的に世の中には「正しい説明」というものが存在し、それは教科書とか立派な本に書いてあることで、ようはそれを丸暗記してしゃべることを要求されているのだと、思ってたのだよね。だから「そんなの教科書を読めばいいじゃん」と。「そんなの俺の考えじゃねー」と。いやはや、絵に描いたような青春。
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考え方がちょっとずつ変わってきたのは、オカルト(疑似科学)を通して。この手の論争だと「正解」がない。正解が書いてある本がない。いままで教科書頼みだった俺としては、おおいに困ったわけだ。
「この本にこう書いてある!」と言っても、相手は反論を持ち出してくる。で、また本を調べるのだが、だんだん書いてあることが本によってまちまちになってくる。本だけでは頼りにならない…。
で、そこで初めて「人間」に目を向けた。俺よりも上手く論争している人たちがいる。俺にはどこから手をつけていいかわからないような、いろんなことがごちゃごちゃになっている話(つまり直感だけじゃ処理できない話)を、彼らは着々と整理していく。で、彼らがどうやっているか観察するようになった。そこではじめて「思考過程」というものを意識したように思う。
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それまで俺は本に書いてあることを読んで、受け売りをしゃべっているだけで、自分では思考していなかった。知識はそれなりに役に立つけれど、それだけでは目の前の現在進行形の問題を解決できない。自分が「思考」していないことにようやく気づいた。なんで気づけたのかといえば、それが必要になったからだ。
もちろんそれまでも必要だったのだろうけど、俺は気づかなかったし、それでなんとかなっていた。おそらく俺の周りの人間がフォローしてくれていたからなんとかなっていたのだろ。俺が「そんなの当たり前じゃん」と放棄した説明を、俺が知らない所で誰かが俺に代わって説明してくれていたのだろう。
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思考というものを意識しだしてからは、逆にそれが面白くなった。中学で証明問題の面白さに目覚めた時と同じだ。できれば中学の頃に思考の面白さにも気づいていればと思う。
やっぱ「必要」になる状況に直面しないと、気づかないのだろう。必要というのは、本の知識では解けない問題、自分で考えないと解決できない問題に直面させることなのだろう。
学校でも討論のまね事みたい授業は少しはあったけれど、いま思うと「ぬるい」。みんなでそれぞれ自分の思った意見を言いましょう、みたいな。それじゃ思考の必要性を感じることはできない。まじめに論争しないと。そして手本になる上手な人が必要。
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みんな自分と同じレベルなら、それでいいと思っちゃうんだよね。あの人は上手に反論できるのに、なんで俺はできないのか?あの人と俺はなにが違うんだ?と自覚することが、スタートラインになる。中学の頃、スタートラインに一度も立たなかった。そもそもそんなスタートラインが存在することすら気づかなかった。
中学時代にも思考が上手な人はいたのだろう。でも俺はそういう奴らを「先生のウケがいい、優等生」ぐらいにしか思ってなかった(笑)。きっと期待されること(つまり本に書いてあるようなこと)をしゃべっているだけだと思っていた。
まあ、そういう奴もいただろうけど、俺たちの代表として先生側と交渉したりできた奴もいた。それは教科書の暗記だけじゃできないよね、今ならそれがわかるが、当時はわからなかった(苦笑)。
スポーツとかだと上手な人を手本にして真似をしながら上達するのに、思考については誰も「上手な人の真似をしろ」と教えてくれなかったように思う。「自分で考えろ」とはさんざん言われたけど。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年07月01日時点のものです。
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