今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■続々・「面白さ」とはなにか
人は自分の予測能力をトレーニングするために、作品を楽しむ。それがこれまで述べてきたことだ。しかしどう考えてもそこから学ぶものがないような作品も、人は面白がる。たとえば「はじめてのおつかい」などはどうだろうか。
はじめてのおつかいというのは承知のように小さな子供に、お使いを頼んで、その様子をテレビカメラで追いながら見守る番組だ。紆余曲折を乗り越えて、目的を果たして子供が我が家にたどり着くところが感動を呼ぶ。
しかしいい大人がこれを見て、自分の予測能力の参考になるだろうか?
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おそらくこれは別な本能に属する楽しみなのだろう。それは子供を育て教育する本能。動物でも親が子供に狩りの仕方を教えるようだ。
ゲームでも誰かが危なっかしいプレイをしていると、つい口や手を出したくなる。人間は他人に教えたがる本能を持っているのだろう。幼稚園児でさえ、他人に手本を見せたがる。
他人に教えたがる本能と自分が学びたがる本能というのは、おそらく中核部分は同じもので、他者をシミュレーションする部分と、自己をシミュレーションする部分があり、両者を一致させたいという欲求があるのだろう。その結果、自己の方を変えることになると「学習」になり、他者の方を変えることになると「教育」になる。
2つのシミュレーションを一致させようとする欲求は、単独の学習でも働いていると思われる。目標やあるべき姿をシミュレーションする一方で、現状の自分もシミュレーションする。両者のギャップを埋めようとするわけだ。そう考えると、他者への教育というのは、他者と自己の同一視と考えてもいいのかもしれない。自己と他者を内包したメタ自己の学習なのだ。よく「感情移入」と表現されるものもこれであろう。
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テレビ番組の場合、情報が一方通行だから、視聴者は画面の中の子供を教育できない。しかし本能が呼び覚まされ、あたかもそれができるかのように錯覚して、ハラハラとするわけだ。「ああ、そっちへ行っちゃダメだ」とか。そもそもリアルタイムですらなく、録画なのにね(笑)。
「可愛い」という感情も、この「他者を教育したがる」という本能から派生したものなのかもしれない。「支配」というのもこの延長線上にあるように思う。人は単に自分が物質的に利益を得るために他人を支配するのではない。本能がそれを求めるのだ。何かの目的のための手段ではなく、それ自体が目的(本能)。しかもかなり優先順位が高い。名誉欲などはこの派生に過ぎないであろう。知識欲と名誉欲は同源なのだ。
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これをひっくり返せば「嫌い」も定義できる。物理的に自分に危害や損害を与える対象を嫌うのは当然だが、そうでなくても人はさまざまな物を嫌う。たとえば作品中の登場人物は、いくら頑張った所でリアル世界の住人である我々に危害を与えることはできない。しかし我々はそういった架空の世界の登場人物も嫌う。リアル世界の人間同士も、とりたてて互いに損害を与えるわけではないのに、嫌い合う。
嫌うというのは、2つのシミュレーションを一致させる試みに失敗したことを意味する。教育も学習も失敗した状態を「ウマが合わない」というのだ。そうなると一致させる試みを中断しなければならないが、この機能は脳の中で勝手に働いてしまう。相手の言動に関する情報が入ってくる限り、それは続き、失敗し続ける。そうなると情報をシャットアウトするしかない。遠ざけるわけだ。
極端な前提条件をつければ、シミュレーションの一致に成功することもある。こういう状況ならこういう行動をとっても仕方ない、と。相手を深く知るということはそういうことなのだろう。そして一致に成功したことで、少し「好き」になれるわけだ。フィクションの舞台が非日常なものが多いのも、そういう効果を狙ってのことだろう。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年02月21日時点のものです。
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