「心配でたまらない」娘を奪われそうになる母の葛藤
引っ越しの秋が過ぎ、大堰の別荘に冬がやってきました。山里の冬は一段ともの寂しい風情。源氏も「ここはあまりに寂しすぎる。二条に来て近くで暮らそう」というのですが、明石はやっぱりウンと言わない。(お側に行けば辛いことも、がっかりすることも多いだろう)と思えるからでした。
源氏もこっちへ来るのはせいぜい月2回。更に、行く前も帰った後も、紫の上のご機嫌取りに終始しないといけないことも含めると、かなり大変な二重生活といえます。初回は友達が強引に割り込んで来たとは言え、予定をオーバーして帰った挙句、宮中での宿直までパスする始末。
大臣になり、今までのような女性巡りが難しくなったからこそ二条東院を建てたのに、明石は素直に移ってきてくれない。ある程度は仕方ないとは言え、こんなことが長く続けば、源氏のワーク・ライフ・バランスにも影響が出そうです。
「それなら、姫のことだけでも。紫の上が姫に会いたがっていてね。あちらで袴着(はかまぎ)の式をさせようと思う。姫をおろそかにはしない。いつまでもここに置くのはもったいないよ」。
袴着は子どもの成長を祈るお祝いで、現在の七五三の前身です。当時は年齢や時期は確定しておらず、3~7歳頃に吉日を選んで行ったようです。正妻格の紫の上を養母とし、袴着をきちんと行うことで、世間からもちい姫が源氏の正式な娘として扱われるようになります。
明石は予想していたことながら、いざ源氏の口から言われると胸が潰れそうです。「立派な方のご養女にして頂いたとしても……」と、いろいろ理由を探して避けようとします。
「姫が継母にいじめられるんじゃないか、という心配はいらないよ。紫の上は子どもが好きなのに、まだできないのを残念がっていてね。養女の斎宮女御とは歳も違わないのに世話を焼いているくらいなんだ。まして、こんな愛らしい子をみたらどれほど可愛がるだろう。彼女の性格は私が保証するよ」。源氏は太鼓判を押します。
昔は遊びならした光源氏も、紫の上と一緒になってからは落ち着いたという噂は明石もよく知っています。(紫の上は、容姿も人柄も誰よりも優れた方なのだろう。自分は何ほどのものでもないが、近くに行けば不快がられるかも。それなら、姫だけを物心づかぬ内に預けたほうがいいかもしれない)残念ながら、上京しなくてもすでに十分目をつけられているのですが…。
しかし、自分の娘を継母に渡すという重大問題を簡単には決められない。「離れ離れになったら心配でたまらない。姫がいない毎日をどう生きていけばいいのだろう。それに、姫が居なくなった淋しいこの別荘に、源氏も来てくれなくなるかもしれない…」。明石の心の中は大いに揺れ動きます。
「正しい決断を」頼りになるお母さんからの名アドバイス
源氏への返事を保留し、苦悩し続ける明石にアドバイスを与えたのは、母親の尼君でした。「辛いだろうけれど、姫のために正しい決断をなさい。源氏の君のお申し出は深いお考えがあってのこと。あの方だって母君のご身分が一因で、臣籍降下なさっているのよ。皇族の方でさえそうなのだから、まして我々はどうなることか。
今後、身分の高い夫人から女の子が生まれないとも限りません。そうなったら、ちい姫は隅に追いやられてしまう。袴着も、こんな山の中でやったところで何の栄えもありません。然るべきところでお披露目し、姫が世間からも尊重されることが大切なの」。
娘の悩みを理解しつつも、冷静で賢明な助言をしてくれるお母さん。なんて頼もしい存在。それでも明石は納得がいかなかったのか、セカンドオピニオンを求めるかのように、占い師や賢者と呼ばれる人を当たって相談をしています。でも、誰に聞いても答えは「姫は二条に移る方が良い」。結局は諦めるのですが、明石らしからぬ行動からも必死さが伝わってきます。
そうこうするうち12月(旧暦)に入りました。雪やみぞれの日も増え、庭には氷も張る山里の師走。別れの日を目前に、明石は白い衣を幾重にも重ねた格好で凍てついた庭を眺め、思い沈みながら姫の頭をしみじみとなでていました。
源氏物語の女性たちにはテーマカラーのようなものがあるのですが、紫の上が濃いピンク~赤紫系だとすると、明石の色は断然”白”。聡明でプライド高く洗練された、孤高な明石のイメージなのでしょう。冬景色の中、白い衣で佇む彼女の覚悟のようなものが感じられます。
出来ることならドタキャンしたい!母子最後の抱っこと別れ
姫を迎えるため、源氏は大堰を訪れました。別れを目前に「私次第なんだから、今ここで、やっぱり嫌ですといえば無理に連れて行かれないだろう」との思いが脳裏をかすめ、またすぐ「やっぱりここまで来てそんなことは言えない」と思いとどまります。出来ることならドタキャンしたい。源氏もちい姫を見て「こんな可愛い子を手放すのだ、悩むのも無理はない」と、まずは明石を一晩中なだめます。
翌朝、ちい姫はなにもわからず、パパと車でお出かけだとはしゃいでいます。明石は姫を自ら抱っこして車寄せまで出てきます。今では母親が子供を抱っこして歩くのはごくごく普通のことですが、乳母がいるような立場の人が、子供を抱いて歩いて出てくるというのは特別なこと。これが母子の最後の抱っこなのです。
可愛い声でたどたどしく「乗って、乗って」と袖を引っ張る姫。明石はもうたまらなくなって「姫に今度会えるのはいつかしら……」と言い終わらないうちに泣き崩れます。姫と乳母、女房たちを乗せた牛車は二条院へ。明石にとっては友人同然だった乳母との別れも淋しいものがありました。
源氏は「どうか気を長く持って、必ず一緒に暮らせる日がやってくる」と慰めるのが精一杯。自分も二条院に引き上げます。道中「母子を引き裂く悲しみを作り出して、仏罰に値するのでは」と自責の念に駆られます。まあ、源氏=カルマみたいなものなので、今更仏罰を意識してもしょうがないですが。
筆者が源氏物語を最初に読んで衝撃を受けたシーンはいくつかあるのですが、この”母子を無理やり引き離してまで、栄達を願う貴族の世界”というのにも大変ショックを受けました。
まだ中学生だったので、現代人の自分の家族の感覚からしてもよくわからず、「本当に貴族ってのはなんて奴らなんだろう、そんなことまでして栄華を手にしたいのかよ!」と怒ったのを覚えています。(『ベルサイユのばら』で、ポリニャック伯夫人が死んだ娘の替え玉に、ロザリーを引き取った時もそう思いました。)
明石一家も源氏も、目指すゴールは”ちい姫が美しく成人し、後宮入りして皇子(皇太子)を生む”こと。問題があるとすれば、実母の身分が低いというただ一点のみ(あと、素直に近くに来ないのも多少問題)。そのためだけに母子は引き裂かれ、継母に育てられなければならないのです。
最後の最後まで悩み抜き、ついに泣き崩れる明石の絶望は、どの時代のどの国の人にも伝わる普遍的な悲しみであると思います。そして改めて、貴族なんぞに生まれてなくて本当に良かったと思ってしまいます。
寝ぼけて目覚め母を探す幼子、リアルで痛々しい思い出し泣き
一行は暗くなってから二条院に到着。もう日も暮れたと言うのに、二条院は煌々と明かりが灯され、キラキラ輝いています。あまりの華やかさに乳母達は気後れし、牛車から降りるのをためらうほどでした。
ちい姫のお部屋には可愛いお道具が一式揃えられ、乳母たちの部屋も用意されていました。姫は車の中で寝てしまい、抱き降ろされて目が覚めても泣かない。しばらく紫の上からお菓子をもらって食べていましたが、お母さんがいないことに気が付いて不安そうに泣き始めます。最初ちょっと寝ぼけてたあたりがリアルで切ない。
姫の思い出し泣きはしばらく続いたものの、だんだん紫の上に馴染んで落ち着いていきます。原文では紫の上が「可愛らしい子を預かった」と感じ、抱いてあやして夢中になって世話をしたことが書かれていますが、明石が主役の回とはいえ、彼女の描写に比べるとずいぶん浅いというか、単純です。
マンガ版源氏物語の『あさきゆめみし』では、そのアンバランスさを埋めるように、泣きじゃくる姫を抱き上げた紫の上のモノローグが追加されています。
「明石の方はこんなあいらしいもの…いとおしいものを手放されたのだ…!ああ わたくしはなんと なんという思いやりのない女だったろう… わたくしは自分の気持ちばかり考えて…すこしもあの方のお心を思いやったことがなかった… どんなに苦しんで…どんなにつらい気持ちで…血を分けた我が子をわたくしに……!」。
本来、これくらいあってもいいんじゃないか、と思えるナイスフォロー。そして明石の涙と悲しみを無駄にすまいと、姫を立派に育て上げると決意するところでおしまい。母子別れという悲劇のカタルシスは、少年漫画のヒーローのようでもあります。個人的に『あさきゆめみし』ならではのいいシーンの一つだと思います。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
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(執筆者: 相澤マイコ) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか
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