秋はなにもなくても物悲しく寂しいもの。それでも、秋の澄んだ美しい情景の中だからこそ美しい風景、というものもありますよね。今回は秋の絶景の中で最上の別れを惜しむエピソードを紹介します。
紫の上と結婚後も続く、ポスト正妻争い
可愛い紫の君が妻・紫の上となってから約1年。この間、源氏は彼女を厚遇しますが、別にたくさん正妻がいてもいい時代。葵の上亡き後、源氏が誰と再婚するのかが非常に注目されていました。
まず、朧月夜。彼女は花宴で源氏と関係を持ち、今もしっかり続いています。キズモノになったということで、表向きには正式な妃である『女御』ではなく、御匣殿(帝のご衣装を整える女官)の役職を賜っていました。
父親の右大臣と姉の太后も二人の仲を知っているので、右大臣は「どうだろう。葵の上も亡くなったし、六の君(朧月夜)が源氏を好きなら、結婚させてやっては」。
太后はこれにムカついて「甘いことを仰ってはいけません。宮仕えも徐々に地位が上がればいいのです。はやく後宮入りを」。
自分の夢を次々にぶち壊す源氏が憎い!そもそも葵の上だって、息子の朱雀帝の妃にしようと思って申し込んでいたのに、源氏に横取りされたし…と、太后の怒りは収まりません。
仮に結婚しても、朧月夜の性格では結婚に興味がなさそう。この縁談も夢と消えます。
もう一人は六条。彼女こそ源氏と付き合いが長く、結婚するのにふさわしい。世間は本命視していますが、2人の間には生霊という暗い溝が…。源氏は「あの人との結婚は重すぎる」、六条も「私は彼に絶対に選ばれない。伊勢へ行こう、未練を断ち切ろう」。
斎宮の潔斎も終わりに近づき、いよいよ伊勢への旅立ちの日が近づいてきます。源氏も重い腰を上げ、一度も行かなかった六条の仮住まい、嵯峨・野宮へ足を向けました。
「神聖な場所なのに…」ためらいつつ再会する恋人たち
ずっと手紙だけだったのに、ついに彼が来るという…。神聖な場所で男性を迎え入れるのはどう思われるだろうか、など色々と悩みますが、やっぱり源氏と会えるのは嬉しく「御簾越しに話すなら」と言い訳して、心待ちにしていました。
源氏はお供も少なくし、馬で野を駆け、野宮へ。秋の草はもう枯れ果て、微かに聞こえる虫の音も寂しく、松を渡る風だけが響き渡ります。そこにかすかに交じるのが、六条が演奏する楽器の音色。なんとも情趣溢れる様子です。
野宮は簡素ながら、黒木でできた鳥居も神々しく、俗世間の人間が紛れ込むのが遠慮されるような場所でした。神職の姿がちらほらと見えます。こんなひっそりとした空間に、あの繊細な人が何ヶ月もいたのかと思うと、さすがに痛ましい気持ちになります。
訪問の挨拶を取り次がせるものの、六条本人はなかなか出てきません。「今更よそよそしい扱いをしないでください。直にお話したいことが山ほどあるのです」。六条の女房たちも同情して、出てくるように促します。
六条は彼を招じ入れていいのか迷い、ここは娘が潔斎する聖域なのに…とため息を付きながら、そっと奥から出てきました。月明かりに照らされた彼の姿はこの上なく美しく、久しぶりに見るとまばゆいほどです。源氏は御簾の下から榊の枝を差し入れます。
「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」「少女子があたりと思へば榊葉の 香をなつかしみとめてこそ折れ」。どう間違えてここへ、とたしなめる六条と、でもこの場所だからやって来たんだ、という源氏。
厳かな雰囲気に圧倒されつつ、源氏の上半身は既に室内に入り込んでいます。上弦の月が明るい夕べのことでした。
最後の夜、筆舌に尽くしがたい2人の別れ
彼女の方が源氏に夢中だった時、源氏はよそ見ばかりして、顧みようとしなかった。例の生霊の件があってからは、ますます心は冷めていき、もうやりなおせない…。でも久しぶりにこうして逢えば、出会った頃の気持ちが蘇ります。
「自分はまだこの人のことが好きだ。でももう彼女は遠くへ行ってしまう」。源氏は思い余って泣き出します。六条も努めて抑えつつ、流れる涙を止められません。
行くんだったら行けばいい、なんて突っ張った言い方をしていたのもどこへやら。「やっぱり、伊勢になんか行かないで下さい」。今や源氏は出立を食い止めようと必死です。
あれだけ疎ましい、おぞましいと思ったのにも関わらず、源氏は彼女に冷たくして別れることはできない。美しいものも醜いものも共有した、割り切ることのできない感情が2人に絡みつきます。
もう月が落ちたらしく、暗い空を眺めながら物思いに耽る源氏。彼の愛が確認でき、六条の恨みも消えていきそうに見えます。でも心配したとおり、逢えば未練がましい気持ちが抑えきれず、心が揺れ動くのも辛いことです。
美しく悲しい秋の夜、最後の一夜を過ごした別れゆく恋人たち。本文では「2人の間でどんなことが話し合われたのか、到底写し取ることはできない」。筆舌に尽くしがたいとはこのことです。
だんだんと夜が明けていく風情も、あまりにもできすぎていて、まるであつらえたかのよう。源氏は別れがたさに、彼女の手を取ったまま暫しためらいます。それでも松虫の切ない声に見送られ、源氏はようやっと帰ります。悔やまれることばかり、辛いことばかりだった、2人の恋はいま終わったのです。
作者は源氏と六条という物語中もっともヘビーな組み合わせに、カタルシスを用意したのでしょうか。彼女が登場して以来、ヒロインとしての彼女が最も美しく、舞台背景もこれでもか!というほど最上のものをあつめてあるのが、このシーンです。
秋の終わりの枯れた野、簡素だが神々しい宮、嗄れた虫の声、彼らの逢瀬を照らし出す上弦の月(月は恋愛シーンに良く登場)。神秘性と背徳感を感じさせる潔斎所での情事。はては明けゆく空までも、2人の別れの情感を高めます。
源氏が神事に欠かせない榊の枝を折る(折る=女性を自分のものにする)アクションや、源氏が最後まで六条の手を取ってなかなか帰っていかない所など、細部までこだわりにこだわった肝いりの演出。
作中ではたくさんの別れが描かれますが、中でも屈指の場面と言えます。筆者も好きな別れのシーンを挙げるとするなら、間違いなくここです。筆者はこのシリーズを書き始めてから、初めて作成中に泣きました。
いよいよ伊勢へ、源氏と朱雀帝の新しいターゲット
源氏からの情のこもった後朝の文を見ても、六条は未練に引きずられそう。でも出立の日はもう変更できません。娘の斎宮は「やっとお母様がその気になって下さった」と無邪気に喜んでいます。
斎宮は14歳、紫の上の1歳下です。多少頼りないとは言え、伊勢の斎宮に母親がついていく、というのは前代未聞。世間ではそのことを避難する声もありました。
桂川でのお祓いの日、源氏は斎宮にも手紙を送ります。「母君との恋路を神に邪魔されるのは納得がゆきません」。斎宮は女官を通じて返信し、「あなたの不誠実なお言葉を、まず神様は糺されるはずですわ」。
なかなかキレのある返事に、源氏は(いい手応えだ。お顔はどんなだろう。チャンスはいくらでもあったのに惜しいことをした)と、早くも下心ありありです。母親とあれだけの別れをしておいて!と思いますが、この辺がとても源氏らしい。
ついに伊勢への出立の日、人びとは世に名高い六条親子を見送ろうと集まります。六条と斎宮はまず内裏に上がり、帝へご挨拶。(16歳で皇太子妃になり、20歳で死別して、今また30歳で再び宮中に入るのだわ…)六条は自分の人生を振り返り、もののあはれを感じます。
帝は斎宮の結い上げた前髪に『別れの御櫛』を差す儀式を行います。14歳の斎宮は清らかに美しく、この日の特別な衣装もまるで天女のよう。帝はその様子に見惚れ、感動のあまり思わず涙ぐむのでした。
伊勢への道中も、源氏は六条を追いかけるように手紙を出し、六条もそれに応えます。濃厚な手紙のやり取りは恋の終わりを歌い上げ、一方では朱雀院と源氏の、若く美しい斎宮をめぐる下心が動いている…というところで、この話が終わります。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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