誰もが認めたくない、自分の中にある負の感情。抑えようとしても抑えきれない思いがある時、私たちは自分の心が思い通りにならない事を痛感します。今回はついに源氏が生霊の正体を見破る、物の怪バイオレンスなエピソードです。
「呪うつもりは…」心と体を離れ、暴れだす魂の姿
正妻・葵の上の苦しみはますますひどくなるばかり。「物の怪は六条や、亡くなった六条の父大臣の霊だ」という噂は本人にも届きます。
「自分の身の上を嘆くことはあれど、他人を呪う気持ちなんてないのに」。どんなひどい目にあっても、相手を呪ったりするなんて……。聡明な六条はそう思っています。
一方で「あの車争いの一件から、ウトウトした時に怪しい夢を見る。思い詰めると魂が抜け出てさまようというのはこういうことだろうか…」
夢の中で、葵の上と思しき女性のもとへ行き、荒々しく叩いたり髪をつかんで引きずり回したり。普段とは全く違う、恐ろしく暴力的な自分。繰り返し繰り返し同じ夢を見ます。
葵の上への恨みつらみを感じつつ、悔し涙を流すことでこらえてきた六条。しかし、抑えつけられた感情は手に負えないものになっていた。
実際に刃物で相手を刺す!とかではなく、あくまでも自分の『生霊』が加害する。六条はそのことに気が付き始めます。
「私はなんと忌まわしい人間になってしまったのか。死んだ人の霊の話はよくあるが、私の源氏を想う気持ちがこんな風になるなんて。これ以上悪い噂を立てられるのは辛い。もう彼のことは想わないようにしよう…」
そう思ってできるものならどんなにいいか!できないから辛いのに…。理性で抑えられないもの、割り切れないものを自覚しつつも、どうにもならないという苦しみ。自分の心のはずなのに、こんなにも思い通りにならないのか。それが嫌というほど語りつくすのが六条という女性です。
葵祭から既に半年が過ぎ、季節は秋。娘の斎宮が伊勢行きの潔斎のため、9月(旧暦)から嵯峨・野々宮に入るので、お付きの人は大忙しなのですが、肝心のお母さんがこんな様子なので心配。源氏は葵の上に付ききりで、手紙だけが届く日々が続いていました。
「一番グッと来る美人の姿」いじらしい妻の姿、しかし…
お産はまだだと皆が油断していた頃、葵の上は急に産気づき、陣痛が始まります。病気平癒と安産祈願のお祈りが激しくなる中、あの物の怪だけは離れません。霊験ある僧侶たちも手を焼いています。
葵の上は苦しみながら「少しゆるめてください、源氏の君にお話が…」。何か遺言があるのだろうかと、女房や両親(左大臣と大宮)も席を外し、夫婦は二人きりに。
几帳をめくってみると、葵の上は美しい顔で、大きなお腹をして横たわっていました。お産用の白い着物を来て、長い髪は真ん中あたりで結わえて横に流しています。
たとえ他人でも心動かさずにはいられないような痛々しい様子。まして夫の源氏は、きちんとしている葵の上しか知らない。「美人はこういう風なのが一番グッと来る」。弱って儚げな美人、想像しただけでもたまらないですね~。
「ひどい人だ。私に辛い思いをさせるんだね」。それ以上は言えず、言葉に詰まる源氏。葵の上はじっと源氏を見つめて、ポロポロと涙を流します。あの鉄仮面のような葵の上が、源氏の前で流した初めての涙。
あまりに彼女が泣くので、源氏は「そんなに悲しまないで。万が一でも、夫婦は来世でも逢えるというし、ご両親ともきっと会えるよ」。最期を予感しているような葵の上を慰めます。
ところが彼女の返事は「いいえ。私は祈祷の力をゆるめてくださいとお願いしたのです。あまりに思い詰めると魂が抜け出て行くというのは本当ね……」
と懐かしげにそういい、「嘆きわび空に乱るるわが魂を 結びとどめよしたがへのつま」。悲嘆に暮れて中有をさまよっている私の魂を、着物の下の褄を結んで戻して下さい。訴える声も顔も、葵の上ではなく、六条のものに移り変わっています。
源氏はゾッとして「あなたは誰だ!はっきり名乗りなさい」と詰め寄ると、ますます六条に見えてきます。生霊の正体が六条だという噂を信じたくなかったけど、ついにはっきりとその正体を見てしまったのです。「ああ、なんてことだ…」。そのおぞましさに寒気がします。
そうこうするうち、葵の上の表情はもとに戻り、一気に出産。男の子でした。源氏にとっては二人目ですが、世間的には源氏の長男ということに(一人目は藤壺の宮との間の皇太子)。彼の名は夕霧。物語中盤~後半の主要キャラとして活躍します。
後産も済み、全員がホッ。僧侶たちはヤレヤレと汗を拭って帰っていき、桐壺院や皇族方、高官の上達部などからも立派な誕生祝いが続々。左大臣家は男子誕生の喜びに包まれます。
魂に染み付いた、洗っても消えない魔除けの香り
「難産だと聞いていたのに、無事に生まれたなんて…」そう思う六条の体には、物の怪調伏の時に焚く、魔除けの護摩の芥子の匂いが染み付いていました。
自分の住まいでは祈祷などしていないので、匂いが移るはずはない。そう思って何度も着替え、髪を洗ってみるのですが、匂いは一向に消えません。
「ああ!やっぱり私は本当に生霊となって葵の上の元へ行っていたのだ」。うすうす気づいていたけれど、消えない匂いは自分が生霊である確かな証拠。
五感の中でも特に感情や記憶と結びつきが強い、嗅覚。フェロモンなどは本能的な部分にダイレクトに作用する匂いですね。源氏物語でも、お香や体臭のかぐわしさが描写されるシーンがありますが、平安時代の人は今よりずっと匂いに敏感だったはずです。
魂という目にも見えず、手にも取れないものに、見聞きできないが確かに感じられるもの、として与えられた”匂い”。紫式部の演出力のすごさに感銘を覚えます。
「目と目でものが言える」夫婦の気持ちが通い合う瞬間
「あれほどはっきり正体を見たからには、もう六条との関係は続けられない…」。源氏は思い出すたび怖気をふるいながら、六条の体面を傷つけないための手紙だけを送っています。もうドン引きもいいとこだよ、という感じ。
お産は済んだものの、葵の上はなかなか快復しない。源氏は付ききりで、息子の夕霧をとても可愛がっています。源氏のDNAは優性遺伝らしく、この子も源氏にソックリで、皇太子に良く似ている。源氏はそちらにも逢いたくてたまらなくなります。
ちょうど、秋の除目(中央官の任命)が行われる日でした。「しばらく宮中にも行っていないので、行ってきます。話したいことはいろいろあるけど、まだ辛そうだから…」。源氏は葵の上のそばに寄り、薬湯を飲ませてあげながら話しかけます。文句ばっかり言っていた夫とは思えない、甲斐甲斐しい行動です。
葵の上は返事をしますが、まだとても頼りない様子。あるかなきかの可憐さで横たわり、美しい黒髪がはらはらと枕にかかっているのもなんとも言えず魅力的です。源氏はあらためて「どうしてこの人に愛情を抱かずにいたんだろう」と、熱視線。まるで初めて出会ったかのような新鮮さを覚えます。
「父上の所にも行って、すぐ帰ってくるよ。あなたも気をしっかり持って、いつも通りになれるようにね」。着替えて出かける源氏がとても美しく見えるのを、葵の上もいつもよりじっと見つめていました。
葵の上の具体的なセリフはないものの、源氏も葵の上も、お互いに『目でものが言える』ところまでやっと歩み寄れた、そんな夫婦の気持ちの通い合いが感じられます。ここまで来るのに、すれ違い、トラブル、物の怪、難産といくつもの困難があったなあ、感慨深い一瞬です。
読者としても「ああよかった、2人の気持ちがようやっと通い合う瞬間がきた」、というところなのですが…。その日の夜、宮中に詰めていた源氏と左大臣のもとに「葵の上急死」の一報が届きます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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