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今年のカンヌ国際映画祭『ある視点部門』で審査員賞を受賞し、現在公開中の映画『淵に立つ』。EUのTV局ARTEは「今年のカンヌで最も残酷な映画」と評したが、その「残酷さ」とは分かりやすい猟奇殺人やスプラッターの類ではない。誰しもの日常に潜む、見て見ぬふりをしていた闇を、目の前に突き付けられたまま置き去りにされるような「残酷さ」だ。

家族とは、1人では生きていけない弱い個人の集合体

“家族”をテーマにした作品、と言うと想起される作品はいくつかあるが、『淵に立つ』はそのどれにも当てはまらない。むしろ、“家族”を弱い個人の集合体として描いた”孤独”の映画と言った方が正しいかもしれない。

物語は、小さな町工場を営む夫妻(古館寛治・筒井真理子)の元に、夫の古い友人(浅野忠信)が現れ、住み込みで働きだすところから始まる。夫婦の会話もなく、10歳の娘の存在だけが家族を成り立たせていた”家庭”に、1人の異分子が入り込んできたところから歯車が狂い始める。


ある種のサスペンス映画のように浅野忠信演じる謎の友人の過去が少しづつ暴かれるが、決して全貌を見せることはない。その後に起こる決定的な出来事も、事件なのか事故なのか、故意なのか不慮なのかも明らかにされないまま、ストーリーは淡々と進んでいく。浅野が演じる八坂という役は中盤以降登場しなくなる。しかし、その存在は最後の最後まで登場人物に、そして観客の中にもオリのように澱み続け、物語を深い闇へと誘っていく。深田晃司監督は、その存在を「世界に遍在する理不尽な暴力」の象徴と語る。

私たちが晒される暴力の大半は因果関係で説明できるものではない。天災に動機も善悪もないように、犯罪も本質的には加害者が動機を正確に説明できることはないでしょう。善悪二元論から遠い平凡な曖昧さの中に私たちは生きている。(深田晃司)

「観客と共に崖の淵に立ち、人間の心の奥底の暗闇をじっと凝視するような作品」と監督本人が語るように、観客は足元の不安定な崖っぷちに置き去りにされたまま映画は終わる。

2000年のカンヌ作品『ダンサーインザダーク』のように、とことんまで突き落としてくれる作品ならば、ドン底を打ったある種の爽快感のようなものがあるが、『淵に立つ』は崖っぷちから背中を押してはくれない。意を決して飛び降りるか、目を背けて後戻りするかは観客に委ねられている作品なのだ。

ポスプロは全てフランス、映像と音が生み出す珠玉の緊張感

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『淵に立つ』の見どころは、何といっても俳優陣の凄まじく抑制された演技だが、もう1つの見どころはフランスで行われた、卓越した絵と音のポストプロダクションだ。

深田監督は、いわゆる”上手な演出家”ではない。どちらかと言うと”不器用”な方ではないかと思う。しかし、その不器用さが作品全体のリアリズムを作り出し、ともするとB級インディーズ映画になりかねないところを、卓越したポスプロがSクラスの作品に昇華している。

俳優陣の作り出す張りつめた空気を、色味や音構成によって、より鮮明に浮き上がらせ観客を作品世界へと没入させていく。タイミングが1フレーム違ったら、調整を1つ間違えれば成立しないギリギリのところで、見事に強い世界観を創り出している。デジタル撮影が主流になり、割と似た質感での仕上げが多くなってきた日本映画の中で、映像関係者には少し注目して欲しいポイントかもしれない。

娯楽映画と対極をなす作品だからこそ、『淵に立つ』は是非、劇場でご覧頂きたい。見終わった後に各人の中で浮かび上がってくる、”淀んだオリ”と向き合えるコンディションの日を選んで鑑賞することをお薦めしたい。

◆映画『淵に立つ』公式サイト [リンク]
◆画像・動画提供:2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

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(執筆者: 荏谷美幸) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか

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