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ややこしい 近代イギリス史のまとめ ② (帝国主義時代の幕開けから第一次世界大戦まで)

2019/05/11 12:16 投稿

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近代イギリス史 ② (帝国主義時代の幕開けから第一次世界大戦まで)


古代~中世イギリス史 まとめ ①

~ケルト系ブリトン人」支配時代~
● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

~「ローマの属州」時代~
● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
 ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
 ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

~「プランタジネット朝」時代~
● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
 ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
 その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
 1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
 リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
 リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
 フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

● ヘンリ3世が即位。
 ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
 ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
 マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
● モンフォール議会の招集。(1265年)
 シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
● 模範議会の招集(1295年)
 先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)


古代~中世イギリス史 まとめ ②

~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
 フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
 捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
● ヘンリ4世の即位。(1399年)
 エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
● 「トロワ条約」の締結(1420年)
 ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
 追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。

~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
 プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
● エドワード4世が即位。(1461年)
 ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。

~「テューダー朝」時代~(1485年~)
● ヘンリ7世が即位。(1485年)
 ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


近世イギリス史 まとめ

~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年) 


近代イギリス史 まとめ ①

~「ステュアート朝」時代(「革命」と「立憲君主制」の成立)~ (1603年~)
● 「ピューリタン革命」(1642年)
 カトリック教徒で王権神授説を唱えるチャールズ1世にピューリタンを中心とする議会の議員たちが反乱を起こし「ピューリタン革命」が勃発。前期ステュアート朝が終焉
● 「イングランド共和国」の誕生。(1649年)
 革命により国王が処刑され「イングランド共和国」が誕生するが、同時に議会派のクロムウェルによる独裁がはじまる。
● 「王政復古」(1660年)
 議会派の独裁への反発から処刑された王の子のチャールズ2世が迎えられ王政が復活。後期ステュアート朝の成立
● 「名誉革命」(1688年)
 チャールズ2世の弟ジェームズ2世が即位するもカトリック復興を強行しようとして議会から追放され、オランダ総督オラニエ公ウィリアム3世とその妻メアリ2世が共同王として迎えられ「名誉革命」が成立。立憲君主制が確立される契機となる。


近代イギリス史 まとめ ②

~「ハノーヴァー朝」時代(「責任内閣制」の成立)~ (1714年~)
● ウィリアム3世の後を継いだメアリ2世の妹アン女王が死去し、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝が開始される。(1714年)ジョージ1世およびその子のジョージ2世は政治に関心が乏しく、王に代わって議会から選出された内閣の大臣たちが議会に政治の責任を負って政務を遂行する「責任内閣制」が形つくられていく。

● ジョージ3世が即位(1760年)
● 「アメリカ独立戦争」(1775年)
 ジョージ3世のアメリカ殖民地に対する政策が植民地側の強い反発を受け「アメリカ独立戦争」が開始される。
● 「独立宣言」(1776年)
 アメリカ13植民地合同の第2回大陸会議総会で「独立宣言」が採択される。
● 「ヨークタウンの戦い」(1781年)
 バージニア植民地のイギリス軍最終拠点ヨークタウンを、米仏連合軍が「ヨークタウンの戦い」で陥落させ、独立軍の勝利が確定。
● 「フランス革命」(1789年)
● 「フランス革命戦争」(1792年4月)
 オーストリアからのフランス革命に対する干渉に、フランス革命政府(ジロンド派内閣)がオーストリアへ宣戦布告し「フランス革命戦争」が開始される。
● 「第一回対仏大同盟」(1793年)
 フランス革命軍がベルギーを占領してオランダにまで進攻の手を伸ばしてきたことに危機感を抱いたイギリス首相ピットトーリー党/保守)の働きかけにより「第一回対仏大同盟」が結成される。
● 「第二回対仏大同盟」(1799年)
● アイルランド併合(1801年)
 ピット首相によりアイルランドが併合され、正式な国号が「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となる。
● 「第三回対仏大同盟」(1805年)
● 「トラファルガーの海戦」(1805年)
 英ネルソン提督がフランス海軍を撃破。
● 「アウステルリッツ三帝会戦」(1805年)
 ナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を撃退。
● 「大陸封鎖令」(1806年)
 イギリスとの貿易を禁止し経済封鎖することを目的とした「大陸封鎖令」がナポレオンによって出される。
● 「ロシア遠征」(1812年)
 ナポレオン軍が「ロシア遠征」を決行するも焦土戦術により敗退。
● 「ライプツィヒの戦い」の戦い(1813年)
 ナポレオン軍がプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍に敗れ、パリが陥落。ナポレオンは退位してエルバ島へと脱出。
● 「ケープ植民地」の獲得(1814年)
 イギリスはナポレオン戦争後の「ウィーン会議」で、イギリス軍がナポレオン戦争中に占拠していた旧オランダ領ケープ植民地の領有を認められ「イギリス領ケープ植民地」を獲得する。当時オランダはナポレンによって併合され、フランスの直轄領となっていた。
● 「ワーテルローの戦い」(1815年)
 ナポレオンが再起を賭けて「ワーテルローの戦い」を挑むも英蘭連合軍に敗退し、ナポレオンはセントヘレナ島に配流される。

● ジョージ4世が即位(1820年)
● イギリスでそれまで厳しく弾圧されていたカトリック教徒が公職に就くことを認められた「カトリック教徒解放法」が制定される。(1829年)

● ジョージ4世の弟のウィリアム4世が即位(1830年)
● イギリスで第一回選挙法改正が実施され、腐敗選挙区(人口が減少した選挙区のこと)の議院定数の見直しが行われる。(1832年) 

● ジョージ3世の孫のヴィクトリア女王が即位(1837年)
「ヴィクトリア時代」と呼ばれるこの時代にイギリスは「世界の工場」として経済発展を迎え、圧倒的な工業力と軍事力を背景に欧米諸国・アジア・アフリカに自由貿易圏を拡大し「パクス・ブリタニカ」と称される繁栄期を築き上げる。
 また「保守党」と「自由党」の二大政党制が確立され、交互に独自の政策を実現させ、国内問題や対外問題にあたっていくようになる。
 「保守党」(旧トーリ党)は、地主や貴族の支持を受け、保護貿易や強行外交を推進し、アイルランドの自治にも否定的。
 「自由党」(旧ホイッグ党)は、産業資本家や労働者の支持を受け、自由貿易と平和外交を促進し、アイルランドの自治にも寛容的。

● アヘン戦争(1840~42年)
 イギリスからのアヘンの密輸を禁止した清王朝に対し、自由党パーマストン子爵外相は、自由貿易と廃棄されたアヘンの賠償を求めて「アヘン戦争」をしかけ、インド総督に命じて海軍を派遣し、中国沿岸の厦門、寧波、広州、上海、鎮江といった諸都市を占領しつつ、南京に迫った。
● 南京条約(1842年)
 アヘン戦争後にイギリスと清王朝との間で交わされた講和条約で、その結果、清はイギリスに対し合計2100万ドルをイギリスに支払うことをはじめ、海禁政策を止めて広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港することや、その他、関税自主権の放棄や領事裁判権(治外法権)の承認など、数々の不平等条約を結ばされることとなった。
● シパーヒー/セポイの反乱(1857~58年)
 インドを支配する東インド会社に傭兵として雇われていた「シパーヒー/セポイ」と呼ばれるインド人傭兵たちが、イギリスによる植民地支配からの独立を訴えて起こした反乱。
 しかし自由党パーマストン子爵首相は、インドの植民地統治機関と化していたイギリス東インド会社の軍隊に命じて、翌年までに反乱を鎮圧した。
● アロー戦争(1856~60年)
 1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号が、清朝官憲から海賊容疑で臨検された上、船員が逮捕されり、国旗を引きずり降ろされたりなどした「アロー号事件」を不当なものとして、イギリスが清王朝に対して再び戦争をしかけた戦い。
 しかし自由党パーマストン首相の真の目的は清王朝に5港以外の完全な自由貿易を認めさせることにあり、同年に発生していたフランス人宣教師殺害事件を口実に清への侵出を窺っていたナポレオン3世のフランスも誘って共同で出兵した。
 そのころちょうど「太平天国の乱」が起こり、清朝政府が対応に苦慮していたことも彼らにとっての好機だった。
● 天津条約(1858年)
 アロー戦争に負けた清と英仏露米の間で結ばれた条約。
 清は、外国公使の北京駐在やキリスト教の布教を認めることに加え、台湾、漢口、九江、南京など10港を開港し、合計600万両の賠償金支払いをさせられる結果となったが、後に清王朝が条約の批准を拒否して再び戦闘状態へと陥る。
● 北京条約(1860年)
 天津条約の批准に清王朝が拒否して再び戦争となり、負けて再び清と英仏露米との間で結ばれた条約。その結果、清の賠償金は800万両に増やされ、天津も開港し、そしてイギリス九竜半島南部を、ロシアには沿海州を割譲することなどが決められた。

● 「東インド会社の解散」(1858年)
 インドでの大反乱を受け、東インド会社による統治に限界を感じたイギリス政府は、保守党ダービー伯爵内閣時に東インド会社の解散を行い、インドの直接統治に踏み切る。

● 「スエズ運河の買収」(1875年)
 スエズ運河はイギリスにとって最重要の植民地インドを結ぶ海運の大動脈だったが、スエズ運河を経営していたのはイギリスのライバル・フランスとエジプト太守の共同出資による万国スエズ運河株式会社だった。
 そんな中、運河会社の株式を大量保有するエジプトが財政難に陥り、株式が売りに出されることになったため、その情報をキャッチした保守党ディズレーリ首相は独断で、休会中の議会を無視して大財閥ロスチャイルドから400万ポンドを借り、スエズ運河の買収に成功する。
 これにより、イギリスはスエズ運河の運営・管理についてフランスと同等の発言権を得ると共に、これがイギリスのアフリカ進出の発端ともなった。
 イギリスではディズレーリ首相の時代に、軍事力を背景にした領土、勢力圏、植民地の拡大を図る帝国主義政策が強力に展開され、イギリスは主に、海外のオランダ勢力を排除していくかたちで自国の勢力を拡大させていく。

● 「教育法」の制定。(1870年)
 自由党グラッドストン内閣で「教育法」が制定され、初等教育が義務化される。
● 「労働組合法」の制定。(1871年)
 自由党グラッドストン内閣で「労働組合法」が制定され、労働組合が合法となり、ストライキ権(争議行為)も認められるようになった。

● 「三帝同盟」(1873~79年)→「ビスマルク外交」の開始
 フランスとロシアに挟み撃ちにされることを危惧したプロイセンの首相ビスマルクによって結ばれた、ドイツ、オーストリア、ロシアの三国間の同盟。「ビスマルク外交」の始まり。

● 「インド帝国」の成立。(1877年)
 保守党ディズレーリ内閣で、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」が成立し、イギリスがインドを直接の支配下に収める。
● 第二次アフガン戦争(1878~80年)
 保守党ディズレーリ内閣で、イギリスが「第二次アフガン戦争」を起こしてアフガニスタンを保護国化する。

● 「ベルリン条約」でキプロス島を獲得。(1878年)
 保守党ディズレーリ内閣で、イギリスは露土戦争後に結ばれた講和条約に干渉し、イギリスはベルリン会議でキプロス島を獲得するとともに、ロシアのバルカン半島への南下政策を阻止した。
● 「独墺同盟」(1879年) 
 ベルリン会議で悪化したドイツとロシアの関係悪化を補うべく、ビスマルクによって結ばれたドイツとオーストリア関係強化のための同盟。
● 「新三帝同盟」(1881~87年)
 バルカン半島進出で対立を深めたロシアとオーストリアの関係を修繕してビスマルクが三帝同盟を復活させるが、ロシアとオーストリアの対立から1887年に消滅。
 ロシアとオーストリアはそれぞれ、当時はオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島の諸国を、スラヴ系民族で独立と統一をめざそうとする「汎スラブ主義」を掲げるロシア帝国と、ゲルマン系民族での独立と統一をめざそうとする「汎ゲルマン主義」を掲げるドイツ帝国とで熾烈な対立関係にあった。

● 「三国同盟」(1882年)
 ベルリン条約で、アフリカのチュニスへの進出が認められたフランスに脅威を抱いたイタリアに、ビスマルクが誘ってフランスを仮想敵国とするドイツ、オーストリア、イタリア間で三国同盟を結成。

● 「第3次選挙法改正」(1884年)
 自由党グラッドストン内閣により第3次選挙法改正が行われ、農村労働者にも選挙権が拡大し、有権者が倍増。グラッドストンはアイルランドの解放にも熱心に取り組んだ。

● 「再保障条約」(1887~89年)
 ロシアとの新三帝同盟が延長されることなく解消されたため、ビスマルクがロシアとの関係を維持しようとして、もしロシアとオーストリアが戦争状態に陥ったとしてもドイツは独墺同盟に反して中立を保つと約束した密約の条約。
● ビスマルク外交の終焉(1890年)
 1888年に即位したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は宰相のビスマルクとは合わず、1890年にビスマルクが罷免されるとビスマルク外交も終焉を迎え、ドイツが最も恐れていた、フランスとロシアの同盟が結ばれることとなる。

● 南アフリカ戦争/ボーア戦争」(1899~1902年)
 自由党ローズベリー伯爵内閣時に、イギリスは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国とオレンジ共和国でそれぞれ発見された金とダイヤモンド鉱山を奪取すべく、ケープ植民地から「南アフリカ戦争/ボーア戦争」をしかけ、二国家を侵略し、併合する。
 ボーア人とは17世紀に南アフリカのオランダ領ケープ植民地に入植したオランダ系白人とその子孫のこと。

● 「露仏同盟」(1891~94年)
 ドイツとロシアとの間で結ばれていた「再保証条約」の更新がヴィルヘルム2世によって拒否されたため、ロシアがフランスとの間に結んだ同盟。

~「サクス・コバーグ・ゴータ朝」時代~ (1901年~)
● エドワード7世が即位。(1901年)
 ヴィクトリア女王の死後、子のアルバートがエドワード7世として即位。エドワード7世の父がドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ(英名でサクス・コバーグ・ゴータ)家出身であったため、彼の代からハノーヴァー朝に代わって「サクス・コバーグ・ゴータ朝」となる。

● 日英同盟(1902年)
 極東アジアで南下政策を進め膨張を続けるロシア帝国に対抗すべく「日英同盟」が締結される。
● 「日露戦争」(1904~05年)
 イギリスの支援を受けた日本がロシアを戦争で破ってロシアの南下を阻止。ロシアは駐留していた満州から撤退。
● 英仏協商(1904年)
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の世界政策展開によるアフリカや中東への進出に危機感を抱いたイギリスが、それまで同じアフリカで勢力争いをしていたフランスと対立を解消して築いた協力体制。
 
● シン・フェイン党の結成。(1905年)
 アイルランドでイギリスからの独立をめざす民族主義政党「シン・フェイン党」が結成される

● 英露協商(1907年)→三国協商の成立
 バルカン半島から中東方面に進出してきたドイツに対抗するため、それまでイラン・アフガニスタン・チベットなどにおいてロシアの南下政策に対抗し「グレート・ゲーム」と呼ばれる激しい対立をしてきたイギリスが、ロシアとの長年の対立関係を解消して結んだ協力体制。
 また、これにより露仏同盟、英仏協商、英露協商を合わせて、独墺伊の三国同盟に対抗する英仏露の「三国協商」が成立することとなった。

● ジョージ5世が即位(1910年)
● アイルランド自治法の成立。
 自由党アスキス内閣で「アイルランド自治法」が成立。
● 第一次世界大戦の勃発(1914~18年)
 1871年に、プロイセンによって統一されたドイツは電機・化学工業が飛躍的に発展してイギリスを上回るほどの工業力を持つようになり、イギリスと対抗する帝国主義国として新たな市場を求め、海外でイギリスと対立すようになる。
 ドイツは最大のライバルであるフランスに対抗すべくオーストリア、イタリアと「三国同盟」を結成し、さらにイギリスの「3C政策」に「3B政策」を展開してイギリスとも対立を深めた。
 イギリスはドイツ対策のため、露仏同盟に加わる格好で「三国協商」を結成。
 その後、1914年に、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺される「サラエヴォ事件」の発生をきっかけに、先ずオーストリア(カトリック教、汎ゲルマン)がセルビア(ギリシア正教、汎スラヴ、反オスマン帝国・イスラム教)に宣戦布告。
 これにセルビアの後ろ盾で、バルカン半島進出をめぐってかねてからオーストリアと対立していたロシア(ギリシア正教、汎スラヴ、反オスマン帝国・イスラム教)が総動員令を発令。
 するとそこへ、今度はドイツがロシアとフランスに宣戦布告をして侵攻を開始。
 イギリスはフランスを守る形でドイツに宣戦布告し、こうして大国同士の世界戦争へと発展していった。
 オスマン帝国は「露土戦争」を戦ってきたロシアに対抗し、独墺の三国同盟側に入って参戦。
 イタリアは「未回収のイタリア」問題解決のため、第一次世界大戦では三国同盟から離脱してオーストリアに宣戦布告した。
 また、極東方面では、日本が日英同盟を名目に参戦し、イギリスからの要請を受けて中国の山東半島にあるドイツ領・青島を攻撃して占領した。

● フセイン=マクマホン協定(1915年)
 第一次大戦にはオスマン帝国が参戦していたが、イギリスはこの機会に、衰えたオスマンに代わって中東の切り取りを画策した。
 しかし中東に多くの兵力を派遣する余裕はなく、そこでイギリスは1915年、アラブのハーシム家の投手フサインに、アラブ勢力を集めて対オスマン戦争をしかけるように持ちかけ、またその代償として、戦後にオスマン帝国領内のアラブ諸国の独立を認めることとした。
 この件は、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンがフサインと往復書簡を交わして合意に達した。
● サイクス・ピコ協定の締結(1916年)
 イギリスはアラブのフサインと「フセイン=マクマホン協定」を交わしながら、その翌年、ロシアとフランスとの間で「サイクス・ピコ協定」という密約を結び、戦後、イギリスがイラク、フランスがシリアを勢力圏に置き、パレスチナについては共同管理とする取り決めを行った。

~「ウィンザー朝」(サクス・コバーグ・ゴータ朝から改称)時代~ (1917年~)
● ジョージ5世が、サクス・コバーグ・ゴータ朝を改名してウィンザー朝を開始。(1917年)
 サクス・コバーグ・ゴータ朝とはドイツ貴族の名に由来する王朝名だったため、ドイツと戦うイギリスにふさわしくないとして、ジョージ5世が「ウィンザー朝」へと変更。
 ウィンザーとは居城から取った名前。

● バルフォア宣言(1917年)
 イギリスは「サイクス・ピコ協定」で、戦後パレスチナについては共同管理とすると決めながら、その一方で、戦費調達のため、ユダヤの金融資本家ロスチャイルドに、イギリスのバルフォア外相が、戦後パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することに賛同する意志を表明してしまう。
 これにより第一次世界大戦後、パレスチナの地にユダヤ人の国イスラエルが建国されることとなるが、もともとイスラム教徒のアラブ人たちが多く住む土地の中に突如としてユダヤ教徒によるユダヤ人国家が建設されたことで、それが現在にまで続く「パレスチナ問題」を生む原因ともなっていった。

● 「二月革命/三月革命」(1917年3月)→「第二次ロシア革命」のはじまり
 第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に国土の多くを占領された上、戦争が国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させた。 そうしたなか1917年、ロシア暦で2月23日(新暦3月8日)の国際婦人デーに、首都ペテログラードで女子労働者の「パンよこせ」デモが発生。これに続けて民衆が「戦争反対」「専制政府打倒」のスローガンを掲げて立ち上がり、軍隊がそれに呼応してペトログラードの労働者と兵士たちによる「労兵ソヴィエト」政権が結成される。 
 全国へ普及した民衆の放棄を受けて皇帝ニコライ2世は3月15日に退位し、ロマノフ朝は崩壊。代わりに国会では立憲民主党(カデット)のリヴォフ公を首相とする臨時政府が成立し、議会制によるブルジョア政権が誕生したが、臨時政府は戦争を継続しようとしたため、戦争継続に反対する「労兵ソヴィエト」との二重権力の状態となった。

● 「十月革命」(1917年11月)
 ロシア暦10月25日(新暦11月7日)、レーニンに指導されたボリシェヴィキが武装蜂起して臨時政府の打倒を果たし、ボリシェヴィキ独裁による「ソヴィエト」政権を樹立。
 土地の公有化も実施され、世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生した。
 同時にレーニンは「平和についての布告」で交戦国すべてに即時講和を呼びかけ、第一次世界大戦から離脱すると共に戦争の終結を訴えた。
● 「ブレスト=リトフスク条約」(1918年)
 レーニンのボリシェヴィキ独裁がドイツ帝国で単独で結んだ終戦講和条約。
 同年3月には、ボリシェヴィキは「ロシア共産党」と改称され、首都をモスクワに移し、7月には憲法が制定され「ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国」が正式に発足した。
● 「対ソ干渉戦争」(1918年~)
 社会主義革命を実現して第一次大戦から離脱したソ連に対し、イギリス・フランス・アメリカ・日本などの連合国側諸国が、世界の社会主義化を恐れたはじめたソ連打倒のための干渉戦争。日本も「シベリア出兵」して参戦。

● 第4回選挙法改正で、男子普通選挙、女性参政権成立(1918年) 
 戦時下における自由党首相ロイド・ジョージ挙国一致内閣(保守党・自由党・労働党の連立内閣)で男性は21歳以上の者すべてに、女性は30歳以上で戸主又は戸主の妻である場合に選挙権が認められるようになる。
 大戦中のイギリスでは、女性も軍需工場や、電車・バスの車掌、男性が出征した後の会社の事務などで働くことが求められ、銃後の働きで戦争を支えたが、それに応じて女性の社会進取出や発言権も大きくなり、政治参画への動きが加速されることとなった。

● 「ドイツ革命」(1918年11月)→第一次世界大戦の終結
 劣勢に追い込まれていたドイツで、無謀な出撃命令を拒否した海軍兵士による「キール軍港の水兵反乱」が発生。
 「キール軍港の水兵反乱」はロシアで起きた革命と同じように、兵士と労働者が結託した「労兵評議会/レーテ」による全国的な反乱放棄へと発展し、社会主義政権による「ドイツ共和国」が誕生。皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。
 ドイツ共和国の臨時政府を握った社会民主党のエーベルト首相は、11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結した。

 国民皆兵時代の第一次世界大戦はかつてないほど大規模化し、長期戦となった。
 戦争は互いに、連発式の機関銃で守られた長大な塹壕線を突破できずに膠着状態となる。
 毒ガスや戦車といった新兵器が投入されたが決め手にならず、死んでも次々延々と増援が送り込まれるため戦死者ばかりが膨大な人数へ膨れ上がっていった。
 イギリス軍は兵士不足に陥り、徴兵制が導入され、開戦前25万人体制だったイギリス陸軍は、最終的に570万人にまで達した。
 戦況を大きく変えたのはアメリカの参戦で、アメリカが200万人の大軍をヨーロッパに送り込み、さらにイギリス海軍がドイツ海軍の封じ込めに成功すると、ドイツは急速に物資不足に陥り、敗戦へ追い込まれる結果となった。
 しかし第一次世界大戦で史上初めて出現した「総力戦」による戦いでは、勝者となったイギリスも大きな傷を負うこととなった。
 イギリスは戦死者91万人、重傷者は200万人にのぼり、84億ポンドの戦費を費やした。
 戦費の大半が国債でまかなわれたたため、戦後のイギリス財政は困窮し、イギリスはもはや、かつての栄光の面影をなくしてしまうほどのダメージを負った。

● アイルランド自由国が成立(1922年)

 長くイギリスからの独立運動を続けていたアイルランドは、ロイド=ジョージ挙国一致内閣により自治が認められて、イギリス連邦を構成する自治国である「アイルランド自由国」となった。しかし、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)は、アイルランド自由国に加わらず、イギリスに残った。


近代イギリス史 まとめ 3

● マクドナルド首相による初の労働党内閣が成立(1924年)
● インド統治法の制定(1935年)
● エドワード8世が結婚問題で退位(1936年)
● ジョージ6世が即位(1936年)
● 「第二次世界大戦」が勃発(1939年)
● チャーチルによる戦時挙国一致内閣の成立(1940年) 
● インド・パキスタンの独立(1947年)
● エリザベス2世の即位(1952年)
● スエズ動乱(1956年)
● サッチャー保守内閣の発足(1979年)
● フォークランド紛争の勃発(1982年)
● サッチャー首相退任(1990年)










































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