近代イギリス史 ① (二つの革命とイギリス議会制度の確立)
~ケルト系ブリトン人」支配時代~
● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)
~「ローマの属州」時代~
● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)
~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)
~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。
● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。
~「プランタジネット朝」時代~
● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
● 「大憲章マグナカルタ」の制定(1215年)
フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。
● ヘンリ3世が即位。
ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
● 「モンフォール議会」の招集。(1265年)
シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。
● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
● 「模範議会」の招集(1295年)
先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)
古代~中世イギリス史 まとめ ②
~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。
~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
● ヘンリ4世の即位。(1399年)
エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
● 「トロワ条約」の締結(1420年)
ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。
~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
● エドワード4世が即位。(1461年)
ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。
~「テューダー朝」時代~(1485年~)
● ヘンリ7世が即位。(1485年)
ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。
~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年)
~「ステュアート朝」時代(「革命」と「立憲君主制」の成立)~ (1603年~)
● 「ピューリタン革命」(1642年)
カトリック教徒で王権神授説を唱えるチャールズ1世にピューリタンを中心とする議会の議員たちが反乱を起こし「ピューリタン革命」が勃発。前期ステュアート朝が終焉。
● 「イングランド共和国」の誕生。(1649年)
革命により国王が処刑され「イングランド共和国」が誕生するが、同時に議会派のクロムウェルによる独裁がはじまる。
● 「王政復古」(1660年)
議会派の独裁への反発から処刑された王の子のチャールズ2世が迎えられ王政が復活。後期ステュアート朝の成立。
● 「名誉革命」(1688年)
チャールズ2世の弟ジェームズ2世が即位するもカトリック復興を強行しようとして議会から追放され、オランダ総督オラニエ公ウィリアム3世とその妻メアリ2世が共同王として迎えられ「名誉革命」が成立。立憲君主制が確立される契機となる。
~「ハノーヴァー朝」時代(「責任内閣制」の成立)~ (1714年~)
● ウィリアム3世の後を継いだメアリ2世の妹アン女王が死去し、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位。「ハノーヴァー朝」が開始される。(1714年)ジョージ1世およびその子のジョージ2世は政治に関心が乏しく、王に代わって議会から選出された内閣の大臣たちが議会に政治の責任を負って政務を遂行する「責任内閣制」が形つくられていく。
「テューダー朝」から「スチュアート朝」へ
● イングランド・スコットランド「同君連合」の誕生
生涯独身だったエリザベス1世には子がなく、1603年に彼女が死去するとテューダー朝は断絶してしまう。
そこで、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王のジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として即位し、「ステュアート朝」がはじまることとなった。
これによりイングランドはスコットランドと同じ国王を推戴する「同君連合」となった。
ブリテン島の北方には紀元前のころよりケルト系のピクト人がいて7つの王国を形成し、ローマ帝国の遠征も連合して退けて戦っていたが、6世紀のころになるとピクト人による「アルバ王国」が出現。
アルバ王国は、アイルランドから渡ってきた同じケルト系スコット人のダルリアダ王国や、北方からのヴァイキングの侵略にも衝突を繰り返すようになるが、9世紀になってダルリアダ王国のケネス1世(ケネス・マカルピン)が現われ、ダルリアダ王国とアルバ王国は統一されて新たな「アルバ王国」として生まれ変わり、さらにその後、11世紀初頭、ダンカン1世の時代にスコットランド全域にまで領土が拡大し、このころからアルバがスコーシア王国、やがて「スコットランド王国」と呼ばれるようになったという。
その後、スコトランドでは、アサル家、ベイリャル家、ブルース家と王朝が交代していく。
ブルース朝は、イングランドを打ち破ったロバート1世にはじまるが、やがて血統が途絶えたため、1371年にブルース1世の王妃の血を引くロバート・ステュアートがロバート2世として即位し、これがスコットランド王国スチュアート朝の起源となった。
「ステュアート」とは、スコットランド王国における「執事(Steward)」という役職名からきていて、彼ら代々、スコットランド王に仕える宰相兼蔵相の職分を担う家柄だった。
スコットランド王国ステュアート朝では、三代目のジェームス1世のときに、イングランド王国プランタジネット朝エドワード3世の血をひくジョアンを王妃に迎え、その後、ジェームス4世はテューダー朝の祖ヘンリ7世の娘マーガレットを王妃を迎える。
その二人からジェームス5世が生まれ、ジェームス5世がメアリー・ステュアートを生み、そしてメアリーがヘンリー8世の姪の子ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚し、彼らの間に生まれた子がスコットランド王ジェームス6世(イングランド王ジェームス1世)となった。
ジェームス6世は父の死でわずか1歳のときにスコットランド王として即位したが、長く摂政による傀儡化と権力争いで時には軟禁されるなど翻弄された。
18歳になって漸く親政に乗り出すが、ジェームス6世は教会や議会を王の制圧下に置こうとして対立を深める。
1598年には、ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』という論文を書いて「王権神授説」を唱え、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができると主張した。
ジェームス6世がイングランド王ジェームス1世としてイングランドへやってきてもそうした態度は変わらず、ジェームス1世はイングランド22年間の治世で、たった4回しか議会を招集しなかった。
また宗教政策をめぐっても、ジェームス1世自身はプロテスタントのカルヴァン主義者だったが、彼は『欽定訳聖書』を定めて「主教なくして国王なし」と主張し、国教会の主教制度を国家の柱として、国教会以外の宗派であるカトリックだけでなくプロテスタント(イングランドのピューリタンとスコットランドの長老派(プレスビテリアン))も否定した。
ジェームズ1世の時代には、アメリカ大陸に最初の恒常的な植民地ヴァージニアが建設(1607年)されていたが、王の国教会強制による迫害を逃れてイングランドのピューリタンが北米に移住(1620年)して、ニューイングランドを建設したというのもジェームズ1世の宗教政策が原因だった。
そして、ジェームズ1世に始まった国王と議会との対立は、次のチャールズ1世の時にさらに深刻となり、ついにピューリタン革命を引き起こす事態となる。
「ピューリタン革命」と「名誉革命」
● チャールズ1世とピューリタン革命の勃発(前期ステュアート朝の終焉)
1623年、ジェームズ1世が死去すると、子のチャールズ1世が即位したが、彼も父と同じ政治・宗教路線をとったため、国内対立を激化させてしまう。
父と同様「王権神授説」を唱えたチャールズ1世に対し、議会は1628年に「権利の請願」を提出して議会の同意のない課税や、法に基づかない逮捕・投獄を認めないように求めたが、王は怒って、以後、11年間議会を招集しない絶対王政を行った。
そして宗教問題においても、当時、ヨーロッパ大陸では「三十年戦争」の最中で、カトリック勢力と新興のプロテスタント勢力が血みどろの戦いを繰り広げていた。
大陸での争いはブリテン島の宗教情勢にも影響を及ぼし、イングランドとスコットランドでもカルヴァン派の影響を受けたピューリタン(清教徒)が勢力を増し、イギリス国教会の改革を求めるようになった。
チャールズ1世は即位前にカトリックのフランス王ルイ14世の妹ヘンリエッタ・マリアと婚姻していたが、即位後も反ピューリタン派のカンタベリ大司教のロードを腹心として重要すると、大主教ロードは国教会の立場を強化しようとしてピューリタンを弾圧し、特権商人に対する独占権の付与や、議会の承認を必要としない関税の増税などを強行。
また、反対派に対して星室庁裁判所による裁判で取り締まったため、ピューリタンの間には王室への反感、憎しみが募っていった。
そうした中、スコットランドで「主教戦争」と呼ばれるピューリタンの反乱が発生。
チャールズ1世はその反乱鎮圧の軍事費捻出のため議会を招集するが、議会は国王の課税案をはねつけたため、王はわずか3週間で再び議会を解散させる。→(のちに「短期議会」と呼ばれる)
しかし議会で戦費を捻出することができなかったイングランド軍はスコットランドの反乱軍に敗退。
すると今度は反乱軍との和睦の賠償金のためにまた議会を招集せざるを得なくなり、チャールズ1世は改めて議会を招集。
だが今度の議会は短期に終わった前回の議会と違ってその後13年間も解散させられることがなく、「ピューリタン革命」へつながる衝突の場となっていく。→(のちに「長期議会」と呼ばれる)
1640年10月に総選挙が実施され、同年に招集されたこの議会(「長期議会」)では、王の側近ストラフォード伯と大主教ロードの逮捕・処刑が決議され、さらに三年に一度は議会を開催すること、議会自身の決議がなければ解散できないといったことが定められたり、その他、船舶税や星室庁裁判所の廃止など、絶対王政を否定する改革の推進が提起され、また王の悪政を弾劾する「大抗議文」が可決された。
しかしこの長期議会で、「大抗議文」に反対しイギリス国境会を支持する「王党派」と、ピューリタンを中心とする「議会派」の対立が激化。
議会が分裂しているとみたチャールズ1世は1642年1月、自ら兵を率いて議場に赴くと、軍の力を背景に、ジョン=ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求した。
しかしその要求は拒否され、8月、ついに両派で内乱・内戦が勃発。
これが「聖教徒(ピューリタン)革命」の始まりとなった。
当初はチャールズ1世率いる国王軍と王党派が優勢だったが、オリヴァー・クロムウェル率いる「鉄騎兵」の活躍により議会派が巻き返し、1645年の「ネイズビーの戦い」に勝利した議会派は、1647年1月にチャールズ1世を捕え、勝利を収めた。
議会派はクロムウェルの鉄騎兵を参考にした「ニュー・モデル・アーミー」と呼ばれる革新的な組織によって構成されていた。
中世の戦争は、騎士と騎士の一騎打ちといった個人プレーが中心だったが、ニュー・モデル・アーミーでは集団としての作戦行動が重んじられた。
また、家柄や職業に関係なく、実力主義の人材登用が行われ、軍律は厳しく、兵士たちには神の大義のために戦う覚悟と勇気が求められた。
● クロムウェルの独裁(イングランド共和政時代)
王党派に勝利した議会派の革命軍だったが、その後は議会派を構成する「長老派」と「独立派」と「水平派」とで新たな対立へと発展。
「長老派」はカルヴァン派のプロテスタント(新教徒)で、イギリス国教会の国王を中心とする主教制度に反対して王党派と対立していたが、しかし長老派は国王の存在までは否定しない立憲君主派のグループだった。
「独立派」はクロムウェルに代表されるカルヴァン派ピューリタンの一派で、彼らは長老による教会の統制を主張していた長老派の考えには反対で、各教会の独立を尊重したため独立派と呼ばれ、また、国王のいない共和政の樹立を目指した。
独立派を支持したのは中程度のジェントリとヨーマン(自由農民)、それに都市の商工業者たちだった。
「水平派」は、独立派よりもより貧しい小農民や手工業者、小商人層によって構成されたグループで、彼らは私有財産の多寡による制限選挙の実施を主張していた独立派に対し、財産による制限のない普通選挙の実現を求めた。
英国の議会は、百年戦争を始めたプランタジネット朝のエドワード3世のころより、「貴族院」と「庶民院」に分かれて議論が行われるようになっていたが、その庶民院を構成する「ジェントリ」と「ヨーマン」はそれぞれ「準々貴族」「準々々貴族」と呼ばれる貴族・富裕層であって、当時のピューリタン革命時のイギリス人口約450万人のうちのほんの数パーセントしかいない存在だった。
本来、神の前にはどんな王侯貴族だって農奴や商人と変わらないというのがプロテスタントの宗教改革の主旨だったはずだが、ジェントリ・ヨーマン中心の独立派は、
「イングランドで生まれたすべての人間に選挙権を」と求める水平派に対し、
「万人に共通する権利など、あるはずがない。財産を持っていない人間が、国政に口出すべきではない」といって猛反対した。
「議会派」内の三つ巴のグループの内乱は、最終的に強力な軍隊を持つ独立派のクロムウェルが勝ち抜け、その後はクロムウェルによる独裁政治が展開されていく。
1649年、チャールズ1世が処刑され、イングランドでは初となる国王のいない「共和政」を実現した「イングランド共和国」が樹立される。
同年、クロムウェルは、アイルランドへの侵攻を開始する。
その理由は、アイルランドで国王派とカトリック教徒が同盟を結んで反クロムウェルの根拠地が形成されたからだったが、クロムウェルはこの機にアイルランドを徹底的に搾取して、財源不足から軍人・兵への給与の未払いが生じていた革命の軍資金を調達しようと考えた。
1652年には「アイルランド殖民法」が制定され、アイルランドの全耕作地の3分の2が、イングランド人の手に渡ることとなった。
さらにクロムウェルは、処刑されたチャールズ1世の子チャールズ2世がスコットランド王としての立場で対抗する動きを示したため、1650年にスコットランドへ侵攻し、まだ残っていた国王派を討伐してチャールズ2世もフランスへの亡命に追い込んだ。
1651年には、当時イギリスの重大な競争相手となってきたオランダの中継貿易に打撃を与えようと「航海法」を制定。
その結果オランダとの対立を深め、翌1652年から「英蘭戦争」が開始される結果となったが、クロムウェルは勝利を収め、1653年には、クロムウェルは長期議会を解散させ「護国卿」に就任。
国王でこそなかったが、クロムウェルは国王同然の独裁者となり、その後、護国卿の地位もクロムウェルの息子リチャードに世襲されることとなった。
● チャールズ2世と「王政復古」(後期ステュアート朝の成立)
ピューリタン革命によって、国王のいない「共和政」へ移行したイングランドだったが、厳格なプロテスタントだったクロムウェルの独裁政治は庶民の娯楽さえ禁じるものだったため、国民には不評だった。
クロムウェルの死後、護国卿に就いたクロムウェルの子リチャードはニューモデル軍の支持を得られずにわずか8ヶ月で辞職へと追い込まれ、その後はクロムウェルの部下だったジョン・ランバートとチャールズ・フリートウッドらによる軍事政権が誕生。
しかしその軍事政権を同じニューモデル軍のジョージ・マンクが議会派の支持を得て打倒すると、マンクは革命にうんざりした国民の要望に応える形で、1660年2月、クロムウェルによって解散させられていた長期議会を再開させ、共和政から追放されていた長老派の議員も復帰させた。
そしてその後、改めて選挙し直した議会で、オランダに亡命していたチャールズ2世が、宗教的寛容を認める「プレダの宣言」を受け入れることを条件にイングランドへ呼び戻すことが決定され、1660年5月29日、チャールズ2世は後期ステュアート朝の王として即位し、「王政復古」が実現されることとなった。
● ジェームズ2世と「名誉革命」(立憲君主制の確立)
チャールズ2世は議会派の議員たちにとって政治に熱心な王ではなかったが、王妃との間に嫡子が生まれなかったことで、王位継承争いが生じることとなった。
旧教派が後継に推したのは、チャールズ2世の弟で旧教派のヨーク公ジェームズで、彼を支持する勢力は宮廷派と呼ばれた。
一方、プロテスタント派はチャールズの庶子でプロテスタントのモンマス公を望んだ。
宮廷派はスコットランドの狂信者を意味する「トーリー」と罵られ、プロテスタント側はアイルランドの野盗を意味する「ホイッグ」と互いに蔑まれた。
やがて、トーリーはイギリス国境会と王権を尊重し、「保守党」の前身となり、
一方、ホイッグは議会を重視し、のちの「自由党」の源流となった。
チャールズ2世の死後は、弟のヨーク公ジェームズ2世が即位することとなったが、問題は、このジェームズ2世が強固なカトリック信者だったことだった。
ジェームズ2世が即位すると、ホイッグ(プロテスタント)の支持を得ていたモンマス公が反乱を起こし、すぐに反乱は鎮圧されモンマス公も処刑されたものの、ジェームズ2世はモンマス公の協力者を次々と捕え、150人を絞首刑に処し、数百人を西インド諸島へ島流しにするという「血の巡回裁判」と呼ばれる粛清を行う。
だけでなく、ジェームズ2世は、彼のカトクリック化政策に反対する議会を解散させ、常備軍を拡充し、その兵士にカトリック信者を採用していった。
ジェームズ2世には、熱心なカトリック信者で、自国だけでなく周辺国のカトリック化を狙うルイ14世が後ろ盾になっていたという。
さらに、1688年6月10日、ジェームズ2世に嫡子となる男子が誕生したことで、国民の王に対する危機感はピークに達した。
ジェームズ2世の教育を受ければ、その子も熱心なカトリック王となってしまう。
この危機に、犬猿の仲のホイッグとトーリさえ手を結び、ジェームズ2世排除の動きが活発となり、両派は新たな王としてオランダ総督だったオラニエ公ウィレム3世(のちのイングランド王ウィリアム3世)を選ぶ。
オラニエ公ウィレムは、チャールズ1世の娘メアリを母に持ち、ジェームズ2世の長女メアリを妻とし、イングランド王となる資格があった。
「オランダ総督」とは、1581年にスペインからの独立宣言を行って成立したネーデルラント連邦共和国の最高権力者の地位で、初代は独立運動を指導したオラニエ公ウィレムが就任し、ウィレム3世はその孫だった。
ウィレム3世は、オランダに侵攻してきたルイ14世のフランス軍との「オランダ戦争」(1672~78年)と、同じく王政復古後のオランダの植民地化を狙って侵攻してきたイングランド王チャールズ2世との「第三次英蘭戦争」(1665~67年)で、敵の撃退に成功した武勇に秀でた指導者だった。
しかしその後、ウィレム3世はフランスに対抗するためイングランドとは和解し、チャールズ2世の子ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリと結婚したのだった。
1688年、ウィレム3世率いる軍勢1万2000がイングランド南西部に上陸し、歓呼の声で迎えられると、ジェームズ2世は入れ替えにフランスへの亡命を余儀なくされる結果となった。
イングランド議会はウィレムを即位させる前に、法と自由の保全を記した「権利の宣言」を作成し、その宣言を受け入れることを条件にウィレムを王として迎え入れた。
権利の宣言はのちに「権利の章典」として改めて成文化され、公布された。
ウィレムは妻のメアリと共にそれぞれ、ウィリアム3世、メアリ2世として即位し、二人でイングランドを共同統治していくこととなった。
ジェームズ2世は、常備軍が早々に離反したこともあって、さっさと抵抗を諦め、ルイ14世を頼って亡命し流血の事態を一切避けられたため、この王朝交代劇は「名誉革命」と呼ばれるようになった。
ウィリアム3世がイングランドの誘いに応じてイングランド王となったのは、英蘭の同君連合を結成して強大なフランスに対抗するためだったが、ルイ14世はウィリアム3世の即位を認めず、直ちに宣戦布告し、フランスとの「第2次百年戦争」といわれる長期抗争が開始される。
ウィリアム3世は、
ルイ14世が神聖ローマ帝国の領邦国家の一つファルツ選帝侯の地位継承を求めて侵攻してきた「ファルツ戦争」(1688~97年)や、
「ファルツ戦争」と平行して、北米における英仏両国の植民地間で行われた「ウィリアム王戦争」(1689~97年)、
また、名誉革命でイングランドから追われたジェームズ2世が、ルイ14世の後押しを受けてアイルランドで行われた「ボイン川の戦い」(1690年)などの戦いで、戦いをイングランドの優勢へと持ち込んで戦った。
● アン女王と「大ブリテン王国」(1707年~1801年)の誕生
ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治時代から両者の死後、王位はメアリ2世の妹であるアン女王に引き継がれた。
このアン女王の時代に、イングランドはそれまで「同君連合」を結成していたスコットランドを合併する形で、完全な一つの王国である「大ブリテン王国」となる。
イングランドでは、テューダー朝エリザベス1世の死後の1603年に、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王のジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として迎えられて即位し、スコットランドとの同君連合となる「ステュアート朝」時代を迎えたが、ジェームズ1世の子チャールズ1世は、スコットランドにおけるカルヴァン派の「長老派(プレスビテリアン)」に対して、イギリス国教会の司教制度や儀式を守ることを強制しようとして反感を買い、1637年に「スコットランド」の反乱が発生するなど抵抗運動が相次いで巻き起こった。
王政を打倒したクロムウェルもスコットランドの遠征を行ったが、その後もスコットランドの反抗は続いた。
しかし、アン女王が1705年に、合同に応じなければ外国扱いにして貿易を規制すると脅すと、スコットランドのほうでも、宗教の独自教育や自由貿易を認めることを条件に議会合同に応じることが決められ、こうして1707年、両国の同君連合が解消されてアン女王の下一つの「大ブリテン王国」となり、そしてこの大ブリテン王国が、現在につながる「イギリス」の原型となった。
{(イングランド+ウェールズ=イングランド王国)+スコットランド}=グレートブリテン王国(右の島全体)
— 飯野誠三 (@eno_seizo) 2016年6月24日
グレートブリテン王国+アイルランド島(左の島)=英連合王国
その後北アイルランドを除く「アイルランド」が独立 pic.twitter.com/o8sJembd3z
ハノーヴァー朝の成立とイギリス立憲君主制の確立
● ジョージ1世とハノーヴァー朝の開始
アン女王は、1714年に死去するが、彼女には嫡子がなく、ステュアート朝は断絶してしまう。
代わってイギリス王として迎えられたのが、ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(イギリス王ジョージ1世)。
選帝侯とは、神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)の選出権を持つ諸侯のことで、彼がジョージ1世として即位し「ハノーヴァー朝」を開いた。
ジョージ1世が新たなイギリス王として迎えられたのは、彼の祖母がステュアート朝のジェームズ1世の長女であったことと、彼がプロテスタントであることだった。
ハノーヴァー朝のジョージ1世とその子のジョージ2世の二人の王は、共に政治には無関心で、その結果、イギリスの議会政治がさらに発展することとなり、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス立憲君主制の原則が確立されていくこととなった。
● イギリス初代首相ロバート・ウォルポールの政治
ハノーヴァー朝ジョージ1世の時代に活躍政治家がロバート・ウォルポール。
ウォルポールは大地主の子として生まれ、やがて「ホイッグ党」(新教派・革新派)に入党。
ウォルポールは1720年に起こった「南海泡沫事件」を収拾し、党の最大実力者となる。
ことの発端は1700年代初頭、スペイン継承戦争などの戦費を得るため発行した公債の利払いに苦しみ財政難に陥っていたイギリス政府が、ある企業に市場を独占する権利を付与する代わりに、その企業に政府債務を引き受けさせるという策を思いついたことがきっかけだたっという。
そこで先ずつくられたのが、1694年に設立された「イングランド銀行」だった。
当時はまだ中央銀行というものはなく、それぞれの銀行がそれぞれ銀行券を発行し、預金や貸付、為替などの業務を行っていたが、イギリス政府は彼らがつくったイングランド銀行にそうしたビジネスを独占する特権を与える代わり、政府の債務を肩代わりさせようとしたのだった。
しかしそれでも財政が改善しなかったため、イギリス政府は次いで、南米スペイン領西インド諸島との奴隷貿易を独占させる特権を与える代わり、政府債務を代弁する「南海会社」を1711年に設立する。
当時、中南米はほぼスペインの植民地となっていたが、イングランドはそのスペインの領地へアフリカの黒人奴隷を供給することのできる「アシエント」と呼ばれる特別な契約を、「スペイン継承戦争」(1701~14年)後の「ユトレヒト条約」によって獲得していた。
しかし1718年には「四カ国同盟戦争」が始まりスペインとの貿易が途絶し、南海会社は経営不振に陥る。
そこで南海会社は1719年に、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の南海会社株を発行できる許可を獲得し、株の発行益で利益を生み出していこうとする「南海計画」を考案した。
南海計画では先ず、南海会社は株を発行して、その株を投資家が所有しているイギリス政府の公債と等価で交換することによって、政府の公債を引き受ける。
その際、株と国債の交換は時価で行われ、南海会社の株価が額面100ポンドにつき市場価格200ポンドの場合、200ポンドの国債1枚と南海会社株100ポンド分で等価交換となった。
しかし南海会社が発行できる株数は交換額に応じて発行できる決まりになっていたため、200ポンドの国債を交換したなら額面100ポンドの株券を2枚発行できた。
そのため200ポンド分の公債と交換しても南海会社の手元には額面100ポンドの株券、時価で200ポンド分の株が残る仕組みになっていた。
南海会社ではそうして手元に残った株を売却して利益を出し、あとは株の発行と公債の交換と残った発行株の売却を繰り返すことでどんどん利益を増やしていった。
南海会社の株は株の売却を繰り返すことで一緒にどんどん値上がりを続けていったため、株価上昇のバブルが発生した。
南海会社の株価はわずか数ヶ月の間に株価が10倍に高騰したが、しかしその後半年ほどで元々の価格である100ポンド程度の水準まで暴落していった。
株価上昇による利益は後続の購入者ほど実利益の幅が少なくなり、また株購入額の負担自体も大きくなるため南海計画によるこの錬金術もいつまでも続くものではなく、また、南海会社の本業である貿易も全く利益を上げていなかったことから、一気に株バブルが崩壊を迎える結果となったのだった。
株価の急落でピーク時に高値で買った一般の投資者は大損し、破産する者が続出。イギリス経済は大パニックに陥ったが、しかしここでウォルポールが、南海会社の株式をイングランド銀行と東インド会社に引き取らせることで事態を収拾して、評価されるようになった。
ウォルポールは南海会社のほうも、奴隷貿易と捕鯨を専業とする会社に縮小して再建させたという。
また、この「南海泡沫事件」の調査を通して、現代に続く「公認会計士制度」及び「会計監査制度」が生まれるきっかけにもなったという。
この「南海泡沫事件」の事件の後、1721年からは、ウォルポールは事実上の首相となる「第一大蔵卿」に就任。
以後、ウォルポールは20年以上の長きにわたって第一大蔵卿の座にありつづけ、1727年に国王ジョージ1世が崩御してからも、ジョージ2世が彼を信任した。
・ イギリスの首相の一覧 - Wikipedia
ウォルポールは、主として保護関税政策を通した「重商主義政策」(原材料の輸入関税は低くし、茶などの奢侈品は高く設定)を重んじ、財政の安定を最優先に考え、対外戦争をできるだけ抑えようとしたため、彼の在任中は戦争への関与が減り「ウォルポールの平和」と呼ばれる時代が築かれることとなった。
対外的には、1727年2月に「英西戦争」が勃発して、一時はイギリス・フランス・プロイセンとオーストリア・スペインとの間でヨーロッパ全面戦争の危機に直面するも、ウォルポールは国内における対外強硬派だったタウンゼンドを抑えて戦争回避へと導く。
しかしウォルポールの第一大蔵卿時代の末期には、議会の求めに押されて再びスペインとの戦いとなる「ジェンキンズの耳戦争」(1739~42年)や「オーストリア継承戦争」(1740~48年)に参戦を余儀なくされ、ウォルポールの平和の時代も終焉を迎える結果となった。
ウォルポールの政治家としての特徴は「現実主義者」ということであり、彼が平和外交を推進したのも彼が「平和主義者」だったからというわけではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいてのことだったという。
ウォルポールは21年もの長きにわたって議会で多数派を構成し、その与党の首相として政権を主導し続けたが、その方法は露骨な「金権政治」によってなされたものだった。
ウォルポールは総選挙のたびに政府機密費を流用して買収・接待に励み、官職を餌に使って有権者の取り込みを図った。
野党はウォルポールの選挙対策を腐敗政治と批判し、マスコミからは「プライム・ミニスター」という悪罵を投げつけられたが、この「プライム・ミニスター」という言葉はもともとは「独裁者」という意味の悪口だった。
しかし使われるうちに第一大統領を表す意味になり、いつしか現在のように「首相」の意味で用いられるようになった。
そしてこのウォルポールの時代に、有力者が内閣をつくり、内閣は議会に対して責任を負うという「責任内閣制」のシステムができ上がってくる。
1742年に、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任してしまう。これが議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織する責任内閣制の先例となり、こうして、内閣は国王に替わって国政の全般を掌握し、国民の代表である議会に対して責任を持つという責任内閣制が成立することとなったのだった。
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