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ややこしい 近世イギリス史のまとめ (テューダー朝イングランド絶対王政、国王至上法、イギリス国教会の成立)

2019/04/27 15:01 投稿

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近世イギリス史 (テューダー朝イングランド絶対王政、国王至上法、イギリス国教会の成立)


古代~中世イギリス史 まとめ ①

~ケルト系ブリトン人」支配時代~
● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

~「ローマの属州」時代~
● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
 ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
 ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

~「プランタジネット朝」時代~
● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
 ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
 その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
 1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
 リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
 リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
 フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

● ヘンリ3世が即位。
 ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
 ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
 マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
● モンフォール議会の招集。(1265年)
 シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
● 模範議会の招集(1295年)
 先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)


古代~中世イギリス史 まとめ ②

~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
 フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1347年)
● 「ポワティエの戦い」(1356年)
 エドワード3世の長子エドワード黒太子がフランス軍を撃ち破り、フランス国王ジャン2世を捕虜にする。
● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
 捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
● ヘンリ4世の即位。(1399年)
 エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
● 「アジャンクールの戦い」(1415年)
 ヘンリ4世の子ヘンリ5世の活躍でフランスの大軍を撃破。
● 「トロワ条約」の締結(1420年)
 ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
 追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。

~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
 プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
● エドワード4世が即位。(1461年)
 ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。

~「テューダー朝」時代~(1485年~)
● ヘンリ7世が即位。(1485年)
 ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


近世イギリス史 まとめ

~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年)


近代イギリス史 まとめ ①

~「ステュアート朝」時代~(1603年~)
● 「王権神授説」を唱えるジェームス1世と英議会の対立。→「ピューリタン革命」へ




イギリス絶対王政の時代


● 「イングランド王室史上最高のインテリ」と評されたヘンリ8世

 30年以上断続的に続いた「ばら戦争」に終止符を打ち、ヨーク朝に代わってテューダー朝を開いたヘンリ7世その後のイギリス絶対王政の礎を築いたが、ヘンリ7世の死後、即位したのが次男のヘンリ8世で、ヘンリ8世はイングランド最初の絶対君主となった。

 子どものころから聡明で、当時、イタリアで勃興していたルネサンス的な合理的思考法・知識を身につけ、ラテン語、スペイン語、フランス語などの外国語にも通じ、ヘンリ8世はイングランド王室史上最高のインテリであると評されたという。
 ヘンリ8世は音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。宮廷は学問と芸術の華やかな奢侈の中心となった。
 また、身体能力においても、6フィート(約182cm)以上の身長と広い肩幅を備えた堂々たる体格に、運動神経も抜群でスポーツに秀で、馬上槍試合や狩猟を催しては、ヘンリー8世は荘厳な鎧を纏って外国大使や領主たちの前に姿を現し、王としての強い印象を与えようと努めたという。

ヘンリー8世 (イングランド王) - Wikipedia


 しかし、国内には30年続いたばら戦争によって、すでに王に対抗できるような大貴族は姿を消していた。
 ヘンリ8世の前には、絶対王政となるべき道が開かれていて、彼はその道を進むだけでよかった。


● ヘンリ8世によるイギリス宗教改革

 ヘンリ8世は生涯に6度の結婚をしたが、男子の嫡子を得たいというのが彼の悲願だった。
 ヘンリ8世は何度も女子の流産を繰り返す初代王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻を解消し、キャサリン王妃の侍女を務めていたアン・ブーリンと結婚し直して、彼女に男子を産ませたいと考えるようになった。
 しかし当時のカトリックでは離婚が簡単には認められなかったため、ヘンリ8世はカトリックから離脱して、イングランド独自の宗派を創設するに至る。


● スペイン出身の初代王妃キャサリン・オブ・アラゴン

 ヘンリ8世の最初の結婚相手はスペイン王家の子女キャサリン・オブ・アラゴンで、この婚姻は当時、新興の大国だったスペインとの関係強化を狙った父ヘンリ7世によって組まれた政略結婚だった。

キャサリン・オブ・アラゴン- Wikipedia


 キャサリンは初め、ヘンリ8世の兄のアーサーと結婚をしていたのだが、わずか2年で亡くなってしまったため、そのままキャサリンはヘンリ8世の王妃とされた。
 結婚当初、ふたりの仲はむつまじく、キャサリンは国民の人気も得ていたが、男子を産むことができなかった。
 キャサリンが出産した6人の子女のうち唯一無事に育ったのは後にイングランド女王となるメアリ一人だけだった。
 しかし男子の嫡子を望むヘンリ8世にはそれが不満で、複数の愛人をつくりはじめる。
 その一人が、キャサリン王妃の侍女だったアン・ブーリン。
 そしてアンが妊娠すると、ヘンリ8世はキャサリンとの結婚を無効とし、アンと結婚してしまう。

アン・ブーリン- Wikipedia


 ただし、当時、カトリック世界では、離婚するにはローマ教皇の承認が必要で、しかもなかなか認められなかった。
 ヘンリ8世の離婚も認められなかったが、そこには、王妃キャサリンがハプスブルグ皇帝カール5世の叔母にあたる女性だったということも影響していた。
 しかしそんなローマ教皇に対し、ヘンリ8世はなんと、ローマ・カトリックからの離脱をして、だけでなく「イギリス国教会」というカトリックの新たな宗派まで立ち上げてあげてしまう。
 1534年、ヘンリ8世は国王至上法(首長法)を発布し、イギリス国教会」(アングリカン=チャーチ )を成立させる。
 この首長法によってヘンリ8世は、イギリスの教会は国王を唯一最高の首長とすることを規定し、そしてイギリスのキリスト教教会を、ローマ教会から分離独立させることとした。
 この法律は、それまで絶大だった教皇至上権を否定し、教会の人事や教会領の掌握などを国王が管理統制してゆこうとするものだった。
 当時、絶対君主が唯一越えられなかったのが、ローマ教皇の存在だった。絶対君主といえども、教会や修道院(大地主でもあった)には手をつけられなかった。
 しかしローマ・カトリックからの離脱を宣言したヘンリ8世は、イングランド国内の修道院の土地や財産を次々と没収し、それを当時、議会の下院を構成していたジェントリ(郷紳)」と呼ばれる国内の新興領主層に分け与えることで、王に対する支持の強化へと変えていった。
 そのためヘンリ8世にとってローマ・カトリックからの離脱は、単に王妃キャサリンとの離婚のためだけでなく、絶対君主として、王権の強化を図るための政略でもあった。


● 二代王妃アン・ブーリンの処刑と王女エリザベスの悲劇

 ヘンリ8世がキャサリン王妃との離婚を決めたのは、キャサリンに代わって王妃の座を強く求める愛人アン・ブーリンの存在も大きかった。
 アンの実家であるハワード家は、もともとノーフォーク地方の農民だったが、曽祖父の代にロンドンへ出てきて財を成し、祖父の代にはサーの称号を得るまでの身分になった。
 祖父のトマス・ハワードは「ばら戦争」において、ヨーク朝最後の王となったリチャード3世に仕えて戦ったが、後に許されてテューダー朝を興したヘンリ7世およびヘンリ8世に仕え、スコットランド王国との戦いでスコットランド王ジェイムズ4世を敗死させるなどの戦功をあらわし、特にヘンリ8世からの信頼が厚かったという。

 そしてそのトマス・ハワードの長女が、ケント州ヒーヴァー城の城主サー・ウィリアム・ブーリンの息子トマス・ブーリンに嫁ぎ、生まれ育った二人の姉妹のうち、妹がアン・ブーリンだった。
 トマス・ブーリンは語学に堪能な外交官で、1518年から1521年にかけてはフランス駐在大使を務め、彼の二人の娘もフランス宮廷に留学し、フランス貴婦人たちの洗練されたファッションセンスや立ち居振る舞い、生活様式、教養などを身につけた女性へと成人した。
 ブーリン家では伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことで、爵位や領地を増やしていっていたという。
 やがてトマス・ブーリンの二人の娘はイングランド王妃キャサリンの侍女として仕えるようになり、そこで・ブーリンはヘンリ8世に見初められて猛烈なアプローチを受けることとなった。
 しかし実はそのとき既にアンの姉メアリー・ブーリンはヘンリ8世の愛人になっていたという。
 だが姉と違ってアンはヘンリ8世の愛人になることを拒絶し続けたという。 
 アンは1523年頃、ヘンリー・パーシー卿(後の第6代ノーサンバランド伯)と恋愛関係にあったのだが、しかしやがて、アンはキャサリン王妃の侍女から離れて実家へ戻ることとなる。
 パーシー卿とアンとの関係は、ヘンリー8世と王の腹心だったトマス・ウルジー枢機卿によって強引に引き裂かれたのだとする話しもあるというが、ところが、1525年の夏頃、25歳にったアンは、いつしかヘンリー8世と同棲する関係になっていたという。
 が、それでもアンはメアリーと違ってあくまで愛人となることは拒否し、正式な結婚を王に求めた。

 一方、ヘンリ8世は1520年頃から王妃キャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして子を産ませようと考えるようになったという。
 アンの姉メアリー・ブーリンは1520年にイングランド貴族サー・ウィリアム・キャリーと結婚し二人の子どもを生むが、その二人の子はヘンリ8世との子だったのではないかとも言われているという。
 ヘンリ8世はとにかく嫡子となる男児を欲しがったが、実はヘンリ8世には既に、他の愛妾であるエリザベス・ブラントとの間にヘンリー・フィッツロイと名付けられた男の子が1519年に生まれていた。
 エリザベス・ブラントも王妃キャサリンの侍女をしていた女性だった。
 ヘンリ8世はヘンリー・フィッツロイを彼の婚外子では唯一認知したが、しかし庶子では当時、王位を継承する権限がなかった。
 
 そこでヘンリー8世はキャサリン王妃との離婚(婚姻の無効)を画策し、腹心のウルジーにローマ教皇クレメンス7世との交渉を始めるように命じた。
 当時、ヨーロッパ大陸では「宗教改革」の嵐が吹き荒れていたが、本来、ヘンリ8世は、ドイツで宗教改革をはじめたマルティン・ルターの考えには好意を持っておらず、そのためローマ教皇から「信仰の護持者」という称号さえ貰っていたほどだった。
 しかしその「信仰の護持者」という称号をかなぐり捨ててまで、ヘンリ8世はキャサリン王妃との離婚を実現させようとした。
 1527年6月には、ヘンリー8世は王妃キャサリンに対して正式に離婚の意思を伝えた。
 しかしキャサリン王妃はこれを拒み、逆に甥だった神聖ローマ皇帝カール5世を通じ、ローマ教皇に圧力をかけさせてヘンリー8世の企てを断念させようとした。
 が、これに怒ったヘンリー8世は1528年1月、フランス王のフランソワ1世と手を組むと、カール5世に対して宣戦布告を行う。
 ヘンリ8世の強硬な態度に、ローマ教皇はイングランドでの教会裁判を許可し、裁判が行われることとなったが、国王側と王妃側とで双方の主張は平行線を辿り、結審することはなかった。
 1529年に入っても状況は変わらなかったため、7月、ローマ教皇により、両者の離婚問題はローマへ移管することが決定されることとなった。
 国王の離婚問題の解決に失敗したウルジーは、これによって罷免される。
 その後も教皇側に離婚を進める動きは全くないまま、1531年夏頃、ヘンリ8世はキャサリン王妃と別居。
 そしてその1531年から法改正などが行われ、1534年には「国王至上法」の成立と共に「イングランド国教会」が創設されてヘンリー8世はその長となり、ローマ教皇庁から独立を果たし、ヘンリ8世はアン・ブーリンと1533年4月12日に正式な結婚を果たすに至る。
 このときアンは妊娠していて、これは生まれてくる子を庶子にしないための措置でもあった。

 ローマ・カトリックから離脱したヘンリ8世は、1538年、教皇パウルス3世により破門される。
 裁判でも結局、ヘンリ8世の離婚要求が退けられ、キャサリン王妃の主張が認められる判決が下される。
 ところが、そこまでしたにも関わらず、王妃となったアン・ブーリンが生んだのはまたしても女の子だった。
 ヘンリ8世の落胆は激しく、次第にアンへの愛情も薄れ、新たにヘンリ8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りしていくようになる。
 だけでなく、その後アンが再び男子を流産すると、アン・ブーリン王妃は姦通罪、近親相姦罪、魔術を用いた罪で逮捕され、ヘンリ8世から処刑される運命となってしまうのだった。
 その裁判の正当性は当時でも疑問とされ、冤罪であると信じられているという。

 しかしその処刑の際、当時のイングランドでは斧を使って斬首していたが、アンは剣での斬首を懇願し、斧での執行を嫌がったという。
 アンは王妃としては贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費したというが、彼女には、洗練された文化によるイングランドのフランス化という思いがあったのかも知れない。
 またアンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたキャサリン元王妃の娘メアリーに対し、自身の娘エリザベスの侍女となることを強要したというが、アンのそうしたキャサリン母娘に対する仕打ちも、それは、長年フランス王国とライバル関係にあった神聖ローマ帝国のオーストリア・ハプスブルク家と血縁関係でつながるスペイン・ハプスブルク家に対する嫌悪感の表れだったとみることもできる。
 
 アン・ブーリンとヘンリ8世との間に生まれたエリザベスは、後にテューダー朝最後の王エリザベス1世となるが、彼女は大国イギリスの基礎を築く偉大な女王となった。
 ただ、フランスの流儀にこだわりがあったと思しき母のアンに対し、娘のエリザベスは、ひたすら他国からの干渉を受けないイングランドの自主独立性を確立させたという点で、対照的な存在だった。


● 3番目の王妃ジェーン・シーモアとの間に待望の男児が誕生

 アン・ブーリンに失望したヘンリ8世は、今度はまたアンの侍女をしていたジェーン・シーモアとの婚姻を考えるが、そのためにはアンが邪魔だった。
 アンを処刑に追い込んだヘンリ8世はジェーンを王妃として迎え、そして二人には遂に、のちにエドワード6世として即位することとなる待望の男子が誕生した。
 しかし、母親のジェーンは産後、すぐに死去してしまった。


● 4番目の王妃として迎えられながらすぐに離縁され「王の妹」として実家に戻されたアン・オブ・クレーヴズ

 三番目の妻ジェーンの次にヘンリ8世の王妃として迎えられたのは、ドイツ貴族のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アン・オブ・クレーヴズ
 この婚姻は、それまで手を組んでいたフランス王のフランソワ1世が1539年になって神聖ローマ帝国カール5世と同盟を結んだことがきっかけだった。
 これまでは一緒に神聖ローマ帝国を相手に戦っていた同盟国のフランスがあべこべに神聖ローマ帝国と手を結んで、イングランドは逆に両者から攻められる立場に置かれてしまった。
 孤立を恐れたヘンリー8世は、ヨーロッパ大陸に別の同盟者をつくるための新たな王妃を探そうとし、それに見合った相手がドイツ貴族のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世だった。
 1540年にヘンリー8世とアンは結婚するが、ところがそのすぐ半年後には離婚。
 この離婚は、国際情勢が変化し、アンとの結婚がイングランドの危機を招きかねない状況へと変わったからだという。
 1544年には、ヘンリ8世は再びカール5世と連合してフランスに攻め込むといった展開になる。
 ただ、実力者の娘を粗略にはできず、離婚したアンには領地と年金が与えられ、さらに「王の妹」なる称号も貰い、アンはその後もイングランドに残り、ロンドン市内のベイナーズ城で余生をすごして暮らしたという。


● 本当の浮気が発覚して処刑された五番目の王妃キャサリン・ハワード

 アン・オブ・クレーヴズと離婚した1540年、49歳になっていたヘンリー8世はすぐにまた19歳のキャサリン・ハワードと五度目の結婚をする。
 キャサリン・ハワードは第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子エドムンド・ハワードの娘だったが、キャサリンも4番目の王妃アンの侍女をしていた女性の一人だった。
 ヘンリーは若い王妃に夢中になり、年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がったという。
 ところがこのキャサリン・ハワードには本当にかつての恋人との密通が発覚し、2番目の妻アン・ブーリンと同様、姦通罪で処刑されてしまう結末となった。


● 継母でありながら二人の子女の王位継承権を復活させた聡明で慈愛の精神に溢れた最後の王妃キャサリン・パー

 1543年、51歳になったヘンリー8世は、富裕な未亡人キャサリン・パーと6度目の結婚をし、これが最後の結婚となった。

キャサリン・パー - Wikipedia


 キャサリン・パーのほうもこのとき既に二人の夫に死に別れた31歳の未亡人だったが、キャサリンが嫁いだ二人の夫は共に高齢で、子をもうけることもなく、まるで介護のような短い結婚生活だったという。
 年老いて重い病に苦しめられるようになったヘンリー8世にとっても、キャサリン・パーとの結婚はもはや子づくりが目的ではなくなっていたようだ。
 実際キャサリンは、結婚後も王の看護を侍医に任せきりにせず自ら率先して熱心に行ったため、王からの信頼も厚いものとなった。
 しかもキャサリンは才女として知られ、特に神学についての造詣が深かったというが、彼女は「イングランド王室史上最高のインテリ」と評されたヘンリー8世と対等に学術談義ができるほどの知性の持ち主だった。
 キャサリンは、彼女は庶子の身分に落とされていたメアリーとエリザベスを王女の身分に戻すことをヘンリ8世に申し出て認められ、彼女たちの王位継承権を復活させただけでなく、まだ幼かったエドワード王子やエリザベス王女の養育まで任されるようになる。
 1544年にヘンリーがフランス遠征をした3か月間、キャサリンは国王代理として摂政を任されたほどだった。

 しかしそんな彼女でも、王の不信を買って殺されそうになったことがあった。
 当時イングランドでは、「宗教改革」の影響でカトリック教会とイングランド国教会の対立が止まなかったが、実はキャサリン・パーはヘンリ8世の嫌うプロテスタントだった。
 そのためキャサリンはカトリック司祭らの怒りを買い、キャサリンが異端者であるとヘンリ8世に訴えられ、王がそれでキャサリンの逮捕状を出すというところまでいった。
 が、キャサリンが王に、
「女はこの世の始めから、男に従うように作られています。夫は妻を教育すべく全てに指図するものです」
「あなたは優れた教養と知性の王子ですわ」
といって自らの信仰の潔白を説くと、ようやく王から許されることができたという。

 翌日キャサリンを異端者として逮捕すべくフロセスリーらが現れると、ヘンリーは怒って肩や頭を殴りつけたという。

 ヘンリ8世は生涯、絶対君主として王の権威や権力の確立に邁進した国王だったが、王がかつて自分の妻たちにした残酷な行いは、それは"絶対君主"の威厳を犯すものに対してといった意味もあったかもしれない。


● プロテスタント派の王エドワード6世とカトリック派の女王メアリ1世

 妻と離婚したい一心からローマ・カトリック教会から離脱して、教皇から破門されながらもイングランド王国独自の「イギリス国教会」という新宗派までつくってしまったヘンリ8世だったが、1547年に55歳で死去。
 後継は三番目の王妃ジェーン・シーモアとの間にようやく授かった男子が9歳の若さでエドワード6世として即位。
 ところがエドワード6世は健康に恵まれず、在位6年余りで15歳で死去。
 彼には子がなかったため、その後はヘンリ8世最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれた子女がメアリ1世として即位することとなる。

 ヘンリ8世が宗教を変えてまで欲した男児のエドワード6世だったが、ところがこのエドワードは、ヘンリ8世が大嫌いだった宗教改革によって生まれたプロテスタントの熱心な信者になってしまっていた。
 幼いエドワード6世の養育をヘンリ8世から任された6番目の王妃キャサリン・パーが信仰心の篤いプロテスタントだったが、キャサリンはプロテスタントであることがバレて王に処刑されそうになったほどだった。
 しかしエドワード6世の治世にヘンリ8世はいなかった。
 若きエドワード6世の後見役となった母方の伯父サマセット公エドワード・シーモアもプロテスタントで、サマセット公失脚後に台頭したノーサンバランド公ジョン・ダドリーもプロテスタント的な政策を推し進めた。
 エドワード6世のとき、1549年に一般祈祷書が制定され、この一般祈祷書に定められたとおりにイギリス国教会の礼拝が行われるように決められたが、その内容は聖書を重視し、プロテスタントの予定説の考えが採用されるなど、カトリックの教義には反するものだった。
 1553年には信仰基準を定めた「42箇条」(信仰箇条)も制定され、信仰によってのみ救われるというプロテスタントの教えが確認されると共に、他には、「化体説」(教会のミサによって聖餐のパンと葡萄酒がキリストの血と肉に化すという説)を否認し洗礼と聖餐を除いてそれ以外の聖典礼を廃止するようにしたり、またそれ以外にも僧侶の結婚の承認、ミサの廃止・・・・・・と、ヘンリ8世が「国王至上法(首長法)」で定めた、国王を首長(教会の最高の統治者)とし、イギリス国王が主教を任命するという「主教制」は維持されたものの、他の面ではルター派とカルヴァン派の要素が多く取り入れらるような改革が行われた。

 エドワード6世はわずか15歳で亡くなってしまったが、死後、プロテスタントたちから純真な少年王として偶像視されるようになり、そんな彼の偶像から、マーク・トウェインによる『王子と乞食』の小説も生まれた。

 プロテスタントたちにとっては好ましい治世となったエドワード6世の時代だったが、彼の死後、新たな王位に就いたメアリ1世は、カトリック大国スペイン出身だった母と同じく熱心なカトリック信者だった。

 メアリ1世は即位するや、父ヘンリ8世、エドワード6世とつづいた反カトリック的な政策を放棄して、ローマ・カトリックとの和解をした。
 そしてその一方、イングランド国内のプロテスタントを弾圧し、改めない者を火あぶりの刑に処していった。
 そこから彼女に対してつけられたあだなが「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」だった。
 また、メアリ1世は、イングランド王国におけるカトリックの長き安泰を願って、結婚相手に従兄で神聖ローマ皇帝カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。
 しかしカトリック大国スペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいて反対する者も多く、国内での反乱も発生した。
 当時のスペインは「太陽の沈まない」強国で、スペインとの関係強化はフランスに対する牽制の意味合いもあったが、だが、フェリペ2世の要請を受けて参戦したフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)で、イングランドはフランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになったり、また、フェリペ2世とメアリ1世との間に子が誕生することもないままに終わった。


● 大国イギリスの礎を築いた偉大なる女王「エリザベス1世」

 15世紀までのイングランドは、ヨーロッパ全体からみれば、けっして大国ではなく、人口でも1500万人のフランス、800万人のスペインに比べ、300万人のイングランド王国は格落ちの感が否めなかった。
 ところが16世紀後半、エリザベス1世の時代にになって、イングランドは急成長をはじめる。



 イングランドではヘンリ8世の死後、エドワード6世によるプロテスタント化の時代になったかと思えば、次のメアリ1世の時代にはカトリック化に逆流するなど、宗教問題で大きく揺れ動いた。
 メアリ1世についで1558年に即位したエリザベス1世自身はプロテスタントの教育を受けて育ったが、彼女の宗教政策は現実主義だった。
 エリザベス1世は、プロテスタントの勢力が増大したイングランドが、カトリックにとっての異端とみなされ十字軍の討伐対象となるような事態を恐れていたという。それ故エリザベスはカトリック勢力を大きく刺激することなく、国内の、より急進的な改革を求めるピューリタンの思想にも寛容になることなく、政治的に中道路線をとり、イギリス国教会に、カトリックもプロテスタントも取り込む基礎をつくるような体制の構築に努めた。
 エリザベスは基本、エドワード6世によって進められた宗教改革を踏襲し、父ヘンリ8世の時に制定された「首長法(国王至上法)」に従い、イギリス国王が主教を任命する「主教制」を維持してイギリス国教会をあくまで王権の管理下に置きつつも、しかし教義の内容に関しては、エドワード6世のつくった「42箇条」を改定した39箇条を制定して、プロテスタントの教えがそこに反映されるようにした。
 また、「首長法(国王至上法)」も改定して、イギリスの教会は、国王を唯一最高の「首長」だとしていた規定を改め、イギリス国王は教会の「統治者」だというふうに改定をした。
 これにより、イングランド国王は神の側に属する宗教指導者ではなく、あくまで世俗の権力者のうちの大なる存在にすぎないのだというスタンスが確立されることとなった。

 また、エリザベス1世は財政安定のため、海洋・貿易立国を志向する。
 まず、東地中海に貿易会社を設立し、1600年にはイギリス東インド会社設立してアジアにも進出。

 エリザベス1世は、父のヘンリ8世同様、ルネサンス的な知識を身につけた絶対君主といえたが、父よりもはるかに柔軟で現実的な政治センスをもっていた。
 エリザベス1世は生涯結婚をせず「処女王」(ヴァージン・クィーン)と称されたが、その理由は、イングランドの政治的独立を守ることにあった。
 スペイン王フェリペ2世をはじめ、大国の大物たちが求婚してきたが、彼女はすべて断わった。彼ら大国の王や後継者と結婚することで、イングランドがその大国の支配下に置かれることを恐れたのだ。
 たとえば、スペイン王フェリペ2世と結婚すれば、その子はスペインのフプスブルク家の血引くこととなり、後継者がやがて即位したとき、後継者の気持ちしだいで、イングランドはスペイン・ハプスブルク帝国の下に立たされることになる。エリザベス1世は、それを避けようとしたのだった。

 メアリ1世の場合は、逆に皇太子時代のフェリペ2世と結婚することによって、フランスに対抗することを考えたが、ただし国内では大きな反発も生じた。
 が、エリザベス1世は大国スペインに頼るどころか、むしろ喧嘩を吹っかけた。
 当時、ヨーロパではスペインとポルトガルがいち早く外洋に進出し、海洋帝国を築き上げていたが、乗り遅れたイングランドではその挽回策として、なんとスペインの富を海上で略奪することを考えた。
 エリザベス1世の時代、イングランドからフランシス・ドレークリチャード・ホーキンスなど名立たる海賊が現れ、彼らはイングランドでは海賊とは呼ばれず「探検家」「黄海家「商人」などと名乗っていたが、実態は海賊と変わらなかった。
 彼らが主に狙ったのが、カリブ海のスペイン船。
 スペインの富の源泉は、南米大陸のポトシ銀山から採掘された銀で、イングランドの海賊たちはスパイ網を張り巡らせてスペイン船の動向をキャッチすると、カリブ海で待ち伏せして襲撃し、富を略奪した。
 彼らが海賊稼業を行うには元手が必要だったが、そのスポンサーになったのはエリザベス1世や彼女の側近たちだった。
 海賊が略奪に成功すれば、巨額の配当が転がり込んできた。
 ドレークら海賊たちは、イングランドに莫大な富をもたらし、ドレークだけでも当時のイングランドの国家予算約20万ポンドの三倍に相当する60万ポンドをイングランドにもたらしたと推定されている。
 
 16世紀後半、フェリペ2世のスペインは、南米大陸の銀と、支配下にあったオランダの富を基盤に、大陸最強の国家となっていた。
 イングランドではテューダー朝のフェリペ7世以来、スペインの機嫌をうかがいながら外交政策を進めてきた。
 エリザベス1世も、当初はフェリペ2世と友好関係にあったが、オランダに発生した独立運動をきっかけにスペインと激しく対立しはじめるようになった。
 オランダの独立運動を封じ込めようとしたスペインに対し、エリザベス1世は自国の安全保障上、オランダの独立を支持した。
 これに対してフェリペ2世もついにイングランドへの侵攻作戦を計画し、1588年に行われたのがアマルダの海戦だった。
 130隻の艦隊を編成したスペイン海軍は、フランスのカレー沖でイングランド艦隊と激突。
 当時、スペイン海軍は、1571年にオスマン帝国の艦隊を「レパントの海戦」で破ったことで「無敵艦隊(アマルダ)」と呼ばれ恐れられていたが、イングランド艦隊は艦隊副司令官に叙任されたフランシス・ドレーク指揮の下、火のついた船を敵艦隊に送り込むといった海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させ、大勝利を収めた。
 7月末から8月初めの間に行われた両軍の一連の海戦に敗れたスペイン無敵艦隊は、それ以上の作戦続行を断念し、スコットランドとアイルランドを迂回してスペインへの帰還を図ったが、その途上で大嵐に遭い、スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻のみだった。
 その後も何度かスペインはイングランドへの侵攻を試みるが、やはり悪天候に阻まれて成功を収めることはできずに終わった。




「テューダー朝」から「スチュアート朝」へ

●「グレートブリテン王国」の誕生

 生涯独身だったエリザベス1世には子がなく、1603年に彼女が死去すると、テューダー朝は断絶してしまう。
 そこで、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王ノジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として即位し、ここに「ステュアート朝」がはじまることとなった。
 イングランドとスコットランドは同じ国王を推戴する「同君連合」の国となった


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