CCのブロマガ

ややこしい 古代~中世イギリス史のまとめ ② (百年戦争、ばら戦争)

2019/04/20 20:39 投稿

  • タグ:
  • 歴史
  • 世界史
  • イギリス
  • 百年戦争
  • ランカスター朝
  • ジャンヌ・ダルク
  • ヨーク朝
  • ばら戦争
  • テューダー朝

古代~中世イギリス史 ②(百年戦争、ばら戦争)


古代~中世イギリス史 まとめ ①

~ケルト系ブリトン人」支配時代~
● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

~「ローマの属州」時代~
● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
 ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
 ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

~「プランタジネット朝」時代~

● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
 ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
 その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
 1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
 リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
 リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
 フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

● ヘンリ3世が即位。
 ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
 ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
 マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
● モンフォール議会の招集。(1265年)
 シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
● 模範議会の招集(1295年)
 先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)

● 王妃イザベラ(仏王フィリップ4世の娘)による夫エドワード2世の廃絶(1327年)


古代~中世イギリス史 まとめ ②

~「プランタジネット朝」時代~
● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
 フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
● 「スロイスの海戦」(1347年)
 エドワード3世が海戦でフランス軍を撃破。
● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1347年)
● 「ポワティエの戦い」(1356年)
 エドワード3世の長子エドワード黒太子がフランス軍を撃ち破り、フランス国王ジャン2世を捕虜にする。
● 「ジャックリーの農民一揆」(1358年)
 国王が捕虜となり混乱したフランスで発生した農民一揆。
● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
 捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世が、ガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポンティユー、ギーヌなどフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行。(1361年)
● エドワード3世が死に、孫のリチャード2世(エドワード黒太子の子)が10歳でイングランド国王に即位。(1377年)
● 「ワット・タイラーの反乱」(1381年)
 ペストの発生や長く続く戦争の影響により、イングランド国内で巻き起こった農民一揆。
● 
イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1390年)

~「ランカスター朝」時代~

● ヘンリ4世の即位。(1399年)
 エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1413年)
● 「アジャンクールの戦い」(1415年)
 ヘンリ4世の子ヘンリ5世の活躍でフランスの大軍を撃破。
● 「トロワ条約」の締結(1420年)
 ヘンリ5世がが戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
 追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じる。
● 「アラスの和約」(1435年)
 イングランドと同盟していたブルゴーニュ公フィリップ3世が、シャルル7世と和睦。トロワ条約も破棄される。
● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1439年)
● 「フォルミニーの戦い」(1450年)
 フランス王国とブルターニュ公国の連合軍がイングランド王国軍を破り、イングランドからノルマンディー地方を奪還。
● 「カスティヨンの戦い」(1453年)
 フランス王国とブルターニュ公国の連合軍がイングランド王国軍を破り、イングランドからガスコーニュ地方を奪還。百年戦争の終結。


~「ヨーク朝」時代~
● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
 プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
● エドワード4世が即位。(1461年)
 ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。


~「テューダー朝」時代~
● リチャード3世が即位。(1461年)
 13歳で即位したヨーク朝のエドワード5世が、叔父でエドワード4世の弟だったグロスタ公リチャードにロンドン塔に幽閉されて王位を奪われ、リチャードがリチャード3世として即位。
● ヘンリ7世が即位。(1485年)
 ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


近世イギリス史 まとめ

~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
● ヘンリ8世による宗教改革「イギリス国教会」の設立。(1534年)




● エドワード3世と「百年戦争」の勃発

 エドワード2世の死後にプランタジネット朝のイングランド王として即位したのがエドワード3世で、彼の治世のときに発生したのがイングランド王国とフランス王国との間に巻き起こった「百年戦争」。
 
 百年戦争は1328年に、エドワード3世が、カペー朝の断絶を受けてフランス王に即位したフィリップ6世に対し、自身のフランス王位継承を主張したことをきっかけに始まった。
 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝だったが、1328年に、シャルル4世の死によって男子の継承者を失ったため、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承されることとなった。
 しかしイングランド王のエドワード3世も母がカペー家の王女だったことから自らフランス王の後継者争いに名乗りを上げた。
  これに対しフィリップ6世は1337年5月に、スコットランドと呼応してイングランド王国に残されていた大陸領土のアキテーヌ公領及びポンチュー伯領の没収を宣言し、ガスコーニュへと軍を進め、こうして百年戦争が開始されることとなった。

 当時のイングランド王国は、フランス王からノルマンディー公として封建され臣下となっていたギヨーム2世(のちイングランド王ウィリアム1世として即位)が、ノルマン・コンクエストによってブリテン島を征服して建国した王国で、その後ウィリアム1世の末子ヘンリ1世の娘マティルダがフランス王国のアンジュー伯ジョフリ=プランタジネットと結婚したことにより、その子のヘンリ2世からプランタジネット朝イングランド王国(アンジュー朝)となった。
 ヘンリ2世はさらに、フランスの地方領主であるアキテーヌ公ギヨーム10世の娘アリエノールと結婚して彼女の相続地アキテーヌ公領の共同統治者ともなったが、その後、プランタジネット朝イングランドはジョン王がフランスとの争いでその大半を失ったため、あとに残された領土はアキテーヌ公領のみという状況になってしまっていた。
 エドワード3世は祖先が失った大陸領土の再奪取を目論んだ。

 エドワード3世の父エドワード2世は「最低の王」といわれ、エドワード2世が14歳のころ、母であるイザベルとその愛人だったロジャー・モーティマーによって廃絶に追い込まれたが、エドワード3世は母イザベルとその愛人ロジャーの専横に耐えつつ、権力奪取の機会をうかがった。
 そしてエドワード3世が18歳になった1330年3月、エドワードの叔父にあたるケント伯エドマンドが、国王に無断でロジャーによって処刑された機会を捉え、エドワード3世は11月に宮廷革命を起こして母とロジャーを逮捕し、母は終身幽閉処分に、ロジャーは死刑にして実権を取り戻した。
 エドワード3世は父には似ず、むしろ祖父のエドワード1世に似て、戦場で武名を高めた豪胆な王だった。

 「百年戦争は主に次の四つの問題を争点に英仏間で争いが行われた。

・フランス王位継承問題
 フランス王族の血を引くイングランド王とフランス王との王位継承を巡る争い。

・旧アキティーヌ公領帰属問題
 イングランド王がフランス王の臣下として大陸内に所有していたアキティーヌ公領のうち、残されていたギュイエンヌ地方の争奪をめぐる英仏王家の戦い。

・フランドル伯領領有問題
 フランドル地方は11世紀頃より、イングランドから輸入した羊毛を使って生産した毛織物によってヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。
 しかしその後、豊かなフランドル地方の領有を狙ってフランス王フィリップ4世が直轄支配に乗り出してくる。
 フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟して対抗するも、1300年にフランドルはフランス王国に併合される。
 しかし重税に不満を抱いたフランドルの都市同盟が反乱を起こし、1302年の「金拍車の戦い」に勝利してフランスから独立。
 ところが、1323年、フランドル伯のルイ1世が親フランス政策を取ったため、都市同盟が反乱を起こしてフランドル伯を追放。
 するとこれにフィリップ6世が1328年、フランドルの反乱を鎮圧してルイ1世を元の地位に戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドというような状態となっていた。

・スコットランド問題
 13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年には「バノックバーンの戦い」でスコットランド王ロバート・ブルースに敗北。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功する。
 だが、元のスコットランド王デイヴィッド2世もフランスへと亡命し、フィリップ6世の庇護下に入り、イングランドとの対立を続けた。



※百年戦争(前期)

百年戦争(ひゃくねんせんそう)とは - コトバンク

 百年戦争開戦当初、フランスとイングランドには大きな国力差があり、兵士の動員力ではフランスが圧倒的に多かった。
 だが、結果は逆となり、エドワード3世率いるイングランド軍は、1346年のクレシーの戦いでフランス軍に圧勝し、さらに1356年のポワティエの戦いでも、エドワード3世の子・エドワード黒太子がフランス軍を撃破して、フランス国王ジャン2世を捕虜にするなどした。
 イングランド軍圧勝の背景には「ロングボウ」と呼ばれる長弓部隊の活躍があった。
 イングランドはウェールズ征服戦の過程で、ウェールズの長弓に苦戦した。重装備の騎士でさえ、長弓の前には防御不足だったという。
 イングランドはこの長弓の威力を認識して自らの装備に採用、対フランス戦で長弓を浴びせかけ、フランス軍はそれに対処ができなかったのだった。


「百年戦争」の主な流れ

1340年・・・「スロイスの海戦」
 エドワード3世が自ら指揮してフランス軍に勝利した海戦。

1346年・・・「クレシーの戦い」
 エドワード3世の長子エドワード黒太子の活躍でイングランドが勝利してカレーを占領。



1347年・・・イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行。
 ペストの流行は一度だけでなく、1361年、1369年、1390年、1413年、1439年と、百年戦争の間だけで五度も流行し、イングランドの人口は、14世紀末には14世紀初頭の半分程度にまでなったという。
 しかし、ペストによる農業労働人口の不足は農民たちにとってチャンスともなり、労働不足のため労働賃金が上昇。
 富裕な農民は耕作者のいなくなった農地を安く買い取り、農地を増やし、農民の力が領主に対して相対的に強くなり、農民たちはやがて領主相手に関係の変更を迫るようになって、ワット・タイラーの反乱などを引き起こすようになっていった。

1356年・・・「ポワティエの戦い」
 英国エドワード黒太子の活躍でイングランドが勝利し、フランス国王ジャン2世を捕虜にする。



1358年・・・「ジャックリーの農民一揆」
 国王が捕虜となり混乱したフランスで発生した農民一揆。

1360年・・・「ブレティニー条約」の締結
 捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件として、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりに、ガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポンティユー、ギーヌなどの広大な領土を獲得。


1377年・・・エドワード3世の死去に伴い、孫のリチャード2世(早世したエドワード3世の長子・エドワード黒太子の子)が10歳で国王に即位。

1381年・・・「ワット・タイラーの反乱」
 百年戦争時代のペストの流行は、労働力不足を引き起こし、農民の地位を相対的に引き上げた。その結果、農民たちは王や貴族を恐れなくなって、一揆を起こすようになり、その最大のものがワット・タイラーの反乱だった。
 反乱は百年戦争遂行のための軍事費捻出のために、イングランドで新たな人頭税が課されたことがきっかけだった。
 ワット・タイラーらは、農奴制の廃止、一揆参加者への恩赦、商取り引きの自由、地代の減額を、エドワード3世の孫にあたる国王リチャード2世に求めた。
 反乱の思想的指導者だった僧のジョン・ボールは、
「アダムが耕しイブが紡いだとき、だれが貴族だったか」と身分制度を批判。
 革命的な要素を帯びた反乱の勢いに、リチャード2世も一旦は一揆側の要求を呑まざるをえない状況へと追い込まれるが、しかしその直後、ワット・タイラーが暗殺されたことで反乱は終息した。


1399年・・・リチャード2世が内乱によって廃位され、ヘンリ4世が即位。(「プランタジネット朝」→「ランカスター朝」の成立)
 エドワード3世の死後、即位した孫のリチャード2世だったが、エドワード3世の晩年、イングランドはフランス王シャルル5世の反撃によって、フランス内のイングランド領は大きく減少し、国内ではワット・タイラーの乱が発生。
 リチャード2世は威信を挽回すべく強権をふるおうとしたが、議会との対立を深めてしまい、王の権威は下がる一方となって、叔父たちが政務を握るようになった。
 伯父の一人でランカスター公のジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の次男でエドワード黒太子の弟)はリチャード2世に子がなかったため、彼は息子ヘンリ・ボリングブルックへの王位継承を主張した。
 ランカスター家としてはリチャード2世の後ろ盾のつもりだったが、ジョンが死ぬと、リチャード2世はランカスター家の所領を没収してしまう。
 これに怒ったジョンの息子ヘンリは兵を挙げてリチャード2世を捕えると、貴族や市民もヘンリを支持し、ヘンリ4世として即位。こうして「ランカスター朝」が開始された。


※百年戦争(後期)

百年戦争(ひゃくねんせんそう)とは - コトバンク

1415年・・・「アジャンクールの戦い」
 ランカスター朝の祖となったヘンリ4世の子ヘンリ5世が、倍以上のフランス軍の大軍を撃破した戦い。



1420年・・・「トロワ条約」の締結
 戦争でフランスを追いつめたヘンリー5世がフランスとの間に結んだ条約。
 しかしこのころフランスでは、国王のシャルル6世が精神異常をきたしてまともに政務が執れない状態で、国はシャルル6世の妻・イザボー(スペイン王家の出のイザベル)とブルゴーニュ公フィリップ3世に率いられた「ブルゴーニュ派」と、王太子シャルル(後のシャルル7世)を擁する「アルマニャック派」とで対立していた。
 当時フランスの利益を代表していたブルゴーニュ公フィリップ3世は、アルマニャック派に対抗するためにイングランド王のヘンリー5世と同盟を結び、王太子シャルルから王位継承権を奪って廃位に追い込む。
 シャルルは全ての称号を失ってブールジュに逃れ、アルマニャック派の支持でロワール川以南の支配を維持するのがやっとだった。
 その一方で王妃イザボーとブルゴーニュ公フィリップ3世は、条約の取り決めでシャルル6世とイザボーの娘カトリーヌとイングランド王ヘンリー5世の結婚を決定し、この結婚によってヘンリー5世は唯一のフランス王位の継承者となり、摂政としてフランスの国政に携ることとなった。
 そしてシャルル6世の死後は、ヘンリー5世とブルゴーニュ派の支持する王妃イザボーの娘との間に生まれた子へと、正式なフランス王位が継承されるようにしたのだった。

1422年・・・ヘンリー5世が遠征中に34歳の若さで赤痢のために病死。代わって1422年8月31日に、ヘンリー5世とシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)との間に生まれたヘンリー6世が即位するが、まだ生後9ヶ月でしかなかった。
 また、2ヶ月後の10月にはシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位も受け継ぐこととなった。

1428年~29年・・・「オルレアン包囲戦」
 
イングランド王ヘンリー5世とブルゴーニュ派によってフランス南部へと追いやられた王太子シャルルだったが、アルマニャック派に擁立されて1422年、イングランド・フランス連合王家に対抗する形でフランス王国の王位(ヴァロワ朝)を継承。
 しかしシャルルに対する排撃の手は止まることなく、イングランド王国はブルゴーニュ派と連携して、1428年10月にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。
 シャルルとアルマニャック派にとっては、ここを落とされれば後は亡命するしかないような状況だったが、そこに現われたのがジャンヌ・ダルクだった。
 ジャンヌはフランス東部に生まれた農夫の娘でしかなかったが、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「神の声」を聴いた彼女は、直接シャルルに拝謁を願い出て、シャルルからオルレアン解放軍の指揮官の一人に任命されることとなった。
 ジャンヌ・ダルクの登場によってそれまでの消極策から積極策へと転じたフランス軍は連勝連勝し、1429年5月には遂にイングランド軍の包囲からオルレアンの解放に成功する。
 7月17日、シャルル7世はランスへ赴き、ノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行し、正式にフランス王として即位。
 しかしジャンヌ・ダルク自身はその後、1430年5月のコンピエーニュ包囲戦で敵の捕虜となり、翌1431年5月30日に火刑に処される運命となってしまうのだった。




1435年・・・「アラスの和約」
 イングランドと同盟していたブルゴーニュ公フィリップ3世が、シャルル7世と和睦。トロワ条約も破棄され、フランス王国の反撃が始まる。

1450年・・・「フォルミニーの戦い」
 フランス王国とブルターニュ公国の連合軍がイングランド王国軍を破り、イングランドからノルマンディー地方を奪還。

1453年・・・「カスティヨンの戦い」
 フランス王国とブルターニュ公国の連合軍がイングランド王国軍を破り、イングランドからガスコーニュ地方を奪還。
 これによりイングランド王国は、フランスにおけるイングランド領の大半を喪失し、長く続いた百年戦争にも終止符が打たれることとなった。



「ばら戦争」への突入(1453年~)

●「ランカスター家」と「ヨーク家」の対立

 プランタジネット朝(アンジュー朝)のイングランド王エドワード3世は、歴代イングランド王の果たせなかった旧領の回復を狙って百年戦争を挑み、戦いを優勢に持ち込んだが、晩年に衰えて政治を顧みなくなり、そのためいったんはフランスから奪取した領地もフランス側に奪還される結果となってしまった。
くわえて、ペストの大流行によって国力は大きく減退し、そして労働力の不足と共に力を増大させていった農民たちの反乱が相次ぐようになって、王や貴族の力は衰えていった。

 エドワード3世の孫リチャード2世の代にはワット・タイラーの乱が発生。
こうした状況の中、エドワード3世の四男だったジョン・オブ・ゴーントのランカスター家が台頭してきて、ジョンの子ヘンリは、跡継ぎの生まれなかったリチャード2世に代わってヘンリ4世として即位するに至る。
 こうして「ランカスター朝」が開始。
ヘンリ4世の子ヘンリ5世は1415年のアジャンクールの戦いなどで勇名を轟かせ、一時はフランス王を追いつめ、「トロワ条約」によって自らの子にフランス王位継承を認めさせたほどだったが、ヘンリ5世は34歳の若さで急死。
 しかも、跡を継いだヘンリ6世はわずか9歳で、イングランド王国は王の代行の座を狙おうとする叔父たちの対立で内乱状態へと突入。
 国外でもジャンヌ・ダルクがフランスに現われ、イングランドはヘンリ5世によって回復された領地を次々と失い、フランスから追い出されてしまうのだった。

 イングランド国内の内乱の中から新たに台頭してきたのがヨーク公リチャードだった。
 ヨーク家はエドワード3世の5男エドマンドを祖とし、リチャードはヨーク家の三代目だった。
 しかし、ヨーク家の台頭に、ヘンリ6世の王妃マーガレットはランカスター家の存続を望んでヨーク家と対立。
 そして、「百年戦争」の終結からまだ2年しか経っていなかった1453年より、イングランド王国ではランカスター家とヨーク家の両家が衝突する新たな内乱が勃発。
 30年におよんだ一連の内乱は「ばら戦争」と呼ばれる。
 ただし、この両家はつねに戦争をしていたわけではなく、ばら戦争とは3次にわたる内乱の総称になる。

● ばら戦争「第一次の乱」(ランカスター朝に代わって「ヨーク朝」が成立)
 ばら戦争第一次の内乱では、ヨーク家のリチャードが戦死するが、リチャードの長男エドワードが台頭し、彼は諸侯やロンドン市民を味方につけると、1461年にエドワード4世として即位。
 これが「ヨーク朝」のはじまりとなった。

● ばら戦争「第二次の乱」
 ばら戦争第一次の乱におけるヨーク家エドワード4世の勝利は、のちにキング・メーカーと称されたウォリック伯リチャード・ネヴィルの貢献が大きかったが、そのウォリック伯がエドワード4世と仲違いして反乱を起こしたことで第二次の乱が勃発。
 ウォリック伯は、ヨーク家エドワード4世の王妃に、フランス王の娘との婚姻を考え縁談を進めていたが、エドワード4世は敵対者であるランカスター派の騎士に嫁ぎ未亡人となっていたエリザベス・ウッドヴィルと勝手に結婚し、だけでなくウッドヴィル家がウォリック伯に対抗する外戚として大きくなったため、怒ったウォリック伯はエドワード4世と仲違いし、1469年に反乱を起こす。
 しかし、エドワード4世の巻き返しに遭って、ウォリック伯はフランスへの亡命を余儀なくされる。
 ウォリック伯がフランス王のルイ11世の庇護を求めると、ルイ11世はヘンリ6世の復位を考え、そのころ同じ故郷のフランスに亡命していたヘンリ6世の王妃マーガレットら亡命ランカスター派とウォリック伯との和解を調停し同盟を結ばせた。
 そして1470年、彼らの反撃を受けたエドワード4世が敗れて、ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世が復位を遂げる結果となった。
 こうして一時はランカスター朝を復活させたウォリック伯だったが、敗れてブルゴーニュへと亡命していたエドワード4世が、ブルゴーニュ公の後押しによってイングランドに再上陸を果たすと、ランカスター派はまたしても逆転され、ヨーク家のエドワード4世が復位して収まるという結末に終わった。
 ランカスター派のウォーリック伯はバーネットの戦いで討ち取られ、ランカスター朝最後の国王ヘンリー6世もロンドン塔に再び幽閉されたのち死去。
 王妃のマーガレットはウォーリック伯の死後、自ら果敢にイングランドへと上陸してヨーク朝のエドワード4世に戦いを挑むも、敗れて捕らわれの身となる。
 マーガレットはルイ11世が身代金を支払うことで釈放されたが、条件として王妃の称号の剥奪と寡婦財産の放棄をさせられ、さらにフランスでも、助けられたはいいが、アンジューにおける相続権をルイ11世に取り上げられてしまうなど、晩年は貧困に苦しんだ末の死去だった。

● ばら戦争「第三次の乱」(ヨーク朝に代わって「テューダー朝」が成立)
 ランカスター朝を打倒しヨーク朝を確立したエドワード4世だったが、エドワード4世が亡くなると新たな「第三次の乱」が勃発。
 エドワード4世の死後、13歳で即位したエドワード5世は、叔父でエドワード4世の弟だったグロスタ公リチャードにロンドン塔に幽閉され、王位を奪われてしまう。
 リチャードはその後、リチャード3世として即位。
 リチャード3世は後世シェイクスピアの戯曲で、王となるために次々と近親者を幽閉・殺害した稀代の奸物として有名になるような人物だった。
 こうした状況に、ランカスター家の傍流で、ヨーク朝との対立のためにフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーの下に反ヨーク派が結集し、フランス王シャルル8世も反ヨーク派を支援。

 テューダーは1485年にウェールズへ上陸し、ウェールズ勢を兵力としてヨーク朝のリチャード3世軍をボズワースの戦いで破り、バラ戦争を終結させ、同年に即位してヘンリ7世となり「テューダー朝」を開いた。



ばら戦争(ばらせんそう)とは - コトバンク



百年戦争/イギリス・フランス両国王朝略系図



●イギリス絶対王政への道

 ばら戦争は最終的にテューダー朝の成立をもって終結したが、一連の抗争はイングランドの貴族をひどく疲弊させる結果となった。
 貴族の数は半分に減り、残った貴族も力を失い、王権を左右するようなキング・メーカー的な存在も消滅した。
 こうして、貴族が力を失い、相対的に王の力が大きくなり、イングランドでは強力な王が支配権を持つ「絶対王政」の時代を迎えることとなる。
 テューダー朝の祖となったヘンリ7世は、断絶した貴族の所領を没収して王家の財政基盤を整え、国王直属の星室庁裁判所を開設して反王権の動きを取り締まり、特定の商人に保護を加えて国庫の充実を図るなど、絶対王政の体制整備に努めた。
 外交では、ヘンリ7世は敵対者だったヨーク朝の祖・エドワード4世の娘エリザベスを王妃に迎え、ヨーク家とランカスター家との融和を図った。
 またヘンリ7世の時代に大国として勃興しはじめたスペインから、王女のキャサリン・オブ・アラゴンを招いて、息子アーサー王子の妻とした。
 さらに、フランスと結んでイングランドに対抗しようとしたスコットランド王国との和平のため、スコットランド王ジェームス4世の妻に自身の娘マーガレットを嫁がせた。
 これはのち、イングランド王国とスコットランド王国を合併させ、現在につながる大ブリテン王国を生み出す遠因ともなった。


※本文の説明は主に、歴史の謎を探る会『イギリスの歴史が2時間でわかる本 (KAWADE夢文庫)』を参照しています。


     ─── ・ ─── ・ ─── ・ ─── ・ ─── ・ ───



ニコ生放送もやっているので、興味のある人はぜひ見ににきてみてください。


生放送履歴: 歴史好きの動画配信-ニコニコミュニティ




コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事