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ややこしい 古代~中世イギリス史のまとめ ① (ノルマン・コンクエスト、プランタジネット朝の成立)

2019/04/07 06:12 投稿

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古代~中世イギリス史 ① (ノルマン・コンクエスト、プランタジネット朝の成立)


古代~中世イギリス史 まとめ ①

~ケルト系ブリトン人」支配時代~
● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

~「ローマの属州」時代~
● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
 ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
 ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

~「プランタジネット朝」時代~
● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
 ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
 その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
 1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
 リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
 リチャード1世の後を継いだ弟のジョンが、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
 フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

● ヘンリ3世が即位。
 ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
 ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
 マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
● モンフォール議会の招集。(1265年)
 シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
● 模範議会の招集(1295年)
 先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)

● 王妃イザベラ(仏王フィリップ4世の娘)による夫エドワード2世の廃絶(1327年)


古代~中世イギリス史 まとめ ②

~「プランタジネット朝」時代~
● エドワード3世「百年戦争」の勃発 (1337年~1453年)



 イギリスは大きく分けて、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド(北アイルランド)の四つの領域に分けられる。

ブリテン諸島の地図 - 世界の歴史まっぷ


● ケルト系民族ブリトン人による支配

 イギリスは、紀元前のころより多様な民族が渡来してきていたが、紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろの間にかけて、鉄器の技術を持ったケルト人が大陸からイギリス本島に渡って支配権を確立するようになる。
 紀元前2世紀末、最後に渡来したケルト人の一派がベルガエ人(ベルギーの国名の由来)で、古代ローマでは彼らのことを「ブリトネス(ブリテン人)」と呼んだため、そこからイギリス本島は「ブリタニア(ブリテン島)」と呼ばれるようになり、やがてイギリスのベルガエ人自体が、ブリトン人と呼ばれるようになっていった。


● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化

 その後、紀元前1世紀、ガリア(現在のフランス)遠征にきたカエサルが、大陸からブリテン島へと逃げた反ローマ勢力を駆逐すべく渡来し、今度はローマ帝国による支配の手が伸びる。
 紀元1世紀末にはローマは同島の大半を支配し、属州とした。
 一方、ブリテン島のほうでは、同島の北部カレドニア(スコットランド)にいたピクト人(ケルト系)が激しい抵抗を示し、これにローマ五賢帝の一人ハドリアヌス帝が「ハドリヌアスの城壁」を築き、これがのちのイングランドとスコットランドを分ける境界線となった。


● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生

 しかし4世紀末になると、ゲルマン人の大移動が始まり、西ローマ帝国はゲルマン人によって滅ぼされ、現在のドイツ、フランス、北イタリアの地域にはゲルマン人による「フランク王国」が建設される。
 ゲルマン人の侵略はブリテン島にも及び、彼らはのちにアングロ・サクソン人と総称されるようになる。
 アングロ・サクソン人とは、アングル人、サクソン人、ジュート人、フリースラント人の総称で、彼らはドイツの中央を流れるエルベ川下流域やデンマークのユトランド半島から、ブリテン島へと何度も押し寄せていった。
 5世紀から6世紀ころのブリテン島を舞台にした有名なアーサー王伝説の創作は、侵略してくるアングロ・サクソン人を相手に抵抗した実在のケルト系ブリトン人のアルトゥスという武将をモデルに作られたものではないかという。
 英語のLondon(荒々しい)やThames(薄黒い)といった言葉はケルト語からきているという。
 しかしアングロ・サクソン人はどんどんブリトン人を島の北方へと追いやり、7世紀には7つの部族国家からなる七王国を形成。
 そして829年には、七王国のウェセックス王エグバートにより、アングロ・サクソン人最初の統一国「アングリア」(イングランド王国が樹立され、これが英語でいう「イングランド」の始まりとなった。

・七王国 - 世界の歴史まっぷ



ケルト系ブリトン人によるスコットランドとウェールズの形成

 一方、アングロ・サクソン人に追われたケルト系ブリトン人のなかには、逆にドーバー海峡を渡ってヨーロッパ大陸へと逃れ移住する者も現れ、その移住先が、主に現在のフランスのブリュターニュ地方で、また今のブリテン島が「グレート・ブリテン(大ブリテン)」と呼ばれるのも、フランス・ブリュターニュ地方の小ブリテンに対して使い分けられるようになった言葉。
 またイングランドの北方では、アイルランドのほうから渡ってきたスコット人がケルト系のピクト人と融合して現在のスコットランドを形成していくようになり、ブリテン島の西部にはブリトン人が残って現在に続くウェールズを形作っていくようになった。


● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下

 フランク王国カール大帝の死後、9世紀半ばにフランク王国が東西に分裂し弱体化すると、今度は新たに10世紀ころから、ヴァイキングと呼ばれる北方のゲルマン人がヨーロッパの各地へと侵入を開始するようになる。
 ヴァイキングとは「入り江の民」という意味で、彼らはノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの一帯に住み、沿岸から喫水線の浅い船足の速い船に乗って、海運業によって沿岸部をネットワーク化し、海産物、毛皮、穀物などの商品交易の海運ビジネスを独占していった。
 彼らはまた、北方に住んでいたためノルマン人(北方の人)」と呼ばれた。
 ノルマン人は海上貿易だけでなく、時には海賊行為や沿岸地域を略奪したりして富を蓄積していき、やがてバルト海沿岸に自分たちの王国を建設するまでになる。
 彼らノルマン人が南下を始めたきっかけは、急激な気候の低下が原因だったという。

9-12世紀 ノルマンの活躍 地図 - 世界の歴史まっぷ



● ノルマンディー公国の誕生

 911年、ノルマン人ヴァイキングの首長ロロが西フランク王国を襲撃。これに手を焼いた西フランク王国のシャルル3世は、ロロに独立の領地を与える代わり、ロロをフランスの臣下として取り込んでしまおうとした。
 両者は同年秋に「サン=クレール=シュール=エプト条約」という条約を結び、ヴァイキングの指導者たちが洗礼を受けてキリスト教徒となることや、略奪行為を停止することをなどを条件に、ロロは正式に西フランク王国からノルマンディー地方を得て、ルマンディー公に叙された、「ノルマンディー公国」を建設した。
 また、ロロはシャルル3世の庶出の王女ジゼルと結婚し、西フランク王家の縁戚ともなった。
 「公国」とは、フランス国王に臣従しながら、一定の地域の支配権を与えられる地方政権の意味。


● 「デーン朝」の勃興

 ヴァイキングはイギリス方面にも侵攻し、8世紀の末頃からデーン人と呼ばれるヴァイキングたちが襲いかかってアングロ=サクソン七王国を脅かした。
 9世紀末にウェセックス王アルフレッドが反撃に転じてデーン人を撃退したが、11世紀に入ると、イングランドは再び活発となったデーン人の侵攻を受けるようになった。
 このとき、イングランド王国のエセルレッド王は同じくデーン人に侵攻されていたノルマンディ公リシャールの妹エマと結婚し、デーン人に対抗しようとしたという。
 エセルレッド王は国内からデーン人の排除を狙ったが、逆にデンマーク王スヴェンから攻められて、エセルレッド王は妻の実家のノルマンディーに亡命させられる結果となった。
 ところが、「無思慮王」と呼ばれていたエセルレッド王が亡命していなくなると、スヴェンはなんと逆にイングランドの有力貴族たちから国王として迎えられることになったという。
 その後、スヴェンが急死すると、今度はその子のクヌートがイングランド王位を継承し、1016年にイングランド王として即位。
 クヌートは、1019年に兄のハーラルが急逝したためデンマーク王も兼ねることとなり、クヌートはイングランドとデンマークにまたがる北海帝国の盟主として「デーン朝」を築くに至る。



ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」

 しかしクヌートの死後は長続きせず、その後再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイングランド王として即位。
 が、その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいなかったエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達が虎視眈々と狙っていた。
 そんな中、エドワード懺悔王は、ノルマンディー公国で亡命生活を送っていた時代に親しくなったノルマンディ公のギョーム2世」(ノルマンディー公ウィリアム1世)にイングランド王国の王位継承を約束したという。
 懺悔王の母エマがギヨームの大叔母であったことも、ギヨームの王位継承権の根拠となった。
 ところが、1066年1月にエドワード懺悔王が死去すると、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソンが名乗りをあげてイングランド王ハロルド2世として即位してしまう。
 するとそこへ、ハロルドの弟トスティがこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル3世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込み、さらにギヨーム2世もエドワード懺悔王との約束を掲げ、12000の兵を率いてイングランド南岸へと侵入し、三つ巴の戦いが勃発した。
 ハロルド2世は、弟のトスティとハーラル3世を「スタンフォード・ブリッジの戦い」で討ち取るも、続く「ヘイスティングズの闘い」ではギヨーム軍に敗れ、命を落とした。
 戦闘に勝利したギヨームは1066年12月25日、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。
 これがノルマン・コンクェスト」(ノルマン人による征服)と呼ばれるもの。

・デーン人の侵入とノルマン・コンクェスト

イギリス史(イギリスし)とは - コトバンク

 ギヨーム2世はノルマンディー公としてはフランス王臣下の立場だったが、一方ではウィリアム1世としてイングランド王の地位を獲得するに至った。
 しかしこのことが後々、イギリスとフランスが王位継承権をめぐって争う「百年戦争」の因縁ともなってしまうのだった。
 ギョ-ム2世(ウィリアム1世)はノルマン・コンクェストの成功によって「征服王」とも呼ばれた。

 ギョ-ム2世は戦後、ウィリアム1世として即位し新たなイングランドの王となるが、ノルマン人の支配は徹底していて、それまでのイングランドにおける征服者たちは先住の豪族クラスの権益には手をつけなかったが、ノルマン人たちは彼らの権益を奪い、自分たちのものとしたため、イングランドではアングロ・サクソン人の土地は5%を占めるのみにまで減少してしまったという。
 ノルマン・コンクェストがその後のイギリス社会に及ぼした影響も大変大きく、ノルマン公国は西フランク王国から現在のフランスのノルマンディー地方の土地を貰って王国を築いたため、フランス文化の影響を受けてフランス化していたが、そのため現在のイギリスに、フランス系の言語や文化が多量に持ち込まれる結果となった。現在の英語の30%はフランス語からきているといわれるほど。

 ギョ-ム2世(ウィリアム1世)はイングランドの統治でもフランスの統治方法を導入し、同時代のヨーロッパ大陸の他の国々と比べて、強力な封建王政を確立した。


● 「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の成立とイングランドの領土拡大

 「ヘイスティングズの闘い」に勝利しイングランド王国の王位を獲得したギョ-ム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)だったが、1135年に死去すると彼には男子の後継者がいなかったため、王位継承をめぐって18年にわたる内乱へ突入。
 内乱は最終的にウィリアム1世の末子のヘンリ1世が兄たちとの争いに勝利してノルマン朝の統一を回復。しかしヘンリ1世も王子を事故死で亡くしていたため、彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁ぎながら夫に先立たれて未亡人となっていた娘マティルダを後継者に指名した。
 そしてマティルダの再婚相手に選ばれたのが、フランスのアンジュー伯ジョフリ=プランタジネットだった。
 ところがマティルダのイングランド王位継承に、今度はマティルダの従兄のスティーヴン(ヘンリー1世の姉アデラの子)が異を唱えて同年イングランド王として即位してしまい、ここに両者の間でまたしても「無政府時代」と呼ばれる長い内戦が続くこととなった。
 最終的に両者の戦いは、マティルダとアンジュー伯の間に生まれたアンリを、スティーヴンの死後にイングランド王とすることで合意し、1154年にアンリは無事、21歳でヘンリ2世として即位することとなった。
 ヘンリ2世はこのとき既に結婚していて、相手はフランス王ルイ7世(若年王)の元王妃で11歳年上のアリエノール・ダキテーヌ(エリナー・オブ・アキテーヌ)だった。
 アリエノールは不倫を理由にルイ7世から離縁されたという女性だったが、アリエノールはルイ7世と離婚したあと、すぐにヘンリ2世と結婚。
 アリエノールはフランスの地方領主であるアキテーヌ公ギヨーム10世の娘であったため、ヘンリ2世は彼女と結婚したことで彼女の相続地アキテーヌ公領の共同統治者ともなった。

 こうしてヘンリ2世はノルマンディ公としての領地とイングランド王としての領地に加え、父の死によってアンジュー伯の領地も受け継いだ上、さらに妻のアキテーヌ公領も加わって、彼の領土はフランス王国をも上回るほどに広大なものとなった。
 ヘンリー2世の興したイングランド王朝は、実家のアンジュー家の家紋が「えにしだ」でそのラテン名が「プランタ=ゲニスタ」だったことから、「プランタジネット朝」と呼ばれるようになった。
 また、ヘンリー2世のプランタジネット朝は、イギリス本国に加え、フランス国内にまで及ぶ広大な所領を有したことから、後世に「アンジュー帝国」とも呼ばれる。

・プランタジネット朝(アンジュー帝国)の領土

イギリス史(イギリスし)とは - コトバンク



プランタジネット朝(アンジュー帝国)とフランス王国との抗争のはじまり

ヘンリ2世と息子たちとの内乱

 ヘンリ2世とアリエノール・ダキテーヌ(仏アンジュー伯の娘)の間には、夭折した長男のウィリアムを除き、次男の若ヘンリー、三男のリチャード(獅子心王)、四男のジェフリー、五男のジョン(欠地王)ら4人の男子が存命していたが、父王ヘンリ2世は五男のジョンを可愛がるあまり、他の兄弟たちの不信を買って、なんと父子で争う内乱を引き起こしてしまう。

 ヘンリー2世は1169年、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、そしてそれらの領地はフランス王に臣従礼をとらせることで、あくまで大陸側の所領だという確認をさせたという。
 末子のジョンはそのときわずか2歳だったため領地を与えられなかったが、ヘンリー2世にむしろ“領地のないやつ(Lack Land)”と不憫がられ溺愛されるようになった。
 また、三人の子女のうち、
長女がザクセン公ハインリヒ1世に、次女が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、三女がシチリア王グリエルモ2世に嫁ぎ、周辺有力諸国との外交的な結びつきが強められた。

 しかしヘンリー2世としては、息子たちへの領地の分配は単に名目上のものと考えていて、1170年にフランスとの協約に従い、ルイ7世の娘婿でもある若ヘンリーを共同のイングランド王として即位させるも実権は渡すことはなかった。
 一方でヘンリー2世に溺愛されるジョンを除いて、他の三人の息子たちはルイ7世に臣従したことで自分たちはフランス王の臣下だという意識が強く、父に対して不満を募らせ、1173年に、ヘンリー2世と不仲になった母アリエノールも加わって、独裁を強める父ヘンリー2世裁に対して反乱を起こした。
 翌1174年に両者は和解し、ヘンリー2世へ国王としての実権を若ヘンリーへ委譲していくことが決められたが、若ヘンリーは1183年に亡くなってしまう。
 そのため今度はヘンリー2世から三男のリチャードから後継者に指名されるが、代わりにそれまで統治していたアキテーヌをジョンに譲渡するよう父に命じられると、リチャードは、これを拒絶し反抗した。
 その後も父に対する反抗を繰り返し、自ら進んで新たなフランス王フィリップ2世に臣従の誓いし、1189年にヘンリー2世が病死すると、リチャードはイングランド王リチャード1世として即位した。


獅子心王リチャード1世と第三回十字軍遠征

 その後リチャード1世はイングランド王としては初めて「第3回十字軍」遠征に、フランス王フィリップ2世や神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世らと共に参加。
 第3回十字軍は、1187年に、十字軍国家のイェルサレム王国が、アラブ側のサラディン(サラーフ=アッディーン)によってヒッティーンの戦いで奪われたことに衝撃を受け、聖地奪回のために起こされた遠征軍だった。



 リチャード1世はサラディンと激闘を繰り広げ、イスラム側に奪われた地中海沿岸の城塞をいくつも陥落させるも、聖地エルサレムはサラディンの固い守りに阻まれて奪還することはできず、1192年9月2日、「非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可する」ことと引き換えに休戦条約を結び、帰還した。



● "欠地王"ジョンの大陸領土失陥と大憲章マグナカルタ

 リチャード1世は当初、自分の次の弟で末弟のジョンにとっては兄であるジェフリーの遺児アーサー(アルテュール)を後継に考えていたが、アーサーはフランス王フィリップ2世に完全に臣従してフランスの宮廷で育ち、しかもまだ12歳の若年だったため、フランスからの干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーの排除を望んだたため、結局ジョンがイングランド王位を継承することになったという。
 ジョンはイングランド王となった後、フランス国内の政治的分断を狙って、そのときの妻と離婚して、既に婚約者もいた仏アングレーム伯の娘イザベラ・オブ・アングレームと強引に再婚する。これをフランス王フィリップ2世にとがめられフランスの法廷に呼び出しをくらうが、ジョンはこれをはねつけて戦争が勃発。
 さらにジョンは、亡くなったカンタベリー大司教の後継を巡って、当時絶大な権勢を誇っていたローマ教皇インノケンティウス3世と対立して破門される。
 それでもジョンはこれを無視して、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図るが、インノケンティウス3世がフランス王のイングランド侵攻を支持し不利な状況に陥ると、ジョンはなんとイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となることで許してもらう。
 ジョンはその後もフランス王フィリップ2世と抗争を続け、1214年7月27日の「ブーヴィーヌの戦い」の戦いで敗れた結果、イングランド王国が持っていた大陸領土をガスコーニュ以外ほとんど失う結果となった。

・ジョン王の失った領地

フィリップ2世 (フランス王) - Wikipedia

 加えてジョンはフランスとの戦いの戦費捻出のため、議会を通さずに国王特権で臨時課税を乱発して徴発したため、国内諸侯から反乱を起こされ、その結果、1215年6月15日、ジョンは、国王の徴税権の制限や法の支配などが明記された大憲章マグナ・カルタに調印させられる結果となる。
 マグナ・カルタはその後一時的に、ジョンがインノケンティウス3世に頼んで無効化してもらうが、ジョンの死後、諸侯に担がれたジョンの息子ヘンリー3世の名前であらためて発行されることとなった。
 ちなみにジョンは、兄王リチャード1世が十字軍遠征に出征してイングランド本国を留守にしていた間に戦場で仲違いしたフィリップ2世や神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結託してイングランドを兄から奪い取る画策をして、それが有名な「ロビン・フッド」の物語の元にもなった。




議会政治の充実を求める諸侯との対立の激化と対外戦争の推進

 "欠地王"ジョンの息子のヘンリー3世が跡を継いだとき、ヘンリー3世はまだ9歳でしかなかったが、彼が成人してフランス王国のプロヴァンス伯の娘エリナと結婚してフランス王国とのつながりが出ると、ヘンリ3世も失った大陸領土の奪還を目指してフランスへの侵攻を決行する。
 しかし敗れ、その結果パリ条約 (1259年)が結ばれ、イングランドでは国王であるヘンリー3世が、フランス王であるルイ9世に対して臣下の礼をつくすことを誓わされる結果となってしまった。
 その代わり、ガスコーニュとアンジューの一部を領地とすることが認められたが、逆にそれ以外のノルマンディーなどの領地は正式に放棄させられることとなった。

 しかしその後、ヘンリー3世は、父ジョンが諸侯からマグナ・カルタを強要された反発もあって側近にフランスの貴族を用いるようになり、再び諸侯との対立を深める。
 マグナ・カルタをもたびたび無視した政治を行おうとするヘンリ3世に対し、諸侯はのちの議会に当たるパーラメントの開催を要求して王と対立。
 1258年、諸侯たちはレスター伯シモン・ド・モンフォールをリーダーとして、選ばれた15人により王権を監視する「国王評議会の設置」と、王権を制約するオックスフォード条項や貴族権力を制限するウェストミンスター条項の承認を求めるが、これを嫌がったヘンリー3世と諸侯との間で第2次バロン戦争へと突入。
 1264年にシモン・ド・モンフォールの軍勢は王の軍を破り、国王ヘンリ3世と皇太子エドワードを捕虜としたが、しかしその後は諸侯たちのほうが独裁を強めたシモン・ド・モンフォールを恐れるようになって、彼から離反していくようになる。
 そうした状況のなか、1265年にエドワード皇太子が脱走し、同年8月の「イーブシャムの戦い」で逆にレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻すことに成功。
  しかしその後も混乱が続いたため、ヘンリー3世は1265年に、各州の中小領主や都市の市民の代表が、パーラメント(議会)への参加を認めるとことで、事態の収拾を図り、これが、イギリス議会のはじまりとなった。

 ヘンリー3世が死ぬと、長男のエドワード1世が即位。
 即位したエドワード1世は先ず、国内に目を向け、ブリテン島内でのイングランド王国の勢力拡大を目指した。
 当時はまだ、イギリスという国は存在せず、イングランド王国がブリテン島の大半を支配していたものの、島の北側にはスコットランド、西側の一部にはウェールズという別の国が存在していた。
 エドワード1世は、この2国を屈服させ、イングランドによるブリテン島の統一支配を企てた。
 ウェールズに対しては、1276年以降、4次にわたって侵攻し、支配下に収める。
 占領後、エドワード1世は、独立心に溢れるウェールズ人の懐柔のため、長男の出産をウェールズで行い、その生まれたばかりの皇太子に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与え、その後もウェールズ人の乳母に育てさせることによって、イングランドとウェールズとの結びつきを強めるようにした。
 以後、現在に至るまで、イングランドの皇太子は代々「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ばれるようになった。
 一方、スコットランド攻略については、スコットランドのジョン王がフランスと結ぶ動きをみせたことを口実にスコットランドへど侵攻し、支配下に収める。
 しかしその後、スコットランドでは、エドワード1世が総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンがスコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行ったため、スコットランドの民衆はウィリアム・ウォレスをリーダーとして反乱を起こした。
 イングランドは1297年9月の「スターリングブリッジの戦い」ではウォレス率いるスコットランド軍に惨敗するも、続く1298年7月に行われた「フォルカークの戦い」ではエドワード1世自ら指揮を執り、イングランドが勝利を収めた。
 1303年にはスコットランドの再占領を果たし、ウォレスも捕えてみせしめのため残虐刑に処したが、かえってスコットランド人の抵抗を強める結果となり、1306年3月、キャリック伯ロバート・ブルースがスコットランド王ロバート1世として即位すると、ロバート1世はエドワード1世への臣従を拒否。
 エドワード1世は反乱の鎮圧に向うも途中で病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。
 スコットランドではその後、ロバート1世が「バノックバーンの戦い」でエドワード1世の息子エドワード2世率いるスコットランド軍を撃ち破り、その後スコットランドは17世紀まで独立を維持する結果となった。 
 
一方、対外的には、エドワード1世は1259年の「パリ条約 」で保証されていたガスコーニュを含む全アキテーヌの領土を、同地を狙っていたフランス王フィリップ4世から没収すると宣告されたため、1294年、フランスへと出兵し英仏戦争が勃発。
 戦争は1299年まで続いたが、最終的にエドワード1世が改めてアキテーヌ公としてフランス王に臣従することと、それとガスコーニュの領有を確保するという条件で和睦する結果に終わる。
 また、議会に対しても、エドワード1世は膨大な戦費調達のため、社会各層の者たちからの幅広い協力が必要となり、協調関係を求められるようになったことから、そのため彼が1295年11月に招集した議会は、貴族だけでなく平民も含めた各階層から広範に代表が募られることとなり、後世に模範議会と名付けられ評価された。

 エドワード1世が死去すると、子のエドワード2世が即位。
 父エドワード1世はウェールズを征服し、スコトランドのウィリアム・ウォレスを下すなど「スコットランドへの鉄槌」を示したことでイングランド史における最も偉大な戦士王の一人として讃えられたが、エドワード2世は逆に、新たにスコットランドの王となったロバート1世(ロバート・ドゥ・ブルース)「バノックバーンの戦い」で惨敗し、スコットランドの支配権を失うなどして「英国史上最低の王」との評価を受ける王となってしまった。
 エドワード2世は音楽や演劇、きらびやかな服装を好んだ文化を愛した王だったが、王が武人でなければならない当時にあってはあまりに文弱すぎた。
 また、ギャビストンやディズペンサー父子など、彼が寵愛して重用した側近たちが専横なふるまいや私腹を肥やすといったことをしたため諸侯の激しい憎悪を買った。
 また、エドワード2世の妻イザベルはフランス王フィリップ4世の娘だったが、彼女は不倫相手のマーチ伯ロジャー・ド・モーティマーと反イングランドの同盟軍をつくってイングランドへと侵攻し、ディズペンサー父子を捕えて処刑しただけでなく、彼女はなんと夫であるエドワード2世まで幽閉し、王位の廃絶を決定した。
 そしてその後を息子のエドワード3世に継がせると、邪魔になったエドワード2世には食事を与えないなど、外傷がつかないような虐待方法で殺害してしまったという。


※本文の説明は主に、歴史の謎を探る会『イギリスの歴史が2時間でわかる本 (KAWADE夢文庫)』を参照しています。


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