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ローマ帝国の政治制度(用語のまとめ)

2019/04/04 21:00 投稿

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古代ローマの政治制度


●「貴族(パトリキ)」と「平民(プレブス)」

 ローマの共和政時代に土地や奴隷などの豊かな財産をもち、丘の上の都市の上層部に居住し、共和政以降後は「元老院議員」や「執政官(コンスル)」というトップの地位を世襲し独占していた世襲貴族。
 彼らは建国に功績のあった人「父たち」(パドレス)の子どもたちという意味でパトリキと言われた。
 伝承によれば彼ら貴族(パトリキ)たちが、エトルリア人の王を追放して前509年に、貴族共和政をうちたてたという。

 一方、平民(プレブス) とはローマ共和政時代に中小農民や商工業者としてローマの一般市民層を構成した人びと。
 都市国家ローマでは民会(コミティア)という立法機関に平民も参加できたが、法案の最終決定には元老の承認が必要(「ホルテンシウス法」成立後に改正)で、執政官(コンスル)などの高官や、元老院議員の地位はほとんど世襲の貴族(パトリキ)によって占められていた。また貴族と平民の通婚は禁止されていて、身分が固定されていた。
 プレブス(plebs)はラテン語で人びとの意味。
 しかし、ローマが外敵から都市を防衛したり、半島統一戦争を戦っていく過程で、平民は重装歩兵としてその武力の中心となり、次第に発言権を増していった。

・「聖山事件」
 紀元前494年、ローマの他の都市国家との戦争にかり出されて土地を失い、債務に苦しむ平民(プレブス)が、借金の棒引き・土地の再分配・平民の代表の政治への参加を要求し、ローマの東北約5キロ離れたモンテ・サクロの丘ににたてこもった事件。(聖山事件
 当時北方からの異民族の侵入に悩んでいたローマ元老院が折れて、平民の要求を呑み、借金は棒引き、債務奴隷は解放されることとなった。
 また、平民(プレブス)のみが就任できる「護民官」の創設、およびその護民官を毎年二人選出する「平民会」(プレブス民会)の設置が認められた。
 護民官は、政務官(コンスルなど)の行うあらゆる行政行為や、元老院の議決などに対して拒否権を持ち、平民たちの権利の保護にあたった。


・「リキニウス・セクスティウス法
 古代ローマの貴族共和政時代の前367年、護民官であったリキニウスセクスティウスの二人が元老院を通過させ制定された法律。
 「リキニウス・セクスティウス法」では次の三つの画期的なことが定められた。
1、最高官の「執政官(コンスル)」の一人を平民(プレブス)から出す。
2、公有地の占有を制限し、貴族による大土地所有を制限。
3、平民の負債を軽減して、生活の安定を図る。 
 このリキニウス・セクスティウス法制定後、紀元前1世紀にはパトリキ系の元老院議員が減少し、プレブス系の元老院議員が多数を占めるようにあんり、両者の違いの意味はさほど重要でなくなっていった。

・「ホルテンシウス法
 紀元前287年、平民(プレブス)出身で独裁官(ディクタトル)であったホルテンシウスによって制定された法律で、これ以後、平民会でつくられた法律は元老院の承認が無くとも、ローマの国法とされることとなった。
 またこの「ホルテンシウス法」の成立によって前5世紀から続いた貴族と平民の身分闘争は終結し、平民が貴族と対等の権利を獲得し、ローマ共和政の完成をみることとなった。



●「元老」と「元老院」
 古代ローマでは、初代ロームルス王以来、多くの一族を抱える有力者をもって「貴族(パトリキ)」として終身の「元老」による「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。これが最初の「元老院」で、ラテン語で「老いた者」を意味する senex が語源。
 前509年、王制が打倒されたあとの共和政ローマでは、元老院が実質的な統治機関となった。
 ローマの元老院は、紀元前27年の帝政移行後も存続したが、次第に権限が縮小され、正当な皇帝を承認する機関へ、そして、皇帝の諮問機関へと、段階的に性格を変えていった。


●「民会」と「平民会」(プレブス民会)
 古代ローマにおける政治決定の議決機関および律法機関としては、貴族による「元老院」と平民による「民会」とがあった。
 しかし民会のほうでは法律をつくっても元老院による承認が必要で、また元老院がつくった法に対する拒否権もなかった。
 民会には「兵員会」(ケントゥリア民会)「区民会」(トリブス民会)「平民会」(プレブス民会)などがあった。
 平民たちは身分や職業などの違いによってそれぞれの民会に属して意思表示の採決を行ったが、決定は各民会ごとに全体で一票とされた。

・「兵員会」(ケントゥリア民会)
 軍人たちによって構成された民会で、兵員会ではさらに、資産の多寡によってその人が装備できる騎兵、重装歩兵、軽装歩兵などの兵種の違いにより、100人ごとに、6つのクラシス (階級)に分けられた。ケントゥリアとは「100」という意味。
 そして各ケントゥリアを単位として投票が行われ、執政官、法務官、重要な裁判、戦争など市政の重要事項が討議された。

・「区民会」(トリブス民会)
 
全ローマ市民を45の選挙区に分けて作られた民会で、参加資格はローマ市民権を持つ者のため、上流階級のパトリキも平民階級のプレブスと同時に国政に関わった。
 上級按察官、財務官、それにトリブヌス・ミリトゥムと呼ばれる軍団司令官の選挙を決定した。

・「平民会」(プレブス民会)
 紀元前494年の平民(プレブス)たちによる聖山事件」の結果、貴族から認められた新しい民会の一つで、この「平民会」では、平民(プレブス)のみが就任できる「護民官」の創設と、その護民官を選出する「平民会」(プレブス民会)の設置が認められた。
 また、元老院でつくられた法律に対する「拒否権」も獲得し、護民官は、政務官(コンスルなど)の行うあらゆる行政行為や、元老院の議決などに対して拒否権を持ち、平民たちの権利の保護にあたった。



古代ローマの公職

・「執政官(コンスル)」と「独裁官(ディクタトル)」――
執政官は共和政ローマにおける最高職。定員は2名。コンスル職就任の最低年齢は43歳。
 平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は軍団を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握し、また戦場においては直接指揮も執った。
 これらの権限をインペリウム 」(指揮権、命令権)といった。
 他には、民会や元老院の召集権や議案提出権を保持し、もう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。
 また、非常時と認められた場合は、元老院の協賛を得て、最長六ヶ月任期の最高官職である「独裁官(ディクタトル)」となることが許された。
 独裁官の決定は護民官の拒否権によっても覆せないものとされ、補佐役として騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)を独断で任命することができ、また、インペリウム(国軍の統帥権)も与えられた。
 紀元前367年のリキニウス=セクスティウス法で、コンスルの一人は平民(プレブス)から選ばれることになった。
 在職中のコンスルの命令権は絶対的で、彼らは国政の全般を指導し、特に共和政期においては、ローマ軍の最高司令官でもあった。
 法務官(プラエトル)の下には高い方から低い方へ、「法務官(プラエトル)」「造営官、按察官(アエディリス)」「護民官(トリブヌス=プレブス)」「財務官(クァエストル)」といった職が置かれた。
 執政官に選ばれるためには、その前に財務官と法務官を経験することが必要で、経験を積んだ有能な人物でなければ選ばれず、また、その政治は元老院の助言を受けて行われた。
 また、法務官としての一年の任期を終えた後は前法務官という官職名に変わり、ローマの属州のどれかに属州総督として就任するのがキャリア・アップの慣例だったという。
 これを務めたあとで執政官に立候補する資格を獲得できた。

・「監察官/戸口監察官(ケンソル)――古代ローマで市民の財産を調査する官職。古代ローマの貴族共和政時代の前443年に始まるとされる官職で、本来は5年に1回の戸口調査を主任務とし、市民の財産を調査する任務であったが、次第に権限が大きくなり、元老院議員の適格性の審査、風紀取り締まり、国家財政の監察なども任務とするようになった。定員は2名で、任期は18ヶ月。ローマ共和政においては、任期1年であった執政官(コンスル)による統治を補い、元老院を牽制する重要な役割をもっていた。

・「法務官(プラエトル)」――定員6名。前述の前367年に新設された官職でコンスルと並んで命令権を持つ。就任最低年齢は40歳。

・「造営官、按察官(アエディリス)」――4名。ローマ市の街路、市場、水道の管理のほか、穀物供給と公的な催し物の提供。もとはプレブスの公職だったが、前367年に国家の公職となる。

・「護民官(トリブヌス=プレブス)」――定員10名。任務は平民会の主宰と、公職者に弾圧されている平民の保護。そのための拒否権(ウェトー)と身体への神聖不可侵が認められた。同じく前367年に公職となる。

・「財務官(クァエストル)」――定数20名。ローマ市の国庫管理と、コンスルと属州総督の財務。その他公文書の管理、艦艇・穀物供給の管理、裁判や軍隊の指導も職務とした。


●「プリンキパトゥス」(元首制)と「ドミナートゥス」(専制君主制)
 古代ローマでは、主に貴族からなるパトロヌス(親分)が、主に平民からなるクリエンテス(子分)を従え、かつ保護する相互関係があったという。
 しかしローマが巨大国家になると、貴族たるパトロヌスが保護するクリエンテスは国家の構成員の少数派となり、結果、貴族は自分に近い身内だけを利益を優先する存在となり、大局的な国家運営よりもクリエンテスの利益代表者としての立場を優先するようになった。
 カエサルの後を継いだオクタウィアヌスは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け、事実上、古代ローマにおける最初の「皇帝」となった。
 しかし、アウグストゥス自身は、あくまで共和政の守護者としての意識で振る舞っていたという。このような、実質上は皇帝の地位に就いたものの、建前としては古代ローマの伝統を墨守し共和政の体裁を守ったこの体制を、後世になって「プリンキパトゥス」(元首制)と呼ぶようになった。
 元首政に対して専制色の強い政治形態を「ドミナートゥス」(専制君主政)という。


●「ラティフンディア」から「コロナートゥス」へ
 
ラティフンディアとコロナトゥスは、どちらも富裕層による大土地農場経営のことをいう。
 紀元前3~2世紀の「第2ポエニ戦争」後の、古代ローマの支配領域拡大期において、属州で広く行われた。
 ローマでは占領によって新たな領土や奴隷を獲得し、その多くの農地が労働力となる奴隷と一緒に国有地としてローマ市民に貸し出されたが、特にその農地を購入できる財力を持った貴族たちが大土地所有者となっていった。
 ラティフンディアでは主に、果樹や穀物が生産された。
 貴族ばかりでなく平民でラティフンディウムに参画しして裕福になった者たちもいて、彼らは新貴族階層である「新貴族(ノビレス)」を形成した。
 しかしその一方で、奴隷の労働力を使ったラティフンディアによる貴族たちの大規模農場経営は、ローマ軍において重装歩兵となって戦争の主力となっていた中小農民たちの生活に打撃を与え、貧富の格差が増大した。
 奴隷は、家畜と同様に扱われ、形成期には奴隷による反乱も頻発した。
 しかしその後、「ローマの平和」と呼ばれた戦争のない時代の到来により、征服地からの奴隷が供給できなくなると、労働力が不足して、大土地経営が困難になっていった。
 すると、奴隷が高価になると使い捨てることができなくなり、大土地所有者である富裕層は、奴隷の代わりに没落農民を小作人とする「コロナートゥス」の制度が代わって属州で行われるようになっていった。
 土地を借りて、地代を納める者を「コロヌス」(小作人)とよび、コロヌス(小作人)の労働力により経営されるようになったのが「コロナートゥス」

ローマの奴隷制
 古代ローマの奴隷制はギリシアと違って、ギリシアでは家内奴隷が主であったのに対して、ローマでは奴隷制による大土地所有制(ラティフンディア)が発達した。また奴隷の数も膨大で、ローマの征服戦争によって属州としたところから得られた捕虜がその供給源となった。奴隷は人権は認められず商品として売買され、奴隷主に服従した。
 都市部における一般的な家内奴隷は、子どもの世話や家庭教師、給仕、洗濯その他、様々な雑用に従事させられた。
 また奴隷でも、教師、会計士、医師、貴族の秘書など知的労働に携わる高度専門職の奴隷は、高値で売買することができ投資の対象にさえなった。
 そのため進んで奴隷に教育を与えるということも多く行われた。
 家の子どもと一緒に学んだ奴隷は忠誠心が高く、従者となって主人と生死を共にする者も多かったという。
 武術に優れた者は剣奴(剣闘士奴隷)とする場合もあったが、剣闘士は、特に反抗的な奴隷が懲罰的に剣闘士にさせられたという。

 奴隷たちでも特にラティフンディアの農場奴隷や剣闘士奴隷たち過酷な環境に置かれていたため、紀元前2世紀ごろからしばしば奴隷反乱を起こすようになった。
 ローマ共和政時代の末期、前2世紀の終わりには、奴隷制による農業、牧畜経営の盛んだった属州シチリアで大規模な奴隷反乱(「シチリアの奴隷反乱」)が発生し、紀元前1世紀には剣奴(剣闘士奴隷)が蜂起してスパルタクスの反乱が起こり、ローマ共和政を動揺させた。

 ローマ奴隷制は帝政時代も継続するが、ローマ領が最大となり対外戦争が行われなくなると次第にその供給が減少し、また相次ぐ奴隷反乱によって、奴隷の待遇も少しずつ向上し、「コロヌス」制へと移行していった。 
 そしてこの「コロナートゥス」における奴隷形態が、その後のヨーロッパ中世封建制社会における農奴制へとつながっていった。
 農奴制における農奴は、領主に隷属する農民・小作人で、彼らは自分の耕した土地から収穫物の一部を領主に税として納める「貢納」の義務に加え、領主の領地もボランティアで耕作させられる「賦役」の義務を負わされ、また、教会に対しても「十分の一税」を納めなければならなかった。他には結婚税や死亡税まであった。
 農奴制にける奴隷たちは、奴隷としてそのまま酷使されていた時代に比べて権利は向上したが、領外へ移動できる自由はなく、彼らは半自由民として、家族は耕作を請け負わされた土地とセットで領主たちに売買される領主たちの所有物として扱われた。



ローマの属領制度

●「属州(プロヴィンキア)

 「属州」とは、ローマが征服活動によってイタリア半島外の地中海世界各地に獲得した領土のこと。総督が徴税請負人を通じてきびしく搾取し、ローマの繁栄をもたらした。
 ローマ共和政の時代、第1回ポエニ戦争で獲得したシチリアが最初の属州。ついでコルシカ島とサルデーニャ島を合わせて第2の属州とし、その後紀元前2世紀に入りヒスパニア(スペイン)、マケドニア、アカイア(ギリシア)、アフリカ(ヌミディア=旧カルタゴ)、アシア(小アジアの西部)、ガリア、前1世紀にシリア、キリキア(小アジア南部)、イリュリクム(現在のアルバニア)、パンノニア(現在のハンガリー)、トラキア(現在のほぼブルガリア)、エジプト、ブリタニア(大ブリテン島)、ダキア(ルーマニア)と数を増やしていった。

 属州には「総督」が置かれ、元老院から有力者が任命されてその統治に当たり、「十分の一税」という租税を徴収した。
 徴税は徴税請負人が総督に代わって行ったが、その徴税請負人には旧来の貴族ではなく、新興貴族にあたる騎士(エクイテス)といわれる有力者が任命された。
 騎士(エクイテス)とはもともとケントゥリア民会で最も金のかかる重装騎兵を編成していた最富裕層の者たちだったが、紀元前218年の「クラウディウス法」で、元老院議員及びその息子は商業に従事することが禁止されたことで、元老院議員に代わって商業の分野に進出するようになったという。
 彼らは徴税請負人になると、総督から請け負った税額よりも多くの税を徴収し、その差額を着服する方法で私腹を肥やして富豪へと成長していき、また新興勢力として「内乱の1世紀」の時期には元老院の閥族派と対抗する平民派の支持母体となり、さらに帝政初期の元首政を支える存在となっていった。
 一方、元老院議員と新貴族(ノビレス)らのほうも、彼らは彼らで奴隷を用いたラティフンディアによって大土地所有者となっていった。

 拡大された属州からの収益はローマの富裕層たちに莫大な利益をもたらしたが、その一方で、
労働力としての奴隷と安価な穀物のローマ国内への大量移入は、ローマ軍の中核をなしていた中小農民の没落して、深刻な貧富の格差を生み出すこととなり、このような背景から、やがてローマは「内乱の1世紀」へと突入し、その後の帝政を誕生させる要因ともなった。

 属州は紀元前27年、ローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥスの時に、アウグストゥスと元老院の間で、「元老院属州」「皇帝属州」に二分して管理する取り決めが成立した。
 分け方は、統治が十分に行われている属州と、十分おこなわれていないか外敵に接している属州の二種類で、前者を元老院、後者をアウグストゥスが分担することになったが、これによってアウグストゥスは元老院と同等の国政上の権力を得ることとなったのだった。

・117年のローマ帝国の領土。
元老院属州(ピンク)・皇帝属州(緑)・駐屯地の司令官による統治の属州(灰色)
属州 - Wikipedia

・ローマ帝国の領土拡大

ローマの領土拡大 地図 - 世界の歴史まっぷ


●「自由市」「殖民市」「同盟市」
 ローマに征服された都市は、「自由市」「殖民市」「同盟市」の三種類に分けられた。

・「自由市
 ローマに征服された都市で、上層市民には市民権が与えられ、一定の自治は認められた都市。自治権は軍事面や裁判には及ばず、ローマ市の役人への立候補や選挙という参政権も認められなかった。

・「殖民市
 ローマ人の主に軍人が入植して建設した都市で、ローマと同等の市民権が与えられた都市、または征服された都市でもそれと同等の権利を与えられた都市。コロニアという。市民権は認められたが、ローマからの自治権は認められていなかった。

・「同盟市
 共和政時代のローマに征服された都市で、完全にローマに従属し、市民権も自治権も認められなかった都市。ローマと個別に条約を結んでそれに服属した都市のことであり、同盟といっても対等な関係ではなく、多都市間の同盟でもない。
 同じローマに征服された地域の都市でも、他の自治市や植民市にくらべて権利が著しく制限されていたため、次第に不満が強まり、紀元前1世紀初頭に各地の同盟市で「同盟市戦争」の反乱闘争が巻き起こった。

・「同盟市戦争
 戦争の勃発のきっかけは、紀元前91年に、ノビレス出身の護民官ドルススが、元老院の定数拡大、農地法、植民市建設などの改革法案と共に、イタリアの同盟市住民へのローマ市民権付与法案を上程したことから始まった。
 しかしドルススは正体不明の暗殺者によって殺害されてしまう。
 さらにローマの元老院がドルススとその同調者の陰謀を調査するとして調査員をイタリア各地に派遣すると、同盟市側も反発し、これを機にイタリア各地で同盟諸市がローマに対して蜂起し、イタリア同盟市戦争が勃発した。 
 元老院側はマリウスと副官のスラを派遣して鎮圧に当たらせたが、同盟諸市の激しい抵抗に、市民権問題で譲歩をはじめた。
 まず前90年の「ユリウス法」で、ポー川以南のローマに忠実な同盟市にたいして市民権を与えることが定められ、さらに同じく前90年の「カルプニウス法」と翌89年の「プラウティウス・パピリウス法」によって、一部の例外を除いて全イタリアの同盟市住民がローマ市民となることが可能となった。
 反乱は前89年末までに鎮圧されたが、このイタリア同盟市戦争の結果、同盟諸市をはじめとするイタリアの諸都市は、漸次自治市に組織がえされ、イタリアのほぼすべての自由人がローマ市民となった。
 また、このことでローマは「都市国家」からイタリア半島全域の諸都市(自治市)から構成される「領域国家」へと変貌を遂げ、ローマ市民からローマ国民への変質がもたらされた。


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夜の11時からニコ生放送もやっているので、興味のある人はぜひ見ににきてみてください。


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