「楽しむか、楽しまないか、よりも、暴動は如何なる形になるか?という問いの方が、些か現実に近いであろう」というにはディスカール・デスタンの台詞ではありますが。ワタシが我々を経験して頂きたいのは特に10代の、EDMなんか好きな方々で、とはいえワタシはこれが、些か啓蒙主義に過ぎている事を解っています。
実のところは、音楽を聴いて踊る。という経験に関し、リズム感、経験値、無調というエロティークで戦闘的な感覚、そして人生、を下方修正していないままである方々であるならば、10代から70代まで、つまりシンプリーアイセイ、まだ血が湧くのだ。怒りがあるのだ。自分は狂うかもしれない。という人々総てに、経験して頂きたく、筆を執りました。
音楽という、作戦であり、計画であり、宗教であり、数学であり、建築であり、動物化に至るまでの退行、そして哲学、を総て統合した空気の激しい振動を3時間超、経験して頂きたい。我が国には現在、それ等が足りていません。つまり我々の音楽は産業でもエンターテインメントでも、アートでもない。堕落と再生と浄化を繰り返すだけだ。という台詞は、ピート・コージーの台詞ではありますが。
ここ数年間で、政治行動にラップが流用された事がありました。第五には、この記録を総てデリートし、祓い清めます。シュプレヒコールという盆踊りの伝統が残っている事は来るべき老人社会に於いては恐らく微笑ましく、政治行動にラップが流用される事、それ自体が、徹底的な粉砕を必要としているかどうかは、デヴィヴェートで済む案件でしょうけれども。
問題は我々が、あれほどまでに戦闘を構造化出来ない心身を持つに至っていたという事実で、SNSというのは、環境を汚染し、市民の戦闘行為を去勢してしまい、市民を身体コントロールの利かない栄養失調の肥満児にして、支配しようとします。何者も何者にも支配されてはならない。というのが誰の台詞かは忘れましたが。第四には、その事を明確化します。ツィッターのアカウントがある方は、自分が踊っている、その事自体を試しに実況してみて下さい。
第三、第二、第一に我々が何をお約束するかは、大変残念ながら、フロアにいらっしゃった方々以外には、全く説明出来ません。1日中我々のCDを聞いている方でさえ。我々を知るには、我々とともにある事が唯一絶対となります。それでは、何が起こるか解らない、癒されている場合ではないこの国の、川崎という危険地帯で集結しましょう。
dCprG主幹 菊地成孔