>>2 ご返信をいただきありがとうございます。 料理店のスタッフ数名だけがリアル・イタリアーノであったという事実は盲点でした。出演者のエスニシティと役柄のエスニシティとが分離しているのは『策謀の結末』の時点で気づけましたが、『別れのワイン』では出演者のエスニシティがフェイク・イタリアーノである犯人と刑事だけが共同の演舞に没頭していて/出演者のエスニシティがリアル・イタリアーノである人々は他人事でコメディ・リリーフになっている構造は、とても面白いですね。 コロンボを観ていると、倒叙で提示される捜査線(通常、犯人⇄コロンボ間で完結する)の外部に登場する人々の役割も毎回違っていて、その「他人事感」のレベルが犯人⇄コロンボのグルーヴとは別に設定されているのが面白いと思います。『別れのワイン』の料理店のシーンも、最初観た時はいわゆる「劇団コロンボ」の構えではないかと思っていました。 昨晩観た『逆転の構図』は、普段目立たないコロンボの同僚たちとバンドを組んで「詰め」に入る造りで、いつになく神経質にヒートアップした犯人(実際、あの回でのコロンボの執拗ぶりは度を超していましたが笑 しかし、コロンボが肝心の着想を得るきっかけのカメラ屋の店員は、「他人事感」丸出しの人が思いがけず捜査にヒントを与える例として面白かったです)と・コロンボと・同僚たち それぞれの熱意の差も手伝い、「劇団コロンボ」パターンの話として見どころが多くありました。 『別れのワイン』のローマ・カトリシズムが実は囮で、 “新たな世界宗教とも言うべき「オタク」の共振” のほうが大歓迎されたというのは、ご指摘いただいた後で腑に落ちました。あのエピソードには “オタクの女性恐怖” が存在するわけですが、21世紀を迎えた今では、「女性オタクの女性恐怖(または蔑視)」がどのように流通しているか、とテーマを新設することもできますね(二次創作の市場も含め、「オタク的共同性に参入すること」と「自身の女性性を削除または虐待すること」がなぜか抱き合わせになっているかのような女性の精神性は、私と同年代では少なからず見られるようになってきたので)。 また、「Q:殺人を犯して刑務所行きになったオタクは、『別れのワイン』のように心穏やかになれるのか?」・「A:刑務所行きまでの過程でオタク的な話が合う者が居たかどうかによる」という、無駄な問答まで着想してしまいましたが(笑) 『エクソシスト』の原作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティの小説作品に「月に行くというのはどんな気分ですか(恐ろしいのですか)?」・「誰と一緒に行くか次第だな」という美しいセリフがあり、これは『別れのワイン』のラストとも一種通じるものかと思います(ブラッティはカトリックのレバノン移民です)。ブラッティの作品には映画オタク的なセリフがしつこいほど出てきますが、『エクソシスト』のボツ版エンディングにも「すべてが済んだ後、映画好きのキンダーマン警部補がダイアー神父を映画に誘い、新たな友情が始まる」という描写がありました(しかも「かみさんが出不精でね、付き合ってくれんのですよ」という警部補のセリフまであるらしいです)。これは悲惨事(『エクソシスト』なら悪魔との闘い/『刑事コロンボ』なら捜査の詰め)を経過した人々に用意される「オタク性と友情と救済」をめぐる道具立てとして、21世紀現在まで持ち越されているのでしょうね。
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>>2
ご返信をいただきありがとうございます。
料理店のスタッフ数名だけがリアル・イタリアーノであったという事実は盲点でした。出演者のエスニシティと役柄のエスニシティとが分離しているのは『策謀の結末』の時点で気づけましたが、『別れのワイン』では出演者のエスニシティがフェイク・イタリアーノである犯人と刑事だけが共同の演舞に没頭していて/出演者のエスニシティがリアル・イタリアーノである人々は他人事でコメディ・リリーフになっている構造は、とても面白いですね。
コロンボを観ていると、倒叙で提示される捜査線(通常、犯人⇄コロンボ間で完結する)の外部に登場する人々の役割も毎回違っていて、その「他人事感」のレベルが犯人⇄コロンボのグルーヴとは別に設定されているのが面白いと思います。『別れのワイン』の料理店のシーンも、最初観た時はいわゆる「劇団コロンボ」の構えではないかと思っていました。
昨晩観た『逆転の構図』は、普段目立たないコロンボの同僚たちとバンドを組んで「詰め」に入る造りで、いつになく神経質にヒートアップした犯人(実際、あの回でのコロンボの執拗ぶりは度を超していましたが笑 しかし、コロンボが肝心の着想を得るきっかけのカメラ屋の店員は、「他人事感」丸出しの人が思いがけず捜査にヒントを与える例として面白かったです)と・コロンボと・同僚たち それぞれの熱意の差も手伝い、「劇団コロンボ」パターンの話として見どころが多くありました。
『別れのワイン』のローマ・カトリシズムが実は囮で、 “新たな世界宗教とも言うべき「オタク」の共振” のほうが大歓迎されたというのは、ご指摘いただいた後で腑に落ちました。あのエピソードには “オタクの女性恐怖” が存在するわけですが、21世紀を迎えた今では、「女性オタクの女性恐怖(または蔑視)」がどのように流通しているか、とテーマを新設することもできますね(二次創作の市場も含め、「オタク的共同性に参入すること」と「自身の女性性を削除または虐待すること」がなぜか抱き合わせになっているかのような女性の精神性は、私と同年代では少なからず見られるようになってきたので)。
また、「Q:殺人を犯して刑務所行きになったオタクは、『別れのワイン』のように心穏やかになれるのか?」・「A:刑務所行きまでの過程でオタク的な話が合う者が居たかどうかによる」という、無駄な問答まで着想してしまいましたが(笑) 『エクソシスト』の原作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティの小説作品に「月に行くというのはどんな気分ですか(恐ろしいのですか)?」・「誰と一緒に行くか次第だな」という美しいセリフがあり、これは『別れのワイン』のラストとも一種通じるものかと思います(ブラッティはカトリックのレバノン移民です)。ブラッティの作品には映画オタク的なセリフがしつこいほど出てきますが、『エクソシスト』のボツ版エンディングにも「すべてが済んだ後、映画好きのキンダーマン警部補がダイアー神父を映画に誘い、新たな友情が始まる」という描写がありました(しかも「かみさんが出不精でね、付き合ってくれんのですよ」という警部補のセリフまであるらしいです)。これは悲惨事(『エクソシスト』なら悪魔との闘い/『刑事コロンボ』なら捜査の詰め)を経過した人々に用意される「オタク性と友情と救済」をめぐる道具立てとして、21世紀現在まで持ち越されているのでしょうね。