デヴィッド・リンチの誕生日が今年のトランプ大統領就任日と同じ(1/20)で、彼はそれを迎えることなく、LA火災を報じるのと同じ紙面に訃報を載せることになった。というのは、もちろん偶然の符号にすぎませんが、さも当然の運命であるかのように納得させられるところがありました。
『ドライブ・イン・マンハッタン』という新規公開映画のコメント欄に菊地さんの評言を見つけ、そこでの「アメリカの都会」に関する言及も含めて、ここ数週間で起こった諸事を納得させられた気分です。LA火災からリンチ没までの流れは、至極当然の、歴史教科書の年表を見るかのような得心感があります。「荒廃しているけど(いるからこそ)ヤバくて魅力的」だった頃のUSA都市部のパワーを援用した『ジョーカー』は、コロナ禍や諸々の政治的変動を目前にしたUSA的美学の、最後の涙ぐましい花火として記憶されることになりそうですね(私は『ジョーカー』に関して、ホアキンの当たり役云々よりも、トランプに対して少年漫画的な批判を吐きまくっていたデニーロが、同時にあの「荒廃しているけど(いるからこそ)ヤバくて魅力的」な70年代USAの世界内で何不自由なく厚かましいパターナリズムを演じ切っており、それが「2010年代終盤において大統領へのディスを吐くことで元気を取り戻していた俳優が、70年代舞台の映画では心置きなく toxic man 化している」、そのような二重の回春を意味していたことの重要性のほうが記憶されることになりそうです。)
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デヴィッド・リンチの誕生日が今年のトランプ大統領就任日と同じ(1/20)で、彼はそれを迎えることなく、LA火災を報じるのと同じ紙面に訃報を載せることになった。というのは、もちろん偶然の符号にすぎませんが、さも当然の運命であるかのように納得させられるところがありました。
『ドライブ・イン・マンハッタン』という新規公開映画のコメント欄に菊地さんの評言を見つけ、そこでの「アメリカの都会」に関する言及も含めて、ここ数週間で起こった諸事を納得させられた気分です。LA火災からリンチ没までの流れは、至極当然の、歴史教科書の年表を見るかのような得心感があります。「荒廃しているけど(いるからこそ)ヤバくて魅力的」だった頃のUSA都市部のパワーを援用した『ジョーカー』は、コロナ禍や諸々の政治的変動を目前にしたUSA的美学の、最後の涙ぐましい花火として記憶されることになりそうですね(私は『ジョーカー』に関して、ホアキンの当たり役云々よりも、トランプに対して少年漫画的な批判を吐きまくっていたデニーロが、同時にあの「荒廃しているけど(いるからこそ)ヤバくて魅力的」な70年代USAの世界内で何不自由なく厚かましいパターナリズムを演じ切っており、それが「2010年代終盤において大統領へのディスを吐くことで元気を取り戻していた俳優が、70年代舞台の映画では心置きなく toxic man 化している」、そのような二重の回春を意味していたことの重要性のほうが記憶されることになりそうです。)
そのような流れで先日コロンボの『別れのワイン』(←もし私専用のタイトルをつけるならば『ワイン岩礁投擲事件』にします)を観たのですが、前回コメントさせていただいた『策謀の結末』とは全く逆の感想を抱きましたので(笑)、これも何か意味があるかもと思い書かせていただきます。
イタリアン犯人とイタリアン刑事が絡む話で、その発端は「兄弟殺し」である。という時点で、『別れのワイン』の基底にどのような象徴的モチーフが引かれているかは言われるまでもなく理解できますが、同じカトリック的筋書でもアイリッシュ×イタリアンの混血によって豊かな穏やかさが得られていた『策謀の結末』とは違い、イタリアン×イタリアンによって純血化した『別れのワイン』は、ほとんどグロテスクと言ってよいほどのサイコドラマとして私の目には映りました。まず一言で評すると、あの回の犯人(エイドリアン氏)にとって、刑事(コロンボ)は自分が犯した「兄弟殺し」の罪を罰するために召喚された、想像上の刑吏としてのみ存在しているかのようでした。このコロンボ観は『策謀の結末』のエクソシスト感とは言うまでもなく真逆です。
『別れのワイン』をサイコドラマ的に整理すると、「愛憎入り混じるブラザーから直接的に自分の仕事を侮辱され(その侮辱の内容は謂れないものではなく、半分図星でもある)、怒りのあまり殺したが、犯してしまった兄弟殺しの罪を罰するために別のイタリアンブラザーがやってくる」となるでしょうが、この時点でもう怖すぎませんか?(笑) 「ワインの仕事を侮辱したブラザーを殺したら、今度はワインの知識をいっしょうけんめい勉強している別のブラザーがやってくる。しかしその者は代替的に愛せるブラザーではなく、自分の罪を罰するためだけの存在である」というのは、ほとんどラカン理論ではないですか(笑)
『別れのワイン』でのエイドリアン氏は、明らかに自らの「兄弟殺し」への罪責感に基づいて刑吏たるコロンボを召喚したとしか思えず、それは2人の初対面シーン(エイドリアン氏がぞんざいに扱っていたコロンボから無言で警察手帳を見せられ、一瞬の沈黙のあと別の談話に入る)にも直接あらわれています。ここで警察手帳を見せられる瞬間、エイドリアン氏はコロンボを「自分を罰するためのブラザー」とする「契約」を無言のうちに交わし、果たして彼は最後までコロンボをそのような存在として歓待することになります。ここでの「契約」とは、たとえば愛しあう2人が・事後にいわゆる「性被害」を訴え(られ)ないために交わす合意であり、SMクラブも含む性産業はもちろんのこと、あらゆる医者×患者間のコンセントも同様であろうと思います。このように必ずしも口頭や書面で交わされるわけでもない「契約」があるわけですが、『別れのワイン』でエイドリアン氏がコロンボを「自分を罰するブラザー」として「契約」して以降ずっと続く「厭なグルーヴ」は、先述した純イタリアン(≒ローマン)カトリック的テイストとも相まって、凄まじい閉塞感を醸しているように思われます。
「ローマン・カトリック文化=原罪意識から自分の心身を傷つけたがり、得られた痛みからほとんど性的な法悦を覚える」とは、コロンボ放送開始の10年ほど前にヤコペッティが映画のネタにしていたので今更ステレオタイプとか文化的差別とか指弾されることは無いと信じますが、『別れのワイン』に充満している「厭なグルーヴ」に最も近いのはこの質であり、実際エイドリアン氏は自罰・というか正確には「自分を逮捕へと導くような失策」の数々を無意識的に犯してゆきます。たとえば地下ワインセラーにて、「ここに人を閉じ込められるのでは?」と疑ったコロンボに「ははっ、じゃあ今からあなたを閉じ込めてみせますけどね、どれほど早く出てこられるでしょうな」と幽閉不可能性を証明して見せますが、ここでのエイドリアン氏は、
1:このワインセラーに人を閉じ込めるなどできないことを証明する=自分にかけられた「兄弟殺し」の嫌疑を洗い流す
2:自分を追ってきている新たなブラザーを(前のブラザーと同様に)閉じ込めてみせるが、今度のブラザーは扉を開いて出てくる=コロンボがこれからも追ってくる事実を確認する
という、彼の内心にとっては真逆の効果を2つ同時にもたらす行為を自ずからとっています。これは「1:自分を罰するブラザーはもう居ない (fort)」・「2:自分を罰するブラザーはまだ居る (da)」の快と不快を同時に得る方法であり、エイドリアン氏はコロンボを介して専らそのようにして自らを罰していることになります。この地下ワインセラーのシーンは、エピソードを貫通する「厭なグルーヴ」の在処を印象付けるものであり、正直なところ私はこのシーンを見ながら、あまりの閉塞感によって(あくまで定型表現ですが)吐きそうになりました(笑)
このようにして「詰み」を取られるまでに(ために)致命的な失策をいくつも踏むエイドリアン氏の過程は純マゾヒズムそのものですが、特にあのレストランにて半トランス状態でやってしまう失言は、ローマン・カトリック的なワイン=血のモチーフも相まって、凄まじくグロテスクに映ります。あそこでコロンボが仕掛けたのは「あなた自身の口によって、 “もう私のワイン=血は悪くなってしまいました”と証言しなさい」という審問で、果たしてエイドリアン氏はそのように失言するわけで、それは「兄弟殺し」によって自分の血を悪くした罪責感を裁く行為としてこの上なく的確かつ残虐で、「いやあそれはダメだよコロンボ、グロすぎでしょやってることが」とドン引きせざるを得ないものでした。その後の崖上での「悪くなった血=ワイン」の投棄も含め、エイドリアン氏はコロンボと初対面の時から段階的に自分を罰するための手順を着実に踏んでおり、それをしおえた瞬間にコロンボが妖精のようにやってくるのには流石に笑わされましたが。
それにしてもエイドリアン氏の自罰ぶりは本当に手が混んでおり、レストランでの徹底的失策をやったあとで車を運転したり(酒気帯び運転でパクられるんじゃないの? などという正気の疑念は、氏の執拗な自罰意識を見せられ続けているとどこかへ吹き飛んでしまう)、からの秘書との会話で今度は異性からの罰を引き出したり、とにかく自分の逃げ道を無くすことに余念がありません。そしてこれは最も重要と思われますが、今まで「自分に似ている者=ブラザー」を介して罪責感を痛めつけていたエイドリアン氏は、「自分に似ていない者=女性の秘書」の言葉からも苦役を引き出しています。ここでの秘書は、明らかにエイドリアン氏から金銭と時間の両方を搾取する相手(として定義された)結婚相手志望として話しており、ここで彼が受けたショックが、このエピソードのラストとなる「異性との結婚による平和な余生ではなく、親身に近づいてきてくれたブラザーの術策による逮捕を選ぶ」シーンへと繋げる助けをしている。というのが、サイコドラマとしては上質であり、同時に吐き気を催すほどのマチズモ(←これは正しくイタリア語で表記されるべきでしょう)とミソジニーを煮詰める結果にもなっています。
このエピソードから学んだことは多くあり、まず「コロンボは犯人の欲望を快・不快の区別なく引き出し、最終的にはこれ以上の欲望の享受を平和裡に断念させる」ための存在であり、定まったキャラクター像は無いらしいこと(これは以前菊地さんにご教示いただいたミッキーマウスとの近似性とも思い合わされます。ミッキーマウスは21世紀的なキャラ萌えの対象となることが困難であり・むしろファンはミッキーマウスに担わされた機能や職業のバリエーションを歓迎しているのだと思います。これに関してはコロンボも、あと任天堂のマリオなどもおそらく同様でしょう)。よってエピソードのトーンとマナー、何より犯人のパーソナリティそのものによってコロンボ自身のアプローチも毎回大きく左右されるらしいこと。など色々ありましたが、正直言って私は、このように息苦しく自罰的かつ女性差別的なエピソードを珠玉の傑作として認定し続けなければいけない20世紀のコロンボファンとは一体いかなる集団性もしくは精神性なのか、と不思議に思いました。『策謀の結末』では親身なエクソシストに見えたコロンボが、『別れのワイン』では陰鬱な宗教画の審問官にしか見えないというのは、いささか常軌を逸しています(笑) 私にとっては強めの閉塞感だけで済みましたが、『別れのワイン』はいくつかの素因を備えた人が観たらパニック発作を起こす可能性があるほど、異様な息苦しさが充満したエピソードだと思います。
菊地さんがコロンボに関して21世紀的な批評が必要だとお考えになった理由も、このエピソードの鑑賞によって十全に理解できたように思います。いよいよもって貴著の出版が楽しみになってまいりました。