ビュロ菊だより

ビュロ菊だより 第六号 「TSUTAYAをやっつけろ~日額30円の二本立て批評」第二回

2012/11/22 05:00 投稿

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「菊地成孔の<TSUTAYAをやっつけろ!~日額30円の二本立てマッシュアップ批評」第二回

 

対象作品)

・フランス映画『ディーバ』(ジャン=ジャック・ベネックス監督1981年)

・日本テレビドラマ『FRIED DRAGON FISH』(岩井俊二監督1996年)

 

 

<下方倍音列的な名翻案/『ディーバ』から15年後の『FRIED DRAGON FISH』から16年後の日本とフランス>

 

*予めのお願い、片方あるいは両方を未見の方は、必ず『ディーバ』→『FRIED DRAGON FISH』の順でご覧になってください。

 

 

 

 今回ばかりは全文をフランス語で書いて、ニコ動フロンセーズにアップすべきだったろう。『FRIED DRAGON FISH』のキャスト全員は、我々日本人にとってあまりに現役すぎ、我々の多くは「うっわ懐っかしー」と喜び過ぎるか、あるいは「うっわ懐っかしー」と悲しみ過ぎるかしてしまい、つまり『ディーバ』と『FRIED DRAGON FISH』両者の冷静な比較批評的態度を阻害してしまう可能性が高いからだ。しかし「フランス語で書かれた、日本人による(今年で公開31周年となる)<ディーバ>評」というのも、こうして書いてみるに、かなりゲンナリさせられる産物である。ここはひとつ、韓国語で書いてニコ動てーはみんぐにアップするのが最適格かもしれない。

 

 筆者は浅野忠信氏ともCHARA氏とも若干の知己がある上、先日ほんの挨拶程度ではあるが岩井俊二氏とも知己を持ったばかりで(二回前の日記をご参照いただきたいのだが、更に言えば筆者は岩井氏の作品をこの『FRIED DRAGON FISH』と『ゴーストスープ』しか観ておらず、そして恐らく、岩井氏は筆者の作品を一つも知らず、という一種の膠着状態の中から『ときめきに死す』はもの凄く素晴らしい。という突如の結論で大いに盛り上がったのだった。つまり、予めお断りしておくが、筆者は岩井俊二監督の作品群中の一作として『FRIED DRAGON FISH』を位置づけることが不可能であり、本稿はその限界性に基づいている)、そしてこの本稿は、浅野氏と離婚したCHARA氏が歌手として本格復帰を果たし、活動が安定期に入った。というタイミングで書かれているが、言うまでもなくそうした総ては、あらゆる意味で本稿には関係ない。

 

 むしろ本稿は、前回の<『死刑台のエレベーター』と『死刑台のエレベーター』の比較>と一連を成している。日本映画『死刑台のエレベーター』が、フランス映画『死刑台のエレベーター』の翻案であることは言うまでもないが、『FRIED DRAGON FISH』は『ディーバ』の翻案である。

 

 映画作品(『FRIED DRAGON FISH』はテレビドラマだが、今回は映画作品として扱う)に於ける「翻案」の類語としては「リメイク」等があり、意味的に薄めた準類語としては「換骨奪胎」とか「影響を受けた」とか、「パクリ」とかがある。一方、具体的な音素材までが二次使用され得る音楽作品では、「翻案」の類語/類意は映画作品のそれよりも爆発的に多く「カヴァー」を始め、「マッシュアップ」「リミックス」「サンプリング」「パクリ」等々、枚挙に暇がない。

 

 こうした翻案行為全般に関する筆者の立場を先ず最初に表明しておかなくてはならないだろう。巷間、漠然と「無断の剽窃や盗用」を意味し、「パクリ」と呼ばれて悪行とされる営為は現在、法律上は商工業法に於ける著作権の侵害として法廷で精査され、裁かれるが、倫理上でのそれは裁かれるべきものではなく、批評/評価の対象である(前述のように、映画作品と音楽作品、また、その他の芸術ジャンル総てで、この意味合いに各々若干の違いはあるが、筆者の立場としては、それらは総て概ね同等である)。音楽や小説や映画に、所謂「パクリ」を見つけて、それに倫理的、審美的、構造分析的な評価を下す以前に、反射的に揺るぎない激しい義憤を抱いてしまう。という心性は、インターネットというドラッグ依存の主症状である、幼児的で異様な潔癖性の発動以外の何物でもない。

 

 この件についてやや遡る。詳しくは拙著『アフロ・ディズニー~エイゼンシュタインから「オタク=黒人」まで』にあたっていただけると幸いだが、現在「著作権」と呼ばれる権利の発生は、発生時においては興味深く、また必要性も十分にあった新法であったが、現在では、一義的な悪法とは言わないまでも、既に実質を失ってから数十年を経ている、言わば「準悪法」もしくは「死に法」であると筆者は考える。

 

 とはいえ死に法といえども法は法。といった意味合いにおいて、第一には「『FRIED DRAGON FISH』を『ディーバ』の翻案である」と明言することはためらわれ、第二にはそもそも、映画作品が映画作品を「下方倍音列的(この用語は前述の拙著に詳しく、エイゼンシュタインの論文に依拠する新概念だが、本稿では一切の説明を省く。省くが理解には至ると思われる。故に本稿では『FRIED DRAGON FISH』が『ディーバ』を「下方倍音列的に翻案」していることを、シンプルに「翻案」としている)に翻案」すること自体に歴史的な不全を生じてさせてしまったままである。悪影響として甚大なのは言うまでもなく後者である。

 

 必要上更に遡る。「著作物に関する著作権の発生」は15世紀であり、音楽に対するそれは19世紀である。即ち音楽史に於いては「著作権」の発生はかなり後発であり、作曲の手法の多くは共有されていた。10世紀に於いては、同じ和声進行に、ほぼ同じメロディーが乗っても、歌詞やそのテーマが違えば全く別の楽曲と考えられていた。この痕跡が現代に於いても根強いのは周知の事実である。

 

 しかし映画に対するそれは、ほぼ映画産業の登場から存在していた。つまり、映画と、20世紀音楽というジャンルは、「最初から著作権が発生していた」極めて特殊なジャンルであり、その属性は現在、前述の悪影響によって、「名翻案」とも言える優れた作品の製作可能性に強い抑圧をかけていると言えるだろう。

 

 本稿が掲載されているメディア(ニコニコ動画)に対して、筆者よりも遥かにユーザーリテラシーの高い方々にとって、現在「翻案」は「二次創作」等々と呼ばれ、違法だとは解っているが、楽しくてしょうがないので見つからないうちにどんどんやってしまえといった、言わば中高生に於ける飲酒や喫煙のような、中軽度の背徳メンタリティを基盤としていると予想されるが、これも前述の、インターネット依存による幼児退行症状の一つとも言え、つまり事は二段構えであって、先ず、映画を含む総ての動画と20世紀音楽は、その誕生時から「著作権の侵害」という、翻案可能性への大きな制限がかけられており、20世紀中盤にインターネットが出来てからは更に、別種の大きな制限(「子供の、悪い遊びとしての<二次創作>」しか生じない、学園的な世界の固定化)がかけられている。というふうに言うことが出来るだろう。

 

 恐るべきことに、と言っても過言ではない。現在は遵法である「リメイク(権利に料金を支払い、素材を「原作」として、なるべく忠実に翻案する)」という方法、即ち前回の『死刑台のエレベーター』のやり方に並列/拮抗すべき例としての翻案(「下方倍音列的な翻案」例)作品の中の成功例は、筆者の知る限りこの『FRIED DRAGON FISH』1作しかないのである(「映画化権を買い取った上で、原作を似ても似つかぬようにメチャメチャにする」という、ゴダールがよくやる――そのようにしか出来ない――ような方法は、前者と後者のキメラであるとも、順法闘争だとも言え、死に法である著作権概念の存在、即ち死体の存命という異常によって、現在でも法廷レベルの揉め事が絶えないのは周知の通りである)。

 

 例えば、『FRIED DRAGON FISH』は、まだ一般的浸透も、それによって引き起こされる依存も、それによって引き起こされる世界的な市民の幼児化も、ほとんど空想されていなかった、1996年の「インターネット」(一般家庭にインターネットを爆発的に定着させたとされるウインドウズ95の発売翌年)を、『ディーバ』に於ける「ウォークマン」として共有している。後者には説明を要するかもしれない。言うまでもなく、『ディーバ』には、愛好者の誰もが登場していると信じ込んでいる「ウォークマン」は登場しない。し得ないのである。

 

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